音の回文の言葉遊び:逆さまのメヌエット
言葉遊びはお好きですか?
わたしのハンドルネームは Logophile。
意味は「言葉好き」。そういう名前を名乗るほどに、言葉で遊ぶのが大好きです。
子どもはしりとりや替え歌やアナグラムなど、言葉遊びが大好きなのですが、大人になるとそういう遊びの価値をあまり評価しなくなるのは残念なことです。
たかが言葉遊び、されど言葉遊び。
言葉遊びは実は非常に奥深いものなのですが、日常的な言葉遊び代表のダジャレは「駄洒落」と漢字で書かれるように、「洒落た、瀟洒な」という粋な言葉ではなく、軽くて他愛もないものといった意味合いのしゃれ。
意味深くはないけれども、使われると面白いなと思えるようなもので、使い方次第では会話も楽しく弾みます。
プレゼンで効果的に使うと、会場にいる人たちに好印象を与えることもできます。
しかしながら、なかなか上手に使いこなすのは難しい。
そうした駄洒落のなかで「オヤジギャグ」といわれるものがあります。
ユーモアや笑いは文化ごとに異なるものですが、どのような文化圏においても世代間ギャップというものはあるもので、どの文化圏においても、場の空気が覚めてしまうような、さむーいジョークを発してしまう人たちがいます。
でも通じないから寒いので、通じ合える仲間の間ではとても楽しい会話をつなぐ潤滑油。
ジョークもまた、文化的文脈が理解されていないと通じ合わないのです。
Dad Jokes
いわゆるおやじギャグといわれるものは世界中に存在します。
世代間ギャップは普遍的なものだからです。
中年男性は手持ちのジョークを会う人ごとに何度も何度も披露するのが楽しいらしいです。
たしか「ハリーポッター」の第二巻でハリーが居候している家のおじさんが賓客を迎えるにあたって、どんなふうに歓迎するかを前もって決めていて、さらにはどんな冗談をどんな場面で使うのかまで決めていました。
いずれにせよ、場を和ませる Ice Breaker として、とっておきの冗談というものは大切なのかもしれません。
あまり周りの人には理解されずに受けないけれども、言った本人はおかしくて仕方がないという類のジョーク、英語では Dad Joke(おやじ=Dad・ギャグ=Joke)としても知られています。
英語版Wikipedia に楽しい例が掲載されていたので、紹介いたします。
さて、このジョーク、一読して苦笑できた人は英語文化に相当に精通している人ですね。
I'm hungry は Hungry を形容詞ではなく、名前(例えば、’I am Hillary’)だとすれば、I am ’Hungry’という構文も成り立つ。
まさに屁理屈。
言葉を存分に弄んでいますよね。
日本語文法ではこういう用法は通らないのでは。
娘は「下らんオヤジギャグ!」とアイフォンの向こう側で呆れていたことでしょう。
続く「冷蔵庫にノック」ですが、誰かの家にお邪魔するとすれば、ノックするのが礼儀。
冷蔵庫にはサラダドレッシングが買い置きされていることが多いので、冷蔵庫の住人のサラダドレッシングに礼を払って、ノックしましょうという「ギャグ」!
笑えますか(笑)
こういうものを見かけると、わたしも中年男性なので、彼の気持ちを汲みたくなって思わず微笑んでしまいますが、人生に疲れている中年世代はこういうどうでもいい笑いを周りに振りまいて、人生を楽しくしようと努力しているのかもしれません。
女性よりも男性の方がこういう冗談を好むというのも世界共通。
だから Dad Joke。
健康的な他意のない笑いは正義です。
人生、もっともっと笑わないと。
相手次第では、場の空気が冷え切ってしまうこともありますが、受けることのないジョークを「寒い」と表現するのも日本語ならでは。
空気を読むのが日本の文化だからですね。
英語では Cold Joke は「寒い季節の冬の冗談」になってしまう。
英語にも楽しいダジャレ(Pun)はたくさんあります。
笑えなくても、英語文化に通じていないと理解不能なものなので、英語文化への理解を深めるのに最高の教材です。
https://parade.com/940979/kelseypelzer/best-dad-jokes/
文化的な均一性が保たれていればいるほど、笑いは通じやすいのですが、文化が違えば、さらには世代が違えば、笑いのツボが異なってしまいます。
宗教的な束縛などのない、民主主義な国では、ある特定の文化価値が絶対とはされないので、文化多様性が育まれて、分化が多様化して世代間ギャップが生まれて、お互いの言葉や冗談が通じにくくなるという現象は困ったことです。
実践的な言葉遊び
言葉遊びを「下らん遊び」と馬鹿にする大人も多いかもしれませんが、語学学習や暗記力向上には役立つので、とても実践的で意味深いものです。
中学生のころ、√2(ルート2・Square Root 2)という無理数を暗記するのに
なんて言葉遊びで覚えませんでしたか?
