アニメになった児童文学から見えてくる世界<15>:想像力を持つことの素晴らしさ
オーディオブックで「赤毛のアン Anne of Green Gables」を毎日聴いています。無料のYouTubeに何種類もの朗読があるので、この有名な作品を選びました。クラシック音楽の名曲のように聞き比べができるのですから。
<アンが初めて物語に登場する第二章がお気に入りです。マシューの操る馬車に揺られながら語るアンの饒舌が楽しい。ナレーターが複数いるために、普通の朗読よりも臨場感溢れる名録音です>
どうしていい歳をした男が「赤毛のアン」なのかと言われる方もいらっしゃるかもしれませんが、この名作は100年以上も児童文学や少女文学という域を超えて読み継がれてきています。英語の良い勉強にもなり、文体の妙を楽しんでいます。
わたしには中学生の12歳の娘がいるので、女の子の好きな本を一緒に楽しんでいても、父と子の楽しい読書とみなされていいことなのです笑。
ネットを探すと、初老の男性が「赤毛のアン」が大好きで何度も読み返しているとか、大人になって初めて読んだとか、古いアニメを見て質の高さに感動したと言われるコメントを見つけて嬉しくなります。
1979年に制作された世界名作劇場の「赤毛のアン」は、非常に原作に忠実なつくりで、アニメ制作者による改変がほとんどないことで知られています。
小公女セーラの改変
例えば、1985年の「小公女セーラ」。
放送当時、当時の社会状況に合致して物議を醸し、大変な人気作となりました。
視聴率も「世界名作劇場」としては当時の最高の20%以上を記録したそうです(最高視聴率は翌年1986年の「愛少女ポリアンナ」。その後は名作劇場の視聴率は年々降下して1997年の放送打ち切りに至るのです)。
短い原作を膨らませて、主人公に対する「いじめ」の部分を限りなく拡張したという小公女セーラ。原作では数年間の出来事を、たった一年間に縮めて、院長、雇用人、そして同級生らによる、父親の死のために落ちぶれたセーラへの執拗ないじめの物語としたのです。
どんなに惨めでも誇りを失わずに耐え抜く、けなげな主人公セーラの姿は崇高でもあり、アニメ作品は「世紀の名作アニメ」と呼んでも全く過言ではありません。
しかしながら、ダイアモンドプリンセスの地位に返り咲いた後にも、いじめた人達を寛容にも許し、ミンチン女学院に居残ることを決めるなど、原作とは程遠いエンディングに熱烈な原作ファンは大変に違和感を覚えた事でしょう。
原作では大金持ちになったセーラはミンチン女学院を去ってゆきます。
赤毛のアン:原作への忠実さ
「小公女セーラ」とは異なり、「赤毛のアン」は限りなく原作に忠実で、海外の熱狂的な原作ファンも、どんな実写映画よりも原作に忠実で美しいと絶賛されています。
しかしながら、あまりに原作に忠実で地味で丁寧な作りなので、もっと派手でドラマティックなアニメにしたかった(小公女セイラのように苦境を際立たせて?)場面設定場面構成を担当した、後にジブリを立ち上げる宮崎駿は途中降板さえしたのでした (アンを途中降板して制作したのが「ルパン三世カリオストロの城」でした)。
「赤毛のアン」は現代音楽作曲家の大家である三善晃氏や毛利氏を起用し、アニメであるにもかかわらず、非常に質の高い音楽を楽しむこともできますが、原作に忠実な「赤毛のアン」の一番の魅力は、やはり主人公アンの個性。
孤児院出身で、聡明だけれども、自尊心の低い、エキセントリックなアンが毎回引き起こす愉しい事件が読みどころ、見どころと言えるのですが、特筆すべきは彼女の想像力の豊かさ。
次のような素晴らしいセリフが第二章に出てきます(アニメ第二話)。
この言葉は座右の銘にしておきたいですね。
絵を描いて、頭の中に思い描いたものが白い紙の上で現実になるような、記号でしかない楽譜上の音符が、自分が奏でる鍵盤などから音楽として生まれ出てくることの感動。そうしたことの素晴らしさは何物にも言い表しがたいものです。
ここに使われている「Scope of Imagination」という言葉を、何度も口にするアン。
アンはまだ11歳の少女で、目の前にはまだ見ない未来が待ち受けているのです。
どんどん大人になって、知りすぎてしまうということは不幸なのかもしれません。
世界を知るという過程、幸せになるという上昇感こそが人生の醍醐味。
大人になると、想像力が乏しくなったなと感じることがよくあるものです。アンの言葉のように、知りすぎてしまうと世界が面白くなくなってしまうのです。世界に対する生き生きとした好奇心をいつまでも失わないでいるのは難しいことです。
