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アニメになった児童文学から見えてくる世界<25>: 20世紀という過去の時代

子供のころ大好きだった世界名作劇場!

1975年から1997年、2007年から2009年までの長い期間、日本人に国民的に愛されたテレビアニメシリーズ。

大人となり、懐かしさと英語の勉強から、英語字幕付きや英語吹き替え版がインターネットで無料で見れることを知り、全作品を見てみようと数年前に思い立ち、いまでは全26作のうちのほとんどの作品を見るまでに至りました。

子供のために作られた作品ですが、大人による鑑賞にも耐える質の高い作りゆえに、世界中に輸出されて広く親しまれています。

紆余曲折を経て、世界名作劇場作品のことをNoteにおいて書き続けていて、今回で二十五回目。

まだ全作品を語れていません。

ポストコロニアルな「大草原の小さな天使ブッシュベイビー」

「世界名作劇場」の多くの作品は、主に19世紀や20世紀の最初期を舞台にした物語なのですが(「フランダースの犬」「若草物語」や「赤毛のアン」など)、20世紀半ばの第二次大戦以降の作品は非常に少ないのです。

二十世紀という激動の時代、特に日本人には、第二次大戦敗戦という未曾有の大きな世界変動を境にして二つの時代の別れているような気がします。

植民地主義が欧州で正しいものだと肯定されていた時代は、第二次大戦の終結までだったという感覚をわたしも抱いています。

分かれ目はドイツと日本が降伏した1945年です。

それまでの数百年間の列強の植民著主義の矛盾が第一次世界大戦、第二次世界大戦を引き起こした要因。

第二次世界大戦以後、植民地主義は正しくないという認識が世界に浸透して、第三世界と呼ばれたアフリカの旧植民地諸国が独立したのは1960年代のことでした。

いまもなお、植民地主義の傷跡は旧植民地に色濃く影を落としていて、ポスト・コロニアルと呼ばれる文化問題となっています。

被害者救済というポストコロニアル問題

権利と自由を奪われた生活を強いられた人たちは失われた時間を取り戻さないといけないのです。

それは全く容易なことではなく、伝統の欠如は民族の自意識の問題へと直結して、いわば青春時代を持たずして成長した人のようなもの。

暗中模索しながら挫折を繰り返しながら自分自身を探してゆく自己形成期に自由を奪われていたのが、植民地化されていた世界。

わたしの過去の投稿を読まれた方はご存知でしょうが、わたしは西欧クラシック音楽や泰西名画が大好き。

西洋階級社会の崩壊を告げるフランス大革命が生じた前夜に活躍した、人類史上最高の音楽であるとも言えるモーツァルトの作品は、西欧の植民地主義に支えられれた豊かな西欧社会の発達なしにはあり得ないものでした

きっと彼の音楽のようなすごい芸術作品は今後決して生まれ得ないことでしょう。あんなにも不平等な偏りのある世界は再現されることはないと思うからです。芸術は豊かな社会に育まれます。湯水の如くに贅沢した王侯貴族のいた世界は新たに現出しないでしょう。

そうした不公平の中から生まれた最良の美の一つがモーツァルトの洗練された音楽。美的センスのかたまりです。

中世まで世界極貧地域に近かったヨーロッパが文化的にあれほどの飛躍を見せたのは、間違いなく植民地主義による占領地域からの搾取ゆえ。

そして搾取が不公平で正しくないとされたのは、搾取を始めてから数世紀を経た後の第二次大戦ののちの事。

植民地は解放されて、建前の上では自由になりました。

しかしながら、急に君達は平等だといわれても、それまで自由を奪われ、ハンディキャップを背負ってきた人たちは、自由で好き勝手に搾取して不平等な特権を謳歌してきていた人たちとは対等にはなれないのです。

