長命種族と短命種族(2):長命種族が学ぶ人生の意義
長命種族と短命種族の違いと不老不死のむなしさを語った前回からの続き。
日本というアニメと漫画の国は(世界においてはそう知られています)数多くの秀逸なファンタジー物語を生み出してきました。
「ヨーロッパ中世に魔法が存在して竜などの魔物が人類と共存していたら」という設定の世界観を持つ物語。
と訝られる方もおられますが、外国の文物や文化を取り入れて自己流に改良することは日本文化のお家芸。
和洋折衷の現代的な粋が日本流中世魔法世界ファンタジーなのだと思います。
漫画にアニメにイラスト。
最近では画像生成AIでも大人気。
日本人ほどに画像生成AIが大好きな人たちはいないのではとおもわれるほどに、日本由来のファンタジーイラストAI画像がインターネット上にはあふれています。
画像生成AIを使えばエルフ耳のかわいい女の子もあっという間に生み出せてしまう。
アニメイラストも日本人が作ると最高に「Kawaii=可愛い」。
Kawaii は英語のスラングにもなっています。
日本のソフト文化は世界中で愛されています。
短命種族の仲間が死んでしまった後に生き残ったエルフの物語:「葬送のフリーレン」
さてエルフです。
エルフはもともと、北欧神話などから伝えられた精霊なので、白人種で瞳の色は青かったり緑がかっているのが決まり。
選民思想を持っていて、基本的に排他的なので、他の種族から畏敬されたり敬遠されたり軽蔑されたりしていています。
なので特徴的な長い耳のために耳長族と軽蔑的にも呼ばれます。
そんなエルフらしさを学べるのが大人気漫画で現在アニメ放送中もされている「葬送のフリーレン」。
原作は2023年12月現在でコミックス12巻まで刊行されていて、作品は今もなお連載中。
魔王を倒す旅に出る勇者や魔法使いたちの物語は、ボートゲームだった「ダンジョン・アンド・ドラゴン」が始まりらしいのですが、これもトールキン創作にインスパイアされたゲームでしょう。
その後、「ダンジョン・アンド・ドラゴン」の世界観を引き継いだ類似作品は山のように作られたのでした。
この世界観をわたしは幼少期にファミコンゲームの「ドラゴンクエスト」シリーズから親しんだのでしたが、「フリーレン」がそんな類似作品と一線を画すのは、ラスボスの魔王を倒した人間の勇者たちが死んだ後のことを描いているということ。
「フリーレン」がユニークさは、勇者のパーティーを組んで魔王を倒しに行く物語ではなく、魔王を倒した後の後日譚であること。
エルフは長生きなので、仲間の人間たちが80年ほどで天寿を全うしてしまっても、ずっと年も取らずに生きている。
ファンタジーが中世世界を舞台にしているのは暗黒時代と呼ばれたように、文化や文明の発展発達が停滞してひたすら同じような時間が変化することなく流れていったからでしょう。
文明力では紀元前前後のローマ帝国時代の方が後年の中世ヨーロッパよりも優れていました。
帝国崩壊後は小国に分裂して小競り合いを繰り返してゆくことで、統一国家が行えたような大国家事業もなくなり、共有すべきスタンダードがなくなってしまったために、それぞれの国が自前のやり方で、それこそ車輪を発明し直すような時代と労力の無駄を繰り返して、中世世界では文明力は衰えたのでした。
文明力は継承されないと退化して消滅してしまう。この考え方は大事です。
この世界観が中世ファンタジーの絶好の土壌となったのです。
中世の時間感覚は現代のそれとは異なり、失われた文明文化の再発見が多くのファンタジーの鍵となるのです。
未来の技術を発明するよりも過去の技術の再発見。温故知新とも言えるでしょうか。
さてエルフ、人間には長い十年という時間でも、エルフにはほんの数時間のような時間が過ぎ去ってしまう。
「葬送のフリーレン」では、人間の人生の密度の濃さを理解しないエルフのフリーレンが、魔王を倒したのちの世界で人間の仲間たちが死んでしまった後に、生きることの意味をかつての体験を懐古することで学ぶことがテーマ。
だから物語はドラマチックに展開しないし、淡々とした日常の描写がひたすら繰り返されてゆく。
魔王軍との残党たちとの戦いも描かれますが、基本的に物語は懐古の旅。
そんなわけなので、原作に忠実なアニメが作られたときには、視聴者の評価は、退屈で仕方がないというものと、原作そのもので素晴らしいというもので、完全に評価を二分したのでした。
退屈だと言われる理由は、ラスボスを倒す旅に出る、正統な中世魔法ファンタジーが如何なるものかを知っていないと、後日譚の意味深さがわからないからです。
人生は冒険の終わった後の方が長いと勇者ヒンケルの口から語られる。
そうなのです、人生百年時代においても、仮に65歳で仕事を引退できても、その後の人生を持て余してしまうことがよくあるのです。
人生で最も輝いていた時間が仮に10代にあったとすれば、残りの人生は余生でしかない。
人生の頂点ってどこにあるのでしょう。
人それぞれなのだけれども、多くの人は若かった頃のことを年取って物語る。
楽しかったことが過去のことだとすれば、残りの人生の意味は?
