傑作シェイクスピア漫画「薔薇王の葬列」
シェイクピア原作を英語で読んでnoteに感想を解説の形で紹介してきましたが、史劇「ヘンリー六世」を取り上げると、翌日、ある漫画紹介がフィードに上がってきました。
アニメにもなったというBL漫画家の菅野文による「薔薇王の葬列」を取り上げた投稿でした。
この漫画はシェイクスピアの「ヘンリー六世」第二部と第三部、そして「リチャード三世」を自由な解釈で描いたもの。
シェイクピアの「ヘンリー六世」三部作は群像劇です。
前作「ヘンリー四世」と「ヘンリー五世」が若いヘンリー王をめぐる物語だったのとは対照的(作品が書かれた順序は逆ですが)ですが、群像劇「ヘンリー六世」の物語後半を牛耳るのは、題名にとられたヘンリー六世王ではなく、ヨーク家のリチャード。次の作品「リチャード三世」の主人公です。
シェイクスピアの主要史劇八作は連続していて、最初の四作はプランタジネット家の分家であるランカスター家の隆盛を描き出すヘンリアドと呼ばれるヘンリー四世から五世の物語ですが、後半四作はシェイクスピアが英国史上最高の名君とみなしたランカスター家の英雄ヘンリー五世が早世して、幼児のヘンリー六世が王座についたことから国が乱れてしまう薔薇戦争の物語。そしてランカスター家の正統性を貶めて、王位を奪うのがプランタジネット傍流のヨーク家。
ヘンリー六世を殺して、長兄であるエドワード四世も次兄のクラレンス公ジョージもエドワード王の遺児二人も殺して王位に就くのが、リチャード三世、王冠を手に入れるという野望を達成するまで、邪魔者をことごとくあらゆる排除して、最後には王となるのです。
シェイクピア屈指の名作「リチャード三世」は、いわゆる悪漢物語とも呼べるでしょう。
悪の魅力
ヨーロッパ中世に持て囃されたファウスト博士もドンファンも悪のヒーロー。こういう徹底した悪者が物語の中で愛されるのはいつの時代も同じです。現代でも善玉の主人公を圧倒する悪役がいてこそ、物語が際立ちます。
英文学の世界から飛び出して、リチャード三世王といえば、悪逆の王の代名詞とさえされています。英文学史上最強の悪役。女性版はマクベス夫人ですね。
英語で Epic Villain などと呼ばれます。
日本史でいえば、太平記に書かれた戦前の足利尊氏のようなもの。
しかしながら、シェイクスピアの史劇はフィクションです。
シェイクスピアは物語を楽しく面白くさせるために史実を大きく曲げて、傑作史劇を書いたのです。
昭和の司馬遼太郎の「龍馬がゆく」の気宇壮大な坂本龍馬像は、歴史的に正しくないということは知られるようになったでしょうか。
幕末の英雄龍馬は司馬遼太郎の自由な解釈による、創作された龍馬。司馬遼太郎本人もそう語っていましたが、あまりに優れた小説表現ゆえに、坂本龍馬が日本史上最高の偉人であったかのような錯覚さえ覚えます。みんなフィクションなのに。
武器商人だった龍馬が英雄として書かれたのとは逆に、史実においては良い王様だったらしいリチャード三世を、四百年後の現代まで悪逆の王の代名詞にまでしたのはシェイクスピアの筆の力。
小説家や劇詩人は凄いですね。
そして、そのシェイクスピアが創作した「リチャード三世」を現代的に自由に解釈して、日本語において素晴らしい漫画が生まれたのです。
単行本全17冊をここ数日かけて読了しましたが、シェイクスピアらしさを活かしながら「リチャード三世」を悪逆の王のアナザーストーリーを書き上げたことは脱帽です。
漫画「薔薇王の葬列」
さて漫画ですが、シェイクスピアの史劇に大変に斬新な解釈を与えていて、主人公リチャード三世の人物像がシェイクスピア原作とかなり異なります。
原作では身体障碍者ゆえに「異形の王」と呼ばれたリチャード。
歪んだ性格は歪んだ肉体から生まれると信じられていた時代。オリンピックのこの言葉のように。
というわけで、手足の長さが同じではなく、背中に不格好な瘤を持つ「せむし」のリチャードは、定義的に健全な精神を持てないがために、幸福に離れないのです。
だから次のような言葉を吐いたりもします。
自分は体が歪んで生まれたので、悪人になってやるというわけです!