ポスト・コロニアル問題の本質とはこれなのです。

権利と自由を奪った側は、心の傷を負った被征服者だった植民地の国々を支援しなければならないのです。

言ってみれば、被害者支援。

加害者は被害者に補償しないといけない。でも金銭的物質的援助では、民族の誇りの傷は癒えるものではない。

カウンセリングとサポートと恒常的な友愛が必要となるのです。

「ブッシュベイビー」の場合

さて、植民地主義は建前上では消えた時代の始まりを取り扱った作品が1992年に放映された世界名作劇場の「ブッシュベイビー」、舞台は1960年代の東アフリカのケニア。

旧英国植民地なのでたくさんの英国人が住んでいましたが、大英帝国からのケニアの独立に伴って支配階層だった英国人たちはケニアを離れてゆきます。特権階級の英国人たちの仕事を現地人に返すという名目で。

原作はイギリス出身のカナダのウィリアム・スティーブンソン。彼はアフリカのケニアで自然動物保護官としてケニアで暮らした人で、娘の名はジャッキー。つまり原作小説は半分ノンフィクションな物語なのです。

電話や無線があり自家用飛行機が飛んで乗用車がサヴァンナを走り回っている1960年代。日本的に言えば、高度成長、三丁目の夕日、東京オリンピックの時代。

1960年代は世界名作劇場的にはとてもモダン。でもそんな時代さえも、二十一世紀の今日から見れば、もはや半世紀も前のこと。

20世紀は過去であり、過去を伝える名作文学は古典なのです。

わたしは英語原作を取り寄せて、アニメ全40話を鑑賞しながら見比べ読み比べて、二つの作品の世界観の違いを非常に興味深く堪能いたしました。

ブッシュベイビーというメガネザル

さて、題名に採用されたブッシュベイビーとは、アフリカ原産の小さな猿の一種です。

原作はThe Bushbabies。ラスカルのようにペットの名前ではなく、霊長類に属するメガネザルの仲間の総称。

学名は

Galagos senegalnesis zanzibaricus

短くしてGalagoで、これが現地での呼び名のようです。英語では愛らしい容姿からBushbabyと呼ばれていて、日本語は英語名をそのままカタカナにしたものです。

学名からセネガルとザンジバルが読み取れます。セネガルは国名であるアフリカ西海岸の土地の名で、ザンジバル島は東海岸タンザニア国に属します。きっと生息地域が広いのですね。

ケニアはタンザニアの北、ソマリアの南に位置するアフリカ東海岸の国
首都はナイロビ、主要言語はスワヒリ語
挨拶は「ジャンボ!」ですね
ケニアとタンザニアの国境には有名なキリマンジャロ山が聳え立っています

さてペットしてのブッシュベイビー、日本に対しては輸出制限が取られています。

高額になりますが、アメリカ合衆国など、いくつかの国には輸出してペットとして飼うことは許されていて、YouTubeでもペット自慢動画を無料で鑑賞することができます。

猿を飼うことが好きな人には憧れの動物なのでしょうね。シモの世話が大変だと思うのですが。

1976年の世界名作劇場「母をたずねて三千里」には正体不明の白い小猿アマデオが登場し、1997年の「家なき子レミ」にもアフリカ産の猿の一種「ジョリクール」がいました。猿も良く手懐けると良いペットになりますね。1985年の「小公女セーラ」にもインドの子猿が出てきました。

そんな霊長類のブッシュベイビーですが、二十世紀の半ばにはアフリカ以外ではほとんど知られていなくて、アフリカでもペットとして飼うことは稀なことでした。

だからこうしたエキゾチックな動物を取り上げた原作は出版当初、注目を浴びたのでしょう。

原作にはケニア独立前の白人の持つアフリカ人へと偏見や非近代的とも言えるアフリカ政府側の横暴などが赤裸々に描き出されていて、ヒューマニズムに溢れる日本のアニメ版とは大違い。

