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ピアノのバッハ23: バッハのオリジナル楽譜の弾き方

ディヌ・リパッティのお話の最終回を書く予定なのですが、今回も脱線。

「ピアノのバッハ」を語る上でとても大切なことなのだけど、これまでほとんど語っていなかった重大事項について。

つまり、バッハの楽譜には、ベートーヴェンやショパンやブラームスやラヴェルの楽譜には必ず書かれている、弱音ピアノ強音フォルテ増減表現クレッシェンドなどの発想記号(Expression Marking/Dynamic Marking)が全く書かれていないということ。

ピアノのためにバッハの楽譜を編纂している楽譜には、強弱表現の記号が書かれているのが普通なのですが、ああいう表情記号は、十九世紀になってピアノ出版社や校訂者が付け加えたもの。

バッハのオリジナル楽譜には、ピアノやフォルテやクレッシェンドなどの表現記号は全く出てこないのです。

チェンバロやオルガンという楽器が音の強弱を表現できない楽器だからではありません。

声楽曲にも弦楽器の楽譜にも管楽器の楽譜にも発想記号はありません。

バロック時代に表情表現が存在していなかったからではありません。

バロック音楽の時代のスタイルで演奏されたバロック音楽にも強弱表現はきちんと存在しました。

バロック音楽の強弱表現は、英語でTerraced Dynamicsと呼ばれる「強弱交代」が用いられいていました。

強い音の段=Terraceと弱い音の段が別々に分かれて存在しているという意味。この用語は20世紀のブゾーニが作り出した言葉なので、バロック時代には存在しませんでしたが。

クレッシェンドやデクレッシェンドを用いたような、少しずつ音量を変化させてゆくというような表現は19世紀のロマン派時代の表現なのでした。

モーツァルトの時代でさえ「強弱交代」が強弱表現の主体でした(モーツァルトの音楽に漸減ぜんげん漸増ぜんぞう表現を用いることは厳密には正しくないのです)。

二段チェンバロでは、上の段の鍵盤が弱音担当で下の段は強音担当などと言うこともありましたが、バロック音楽もまた、ロマン派音楽とは違ったやり方で非常に表現主義的でした。

バッハには珍しいピアノとフォルテの指示、
速度はアンダンテ
二段鍵盤のためのイタリア協奏曲第二楽章の場合
上の鍵盤はピアノで(つまりこの楽譜の左手)
フォルテの右手は下の鍵盤を弾くのです
まさにコンチェルトのスタイルで
伴奏役の左手は弱い音の鳴る上の鍵盤を使うというわけです
この楽譜の文脈ではTerraced Dynamics
という言葉はよく理解できます

でも表現の仕方は書かれていません。

どこから強く弾いて、どこから弱くという風に強弱を交代させるのか?

バロック音楽の世界では、以上のような表現指示が全く書かれていなくても、教養ある演奏者は楽譜を見れば、どのように音符に表情を付けて演奏するかをすぐに理解できたからです。

不文律ともいえる、音楽演奏の基礎中の基礎は、楽譜には書き込まれはしなかったのです。

発想記号の多用は、創作者の独自の個性を重んじるようになったロマン派音楽の表現の多彩さのためなのでした。

速度もまた、形式によって決定されたので、アレグロもアンダンテという速度指示も必要とされはしなかったのです(場合に応じては書かれました。イタリア協奏曲のように。でもこの曲は出版されたために特別なのかも)。

ですので、発想記号がほとんどないバロック時代の楽譜は、バロック時代の楽譜の読み方を学ばないと演奏できないのです。

表現指示のないバッハの楽譜

バッハの楽譜には、表情記号、表現指示、速度指示が存在しないということを確認しましょう。

次の楽譜は、「ゴルトベルク変奏曲」の変奏曲の主題となるアリアです。

Urtext(ウルテクスト:原典版)
つまり編集者の手が加えられていない
原典版バッハの自筆譜を、
手書きのままでは読みにくいので、
バッハの楽譜を忠実に読みやすい活字音符にして印刷されたもの

