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アニメになった児童文学から見えてくる世界<5>:割愛された聖書物語

新約聖書の福音書

新約聖書の冒頭に置かれている福音書は四つ。

最初の三つの福音書(マタイ・マルコ・ルカ)は共観福音書とよばれ、同じ物語を少しばかり違った角度から語り直すといった体裁を取っています。

最後のヨハネ福音書は四つの中でも一番最後に編纂されたもの。
グノーシス派という非常に思念的な教義(知識と認知において救済されると唱えることは、信仰のみとするパウロ神学に反する)を信奉する初期キリスト教の異端の教えの考え方が反映されているのです。「はじめに言葉ありき」という書き出しは全部で66巻ある聖書の中でも非常に独特です。

四つの福音書、どれも救世主イエスが地上に訪れたという福音 (良い知らせ)を伝えることが目的で、新約聖書後半の使徒たちの書簡などは基督教とは何かを学ぶべきためのもの。「救世主=キリスト」とは何かを学びたければ、まずはこの四福音書を読むべきですね。

イエスの生涯と業績を伝えることが聖書における福音書の役割です。

旧約聖書はヘブライ人の民族史であり、そんなヘブライ人の救国の英雄となるべき人がメシア。そのやがて来ると予言された救世主こそが、キリスト教においては福音書のイエス・キリストなのです。

さて、そのイエスの最も興味深いエピソードは間違いなく十字架上の受難と復活。

福音書はこの受難物語と復活を語るために書かれていますが、四人の福音史家はそれぞれに救世主受難以前の様々なエピソードを物語ります。

わたしは福音書を読むのが好きなのですが、面白いと思うのは、イエスが何を行ったかか (例えば、死者を蘇らせたなどの奇跡) よりも、イエスがわかりにくい問題を例え話で語ってくれたもの。説話 Parables と呼ばれるものです。

第三福音書は、教会の伝承に基づけば、イスラエル民族の垣根を乗り越えてヘブライ人以外の人たちに、ユダヤ教の一派でしかなかったナザレのイエスの教えを世界宗教であるキリスト教として広めた使徒パウロと共に世界中を旅して宣教したと言う、医者のルカによって書かれた書。だからルカ伝と呼ばれます。

パウロと共に旅した医者であるルカによる福音書は、ユダヤ色濃厚なマタイやマルコ福音書とは違って、ユダヤ人以外にも分かりやすい親しみやすいエピソードがいっぱいで、特にこのルカ伝にしか書かれていない有名な「放蕩息子」の話はわたしの大好きな物語。

割愛された放蕩息子の説話

わたしはこの物語をアニメで有名な「ハイジ」から学びました。

放蕩息子の物語、ヨハンナ・シュピリ原作の「ハイジ」に出てくるのですが、アニメでは何故かこの感動的な場面はカットされています。

キリスト教要素を徹底的に切り取ったアニメのハイジは、残念ながら原作のエッセンスを全く伝えていません。

原作の持つ大事な宗教的メッセージを失くしても、物語としてはとても面白いので、世界中でいろんな言葉に翻訳されてイスラム圏でも視聴されているという日本を代表する名作アニメなのですが、キリスト教文化圏の本国スイスにおいては、あまりの大胆なアレンジゆえにテレビでの放送は見送られたそうです。