アフリカの当時の風俗も詳しく書かれていて、スワヒリ語などのアフリカの言葉も何度も出てくるのです。

作者のスティーブンソンの英語は内省的な心理描写などほとんどない淡々としたもので、感情移入しにくくて、そう言う点で、世界的名作にはなり得なかったと言えるでしょう。

原作は長らく絶版中で、おそらく再販されることはないのでは。

原作の挿絵のジャッキーの旅路
キリマンジャロは描かれていません
つまり原作ではキリマンジャロは何度か言及されるばかりで登場しないのです

入手困難で、わたしも首都の国立図書館から原作を取り寄せたほど。

1965年の初版

児童文学と分類されていますが、普通の子供たちの日常生活とは無縁な世界のアフリカの荒野を冒険する物語ですので、いろいろ知らない英単語に出会うことができました。

読後感はハッピーエンドなので、それなりに良いものかもしれませんが、アニメ版のような感動は全く皆無。

わたしには二十世紀は半ばのアフリカの風俗や白人たちの植民地主義な考え方に触れることができたことが収穫でした。

「あらいぐまラスカル」の女の子版

1992年の「ブッシュベイビー」は二十年前の名作の誉高い「あらいぐまラスカル」へのオマージュであると言われています。愛らしいペットとして飼われた野生動物との出会いと別れ。これが最大のテーマ。

スターリング少年と赤ん坊の頃から育てたラスカルとの別れの物語を、少女ジャッキーとやはり赤ん坊の頃から育てることになったブッシュベイビー「マーフィー」との物語をシンクロさせようとしたために原作からのかなりの改変さなされています。

原作では、残念ながら?猿と少女は最後には別れることはないのです。

物語の終わりにアニメではマーフィーを生まれ故郷へと離します
ラスカルの物語を知っていると自由になったマーフィーが森で
メスのブッシュベイビーに出会うことがラスカルと全く同じなことが一目瞭然
もちろん原作にはない改変です

原作「The Bushbabies」との相違点

まずブッシュベイビーの名前は、原作ではアフリカらしい「Kamau カマウ」なのですが、アニメでは英国風のマーフィー。

一事が万事この調子で、馴染みのないアフリカ的な要素はジャッキーの英国風な文化に書き換えられています。

原作の題名はBushbabiesで複数形なのは、この冒険物語の主人公は

  • ケニアで生まれ育った白人系英国人の少女・ジャッキー

  • ケニアのカンバ族出身でアフリカライフル隊に所属していたテンボ

  • 人間ではないブッシュベイビーのカマウ(アニメではマーフィー)

とされています。

ジャッキーとテンボもブッシュベイビーのようにアフリカに生きてきたのだ、という作者の断り書きから物語は開始します。

そしてアニメではジャッキーがアフリカを去ることになる第二十話頃から原作は始まるのです。主人公家族のアフリカでの暮らしを描いたアニメ前半部は全くアニメオリジナルというわけなのです。

でも親を離れての大冒険を繰り広げるまでの前日譚が詳細に語られることで、一緒に旅するガンバ族の父親の助手だったテンボがどんな人物なのか、13歳のジャッキーとずっと年上の彼がどれほどに親しかったのかが描かれていて、物語に奥行きが生まれていると言えますね。1950年代を描いた2008年の「ポルフィの長い旅」も全く同じ構成になっています。

アニメオリジナルの前日譚はともかく、物語の肝は原作に描かれたテンポとジャッキーとマーフィーの逃避行。

でもアニメは旅の厳しさを緩和させるためか、アニメオリジナルのジャッキーのクラスメートの少年ミッキーを一緒に旅に参加させるなどしています。そして彼の意気地なさや子供らしさが優秀なジャッキーと対比させられていてなかなかよく考えられています。

子供思考で役立たずのミッキーは平均的な13歳、
つまり典型的な中学生の男の子と言えるでしょう
体は大きくても現実の13歳のなんてこの程度のものだなと妙に納得
普通の中学生にアフリカの厳しい大自然の中の旅なんて土台無理なのです