子供たち(ヨハン・クリスティアンなど)や弟子たちのために、バッハの二番目の奥さん、アンナ・マグダレーナ Anna Magdalena Bach (1701-1760) が編纂した練習曲集「アンナ・マグダレーナの音楽練習帳」にも含まれている音楽。

ケーテン宮廷の名ソプラノ歌手だった、バッハの奥さん公認の初心者向き音楽です。

この曲が含まれている練習曲集。

ちなみにこの超有名曲「ト長調のメヌエット」はバッハ作ではありません。悪しからず。

ゴルトベルク変奏曲のアリア

さて、強弱表現や速度指示の全く書かれていない楽譜、どうやって演奏しますか?

アリアとしか書かれていない。

アリアは「詠唱」という意味。

抒情的な小曲という意味なので、器楽曲にも使われます。

アレグロやアンダンテといった速度表示もなし。

  • ピアノ(p: 弱く)や

  • フォルテ(f: 強く)や

  • クレッシェンド(Cresc.: 音を次第に大きくする)

といった表情記号も全くありません。

ならば、何も表情をつけないで、機械的に演奏すればいいのか、といえばそうではありません。

ですので、後世の19世紀の演奏家は、表情表現の全くないバッハの楽譜に19世紀的ロマンティックな独自解釈をいろいろ書き込んで「音楽的表情」を付け加えたりもしました。

バッハの音楽はチェンバロという楽器のための楽譜なので、ピアノという、ロマンティックで表現豊かな楽器にふさわしい音楽にするために、そういう改変・校訂が必要とされたのです。

カール・チェルニー校訂のアリア

そのような古い時代の音楽を現代的に演奏するためにの楽譜校訂に貢献した人に、現在では練習曲集で大変に高名なカール・チェルニーがいます。

モーツァルトの死んだ年の1791年に生まれたチェルニーは、大作曲家ベートーヴェンにピアノ演奏法を教授された神童でした。

10歳の頃から三年間、厳しい師匠によってそれまでの自分のピアノの弾き方を完全にやめさせられて、一からベートーヴェン的ピアノ演奏方法を徹底的に仕込まれたのでした。

ですが、完璧な演奏方法を身に着けたチェルニー少年は長じて、自分は演奏家になるよりも、教育者・音楽理論家になることが天職であると自覚します(ベートーヴェンの超難曲「皇帝協奏曲」の初演演奏者は二十歳のチェルニーでした)。

数多くの練習曲を作曲(練習曲以外にも交響曲などの傑作あり)さらにはバッハなどの過去の作曲家の鍵盤楽譜を校訂したのでした。

チェルニーは、初期ロマン派音楽を体現したショパン(1849年没)やメンデルスゾーン(1847年没)やシューマン(1856年没)よりも先に生まれたにもかかわらず、長命に恵まれて彼等よりも後の1857年まで生きたという、初期ロマン派時代の音楽の全てを知っていた人でした。

カール・チェルニー校訂版は次のようなもの。

アンダンテ・エクスプレッシヴォ(表情豊かにゆっくりで)
速度も一分間に72の四分音符という
具体的なテンポが与えられています
第九拍目からクレッシェンドして
第11小節目でフォルテを轟かせるのが
ロマン派的なドラマを感じさせてくれます

第一小節目にP(弱く)そしてDolce(愛らしく)と書かれています。

第七、九、十一、十四小節目にはクレッシェンドとデクレッシェンド、またフォルテ、メゾフォルテなど、ショパンやシューマンの時代のロマンティックな表現が付け加えられているのです。

Carl Czerny 
From Wikipedia

確かにチェンバロのために作曲された楽譜をピアノで演奏するためには、楽器の響きの違いゆえに、楽譜に手を加えることは必要かもしれません。

でもチェルニー版の表情記号を遵守してピアノで弾くと、この曲はあまりにもロマンティックなものになってしまいます。

これでは、もはやバロック音楽ではありません。

全音出版校訂のインヴェンションヘ短調

チェルニーに準じるような、ロマンティック改変される校訂(改変)楽譜がバッハの鍵盤音楽には本当にたくさんあり、今でも普通に流通していて、そういう楽譜は今でも音楽教育にも利用されています。