クララのおばあさんは原作における最重要キャラで、アニメの中でよりも原作では大活躍です

ハイジのお話をアニメでしか知らない方には、是非とも原作を読まれることをお勧めいたします。原作は児童文学の疑いなき古典名作です。

それでは原作より聖書物語が引用されている部分を著作権の切れた英語版より訳してご紹介いたします (原作はドイツ語なので重役になりますが)。

ハイジ原作第14章より

フランクフルトからアルプスに戻ったばかりのハイジとアルム爺。

 ...クララのおばあさまは神様は全てのことをわたしが思うどんなことよりも素晴らしくできると教えて下さったわ。わたしはおばあさまが教えてくれたやりかたで、これからずっとお祈りするの。神様がわたしがお祈りしたことを行って下さらなくても、そのときはそれがすべてがその時には一番いいことだって覚えておくの。おじいさま、わたしたちは毎日お祈りするわよね、そうじゃないと神様は私たちをお忘れになるわ。」
「もし誰かがお祈りするのを忘れたらどうなるんだい」と老人は呟いた。「ああ、そうだったらその人はうまくゆかないわ。私たちをお忘れになるのよ、その人が不幸せでみじめだったら、みんな同情しないわよ。きっとこういうのよ。あの人は神様から離れて行ってしまったんだ。あの人を助けることのできるただ一人のお方である神様が憐れんで下さらないんだからなって」
「それは本当か、ハイジ、誰がそういったんだ?」
「おばあさまがわたしにみんな教えて下さったのよ」しばらく間をおいて、おじいさんはこういった。
「そうだ、もしそんなふうにもみじめになれば、そしたらもう救いはない。神様が一度お見捨てになれば、もう誰も神様の元に立ち返ることはできないんだ」
「ちがうわ、おじいさん、誰だって神様のもとに戻ることはできるっておばあさまはおっしゃったわ。それでね、とても美しいお話がわたしの本に載っているのよ。ああ、おじいさん、まだこのお話を知らないのよね。だからおうちに帰ったらすぐにその本を読んであげるわ」

中略

おじいさんはお話を読み始める準備をしたハイジの隣に座らないといけなかった。おおきな抑揚をつけて、家では父親の牛や羊たちと幸福な暮らしをしていた放蕩息子のお話をハイジは読んだ。夕陽が差し込む中で、杖に寄りかかながら、おじいさんは挿絵を眺めた。

「ある日突然、息子は独立するために遺産を分けてもらいたがった。お金を父親にせびり、彼は出て行き、そして全て使い果たしてしまった。もう世界において彼には何も残されていなくなったとき、自分の父親が飼っていた素晴らしい牛などではなく、豚ばかりを飼う人の召使となった。彼の着ているものはぼろきれで、食べられるものは豚に与える餌から取られた抜け殻ばかりだった。彼は自分が捨てた良い家のことをしばしば思い、どれほどに彼の父親が自分によくしてくれて、そのことを感謝しなかったことを思い出した。彼は悔恨と懐かしさのあまりに声を上げて泣いた。
そしてこう独りごとを呟いた。お父さんのところに帰り、許しを請おう。彼が自分の以前の家に近づいてゆくと、父親は外に出て息子を出迎えた...」

「それでそうなったと思う?」ハイジは尋ねた。
「お父さんは怒ってこういうんじゃないかって思わないかしら。
『言ったとおりだったろう』と。」
でも聞いて。

「そして父親は彼を見て、思いやり、走り出して、首に手を回して抱きしめた。そして息子はこう語った。お父さん、わたしは天に対して、あなたに対しても、罪を犯しました。もうあなたの息子と呼ばれる資格はありません。
でも父親は召使たちにこういいました。最高の服を息子のために持ってきて息子に着せよ、そして指輪を指にはめさせて、靴を履かせよ。太った仔牛を屠り、祝宴を用意せよ、そして共に食べて楽しもうではないか!わたしの死んだ息子が再び生き返ったのだ。失われていた我が息子が見つかったのだ。そして彼らは食事を楽しんだのでした」

「美しいお話よね、おじいさん?」
ハイジの傍に静かに座っていたおじいさんにハイジは訊いた。
「ああ、ハイジ、そのとおりだ」とおじいさんは真剣な眼差しで挿絵を静かに見ているハイジに語りかけました。
「こんなにも放蕩息子は幸せそうよ」と絵をさし示すハイジは言いました。

数時間後、おじいさんは梯子を上って、気持ちよさそうに寝ているハイジのもとへと行きました。ランプをかざして眠っている子を、長い長い間、見つめていました。ハイジの小さな手は閉じられていて、バラ色の頬は穏やかで幸せそうでした。
老人は手を合わせました。大粒の涙が頬を伝わり落ちました。そして低い声で言いました。
「お父さん、
わたしは天に対して、
あなたに対しても、
罪を犯しました。
もうあなたの息子と呼ばれる資格はありません」。

ハイジ英語版の筆者による拙訳

わたしはその昔、中学生の頃、このハイジの記述を読み、心から感動しました。アニメ版のお話しか知らなかったからです。

放蕩息子の物語を街で読み書きを覚えてきた孫のハイジから聞いて、アルム爺は心を入れ替えて、もう何十年と通っていなかった街の教会へとハイジと共に向かうのです。

原作の中でも最も素晴らしい場面。

しかしながら、、実はハイジ版放蕩息子からは聖書の最も大事な部分が抜け落ちているのです。

原作にさえも含まれなかった放蕩息子の兄の物語

小学生の年齢のハイジでも読める子供向きの挿絵入りの本を読んだという設定なので、ハイジの物語としては全く問題ないのですが、聖書の中の放蕩息子の物語には続きがあるのです。