この方法で化学周期表も
と覚えられるし、最近でもYouTubeで究極の暗記法として、アメリカの医大を経て、あちらで医師免許を取られた方が、連想法(どうでもいいものに暗記内容をつなげて覚える方法)を駆使することで、自分はこうして医学書の超複雑な医学用語をすべて丸暗記したと紹介されている動画を見ました。
超絶暗記法などと銘打って高額のセミナーを開いている方がたくさんいらっしゃいますが、どれもこのような語呂合わせ的暗記法をより高度にわかりやすくシステム化して、そんなものを知らない人たちに有料で教えているのですね。
わたしも暗記に言葉遊びを長年活用してきました。
言葉遊びは最良の暗記方法です。
また、日本は和歌や俳句という何百年の伝統を誇る言葉遊びが世界でもっとも発達した国。
百人一首をしたり、連歌をしたり、俳句をひねってみたり、狂歌や川柳で遊んでみたり。
日本語社会では日常的に詩が浸透していて、わたしは本当に不思議だなといつだって思っています。
ネイティブにとっては英語で詩を書くことは高等技術です。
Limerickという短い詩を小学校で書いたりもしますが、日本語の短歌や俳句ほどに広く社会的に愛されているとは思えません。
きちんとした韻を踏んでリズムを正確に遵守した英詩を書くのは、日本語の五七五の俳句をひねるよりも難しいですよ。
いつまでも日本語の言葉遊びの伝統が廃れないでいてほしいと、わたしは心から願っています。
上から読んでも下から読んでも同じ文
さて、本題です。
言葉遊びの究極として、回文と呼ばれるものがあります。
英語ではPalindrome(pˈælɪndròʊm: 無理やりカタカナで書けば「パリン・ドロゥム」。ロゥムは二重母音です)。
前から読んでも後ろから読んでも同じになるという文や言葉は、歴史的に大切にされてきて、数多く作られてきました。
「烏賊食べたかい?」とか(笑)。
日本の伝統の三十一字の和歌としては
なんていう和歌が江戸時代によい初夢が見れるようにと、宝船の絵が描かれた紙に添えられていて、その絵を枕の下に敷いて、よい初夢を見れることを願いながら新年を迎えたのだとか。
世界中の言語に存在するものなので、言葉を人間が使い続ける限り、上から読んでも下から読んでも同じ言葉というものは意味深いものなのでしょう。
実用的に役立つかは別問題としても、非常に高度で知的な言葉遊び。
こういうものを考えるだけで、高齢者の方にはボケ防止、若者には知力トレーニングに役立つことでしょう。
子どものための絵本も何冊も発売されていて、大人気なようです。
英語の有名な回文
単語では、Rader, Revivor, Rotator, Racecar, Level, Noon, Stats, Kayak などがすぐに思い浮かびます。
人名では Eve, Anna や Hannah。
英文でわたしがよく知っているのは、
探せば、中国語でも、ラテン語でも、ギリシア語でも見つかります。
英語の「Palindrome」は、もともとはギリシア語。
「Palin」は「Again 再び」。
「Drome」は「Run 走る」という意味。
言葉は語源的に「Running Back Again」という意味で、17世紀に英語に取り入れられるよ言うになったのだとか。
「Palin」というギリシア語接頭辞は英語では他にはめったに見かけませんが、生物学では「反復発生 Palingenesis」で使われます。
Palimpsest は、中世ヨーロッパには紙が存在せず、羊皮紙を代わりに使いましたが、貴重で高価な羊皮紙は分厚いので、書き損じやいらない文書などがある場合、羊皮紙表面を削って、Palimpsestとして質の悪い羊皮紙として再利用されました。まあネイティブの英語話者もほとんど知らない雑学です。
音符という言葉による回文
ここでようやく音楽のお話にたどり着きました。
五線譜の紙の上に書かれた音符は、作曲家にとっては英語やラテン語などと同じような人間の言葉。
音楽家は作曲家の音符の使い方の個性から文体や言葉を読み取るのです。
音楽が人間の言葉だとすれば、音符の言葉遊びももちろん存在します。
何百年の伝統を誇る西洋古典音楽の世界では、音楽の言葉遊びはたくさんありすぎて推挙にいとまがないほど。
ですが、長い長い西洋音楽史上、現代までに伝えられていて、現代も頻繁に演奏される、芸術的価値があるとされる回文の楽曲はただの二曲だけ。
パリンドロゥム音楽(1): バッハの蟹のカノン