原作ではジャッキーの勘違いが旅の起点となるのですが、アニメでは全ての問題はあまりにも子供っぽいミッキーの我がままのためとさせられていて、ジャッキーの冒険はああした選択を強いられたということになっています。

ジャッキーの名前

原作のお父さんもまた、アニメ同様にジャッキーの自分勝手な行動を叱ることなく許してくれる寛容なお父さんです。

原作では父親は厳格な人だとジャッキーは信じているけれども、冒険を終えてジャッキーと再会するときの彼は優しい寛容な父親に思えます。

厳しい旅を生き抜いた娘を見直したということでしょうか。

ジャッキーの名字はカタカナでローズですが、原作では Jackie (Jacqueline) Rhodes

太陽神ヘリオスの巨像という、後世語り継がれることになる古代世界七不思議で知られる地中海のロードス島と同じ綴りなのですが、英語ではRoseでもRhodesでも、いずれも発音は

rˈəʊdz
ロウズと綴る方がオリジナルの発音に近い
日本プロ野球のバッファローズやジャイアンツで活躍した
当時の日本記録シーズン55本本塁打を打った強打者タフィー・ローズ選手もRhodes

実は調べてみると、Rhodesは古代ギリシア語でやはり薔薇という意味。Rhodes姓はRoseよりよく見かけるよくある名前の一つです。綴りと音が異なる英語らしい言葉。

アニメではRose

冒険の発端

マサイ族の習慣である雨季の始まりの前に枯れ木に火をつける習慣
一種の焼畑農業のようなものですが、その火事に巻き込まれて大惨事を体験します

アニメでは、ブッシュベイビーはアフリカの自然にいるのか一番幸せだとペットのブッシュベイビーを苦労して故郷へと連れてゆき、最後に感動的なお別れをするのですが、原作では無くしたはずの輸出許可証は思わぬところから見つかって、ジャッキーはそのままブッシュベイビーをイギリスへと連れ帰り、果てにはマレーシアにまで連れてゆくことになるのです。

全然違った結末になんとも拍子抜け。

だからこそ、あの名作「あらいぐまラスカル」を下敷きにした物語としてアニメ版を仕立て上げたのでしょう。日本アニメらしい見事な改変ですね。

アニメは原作や実写映画以上にに人気なのは当然で、間違いなく原作を超えた内容の作品。さまざまな改変は物語を感動的なものへと仕立てる役目を果たしていて、違いを知ると、こうするとエンターテイメントになるのだなというのが分かります。

物語後半に三日だけ出会うことになるマサイ族の少女との別れ。
原作では彼女は実は老婆
ブッシュベイビーのために旅しているというとジャッキーは気が触れていると語ります
全く好意的ではありません。現実とはそんなものですね

まだ見られていないと言われる方には、欧米を舞台としていない唯一の世界名作劇場はアフリカというまだ親しみない世界に興味を持たせてくれる素晴らしい作品になりますよ。

原作出版数年後の1969年に作られた実写映画は母親ペニーがなくなっているという設定。全部を無料で見ることができないのが残念。

Dry Season vs. Rainy Season
雨季の始まりには大洪水がすべてを押し流して湿った大地からは新しい命がはぐくまれて、やがて灼熱の太陽が大地を灼くのです。それがアフリカの自然
アフリカ最強はゾウの群れ
ライオンたちさえも敵いません
なんとも獰猛な巨大動物です
原作では象を狩るのは白人ではなく、現地に住んでいるある部族の人間たち
象を狩るのは彼らの伝統で、象牙目当ての白人たちとは話が違うのです
ライオンも登場しますが、原作によるとサヴァンナ最強はゾウなのです
ライオンさえもゾウの群れに紛れ込むと踏み潰されます
ライオンにも群れの中にいるゾウは狩れません