エルフの人生が仮に1000年だったとすると、長命のエルフはかつてほんの十年ほどを一緒に過ごした人間という得体の知れない生き物の生き方について何を覚えているのだろう?
不老ゆえに少女の容貌を千年以上も保ち続けているフリーレンは短い命の人間たちの生き方がわからない。
あまりに人生が長いので、明日必ずこれをしないといけないということがない。
短い命の人間たちは「今日しかない」「今日これを成し遂げないといけない」と必死。
寿命が異なることで自分の人生設計と世界はこれほどに違ってしまう。
「葬送のフリーレン」は長すぎる人生を生きてゆくかもしれない我々には、他人事だといえない「人生は暇である」という問題提起を改めてしている物語にわたしには思えてならないのです。
魔王討伐物語の原型は「桃太郎」
典型的な魔王退治物語は昔話の「桃太郎」そっくりです。
「吉備団子」というカリスマの力に惹かれてついてきた、イヌ・サル・キジやちとパーティーを組んで、勇者桃太郎は鬼たちを倒す。
昔話はお爺さんお婆さんのもとに宝物を持って帰ってきてめでたしめでたしなのだけれども、仮にイヌサルキジの他に長命の亀がパーティーに含まれていれば?
亀はイヌ・サル・キジに勇者桃太郎が老衰で死んでも、長寿ゆえに生き残る。
亀はかつての仲間たちの物語をいかにして物語るのだろうか?
亀には桃太郎たちのしていたことの意味がよく分かってはいなかったのでは?
わたしにはフリーレンは亀に思える笑。
ドラマチックなドラマが欠如しても「フリーレン」が面白いかどうかは、桃太郎ならぬ典型的な魔王討伐魔法ファンタジーがどんな物語であるかを知っているか知っていないかで決まるのでしょうね。
だからファンタジーに親しんでいる人にはとても面白いし、そうでなければこの単調な笑いのない物語はわからない。
フリーレンがミミック(宝箱に仕掛けられた罠)に毎回引っ掛かるのは笑えないし。
「葬送のフリーレン」は不思議な物語ですね。
亀ならぬエルフに短命の激しやすくて冷めやすい人間のことなど理解可能なのだろうか。
「フリーレン」の連載はまだまだ続きそうなので、今後の展開に期待ですが、昨日のことではなく明日のために生きてゆくことが長生きの幸福の秘訣。
これをきっとフリーレンは学ぶのだと思う。
長命種族エルフと短命種族の人間が一緒に暮らすと
最近見た素晴らしい2018年のアニメ映画
はエルフのように不老不死のように長命の種族イオルフの少女マキアが母親を失った人間の赤ん坊エリアルを育てる物語でした。
マキアはエリアルがどんなに大きくなっても、いつまでも少女の姿のまま。
やがては赤ん坊だった少年は少女よりも大きくなって最後には天命を使い果たして彼のエルフから見れば短すぎる寿命を静かに終える。
エルフにとって、人間の子どもを育てたことや、長命を受け継がない人間の子を産んだことなど、ほんの小さな出来事。
でもその短い人生の中で体験したことは本当に尊いことなはず。
長命族にだって愛おしい思い出があるはず。
人生は質の高さによって価値が決まる。
人生にも密度がある。
だれだって子供のころの時間は密度が高い。
好奇心旺盛で見ることすることのすべてが初めて新しいものだから。
思いの深さが同じ時間の長さで得られる体験を深くも浅くもする。
思いの深さもいつまでも続かない。今持っている希望や欲望も程よく満たされないとなくなってしまう。
きっと不老不死なひとはある情熱をいつまでも保ち続けてはいられない。
ひとはある情熱をいつまでも燃やし続けてはいられない。
わたしは十五歳の頃にやりたいと思っていたことでできなかったことを第二の人生に入ったならば、やってみたいと思っていた。
誰でも人生の後半には、若かった頃にやりたかったことをやろうとするのだという。
でも幸運なことに、若かった頃にやりたかったことは最近になってほとんどできるようになったし、やってしまったかもしれないと思っている。
不老不死だときっと、人生百年も生きれば、生きていることに退屈することだろう、飽きてしまうことだろう。
精神の成長速度が人よりもゆっくりならば長寿種族と短命種族はきっとわかりあうことはない。どこか映画の「ベンジャミン・バトン 数奇な人生」にも似ているかも。
宮崎駿の不老不死
宮崎駿の漫画「風の谷のナウシカ」に出てくる人の望む者に姿を変えることが出来る不老不死のヒドラのことも思い出しました。
どんな体だとしても生きている限り精一杯生きたい命だからこそ、人の命は尊いのだというのが、宮崎駿の漫画「風の谷のナウシカ」のメッセージでした。