ひとつは大バッハ最晩年の「音楽の捧げもの」という曲集の中の「蟹のカノン Crab Canon」と呼ばれる音楽。
なんと単旋律が一本だけで書かれている音楽。これを二段にして重ねて演奏すると、なんとも言えぬ妙なる調べが生まれるのです。
重ねた楽譜はこのようなものです。
楽器指定もありませんが、単旋律を上記の楽譜のように二声のメロディにしてチェンバロで演奏してもいいし、二本のヴァイオリンで演奏してもいいという音楽。
重ねるとメロディはト音記号で書かれているので、音が重なってしまいそうですが、絶妙にズレていて、まさに神技ですね。
パリンドロゥム音楽(2): ハイドンの逆向きのメヌエット
もうひとつは、交響曲の父フランツ・ヨーゼフ・ハイドン (1732-1809) 中期の作品。
あまり有名ではないかもしれませんが、交響曲第四十七番の第三楽章がそれです。
ハイドンは音の冗談(言葉遊び)の達人でした。
彼ほどに自由自在にユーモアあふれる音で遊んだ音楽家はあまり例がない。
後輩のモーツァルト(音楽の冗談KV.522やホルン協奏曲など)やベートーヴェン(バガテルOp33やソナタOp.31-1など)らも音の言葉遊びに秀でていましたが、前から奏でても後ろから奏でても同じ音楽となる曲を完成させたハイドンの凄さには遠く及びはしませんでした。
どんな楽器でも演奏できるバッハの「蟹のカノン」も素晴らしいですが、ハイドンの音楽は室内楽ではなく、よりたくさんの楽器で奏でられる交響曲のメヌエット楽章なのです。
聴衆として何も知らずに聴いているだけでは、メヌエットがパリンドロゥム(回文:Palindrome)なのかどうかはまず気が付きませんが、オクターヴの飛躍など、音楽的にも遊び心に溢れていて、一見地味ですがまさに驚くべき作品。
下の動画は13:45のメヌエットから始まります。
交響曲第47番 (1772) は、ハイドンの雇用主ニコラウス・エステルハージ侯爵 (1714-1790) がフランス国王のヴェルサイユ宮殿にも勝るとも劣らないというほどに贅を凝らして作られた離宮エステルハーザで1772年ごろに演奏された音楽でした。
沼地を埋め立てた辺境の地に建つ離宮から楽団員たちの故郷であるアイゼンシュタットに帰宅したい旨を音楽を通じて訴えた、いわゆる交響曲第45番「告別」と同時期の音楽。
脱線しますが、嬰へ短調という異例の調性による「告別」交響曲は、より正確には「お別れ」交響曲と呼ばれるべき。
Abschieds-Symphonie の Abschieds は英語の Farewell 同様に「お別れ」という意味。
お葬式をニュアンスさせる「告別」とは全く意味合いが違うのです。お別れパーティにはドイツ語では Abschieds が使われます。
さて、交響曲第47番のメヌエットですが、わたしもこの交響曲を聞いて、これが回文なのかどうかは聞いているだけでは全くわからないのです。
コンサートで聴けば、必ずプログラムにはそう書かれているので、そうなのだろうなということはわかりますが、やはり紙に書かれた楽譜を見ないと逆さまの音楽なのかどうかは分からない。
言葉遊びにはそういうものがたくさんあります。
掛け詞だらけの和歌なんて、聴いてもわからないけれども、書かれた言葉を分析してようやく理解されるようなもの。
例えば百人一首の超絶技巧な和歌:
こういう歌は紙に書かれた詩として分析しないと分からない。
和歌は普通は即興で書かれるものではないので、この歌も作者藤原実方によって何度も推敲して書きあげられた傑作なのでしょう。
即興ではこんな歌は決して詠めるものではありません。
ハイドンの交響曲も同じような労作なのですが、これほどに手の込んだ作品を作っておいて一度だけでお蔵入りされるに忍びなかったのか、侯爵の許可を得て自作が初めて出版される運びとなったとき、侯爵の名前をとって「エステルハージソナタ」と呼ばれることになる六曲のチェンバロソナタ集の一曲の中に、この楽章を鍵盤音楽用に編曲して忍ばせたのでした。
初期の契約においては、宮廷楽長ハイドンは侯爵の許可なしに自作を宮廷外へと持ち出すことは禁じられていました。
出版は1774年のことなので、交響曲初演に遅れること二年。これ以降は契約内容が改定されることになります。
チェンバロのためのソナタ集は現在ではピアノで演奏されるのが一般的ですが、モーツァルトのソナタソナタ同様に、軽いタッチの鍵盤楽器での演奏が意図されていて、ピアノ的な豪快な和音ではなく、ターンなどの装飾音が頻出して細かい指の動きが重視されるという音楽です。