LGBTQの問題が現代社会最大の人権問題であるといわれています。
ですので、漫画ではリチャードをなんと両性具有と設定。
ただ単に背骨が湾曲していたりするだけでは現代的にはインパクトが薄い。
先天的肉体疾患を差別することは社会的にタブーとされている21世紀。
それにもかかわらず、現代的においてもカミングアウトしにくいことの最たるものは両性具有。
そして中世ヨーロッパでは両性具有を持つ者は悪魔であると言われました。悪魔は女性の乳房に目立つ男性器と女性器を持ち、山羊の頭をしていると信じられていたそうです。
「薔薇王の葬列」のリチャードの苦悩には説得力があります。下の引用、上記の悪魔の絵と構図が同じ。意図的でしょうか。
シェイクスピア作「リチャード三世」とは
史劇(悲劇)「リチャード三世」は、私が初めて好きになったシェイクスピア劇です。
シェイクスピアはあまりに有名なので、世界文学を読み漁っていた若いころの私は、シェイクスピアの有名な作品を読まずとも、ほとんど内容は知っていましたが、「リア王」も「ハムレット」も「ロミオとジュリエット」にも大した感銘は受けませんでした(戯曲なのでよく理解できなかったのでしょう)。
わたしがシェイクスピアの魅力に開眼したのは「リチャード三世」を通じてでした。
社会人になってから、英語ではなく、まず日本語訳で読みました。
とにかく面白いのは、野心を秘めて本心を誰にも明かさず、兄であるエドワード王に献身的に仕えているふりをしながら、いかにして兄二人を排除して邪魔者を消してゆく画策をするのですが、舞台上で、兄やお妃たちに忠臣のふりをして綺麗事を舌三寸で述べ立てて行きます。
でもそうした言葉の後に横を向いて(つまり観客の方を向いて)本人を独り言として呟くのです。この独り言が痛快で、リチャードが成そうとしていることは舞台上の人たちは知らない。でも観客は知っているというわけです。
初めて「リチャード三世」を読んだ時、そのギャップの深さとリチャードの深謀遠慮に舌を巻きました。
まさに二枚舌なのですが、本音を必ず脇を向いて語ってくれるのがなんとも面白い。
リチャードはハムレット並みには独白を繰り返します(またはハムレットがリチャードと同じぐらいに独り言を喋る)。
独白から読み解ける心理劇。ハムレットと同じです。
確信犯リチャードは様々な悪事を通じて数々の肉親らを蹴落として王座に就くのですが、リチャードの悪事を貫徹する姿勢が潔く、惚れ惚れとするほど。
でも時々、我が身の醜さと運命を呪い、苦悩する姿は後のハムレットを思わせます。
殺人という悪に身を投じる二人の姿は似通っているといえるでしょう。
わたしとしては、シェイクスピア全作品で最も面白いと思う作品は、この「リチャード三世」です。
ですのでこの作品についていくらでも語れますが、漫画「薔薇王の葬列」の面白さをここでは語ってみます。
悲劇の王「ヘンリー六世」
「薔薇王の葬列」でまず感銘を受けたのは、ランカスター家の王妃マーガレットとヨーク家のヨーク公リチャード(リチャード三世の父親)らが争う中、当事者であるはずの王様ヘンリー六世への光の当て方。
シェイクスピア原作を読むと、ヘンリー六世王は祈るばかりで羊飼いの素朴な生活にさえ憧れるという意志薄弱の王様として登場します。
生まれついての王様。自分でいることがまさに悲劇的な存在。
祖父のヘンリー四世は十字軍を率いてエルサレムに行きたかったほど信心深かったのですが、六世王は祖父の四世王に似たらしく、王様よりも聖職者になるに相応しい人物。
王様になりたくなかったとシェイクスピアはヘンリー六世王に語らせたりもしています。
なんとも哀れで悲劇的な人物。史実でも心労から神経衰弱となり、僧院などに引きこもり学問の世界に現実逃避していたのだとか。
権力争いに明け暮れる宮廷に愛想を尽かしたヘンリー王は希望を未来へと託します。英国エリート子弟のための超名門校として知られるイートン校はヘンリー六世による創設。
イートン校は今でも非業の死を遂げたヘンリー六世のために命日に追悼式典をするのだとか。
「薔薇王の葬列」はこういう精神薄弱のヘンリー王を、悪魔の子と母親に呼ばれて愛されぬ幼いリチャードの理解者として登場させます。
シェイクスピアは史劇「ヘンリー六世」第二部第三部で若い武将として登場させて大活躍させますが、史実ではこの時のリチャードは幼児!