わたしも日本で非常に権威ある全音出版部の「インベンションとシンフォニア」の楽譜を手元に持っています。

いまもアマゾンで販売されているものと全く同じ1958年版。

おそらく日本でピアノの先生についてピアノを習っている子供のほとんどはこの楽譜を弾いているはず。

例えば、インヴェンションという初心者向きの音楽なのに、ヘ短調という受難に通じる調性のために、大変に深い内容を秘めた「第九番ヘ短調」には、次のように発想記号が小節ごとに書き込まれています。

わたしの持っている古い楽譜の
アイフォンカメラによるスキャン
(だから後ろが透けて見える笑)
楽譜には速度はテンポ116と書かれています
(四分音符を一分間に116の速さ、あまりに速過ぎです)
速すぎるテンポはこの曲をエチュードとしか
見ないしていない
校訂者の不見識ゆえでしょう
バッハがピアノ学習者に嫌われるわけです
もっと遅いテンポで演奏すると
バッハの「小受難曲」といった趣の
悲劇的だけれども感動的な音楽になります
息子のヴィルヘルム
・フリーデマンによる写譜には
Con Spirito (精神を込めて、元気よく)とは
どこにも書かれていません
Praeambula(前奏曲)では速さは分かりませんが、
十六分音符が書かれているために
速いテンポが想定されますが
全音版ほど快速ではないはずです

日本の全音編集部の校訂は、ピアノ学習者のためには表情表現の練習曲として大変によく考えられて作られていて、これはこれでいいのですが、テンポが速すぎてバッハらしい深みは味わえません。

グレン・グールドの演奏を聴いてみると:

異端演奏として有名なグールドの演奏をここで取り上げてみましょう。

グールドは練習曲であるインヴェンションを優雅な舞曲であるかのように演奏しています。

主題が戻ってくるたびに、主題のアクセントが強調されるのがなんとも美しい。

全音出版譜同様に、メロディの第三拍目を強調するのですが、アクセント記号付きの全音出版とは違って、強烈なアクセントをつけるものではありません。あくまで第三拍目の自然なアクセント。

強調される音符は、あくまで音楽的な拍節感に基づいていて

「強強」

チェンバロ的には「長短長」

という流れは決して損なわれないのです。

後半部分、情感あふれんばかりにテンポが変わるように思えるのですが、実は音符を粘って長さを変えて「強弱強」をチェンバロ的に「長短長」にしていて、ピアノではこれがとてもロマンティックな表現に聞こえるのです。

効果抜群。

あまりにも遅い♩=48(全音の116よりも三倍ほども遅い)が全体のテンポとして取られているのですが、グールドの場合、この超スローテンポゆえに、インベンションという初心者のための音楽さえも、受難曲に匹敵するような悲しみの歌へと姿を変えるのです

ヘ短調は悲劇の色調。

バッハを弟子たちにこの音楽の持つ色調の意味を体感させるために、バッハはこの曲を書いたはず。

グールドの超ロマンティックなテンポ解釈は全音出版同様にバッハを逸脱したものかもしれませんが、バッハの音楽の本質は見失ってはいないと思います。

全音出版のインベンションは、速度が速すぎてアクセントをつけすぎていて、曲本来の抒情性が死んでしまっています。

快速でリズムが良く跳ねるのがバッハらしさ?と考えられていたのでしょうか?

反復感のないリズムのために(アクセントが不規則につけられているために)曲の流れが損なわれてあまりに不自然。

要はこの楽譜、多声音楽をピアノ学習者に弾かせることだけを念頭に置いて校訂されているのでしょう。確かに左手と右手を別々に動くようにさせる練習曲としてはこれでよいのかも。

でも残念ですね。これではバッハ音楽の深みとすばらしさは全く理解できないのです。

バッハは如何に弾かれるべきか

大切なのはバッハの音楽の本質を表現すること。

でも本質って何でしょう?

