主体と客体の間。洞窟で道に迷うということ。

その日は木曜日だった。まさに木曜日という感じの木曜日だった。空には色紙を貼り付けたいみたいな雲ひとつない青が広がっていて、鳥がチョキチョキとうるさく鳴いて、隣の部屋のきちがいおじさんはお経を唱えている。僕と狐島(きつねじま)さんはなんとなく、そんな木曜日に嫌気がさしていたような気がする。僕には狐島さんの気持ちなんて毛一本すらわからないけれど、その時はなんとなくわかったのだ。だから2人とも機嫌はすこぶる悪かった。セックスに始まって暴力に終わるような、学生が作った意味のないショート映画を見て、ハートランドの瓶を4本ほど空けたところで、狐島さんはこう言った。「いやはや、全くもってつまらないね。佐藤くん」いやはや?
「いやはや、狐島さん。本当にね」僕はそう言った。
「佐藤くんはさ、狐の死体を見たことはある?」狐島さんは僕の目を見てそう言った。大きな瞳だった。その時僕ははじめて、彼女の瞳の色が髪の色と同じ薄茶色だということに気づいた。気付いたからといって、別に何があるというわけではないけれど。だからその唐突な質問に答えるのに少し時間がかかった。狐の死体?なぜそんなことを僕に聞くんだろう。そんなもの
「見たことはないな」僕はたっぷり時間をかけて考えてから答えた。
「そう。私はね、見たことがあるよ」
「狐島さんは狐の死体を見たことがある」僕は言った。
「そう。その狐は死んでからもう何日か経っていた。毛はもうこれ以上水分が抜けないくらいにカサついていた。例えば桶いっぱいの水をかけてやったとしても、染み込むのにいくらかの時間を要したかもしれない。でも幸いに季節が冬だったから、ウジがわいたり鼻が曲がりそうなにおいもなかった。“目立った外傷もなかったし”。あ、なんかいま刑事ドラマっぽかったね。どうでもいいけど。ごめん、話を戻すね。どうして私の話ってこう脱線してしまうのかな。例えば洞窟で右に行くか左に行くか、全てを間違えて行き止まりに辿り着いて、また戻って別の道を選んで行くみたいな話し方。悪いって思ってるのよ。ああほら、また逸れた」
「正解を選び続けることがいい事とは限らないよ。間違えた方に素晴らしい景色があったりすることはよくあるんだからさ」狐島さんの周りの人々は、彼女の話し方(曰く洞窟をくまなく探索するような話し方)に嫌気がさしてきているらしいというのをこの前聞いた。狐島さんと仲の良い麒麟澤さんも似たようなことを言っていた。
しかし、僕には彼女の話を全部聞けないような、差し迫った理由は特になかった。週の半分を家で過ごす僕にとって、それはむしろ喜ぶべきことだったのだ。
「ありがとう。それで話を戻すとね、その狐には特に目立った外傷がなかったのよ。私はそれが気になった。道端で死んでいる動物というのは、だいたい死因がはっきりしているじゃない?車に轢かれたとか鳶に襲われたとか。でもその狐はただ横たわって死んでいたの。それを見て私、なんか人間が死んでいるみたいだなって思ったの」狐島さんは一息にそう喋った。いつもの3.5倍くらい饒舌だ。彼女は酔っ払うと思考と口が回るタイプだった。全く僕とは逆のタイプだ。普段堰き止められていた何かが急に取り払われたみたいに、夥しいほどの水流が彼女の口から這い出てきた。僕はその濁流が作る不規則な波に、ただただ身を任せた。彼女の言葉を浴びた後は、角をすっかり削り取られた石ころみたいに清々しい気持ちになるのだ。
「人間が死んでいるみたいに思った?」
「そう。そこで綺麗なかたちで横たわっている死が、自分の人生とは何の関係もない狐の死とは思えなかった。つながりみたいなものを感じたのよ。まるで親戚のお葬式に参列している時みたいな、奇妙な距離に死がある感覚と言えばわかるかな。主体と客体の混じり合うところにちょうどできた隙間に存在する死体を、私は全くの他人のものとして切り離せなかった。そして私はそれ以来、人と動物の境がどこにあるのかわからなくなった。階段を1段踏み間違えたみたいに、そこにあると思っていたはずの何かが失われた。だから私は、その狐を人間として扱ったわ。その時付き合っていた彼氏を呼び出して、乗っているプリウスの後部座席にその死体を載せて、山まで持って行った。彼はその車をとても大切にしていたからすっごく嫌がって、私を何度も説得しようとした。狐はエキノコックスっていう寄生虫の最終宿主だから危ないとか、そんなようなことを言ってたわ。男の子ってなんで寄生虫とか性病とかカルトとか、そんな物騒なものに詳しいんだろうね。でも私はなぜかそうするしかないような気がして、半分ヒステリックを起こして叫び散らかしたの。この狐を車に載せないなら、今ここでこの狐を食って死んでやるって言ってね。後から思い返すと馬鹿らしいって思うわよ。その時は気がどうかしていた。もしかしたら狐に化かされていたのかもしれないわね。でも、そんなことは後になっていくらでも理由づけができることじゃない?私が今、その物体を人間として扱うことが、その時は何より大事な気がしたのよ」
「失われた感覚を取り戻すために、その狐を山に返した」
「そう。そしてホームセンターで買った大きなスコップで深い穴を掘った。もちろん、人間が1人くらい入るサイズをね。そして狐をそこに入れて土を戻した。彼は黙ってそれを見てたわ。まったく1ミリも手伝おうとはしなかった。それも今考えれば当たり前なんだけど、その時はムカっ腹がたったわ。それが原因で私は別れることになった。まあ、そんなことどうでも良いけどね。それでも、その失われた感覚は私について回っている。だから私は、今も動物と人間を明確に区別することができない。例えば私たちの通う大学で、頻繁にデモが行われているじゃない?あの人たちと、こないだ佐藤君と行った牧場にいた、10匹のハリネズミの違いを、私は詳しく語ることができないの」彼女はたまっていた濁流を全て吐き出したと言った風に一息ついて、5本目のハートランドを開けた。
「ごめんね。変な話をしてしまって」彼女は言った。
「そんなことない。とても興味深い話だよ。君の失われた感覚について、僕はその前後の話を全く知らない。その時の服装だって、君の彼氏のプリウスの色だって知らない。それがライム・グリーンなのか、グレー・メタリックなのかで、話の展開は全く違うものになっていくと思う。でも一つだけ言えるのは、君がもしその失われた状態が苦しいと思うのであればだけれど、そんなものははじめから無かったのかもしれないということだよ」
「はじめから無かった?」彼女はきょとんとした瞳で僕の顔を見た。僕はすでに彼女の瞳の色が、髪の色と全く同じ薄茶色であることを知っている。それで十分じゃないかと僕は思う。
「僕と、そのへんの水たまりに浸っているボウフラの違いを説明しろなんて言われたって土台無理なはなしさ。僕とボウフラは同じで、狐島さんと僕も同じ。違うところで言えば、少し洞窟で道に迷ってしまうことくらいかな。その程度の違いしかない。もしかすれば、ボウフラが君と全く同じ話し方をするかもしれないしね」
「そうかもね」彼女は興味を失ったのか、また僕の返答が気に入らなかったのか(ボウフラと一緒にするのは流石にまずかったかな)、不遜な顔をしていた。全く、狐島さんは良い女だと思った。

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