自分は猛毒の渦巻く腐海のほとりに生きて行けるように改造された人間たちであるということを学んでも、ナウシカたちは儚い人生を自分たちのあるがままの姿で、シュワの墓所の長寿の秘術に頼らないで、生きてゆく。
長生きするわれわれの人生の後半に待っているものは、きっとエルフたちが苦しんだ倦怠と退屈。
または八尾比丘尼が苦々しく味わった数多くの別れ。
人は知れば知るほど、世界に対する好奇心を失ってしまう。知り屈してしまっては駄目なのだ。人は未知なるものを求めるし、道を学ぶと脳が喜ぶのだ。ミステリー小説ほどに脳が刺激されることはない。
新しいことが学べないと人生は退屈になってしまう。
十一歳のアン・シャーリーの名言
孤児だったために、想像力の世界に生きていた赤毛のアンは、この世界のことを半分でも知り尽くしていたら、想像力を働かす余地がなくなるという。
アンの百倍は生きたようなエルフにとって未知なるものはまだ残されているのでしょうか。
命がどんなに長かろうとも、未知への好奇心を失ってしまった密度の低い人生ならば、どんなに長くても意味はない。
好奇心のない人生は退屈だ。
長い人生を生きるエルフの人生には、こうであってはいけないという教訓がたくさん詰まっているように思えるのです。
長生きするわたしたちもまた、フリーレンやマキアのように、いなくなってしまった短い命を終えてしまった愛していた人たちの一生をのちになってから追体験することで、彼らが自分の人生の中に存在していた意味を考えるのでしょうか。
たくさんの思い出を抱えて生きてゆくことはある意味、豊かな人生の証。
年取った人は楽しい思い出を語ることほどに楽しいことはないそうだから。
今を大切にして生きる。それがいつかとても尊い思い出になって記憶として結晶化される。生きるってそれでいいのかな。
「葬送のフリーレン」のフリーレンはきっと何百年もかけてそのことに気がつくのかもしれない。
長命種族は精神的成長も緩やかなのかもしれないけれども。
スローライフなエルフに、人生百年生きれそうなわれわれは近くなってゆくのだろうか。
長生きしすぎて生きることに飽きたら人は死を選ぶ。
病気していても、していなくても。
生き甲斐のない人生なんて暇つぶしの意味のない人生なのだから。
ただ自分一人のだけのために生きてゆくのならば。
余った人生は誰かのために使うといい。
でもなかなか人はそんなふうに立ち返れない。
生きがいが必要
「晩成」という言葉で、人生の終わりのころに精神的な成長を完成させるということを人生の理想とした作家がノーベル賞作家のヘルマン・ヘッセでした。
若かった頃に読んだヘッセの言葉の意味が最近になってようやくわかるようになってきたかもしれません。
人生の後半はゆっくりと生きてゆけばいいのだろうか。
いやまたまだ知らない新しいことに取り組むべきなのだろうか。
人生が不老不死ならば、きっと人生は退屈で仕方がない。
幸せの定義は数々あるけれども、何かに夢中になれるということが幸せの重大要素。
漢字そのままに夢の中にいるように何かのことを必死に考えていることは何よりも楽しい。
そしてそんな楽しみは永遠には続かない。
だから人偏に夢で「儚い」という言葉にもなる。
不老不死でないからこそ、老いに意味があり、夢中で生きて死んでゆくことに意味がある。
Stable Diffusionで作り出した、尖った耳の長命族エルフや短身族ドワーフや小人族ホビットの画像を眺めていながら、こんなことを考えていました。
妖精の類であるエルフに見紛うばかりの美しい少女の美も、本当に儚いものだし、強い肉体を持つ男性の筋骨美もいつしか衰えてゆく。
何物もとどまることを知らない。
この世の理逆らった空想の産物の不老不死のエルフや、AIが限りなく発達してゆけば可能になりそうな銀河鉄道999の機械人間たちを知ることで、本当に密度の高い人生とは何であるのかがわかるのだと思います。
次回はつい先ごろ、ようやく完結した名作「ダンジョン飯」。
長い時間をかけて丁寧に仕上げられた作品でした。
大団円も具合もまた、題名に相応しい「食べる」「食べたい」というテーマで締め括られました。
しかしながら、一見異色のグルメ漫画の体裁を取りながらも、この物語でも長命種のエルフの女性マルシルは、かけがえのない友達となった短命種の人間との寿命差を克服したいと願います。
「ダンジョン飯」もまた寿命をめぐる物語なのです。
ほんの小さなサポートでも、とても嬉しいです。わたしにとって遠い異国からの励ましほどに嬉しいものはないのですから。