グールドの超ロマンティックなテンポ表現もまた、非バッハ的なのかもしれませんが、グールドの表現には舞曲特有の拍節感に基づいた強弱の表現が常に息づいてはいませんか。

リパッティの言葉として次のようなものがあります。

ウル・テキスト(Ur‐text:原典)は大事だけれども、より大事なのは、ウル・コンテント(Ur‐content=音楽の本質:リパッティの造語)

Ur-は原典を意味する接頭辞
Contentは内容という意味

つまり、リパッティは楽譜を神聖視して杓子定規な解釈を墨守するよりも、作曲者の精神性を表現することが何よりも大事なのだと述べています。

名演奏家たちは異口同音に

「バッハの自筆譜に忠実な原典版を弾きましょう」

といわれます。

でもそれでは「ピアノのバッハ」は、強弱表現やクレッシェンドがないために、ピアノのバッハは表情のない無味乾燥な退屈な音楽になってしまうのではないのでしょうか?

。。。

いいえ違います。

ピアノのバッハ演奏に必要なのはやはり、基本の基本。

音楽の父バッハの楽譜は、ただただ基本の基本である「強弱」「ダウンアップ」の拍節感を生かした演奏をすればいいのです。

チェンバロでは「長短」という歪な独特のリズム感がバロック音楽らしさを醸し出しますが、ピアノでは強弱の拍の交代が基本になります。

美しいバッハの基本

ピアノ音楽を聴いていて、最も面白くない(眠たくなる)演奏は拍子感、拍節感のない演奏、または感じられない演奏

「強く・弱く」は自ずと音楽の中に現れるものなのですが、演奏者が意識していない限り、音楽の生命力の源である反復する拍節感は聴き手には伝わらないものです。

演奏実践的には

ダウン・アップ・ダウン・アップ

「上から下に」が最初
これが基本
音楽は上がった状態から始まるのです
指揮者の指揮棒を思い出してみてください
下から出ることもありますが
これは基本とは異なる変則なので
この場合は特別に「アップビート」であると呼ばれます

という「上がって下がって」「押して引いて」というパターンを意識すると、演奏して出てくる音は「最も音楽的」になるのだと思います。

音楽を肉体的に視覚化したものがダンス・舞踏なのですが、その場合も、利き足(右利きの人の場合は左足)が強拍となり、強く踏み込んだ足にそわすように出てくるのが弱拍です。

音楽とは、ダウンアップ、または強く弱くの反復運動

西洋音楽の特徴である拍節感、拍子という絶えず反復する拍節リズムを徹底して強調すること。

ただこれだけでバッハは美しく響く。

これがリパッティのいうところの「ウル・コンテント」。

この最も大切な音楽的な原理を誰よりも重んじたのが、ドイツのヨハン・セバスティアン・バッハなのでした。

わたしがバッハの演奏を素晴らしいと感じるとき、例外なく、演奏者は必ず「ダウンアップ・ダウンアップ」または「強弱強弱=長短長短」を明確にした、リズミカルな演奏をしているものです。

長短はジャズのスウィングにも通じます(フランス・バロック的にはイネガル奏法といいます。イネガル = Notes inégalesは、英語の Irregular Notes)。

基本であるリズム感の歯切れ悪いバッハは、良い演奏ではないでしょう。

バッハほどに基本が大事な作曲家はいません。

バッハ音楽の最大の魅力はリズムにあるのですから。

演奏のための不文律

バッハ・ヘンデル・スカルラッティの時代の楽譜には強弱表現などの発想記号がないのは、楽器で表現できないからではなく、楽譜には書く必要がなかったからが正解だったのです。

