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読まれるための文章と読まれることを意図していない文章

誰にも見せない日記

「海辺のカフカ」に書かれていた印象的な言葉を今でも記憶している。

わたしが読んだのは、出版直後のことだったので、もう二十年も前のことだけれども。

日記をひそかに何年にもわたって書いていたある女性の日記のことを語っていた一節。

たしか付点付きで

「この日記は書かれないといけなかったのですね」

という言葉だったと思う。

われわれにはそういうことがある。

ある出来事について、誰にも語れないことや誰も聞いてくれそうにないことを書き出すことで、自分は安心するのだ。

学生時代に手に取った、ロマン・ロランの「シャン・クリストフ」にも確か、誰にも見せる当てのない日記を書き続けていたと書かれていた。

人に言えない思いは日記などに書いておく。

いまの言葉で言えば、アウトプットすると心が満たされるのだ。

誰にも言わないでいると、心苦しくなる。

王様の耳はロバの耳

床屋は王様の髪を刈る仕事を賜るが、仕事をすることで実は王様の耳はロバの耳という秘密を知ってしまう。

秘密を露見させると首が飛ぶ。

床屋は秘密を漏らしてはいけないという思いに胸苦しめられて、やがて一人で森に向かう。

森の中に穴を掘り、掘られた穴に「王様の耳はロバの耳」と叫んで、床屋ははじめて心が解放される。

いわば、日記とは、森の中に掘られた穴なのだ。

いまでは日記もオンライン化して、誰にも読まれないブログを書き綴っている人たちがたくさんいる。

パスワードでロックすれば誰にも見つからない。

かくいうわたしもこのNoteも、森の中に掘られた、誰も知らない穴に等しいものだ。

日記代わりに、または日々の学びの備忘録として、二年ほど、わたしはNoteに言葉を書き連ねている。

Noteはボランティアサービスではなくて

そんな独りよがりのわたしのNoteだが、調べてみると、ここ一月程で一万回ほどわたしの文章は読まれている。書いた記事は十指に満たない程しか書いていないのだけれども。

パユの記事は少し短めの五千字
他の記事はどれも優に一万字に及ぶ長さの記事ばかり

書いた記事を有料販売できるNoteには、売れる文章を書きましょうと書き方指南をしてくださる方もいる。

そういう方々は売れる文章の書き方を有料公開することで、文章を売っている。ノウハウは売れるのだ。

Noteは本来、経済利益を出すことを目的としているサイトなので、有料記事の存在こそがNoteの存在意義とさえいえるのだが、わたしは基本、無料記事しか読まないし、また自分の書いたアウトプット目的の文章でお金を得てはいない。ときどき奇特な方から投げ銭をいただけるだけれども。

しかし先日、NoteのCEOをなさっている方が、どういう風の吹き回しか、わたしのある記事にスキを推してくださって、

Noteは売り上げを上げるために存在しているのだ

という事実を今更ながらに認識した。

CEOは売り上げのためにNoteを運営なさっている。

わたしのような記事を売らない書き手が山ほどいて、Noteに売り上げを提供している書き手が逆に少数派なのだとCEOはご存知なはずだが、Noteは売り上げを生み出す企業なのだ。

作曲家パガニーニを題材にしたマンガがバズっていて、それがきっかけで、わたしが一年ほど前に書いたニコロ・パガニーニの記事がなぜか読まれているからだろう。

パガニーニ漫画、わたしの一押しなので、ここで紹介しておこうか。

バッハ大好きを標榜しているわたしは、バッハの音楽の対極にあるとされるパガニーニの第一番協奏曲ニ長調も愛聴していている。

ヴァイオリンの最高音域の音色のカンタービレに痺れてしまう。バッハのヴァイオリン協奏曲よりも好きかもしれない。

わたしは、この記事を売る目的、または読んでくださる方を啓蒙しようなどという目的では書いていない。

クラシック音楽人気を高めるためにクラシック愛好初心者の裾野を広げる目的で、読み手のためには、残念ながらわたしは書いていない。

書こうと思えば書けるけれども、ただパガニーニが好きだから書いたのだ。

偏愛万歳!