だから
旅に出る
知らない人に逢う
まだ試したことのないことをやってみる自分の知らない分野のことを学ぶ
ということを繰り返してゆくことが大切。アンを読んでいると聞いていると、そういうことの大切さを思い知らされるのです。
想像力の素晴らしさ
想像力は自分が何かを思い浮かべるばかりではありません。
冬の枯れた花園の枯れ枝に、春の日に花咲き乱れていた色とりどりの花を思い浮かべる想像力は素晴らしい。
でも相手を思いやる想像力も素晴らしい。
共感したり、感情移入することは、自分に共通項のたくさんある人になら、誰にでもできることです。でも自分とはかけ離れた花という存在に自分を重ね合わせる想像力は類い稀なるものでしょう。
アンは薔薇の気持ちを思いやります。こういうことができることが、アンという少女の人間的な魅力ですね。
アンのような想像力は、逆境にある人に勇気を与えさえもしてくれます。
苦しい時にこそ、まだ見えない素晴らしい日を夢見ることの大切さ。
こんな歌があります。
原作の小公女にはこういう言葉があります。
父親の投資失敗による破産のために、プリンセスの地位を失って孤児となったセーラは、ネズミと同居する屋根裏部屋でこういう言葉をつぶやきます。どんなに惨めでも、アンと同じくらいに豊かな想像力に富んでいたセーラは、想像力の力でいつでもプリンセスの心を失わなかったのです。
インターネットで何人もかの方が、想像力のおかげで苦しい中で救われたと書かれていました。希望は想像力の中から生み出されるものです。
大人の読む「赤毛のアン」
百年の歳月を経ても、いまもなおベストセラーな「赤毛のアン」には、孤児院出身のアンの成功物語以外にも、別の魅力もあります。
豊かな想像力で周りにいる人たちを驚かせたり楽しませるアン・シャーリーの物語は、孤児院から彼女を受け入れる、子供のなく結婚もしないで50年以上も生きてきたマリラとマシューの兄妹の物語でもあるのです。
YouTubeである方がアニメの「赤毛のアン」は実は養母のマリラの物語であると喝破されていましたが、そういう見方も十分に可能で、全く共感いたします。
大人になって、アニメを見ると、アニメの中に描かれている大人たちの視点で物語を見ることができます。そして気がつくのは、子育て経験のない厳格で融通の利かないマリラもまた、アンと共に成長しているということ。
物語の最後、兄マシューを失って、成長して大きくなったアンに対して「お前はわたしの娘だよ」という言葉を初めてかけるのです。
「赤毛のアン」は50歳を過ぎてから母親になった女性の成長物語でもあるのです。マリラはアンと暮らして、今まで知らなかった数多くのことを学んだのです。でも最も大きなものは誰かのことを自分以上に大切に思うこと、つまり愛することですね。
死の前日に「十二人の男の子よりもアンの方が素晴らしい」と語った、コミュ障で女性に話しかけられなかった60歳過ぎのマシューもまた、生涯の終わりに父親になれたのですから。
人生は一人で暮らしているだけではわからないものがあるものです。
わたしは若い頃には、生きる意味を模索して、カフカ、ドストエフスキーやニーチェなど、実存主義的な世界文学を読み漁って自分探しをしていました。
果てには聖書などの宗教書までも読み続けていましたが、世界文学の最高峰と呼ばれるムズカシイ本よりも、青少年のために書かれた、1908年出版の「赤毛のアン」の方が人生を生きてゆくためのより深い知恵が込められているように思えます。
想像することの素晴らしさです。
想像することを忘れた惨めな人間が、ドストエフスキーの「悪霊」のスタヴローギンとなり、想像力の欠如が「カラマーゾフの兄弟」のスメルジャコフのような人間を生み出すのです。
想像力豊かでないと、自分の住んでいる世界以外を舞台とした小説は読めないし、白いキャンバスを前にしても何も新しいものは生み出せません。詩句のように抽象的な言葉は想像力を喚起するものです。詩は豊かな想像力なしには鑑賞できません。
アニメ「こんにちはアン」では、ロバート・ブラウニングの詩集を、幼いアンは「金色の泉」と名付けました。
「赤毛のアン」は、現実世界に捉われすぎて想像することの素晴らしさを忘れがちなわたしには、想像力の源泉です。
想像力とは何かを思い出させてくれる大切な本、想像することを忘れそうになったとき、またこの本を手に取り、アニメを見てみたいです。
参考文献:
ほんの小さなサポートでも、とても嬉しいです。わたしにとって遠い異国からの励ましほどに嬉しいものはないのですから。