学識あるバロック音楽の演奏者が「ゴルトベルク変奏曲」のアリアの楽譜を見ると、すぐにこの曲は「サラバンド」と呼ばれる舞曲なのだと分かります。

そして形式から速度が決定されます。

四分の三拍子で、リズムが

ラー・ララ―

バロック音楽の舞曲は二拍で一組
23・13>が音楽のユニット
このリズムがサラバンドだと
分かることが音楽家の教養

サラバンドはのちの時代のアンダンテやアダージョに相当する、ゆっくりとしたテンポ感で踊られるダンス。

二小節で一組(ララーラ・ララ―)
第一拍の最後の音は第二拍の最初の拍に繋がり
二拍目の最後の音は必ず伸びる音
このリズムを活かしていないとバッハ演奏として失格

なので、速度が♪=72などと書かれていなくても、演奏者にはどのくらいのテンポで演奏すべきかわかるわけです。

ですので、サラバンドが何かわからないと、演奏できるはずもない。

どうやって表現すればいいのかもわかるはずもない。

20世紀フランスのドビュッシーの
新古典主義サラバンド
やはり「ララーラ・ララ―」

バッハの楽譜には、♪=72などと具体的に書かれていないので、有名なグールドの新旧録音のように、

  • 新盤「とても遅く=アダージョ」

  • 旧盤「ゆっくりと=アンダンテ」

という具合に、速さが異なっても、どちらもサラバンドなわけです。

グールドの有名な録音(新旧)

1955年盤のテンポ速めのアリア(1954年録音:2023年AI復刻による驚異の音質向上に注目してください)。

テンポは♩=80ほど。

次は死後発売された遺作の1982年盤(1981年録音)。

こちらはテンポは♩=48ほど。インベンションヘ短調同様に超スロー。

グールドの新旧録音、速度がこれほどに違いますが、どちらの演奏もバッハの「踊り」のリズムが息づいている見事な演奏です。

グールドの表現と聞き比べてみると、どれほどにチェルニー的な校訂が不自然なのかが理解されます。

ロマン派風に基本のアクセントよりも、チェルニーの校訂のように過剰な表情付け、音による劇的効果にこだわると、バッハ特有の「踊り」のリズムが死んでしまって、バッハは途端に生命力を失ってしまいます。

バッハの場合、余計な表情をつけないで、どんな曲なのかを見極めて、基本の反復リズムパターン(強弱弱=長短短)をきちんと守るだけで本当に美しく響くのです。

ピアノで弾くバッハ

チェルニー校訂版や全音校訂版はそれぞれ、19世紀前半、20世紀前半のバッハ解釈として面白いものですが、こんなバッハをピアノで弾くと、

バッハはピアノで演奏されるべきではない!

とバロック音楽を愛好する音楽通の方々が声を荒げられます。

ピアノのバッハは難しい!

YouTubeのバッハ録音へのコメント欄では世界中からの「ピアノのバッハ」への非難の声を読むことができます。

面白いのは、アラウやリパッティの世紀の名演奏などには、「バッハをピアノで演奏すべきではないけれども」などと断り書きをつけたうえで、彼らのバッハは美しいと評されていること。

ピアノという楽器は楽器そのものがロマンティックなので、バッハを弾くと自然とロマンティックに改変されてしまうのだけれども、過度な表情をつけないで基本のリズムだけを重んじて奏でた「ピアノのバッハ」は音楽的に正しくて、極めて美しいということでしょうね。

リヒャルト・ヴァーグナーの嘆き

出典は失念しましたが、その昔、リヒャルト・ヴァーグナー(1813‐1883)関連の書籍を読み漁っていた頃に偶然出会ったあるエピソードが忘れられません。

ヴァーグナーのある作品(ローエングリンかタンホイザー?)のリハーサル中、ヴァーグナーは弟子のハンス=フォン=ビューロー Hans von Bülow (1830-1894: もしかしたらモットルだったかリヒターだったかも)に管弦楽の演奏指揮を任して客席から練習を眺めていたとき:

ヴァーグナー:(怒気を込めて)おい、ハンス、そこどうしてフォルテ(強く)なんだ。そこんとこ、もっと情感を込めてしっとりと演奏するところだろう?
ビューロー:でもあなたの楽譜には、ここにはフォルテと書いてありますよ、先生、ほら。
ヴァーグナー:(席を立って指揮台に向かう。ビューロー、大先生に楽譜を差し出す。楽譜を手に取って、ヴァーグナーの表情が一変する)ああ、なんてことだ、楽譜に表情記号なんて書き込むもんじゃない。私もバッハのように、楽譜には何も書かないでおくべきだった!!!
ビューロー:(苦笑い)( ̄∇ ̄;) ハハハ

もう二十年以上も前のこと、バッハの楽譜にはピアノもフォルテもクレッシェンドも書かれていないということを私が初めて学んだのは、バッハとは縁もゆかりもなさそうな後期ロマン派の大革命家リヒャルト・ヴァーグナーの言葉を通じてなのでした。

バッハの最高傑作のひとつ
「マタイ受難曲」冒頭の合唱の開始部分
この曲、徹頭徹尾、
まったく発想記号が書かれていない
メンデルゾーンがその曲の蘇演を1829年に行ったときには
ロマンティックな表情が
現在の間隔では過剰なほどに
付け加えられたのでした
大変な作業だったはずです
超勤勉だったメンデルスゾーンの凄さが思い知れます
でもメンデルスゾーン校訂版を今演奏すると
表現が過剰過ぎて
バッハからは逸脱しすぎた音楽になります

調性音楽破壊の原因を作り上げたヴァーグナーの作品とバッハの関連性は薄いといわれるかもしれませんが、ヴァーグナー作品の中で唯一、現実的な歴史世界に題材をとった「ニュルンベルクのマイスタージンガー」は、ヴァーグナーとしては、極めて稀な、非常に健全で健康的で非厭世的で生命力あふれる音楽です

明るく前向きな長調主体の音楽構成。

バッハの声楽音楽に親しんでいるならば、「マイスタージンガー」の壮麗な前奏曲を中にバッハの音楽のこだまを感じずにはいられないのでは。

ヴァーグナーの楽劇に慣れ親しんだ方ならば、「マイスタージンガー」はヴァーグナーなのに音符が「四角い」と感じるはずです。

大ピアニストで大指揮者だった
ヴァーグナーの一番弟子ビューロー
ヴァーグナーに奥さんを奪われたことで有名ですが
19世紀後半において最も重要な音楽家の一人
音楽の3B(Bach,Beethoven, Brahms)という
言葉を作ったのも彼でした

「四角い」のは、バッハ張りに強弱強弱のリズムが4と強調されていて、音符はバッハが書いたような、規律正しい四分音符を半分にした八分音符に、その半分の十六文音符がしっかりと基本のリズムに則って奏でられるから

ダウンアップ、ダウンアップ、ダウンアップ…

バッハらしさをヴァーグナーに感じ取るには、ピアノ編曲版が一番です。

大指揮者である以前に
大ピアニストだった
ハンス・フォン・ビューローによるピアノ編曲版(二手用)
ロマン派時代の大音楽家の編曲した楽譜でも
ヴァーグナーの音符が「四角な=全音階的な」
印象を受けずにはいられない。
グールドの録音は
グールド自身による編曲版です

前奏曲の録音は、グレン・グールドの類まれなる二重録音による、ピアノ演奏をどうぞ。

ヴァーグナーの音符は分厚過ぎて(音が多すぎて)、ピアニストの二本の手だけでは忠実な音響表現は不可能なので、グールドが一人二役で四手演奏した録音です(別々に録音して後で重ね合わせた演奏)。

この演奏もある意味、「ピアノのバッハ」なのかも。

グールドの力強いリズムの強調と弱音と強音との対比にわたしはバッハを感じずにはいられません。

この録音も最新リマスター盤。

私の持っているCDよりもずっと音がよいです。


次回は本当にリパッティのお話の最終回。多分(笑)。


ほんの小さなサポートでも、とても嬉しいです。わたしにとって遠い異国からの励ましほどに嬉しいものはないのですから。