わたしのNote記事のほとんどは、個人的な偏愛で出来上がっている。

自分の好きなことを語り、それを共感できる人に出会えると嬉しい

ただそれだけだ。

好きなことを語っている時が一番楽しい

自分の蘊蓄や経験を披露することは快楽なのだ。

記事の中で、わたしは一人で好き勝手にお喋りをしている。

だから人に読んでもらう文章だとか、そういうことはそれほど意識していない。

音楽や文学や絵画や漫画や映画や語学への愛を分かち合えると嬉しい

ただそれだけだ。

Noteでは、売れる文章を書きましょうという記事にしばしば遭遇する。

そういう文章は自分が普段意識していないことゆえに、自分の知らない世界を教わっているようで、確かに勉強になる。

たとえば、有料で売れる記事を書いて売りまくりたい人が

やめてくれー、
無料で手の内を明かさないでくれー、
企業秘密だー!

と叫び出しそうな、素晴らしい内容の売れる文章の書き方指南を「無償で」紹介なさっている編集者の竹村俊助さんの次のような記事。

とにかくネットで読まれる記事を書くには!のエッセンスを竹村さんの記事をいくつか読むと、文章を書くことが好きな人はとても勉強になるはず。

ネットでの文章は人に何かを伝えるために書かれるべきだと言われる。

上記の記事は一万字などの長い記事をいかにして読んでもらうかのヒントが書かれている。

ほかにも同じ内容でも、相手目線で書き方を工夫するとか、平仮名を必要に応じて使い分けてひたすら読みやすい文章を書くことに苦心せよなどなど、良いことがたくさん書かれている。ミステリー仕立ても効果的。

自分の文章が読まれて読者にどんな印象を与えるのかを考えると文章の質が向上するとか、なにげに意識していないことを明文化してくれているのが素晴らしい。

いかに書くべきか

わたしの普段の投稿を読んでくださっている方はご存知のはずだが、わたしはほとんどいつだって長文を書く。

一万字とかそれ以上の長さの重い記事がほとんど。

でももちろん、たくさんスキがつくような記事は程よく読みやすい長さの二千字くらいの記事だと自覚している。

ここまでで、この記事はほぼ二千字強だ。

このくらいの長さで終わる記事を心がけると、わたしの記事につくスキの数は倍増することだろう。

でもわたしはアウトプットのために、学んだ知の自分自身のための整理のために書いているので、字数制限はあえて気にしていない。

字数は必要なだけ費やす。あまりに長すぎる場合は数回に分けて投稿するけれども。

特に英文翻訳を載せると、英字の原文が含まれるため、字数はひたすら多くなる。

それでも読者に飽きさせない工夫はしている。

写真と動画の活用だ。

わたしは営利目的で書いてはいないので、Fair Useのつもりで他人様の写真を無断で借りてくる。あえてCC-BYにはこだわらないが、明らかに販売目的な画像はもちろん避ける。Getty Image など、商用に”Licensable”と明記されているものは絶対にダメ。