放蕩息子の挿話を口語訳聖書から引用してみます。このお話を物語るのはイエスです

ルカ伝第15章11節から32節。

「ある人に、ふたりのむすこがあった。
ところが、弟が父親に言った、『父よ、あなたの財産のうちでわたしがいただく分をください』。

そこで、父はその身代をふたりに分けてやった。

それから幾日もたたないうちに、弟は自分のものを全部とりまとめて遠い所へ行き、そこで放蕩に身を持ちくずして財産を使い果した。

フォン・ホントホルスト「陽気な仲間たち」1622年
放蕩息子をたぶらかして財産を盗み取る連中

何もかも浪費してしまったのち、その地方にひどいききんがあったので、彼は食べることにも窮しはじめた。

そこで、その地方のある住民のところに行って身を寄せたところが、その人は彼を畑にやって豚を飼わせた。彼は、豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいと思うほどであったが、何もくれる人はなかった。

そこで彼は本心に立ちかえって言った
『父のところには食物のあり余っている雇人が大ぜいいるのに、わたしはここで飢えて死のうとしている。
立って、父のところへ帰って、こう言おう、
父よ、
わたしは天に対しても、
あなたにむかっても、罪を犯しました。
もう、あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。
どうぞ、雇人のひとり同様にしてください』。

そこで立って、父のところへ出かけた。まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した。

むすこは父に言った
『父よ、
わたしは天に対しても、
あなたにむかっても、
罪を犯しました。
もうあなたのむすこと呼ばれる資格はありません』。

ムリーリョ「放蕩息子の帰還」1667-1670

しかし父は僕(しもべ)たちに言いつけた、
『さあ、早く、最上の着物を出してきてこの子に着せ、指輪を手にはめ、はきものを足にはかせなさい。
また、肥えた子牛を引いてきてほふりなさい。
食べて楽しもうではないか。
このむすこが死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから』。

それから祝宴がはじまった。
ところが、兄は畑にいたが、帰ってきて家に近づくと、音楽や踊りの音が聞えたので、ひとりの僕を呼んで、
『いったい、これは何事なのか』と尋ねた。
僕は答えた、『あなたのご兄弟がお帰りになりました。無事に迎えたというので、父上が肥えた子牛をほふらせなさったのです』。

兄はおこって家にはいろうとしなかったので、父が出てきてなだめると、兄は父にむかって言った、
『わたしは何か年もあなたに仕えて、一度でもあなたの言いつけにそむいたことはなかったのに、友だちと楽しむために子やぎ一匹も下さったことはありません。それだのに、遊女どもと一緒になって、あなたの身代を食いつぶしたこのあなたの子が帰ってくると、そのために肥えた子牛をほふりなさいました』。
すると父は言った、
『子よ、あなたはいつもわたしと一緒にいるし、またわたしのものは全部あなたのものだ。しかし、このあなたの弟は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのはあたりまえである』」。

ルカによる福音書 15:11-32 口語訳

「ハイジ」では戻ってきた放蕩息子は父親に許されるところで物語は終わりますが、原典である聖書では放蕩息子の兄は不平を述べるのです。

弟は貰った財産を使い果たして物乞いとなって帰ってくると、帰還を盛大に祝って許された、今まで真面目に生きてきた自分はこんな祝宴など一度もしてもらったことはない、不公平であると。

聖書を読む多くの人が戸惑う記述。

放蕩息子の挿話は非常に有名にあるにもかかわらず、この部分は理解されているとはいえない。特に宗教的な考え方を学んだことのない方には難しいのです。やはりこれは、いわゆる悪人正機という考え方をイエスは語っているのだと私は考えます。

善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや

という親鸞聖人の歎異抄(鎌倉時代後期、13世後半に成立)の言葉は必ずしも聖書由来ではないですが、あらゆる優れた宗教者はこの境地へとたどり着くものです。

ルカ伝はイエスの死後100年以内の2世紀ごろに編纂されたと言われています。

なんでイエスの死後それほどしてから福音書が書かれたのか。まさに歎異抄の成立物語とおなじこと。

親鸞の言葉を集めた歎異抄は弟子の唯円によって編纂されましたが、それは親鸞が自分の教えを曲解して広めていると勘当破門した息子の善鸞の異端の教えと正統な自分の教えを区別させるためでした。

数多くの聖書外典や偽典がその存在することもそうした理由からです。ヨハネによる福音書に影響を与えた異端であるグノーシス派もまた数多くの外典を作ったのだと推測されています。

放蕩息子である弟はこの後、余生を信仰のために費やしたり、または絶対的な献身を尽くして無私の人生を生きるでしょう。生の意味を悟ったからです。

兄はきっと真面目に当たり前の人生を生きるだけで、何かがあっても誰かのために自らの命を投げ出したりするようなことはしないのではないでしょうか。

人生は不公平でしょうか?