ショパンやシューマンなどの鍵盤音楽とは全く別の発想の音楽。
六曲のソナタの最後のイ長調(Hob. XVI:26)のメヌエットは次のような音楽です。
次の動画は前からの音符と同じ形の一番最後からの音符を同時に目で分かるように紹介してくれています。
音符は交響曲とまるきり同じ。
でも鍵盤音楽版なので楽譜がとても読みやすい。アクセントのつけ方が独特ですが、演奏も割と容易な部類の曲です。
まとめ: 言葉を学ぶと人生楽しくなる
音楽もまた言葉遊びみたいなものだと分かっていただけると嬉しいです。
音楽のパリンドロゥムは、作曲を勉強する人には大変に勉強になるものですが、演奏家以外には音楽は目で見るものではなく、一般的には聞かれるためのもので、パリンドロゥムなんてはっきり言って意味がない。
だから長い西洋音楽史上においても、大傑作は二曲しか生み出されることはありませんでした。
詩の言葉になる話し言葉と違って、音楽のパリンドロゥムは需要がないからですね。
ですがハイドンの場合は意味深かった。
交響曲はニコラウス侯爵の老後の人生を音楽三昧にして毎日楽しいものにすることを意図して作られた音楽でした。
自身でバリトン(ヴィオラとギターが一体化したような楽器)も演奏した音楽通のニコラウス侯爵を音楽で唸らせるために自信の持てる音楽的知識を総動員してハイドンは交響曲をひたすら書き続けたのでした。
ハイドン中期の短調を基調にして書かれた激しい曲想の交響曲群(番号でいえば30番後半から50番前半までの交響曲)はあまりに独創的ですが、実は侯爵の音楽趣味の期待に応えるという目的で書かれた作品たちなのでした。
だからパリンドロゥムも意味深かった。
老後に得られた自由な時間を充実させるのに、老いた侯爵には、このような言葉遊びの音楽は最高の愉しみになったはずです。
パリンドロゥムはそんな侯爵にはふさわしい。
けれども、侯爵以外の音楽愛好家にも、この楽しさを味わってほしいと、ハイドンは初めての出版作品の中にパリンドロゥムのメヌエットを鍵盤用に仕立て直して含めておいたのがピアノソナタ・イ長調なのでした。
ハイドンのチェンバロ(ピアノ)ソナタは素人の愛好家が演奏することを楽しむために作られた音楽。
だから音楽の言葉遊び、きっと鍵盤楽器を演奏する音楽愛好家には楽譜を通じて伝わっていたはずです。
楽譜にも「逆向き、逆さま(Rovescio)のメヌエット」と明記されています。
エステルハージ家の経費から出版されたハイドンの「エステルハージ・ソナタ集」は広く流通して、作曲家ハイドンの名声を非常に高めるものとなりました。
影響はオーストリア・ハンガリー二重帝国(君主はハプスブルク皇帝)の隣国のカトリック司教国ザルツブルクの若い作曲家モーツァルトの最初のピアノソナタのモデルにさえなりました。
でもモーツァルト (1756-1791) の初期ソナタ(第一番から第六番:KV.279-284:1774年の作曲)には、二十四歳も先輩だったハイドンによる音符での遊び要素が決定的に欠如しているようにわたしには思えます。
音の言葉遊びは予想外の展開、演奏者や聞き手の期待を良い意味で裏切ることで楽しさが増すのです。
この点、ハイドンは老獪で、モーツァルトはあまりに素直過ぎるのです。
音の言葉遊び問題の詳細を書き続けると筆が止まらないので、ここでは割愛しますが、言葉遊びには、やはり年季が必要なのでしょう。
子どもがどんなに言葉遊びを楽しんでも、本気を出した大人の語彙力には敵うものではないのですから。
でも多くの大人たちは、子どもたちが持っている言語への純粋な好奇心と新しい言葉を楽しもうとする素直な心が足りないようです。
だからでしょうか、大人が言葉遊びをすると、自分しか知らないような、おかしな知識を引っ張り出してきて、オヤジギャグとして笑われてしまうのは。
いつまでも言葉に対して、子供のような純粋な好奇心を忘れないでいたいものですね。
だから、大人になれば外国語を学びなおして、言葉の面白さを再発見することはとてもいいことだと思いますよ。
日本語の美しさと面白さを極めたいならば、俳句や短歌や連歌がおすすめです。サラリーマン川柳やシルバー川柳なども最高です。
ほんの小さなサポートでも、とても嬉しいです。わたしにとって遠い異国からの励ましほどに嬉しいものはないのですから。