アラブ奴隷商人たちのマンゴーの並木アフリカ

さてライオンと象の画像を張りましたが、この物語は動物たちとの出会いなどを描いた物語ではありません。

ブッシュベイビーの魅力は、赤道付近の東アフリカの雨期と乾季という季節、そして大自然の中の動物たちの厳しい暮らし、そして現代にも名残を留めている植民地主義の名残である動物狩り、密猟の失態の一端などを垣間見ることができること。

旅の目的はブッシュベイビーを生まれ故郷に返すことだったとしても、旅は「アフリカとは何であったか」を体験するための旅だったように思えます。

原作ではアフリカではすべては自然を模倣して生きるのだというテンボの言葉が印象的でした。塩をなめるために動物たちは塩の吹きだす水飲み場に集い、そこでは強い物たちが最初に水を飲み、食物連鎖の順序に従って、水を分け合います。でもその頂点にいる象やライオンも歳衰えるとやはり自然の摂理にのっとって死んでしまう。

アニメでも語られていましたが、大きな象は60歳を超えると歯がもう抜け替わることもなく、草を粗食できなくなって死んでしまうのです。

ですが、そうした自然の摂理を語ることはこの物語の主眼にはなく、物語の主人公はあくまで人間。

彼らは動物たちと違って目的地を目指して歩いてゆく。

でもサヴァンナを横切って、港のある海辺のモンバサの街(ケニア最大の貿易港)から内陸の首都ケニアの手前に位置するンディの街まで、真っすぐに舗装された道はないのです(1960年代当時)。

サヴァンナは灌木がまばらに生える大草原。道らしい道も舗装されていないと雨季には流されて、水が引けばなくなってしまいます。ですので、旅するのは太陽を見て大体の方角を定めてゆくなどしないといけないのです。

現地に住むマサイ族やカンバ族などの人たちは人工の道などこしらえなかった。それが彼らにとってごく自然なことだったから。動物たちのように自然が作り出した地形である山や丘などを目印にした。

地平線の果てまで広がるサヴァンナには広々とした空き地しかない。テンボがいうように六日も歩き続ければ、サヴァンナの向こうのどこかに出れる。これが彼らの感覚。

でも別の世界から来た人たちはこうした思考に抗い、別の手立てを考え出す。

それがアラブ商人でした。かれらは交易で生計を立てていて、商品をアフリカの裕福な王族などに運び、アラブ商人は見返りとしてアフリカ人の奴隷をもらい受けたのでした。

アフリカ人奴隷は白人帝国主義者の手によって世界中へと連れてゆかれましたが、それ以前にはアラブ商人たちが人身売買にかかわっていたのです。

そしてアラブ人たちはアフリカ大陸においては外来種のマンゴーの種を彼らの交易の道に植えていったのでした。

だから勝手に誘拐犯と決めつけられたテンボは、追ってから逃れるために奴隷商人たちが植えて作ったマンゴーの並木道という北への最短経路を通って目的地のンディを目指すのです。

タンザニア・ザンジバルのマンゴー並木
今も残るSlave Road 奴隷道

アニメでも語られましたが、原作で吐露されるテンボの言葉はいろいろなことを考えさせます。でもアニメではテンボの苦い想いの描写に時間をかけることはありませんでした。普通の子供ならば気が付かないかも。こうした点がアニメと原作との決定的な改変ですね。