シェイクスピアが史実を捻じ曲げているのですが (舞台上で五体不満足な次作の主人公が暴れ回るのは見ものです)、漫画は事実通りに成人前の子供のリチャードをヘンリー六世と出会わせています。
邂逅の場面、シェイクスピア原作そのままの言葉を引用しています。この言葉は原作では、悲惨を極めるタウトンの戦場の傍らで語られるのです。
息子を誤って殺した父親と、父親とは知らずに戦って殺してしまった息子という二組の親子が鳴き咽ぶ場面の直前。
もちろんここで王はリチャードには出会いません。原作と漫画は違います。
でもこういう解釈も悪くはない。
シェイクスピア原作では、猛々しい王妃マーガレットに翻弄されて朝令暮改を繰り返すヘンリー六世王は本当に情けない。
シェイクスピアが後年書くことになる、リチャード二世やリア王と同じく、本当に哀れです。
王とは哀しい存在ですね。シェイクスピアを読むと権力者の苦悩を追体験できるようです。
現代日本やイギリスの皇室スキャンダルを見るにつけ、王様の苦しさは普通の国民になれないという人権侵害なのだなとさえ思えます。普通に暮らせないという苦悩。
リチャード三世は物語の終わりに、ヘンリー七世となるリッチモンド伯ヘンリー・チューダーに倒されるのですが、ヘンリー七世の甥にあたる、夭折したエドワード六世 (次々と妻を取り替えたことで知られるヘンリー8世の遺した唯一の男子) を主人公にして小説を書いたのはアメリカのマーク・トウェインでした。
王様であることの理不尽さを風刺した「乞食と王子」です。小学生でも読めるお話ですが、歴史的背景を知ると、物語の深みに驚くという名作。子供の頃に読まれてご存知でしょう。でも大人になって読み返すと、乞食の少年が王宮で窮屈して、王子が貧しい世界で危ない目に遭うだけの物語でないことが分かります。
英語で見てみてください。ディズニー動画を見つけたのでどうぞ。
原作はまだ青空文庫には含まれていないようです。
オリジナル英語版はもちろん無料。
苦悩するリチャード三世
漫画のリチャードは、ハムレットのように苦悩する鬱屈した若者として描かれます。
原作の野望のために目をギラギラさせているリチャードとは別人ですが、こういう女性的なリチャード三世もありだと思います。両性具有ですから。
物語後半は両性具有のリチャードが人を愛して少女漫画らしさをフルスロットルにして心理劇を楽しませてくれます。
腹心バッキンガム公のリチャードへの愛、妻となったアンのリチャードへの愛もまた悲しい。
原作最後のクライマックスを導く、夢の中でリチャードに殺された者たちの有名な次の言葉ももちろん出てきますが、最後は少し違った結末に辿り着きます。
シェイクスピアを心底面白いと思わせてくれる名作漫画、もちろん原作を知らなくても楽しめますが、知っていると解釈の違いを楽しめて、より素晴らしい作品鑑賞出来ますよ。
次回は、リチャード三世の遺骨、そしてシェイクスピアがリチャード三世が殺したと断定している甥のエドワード五世の遺骨をめぐるミステリーについてです。
ほんの小さなサポートでも、とても嬉しいです。わたしにとって遠い異国からの励ましほどに嬉しいものはないのですから。