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分からなさの時代

「野菜も残さず食べなさい」

夫は子供のしつけにうるさい。子供の食事のマナーや好き嫌い、テレビを見る時間や勉強の時間、などなど。常に子供の行動に目を光らせ、自分の思うように行動をしていないと、小言が飛んでくる。

一方で彼自身はというと、大好物のカップラーメンをすすり、スマホを片手に食事をしていたりする。こういう姿を見ていると人とはいかに矛盾をしている存在か、ということを思う。

「野菜を食べなさい」「食事中は座って食べなさい」「勉強しなさい」

こういった発言は、「このようにしつけることが子供の将来のためになる」という、正しさへの確信がなければできない発言だ。夫にはその確信があるようだ。しかし私は、「これが正しい」という確信が基本的にない。だから、子供に「なにかをしなさい」と言うのがひどく苦手である。

コロナが拡大したこの1年は、「正しさ」が、ますます揺らいだ1年だった。保育園から「感染拡大を防ぐため、可能なかぎり登園は自粛してください」と連絡が来たとき、登園を自粛して子供を見るべきか、仕事を優先すべきか私は判断がつかなかった。結局、私は登園自粛をしたけれど、「どうしても仕事を休めないと、事情を話して預けている」という、私と同じ仕事をしている同僚と私で、どちらが正しいことをしているのか分からなかった。

また、報道では「感染が拡大している」というニュースの一方で、苦境に立たされる観光業、飲食業、ワクチンの副作用の怖さなども同時に報道されており、感染拡大を防ぐためにステイホームが一番なのか、金銭的に余裕がある人は旅行に行った方がいいのか、ワクチンは打つべきなのか、などなど、シンプルな判断が難しい状況になった。

コロナ以前からも、同様に「何が正しいのか」答えが出ない問題というのはたくさんあった。例えば、原発について。原発の危険性は重々承知しているが、一方で原発の補助金によって潤っている自治体があったり、二酸化炭素排出量を下げようとすると原発以外に実用化できそうな発電手段がなかったり。その状況で「原発反対」と声高に言うことが正しいのか、など。

しかし、それは普通に生活をしていれば、ある程度見て見ぬ振りができた。しかしコロナの蔓延により、一つ一つの行動に対して「これでいいのかな」と、自分の中の踏み絵を踏まされるような日々が続くようになってしまった。そして、自分の中の「正しさ」の軸はほとんど消え失せてしまった。

今、私はいつも迷いの中にいる。このゴールデンウイークもどう過ごすのが正解なのか分からない。旅行に行く人は間違っているのか、公園に遊びに行くまではOKなのか。

わかっている。恐らく「正解」などはないのだ。誰かに「あの子は公園に行っている」と後ろ指をさされているような気がしても、本当はそんな「誰か」など存在しないのだ。

しかし、「正しさなどない」と割り切ることに対しても不安を感じる。正しさがないとすれば、人は何を拠り所に生きればいいのか?快、不快だけの判断か?それもそれでひどく野蛮な状態になりそうである。

今の時点で解を出すとするならば、「対話をする」ということだろう。「今日公園に行く」ということに対し、そのことの良い点、悪い点を考え、それについて家族と話し、今日の時点で納得する方を選ぶより他はない。「公園なんて行くべきではない」OR「公園に行って何が悪いの?」といった極端な回答をしない自分に、今日の時点では及第点をあげたい。

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