彼女は彼に驚きの表情を見せた。
ジャッキーはカンバ族の戦士が
奴隷とされた日々へこれほど強く忘れられないでいるなどと
考えたことはなかったからです。
「どうして?」
テンボは両の手のひらを広げて肩をすくめて見せました
「多分アラブ商人たちがここに最初にマンゴーを持ってきたから。多分マンゴーをこんな内陸まで長い間歩いてきて持ち込んで、種をばら撒いた。
ここに住んでるたくさんのアフリカ人たちの言うことだ。
マンゴーの木は奴隷商人の足跡なんだと」。
ある考えが頭に浮かび、ジャッキーは古い地図を取り出した。
確かにフラックスマン(ジャッキーの母方の祖父,ケニアの地図を書き遺した)は奴隷ルートをここから始めている。
川に沿って、ジャッキーとテンボが今いる場所から内陸へと
徒歩で歩く道が伸びている
「見て」興奮しながらジャッキーは言った。
「奴隷ルートはここから始まるわ」
焼けた大地の上に地図を広げて「ここ」とさし示した。彼女の指先はモンバサ鉄道と非舗装のナイロビへの高速道路が交差する場所を指した。
ンデイから何マイルのない距離に彼らの目的地はあるのだ。
「ということは、川のそばを離れる時、マンゴーの木々が指し示す方向へといけばいいんだ」とゆっくりと語り、「もし今でも立っているならば」と付け加えた。
テンボは緩やかな流れが河岸に沿って急に曲がる川の数ヤード上の方を指さした。
褐色のマンゴーの木はボロボロな翼のように
破れた大きなバナナの葉の上に垂れ下がっていた
「マンゴーの木はいつだって自分たちと一緒にいるよ」とテンボは悲しげに言った
マンゴーの木が故郷の村から何千人も奴隷として売られていった頃の記憶を
テンボのようなアフリカ人に思い出させる象徴となっていることを
奇妙で酷いものだと少女は思った。
異国の木を今もなお疑りの目で眺めることは当然なのだ。
マンゴーはアフリカ原産ではない。
小さな良い香りのするピンクの花は、元々のマンゴーの土地である
仏陀やアジアの人たちに親しみ深いものだ。
だがここではマンゴーの花とは奴隷たちの流した血の痕跡なのだ。
アラブ商人は無意識に、彼らが行った収奪のことを
マンゴーの種子を撒くことで永遠に記録したのだ。

人種差別

作者スティーブンソンはもちろん白人ですが、原作には白人の現地アフリカ人への人種差別的偏見もしっかりと記録されています。

アニメではジャッキーを可愛がる良い隣人である、私用プロペラ機を乗り回す考古学者のクランクショウ博士は、原作ではテンボをジャッキー誘拐犯だと決めつけてテンボに銃を突きつけ罵り言葉を浴びせる非常に嫌な老人です。

Crankyという愛称でジャッキーに慕われている老教授は典型的な白人至上的な思考を持つ世界の学問の最高学府で考古学を極めた大学教授なのです。

これがアフリカを支配していた典型的な西洋人の姿。

アフリカ人を未開人として蔑む英国人。そういう人たちはたくさんいたし、そしてまた二十一世紀の今日にもいなくなってはいないのです。

アニメではこうした部分は薄められていて、白人の悪は自然動物の密猟という、より普遍的な悪にすげ替えられています。

原作には白人の密猟者は出てくることはありません。

アニメオリジナルキャラのミッキーではなく、毒矢かもしれなかった矢を撃たれたのはジャッキーでした。

象狩族のWaliangulu ワリャングル族は作者によって密猟者 Poacher と表現されています。

ワリャングルは象を何百年も狩り続けることで存続してきた種族。日本人が鯨漁をしていたことにもよく似ていますが、西洋人作家には彼らの伝統的な狩猟は近代国家の法律においては密猟なのです。

「ブッシュベイビー」の原作は現代のポリティカルコレクトネスという点において、子供に読ませるに相応しくない本とされているのかも知れません。アメリカハリウッドではアメリカ原住民を無差別に殺戮する西部劇が大人気だった時代の小説なのですから。

原作のポリコレ違反的な要素を骨抜きにしたのがアニメ版「ブッシュベイビ」なのかも知れません。

ジャッキーを可愛がるクランクショウ博士
Professor Crankshaw

ミニチュアな日本の花畑?