主に教育などの利他のためには
著作権が作者に帰属するような写真なども自由に使ってもよいという解釈のこと
営利目的などのためにはもちろん許可を取るべき

でもこれからは、Stable Diffusionで自分の画像を作ろうとも思ってる。

スキがたくさんついた短めの記事を読んでも、わたしには物足りない。

もっと深く書いてほしいと思う。

ネット記事は本ではないのだから、読みやすさが優先されているのだとよく知ってはいるけれども。

さらには以前にも書いたけれども、書く前から何を書くかでスキされる数は想定できる

なにを書くべきか

バッハや英語発音のことを書いてもほとんど読まれないし、売ろうにも売れないのだ。

でも近所で食べた美味しい話題のチーズケーキのことなどを配信すると、閲覧数の桁が上がる。

わたしは、マニアックに自分の好きなことだけを書き綴る。

竹内編集の書かれたことで改めて大事だなと思ったのは一次情報を伝えるということだ。

バッハの蘊蓄を書いても、ウィキペディアに書いてあるような程度のことならば価値がない。

だからと言って、わたしにしか書けそうにない高度に専門的な内容を書いても、やはり閲覧数は増えない。

世のほとんどの人は高級家具を必要としないけれども、高級家具が好きでたまらない人もいる。

そういう人のためだけに書くというのも一つの戦略ではあるのだけれども。

一般的に、みんながNoteで読みたいのは、その記事の作者にしか語れないこと。

コンサートの体験とか、ある出来事の目撃情報、当事者としての情報、ここにしかない、いつかは一次資料となりうる貴重な情報。

そういうことについて、読み手を想定しながら、読まれた人の読後に何が残せるかを思いやりながら、二千字以内に書くと、唯一無二の価値の情報を伝えるになる。

でもわたしは仕事の話はここではしたくない。

わたしの過去二十年以上の海外の国立大学でのキャリアの話を垣間見せると興味深いと思っていただけるかもしれない。

でも、Noteは趣味のためにしていて、仕事以外のことを語りたい。

海外在中なので、現地の日常を書き綴るときっと読んでみたいと言われるたくさんの方々がいることだろう。

実際にわたしも世界中に散らばっておられる日本の方々の現地のレポートに興味がある。

わたしが発信しないのは、わたしにはこの美しい国について語ることに、もはや新鮮味がないからだ。

いまではニュージーランドで過ごした時間は日本で暮らした時間よりもずっと長くなってしまった。

自分語りもあまりしたくない。

しかしわたしもお金のためならば、書く文章のスタイルを変えるだろうし、書く内容も読み手を考えて、違わせるようにすることだろう。

なんならば自分を隠して、ここだけの人格を演じても良いことだろう。

作家とはそういうものだろう。

Noteが売文業の副業になると、じぶんにはNoteしてる意味がなくなってしまうのだろう。

読みやすい文章を書く工夫に苦心するあまり、自分が書きたいものはきっと書けなくなる。

本音を語ることはできなくなる。

本音に見せかけたウソを上手に語るようになる。そういうこともゲーム的に面白いかもしれないけれども。

そうなるとNoteは日記ではなくなって、きっとわたしは別の場所に日記を書き始めることだろう。

冒頭の「海辺のカフカ」に戻ろう。

誰に見せるつもりもないけれど、書かれなくてはいけなかった文章。

それがわたしのNoteだと思う。

こうして書いたものを公開しているけれども、じつはわたしの実生活を知っている人たちはだれもわたしの書いた文章を読まない。

わたしの知り合いも家族も友達も、わたしがNoteしていることを知らない。

わたしの周りにいるのは英語しか理解しない人たちばかりだから。

英語を学びたいひとは、英語だらけのわたしの境遇を羨ましがるかもしれないけれども、わたしは自分の生まれた国の美しい日本語で語りたい。だからNoteしてる。

ただそれだけだ。

好きな言葉を書き残しておきたいだけ

ここまでで四千五百字。

これくらいならば読みやすい長さだろうか。

これを推敲して半分の長さの二千字にすることはそんなにも難しくないかもしれないが、それではわたしらしさがこの文章から削げ落とされてしまうことだろう。

無駄な部分に自分らしさが潜んでいるように思う。

わたしは自分が好きなことを好きなように語っていたい。

あなたのNoteにあなたが書いている文章は、誰かに読まれることを意図していない日記のようなものなのでしょうか、書かれなくてはいけなかった文章なのでしょうか?

それとも何かを伝えたいメッセージ?

voilà /vwɑˈlɑ/ はもともとフランス語
カタカナで無理やり書いて「ヴォワラー
「じゃじゃじゃじゃーん」と言いたいときに英語で使う表現

王様の耳はロバの耳!

ただただ、それがわたしにとってのNoteなのかも。

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