弟はやがて兄に仕えて償いをすることでしょう。
そして償われたとき、血を分けた兄弟を心から赦す日が兄には訪れるのでしょうか?

放蕩息子の弟には、人生の意味を悟るまでの放蕩無頼の若き日を過ごしたという大きな代償。

ここから二人の別の物語が始まるのだと思います。

人生とは、信仰とは、の意味を考えさせる深い物語なのです。

レンブラントの放蕩息子

放蕩息子は有名な物語ですので、数多くの画家によって描かれていますが、最高傑作は巨匠レンブラント・ファン・レイン (1606-1669) の最晩年の作品。

背後の闇の中から見つめている不気味な男に注目してください。

この男こそがこの放蕩息子物語の真の主役。もちろん放蕩息子の帰還を喜ばなかった、怒りに溢れたまなざしの兄の姿。

レンブラントにしか描けなかった放蕩息子物語の真実がここにあります。

製作されたのは1661–1669年。死の年まで描かれていたようです。

許す、許される、とは?

ハイジの物語に含まれなかった放蕩息子の兄。
アニメが含めなかったアルム爺の本当の改心物語。

アニメではハイジがフランクフルトから帰宅するだけでアルム爺は心を開くようになるのですが、やはりそれだけでは説得力に欠けます。でも子供の読む物語に放蕩息子の兄を登場させなかったシュピリの配慮はよく理解できます。

放蕩息子を許した父。
弟を許せない誠実に父に尽くしてきた兄。
父に許されたが兄には許されぬ放蕩息子。

三者三様の人生。

本当に誰か罪を犯した者を許すことは難しいのです。どれほどに罪びとが悔い改めていても。

アニメ世界名作劇場における「許し」

1982年の世界名作劇場作品「南の虹のルーシー」という作品では、ほんのイタズラ心から背後から脅かして、川縁に立っていたルーシーの兄ベンはなによりも大切なラテン語の文法書を川に落としてしまいます。

激昂した12歳のベンは8歳の妹のルーシーを平手で殴ります。

故意ではないとはいえ、ルーシーは犯してしまった罪の深さを知り、何度も何度も泣きながら謝るのです。でも兄は妹を許しません。

ベンは最終的には許すのですが、ルーシーはその言葉は口先だけのものであると兄の冷たい態度から知っていて、ルーシーは深い良心の呵責ゆえに病気にさえなってしまうのです。

ベンもまた、口先だけでしかルーシーを許してはいなかった自分の非を悟り、妹に辛くあたっていたことを恥いるのです。

キリスト教児童文学が原作の、「南の虹のルーシー」の次の作品、1983年の「アルプス物語 わたしのアンネット」では、「罪と許し」というテーマがさらに深く追求されます。

主人公アンネットと仲のよかったルシエンはアンネットの弟のダニーをケガさせてしまってダニーは歩くことができなくなります。アンネットはルシエンを許さずに、ルシエンは良心の呵責に深く苦しむのです。

ダニーとアンネット

わたしはハイジ原作の、息子夫婦に辛く当たり、やがては二人を死なせてしまった良心の呵責ゆえに人嫌いになって心を閉ざしたアルム爺が悔恨の涙を流す場面が大好きです。

ハイジのアニメにこの場面が描かれなかったことが、後にもう一つの「アルプス物語」が生まれるきっかけだったのではと私は思わずにはいられません。

同じアルプスの物語でも、全く違ったテーマを追い求めてゆく物語なのです。「アンネット」が「ハイジ」ほどの知名度も人気もない作品なのは仕方がありません。それほどに深いテーマを一年もかけて語り続けた作品なのですから。

ほんの小さなサポートでも、とても嬉しいです。わたしにとって遠い異国からの励ましほどに嬉しいものはないのですから。