物語の後半、サヴァンナの火事を消した雨季の始まりを告げる大雨は大洪水を引き起こしますが、雨がようやくにして止んだ後の小説の描写は美しいものでした(アニメでは割愛されました)。

そこに素敵な比喩が出てきて、作中唯一、Japaneseという英単語を見つけました。

ですが、作者が力を入れたであろうと思われる感動的な情景の描写、どんな比喩を語っているのかわたしには分かりませんでした笑。

壊れた線路のことを救援列車が到着する前にブッシュベイビーを利用して連絡できなくなっていた反対側に危険を知らせた後、雨が止んでから久しぶりに見るサヴァンナ。

焼けた大地の赤土は洪水に押し流されて、その跡からは一斉に緑の芽が芽吹いていたのでした。

とても感動的な情景ですね。

洪水が大地をむき出しにしたところには
どこにも楽しげな花々の絨毯と緑の灌木が広がっていました。
一時はゴツゴツしたトゲに干上がった枯れ木で覆われていたのに、
今は緑の芽と鮮やかな草たちが姿を見せているのです。
二週間もの間、この世界が変化してゆく様は密かに準備されていたのです。
何時間もの間、子供の筆で魔法の絵の具を使って描かれたような、そこらじゅうをカラフルに染め上げる慈雨の到来を予感しながら、何百万本という植物と木々は密やかに蕾や芽を育んでいたのでした。
ジャッキーは肩に乗る小さなブッシュベイビーを自分の顔で挟んで抑えながら
水に浸すと広がって綺麗な色を見せてくれる、和紙で作られたあのミニチュアな日本庭園の一つに足を踏み入れたような瞬間を思い起こしました。
彼女には瑞々しい緑の山の麓の丘がキリマンジャロ山の暗い渓谷にまで伸びてゆくように思えたのです。…

何を比喩で指しているのでしょう?

水につけると色の変わる色紙?水中花のことでしょうか?

現代のアフリカ

21世紀はアフリカの時代であるといわれています。

欧米や日本をはじめとする先進国や大国中国は少子化に苦しみ、国際的な影響力を下げてゆく中で、台頭してくるのがインドであり、急速に文明力を発達させてゆく、ケニアやナイジェリアなどのアフリカ諸国なのです。

このNoteにもアフリカに住まれている日本の方のレポートが増えてきていますよね。タンザニアやエチオピアなどで欧米に留学や移民したのでは決して聞くことのないお話を読みことは非常に興味深い。

飢餓大陸と呼ばれていたアフリカは今もなお過去のものでもないのですが、アフリカの一部の地域は我々の想像以上に物質的にも文化的にも豊かなのです。そしてアフリカ大陸は本当に大きいので、一言で全ての土地をアフリカと総称することは語弊を生じさせます。

アフリカ大陸を表現したインフォグラフィック
これはアフリカの自然を表現したもの

かの地にはまだ我々の知らない豊かさと見たこともなく聞いたこともない面白い世界が広がっているようです。四季はなくて雨季と乾季だけの世界。

そんな世界がこの地球に存在していることさえ私は良く知りませんでした。

The Bushbabiesと「ブッシュベイビー」はそうしたことを私に教えてくれました。

いつか東アフリカのケニアやタンザニアを旅して、キリマンジャロの高峰を眺めてみたいものです。地球温暖化のために山頂の永久氷河はそのうちに溶けて無くなってしまうらしいですが。

都市への人口集中が増え続けるアフリカ
豊かになればなるほど欧米的な問題にアフリカ諸国もまた直面するのです
2040年までには都市人口が10億人を超えて中国やインドに並ぶ巨大マーケットになるのです
少子化とは無縁で人口は増え続けてますます近代化してゆきます
キリマンジャロ山頂の雪
だんだん量が減ってきているのが衛生写真からもわかります
ヘミングウェイが小説に書いたような凍りついたヒョウなんてもはやいなくなってしまうことでしょう
キリマンジャロ山頂への旅路

ほんの小さなサポートでも、とても嬉しいです。わたしにとって遠い異国からの励ましほどに嬉しいものはないのですから。