見出し画像

政治的暗喩が込められていたバロック音楽のオラトリオ

ドイツ人作曲家ゲオルグ・ヘンデルは二十代後半にイギリスに帰化して正式にジョージ・ハンデルとなりました。

そのジョージ・ハンデルの畢生の大作と呼ばれるオラトリオ「メサイア」は非常に謎めいた作品です。

疑わしきメサイア

まず第一に、オラトリオというイタリア語のジャンルなのに、宗教的には非常に卑俗な英語歌詞で歌われるのです。Every valley shall be exalted とか、Rejoice, rejoice とか、初めて聞いた時には笑ってしまいました。クラシック音楽なのにあまりにも身近な英語すぎて笑。クラシック音楽にはイタリア語かドイツ語、またはラテン語と思い込んでいたためです。

英国贔屓のクラシック音楽ファンの多くは、オラトリオ「メサイア」を数あるクラシック音楽の中の最高傑作とさえ呼びます。

日本のクラシック音楽ファンの多くはハンデルと同時代のバッハのオラトリオ「マタイ受難曲」を全てのクラシック音楽の中の最高傑作と見做しますが、これは全く世界基準ではありません。

そして次に、オラトリオ「メサイア」はキリスト教の救世主イエス・キリストの生誕を描き出した作品のようで、実はキリストの生誕を祝う作品というわけでもないのです。

オラトリオ「メサイア」はクリスマスのために書かれたオラトリオではありません。

歌詞を読んでゆくと、歌われるのはほぼ旧約聖書の救世主の到来を告げる記述が大半。預言者イザヤの言葉に始まり、やがては来るべき救世主が辱められて痛めつけられるという十字架上の処刑を預言したという有名なくだりも出てきます。

そして新約聖書のルカ福音書の救世主誕生を予見した羊飼いたちの物語も出てきます。いわゆるクリスマスの教会のイエス生誕に至る記述です。

でもオラトリオ「メサイア」はイエスの誕生を直接的には歌わないし、仄めかすばかり。おかしなことにキリスト教にとって根幹となる教義、イエスの十字架上の死と復活を歌わないのです。

言及はしても、ミサ曲で必ず歌われるニケーア信条のような壮絶な死と復活が語られないのです。第三部で最後には偉大な救世主を褒め称える「神の子羊 Worthy is the Iamb」が歌われて、超大作のオラトリオ「メサイア」は幕を閉じます。

確かにオラトリオ「メサイア」は救世主の到来の預言から始まり、救世主が訪れて預言の成就、神が褒め称えられるのですが、どこか宗教音楽として歪なのです。

第二部の終わり、ハレルヤコーラスの前に救世主の受難が歌われますが、その語りも中途半端なまま打ち切られて、いきなりハレルヤコーラスになって第二部が終結します。なんとも流れの良くない構成で、違和感を感じずにはいられません。

さらには調べてみると、オラトリオ「メサイア」が初演されたのはハンデルの地元の大英帝国の首都ロンドンではなく、ロンドン政府と政治的に激しく敵対するアイルランドの首都ダブリンだったのです。なんともきな臭い話。

初演時にはこの作品は A Sacred Oratorio とだけ呼ばれていたのでした。ある聖なるオラトリオという意味。オラトリオは舞台上で歌手たちが演技をしないで上演する宗教的な作品、オペラではない宗教的劇場作品という意味で、初演時のタイトルはやはり曖昧模糊としたものです。

オラトリオ「メサイア」は救世主を描いた音楽作品なのですが、イエスキリストの生涯を描いたにしては、描き方があまりにも非正統的。斬新でしょうか?

このように、ハンデルのメサイア、自分にはなんとも納得のゆかない作品だったのですが、ようやく作品に隠された意味を理解することができるようになりました。

この本です!

日本ヘンデル教会の運営を長年なさっている音楽学者の三々尻さんが2018年に書かれたヘンデルに関する著書を読む機会を得ましたが、三々尻さんはヘンデルのオペラもオラトリオも「全て」政治的意図を含んだ政治宣伝的な作品だったのだと書かれていて、まさに目から鱗でした。

長年のハンデルへの疑問も氷解したのでした。ハンデルはプロパガンダを音楽を通じて伝える専門家だったのです。

ハンデルの公式伝記は胡散臭い。

雇い主のハノーヴァーの殿様から休暇をもらって若いヘンデルはイギリスにゆき、英国に無断で留まりながらも英国最高の権威であるアン女王と謁見を許されています。

やがては女王崩御の後に英国王となったハノーヴァーの殿様に無断欠勤を咎められながらも、新しい王様を喜ばせるために「水上の音楽」を船遊びの場で披露して再び元の鞘に戻った、などハンデルの伝記は空々しいフィクションで溢れているのですが、全てはハンデルがプロパガンダ工作のプロだったと認識することで説明できるのです。

ゲオルグ・ヘンデルは大変に知能指数の高く、人との交際能力に富み、語学にも堪能。そして身分の低さにもかかわらず、最上級の王侯貴族との交流を許される音楽家という立場にありました。音楽能力以上にヘンデルがハノーヴァー選帝侯の宮廷に雇われた理由は、ヘンデルの対人能力の高さであったといわれています。

まだヘンデルだった頃の若い彼はイタリアでの音楽修行を終えた後、ハノーヴァー宮廷へ就職する紹介状をイタリアの有力者から得るのですが、そこにはまず音楽能力云々よりも、ヘンデルが非常に人との交渉に長けている、つまり諜報員として役立つと書かれていたのでした。

十八世紀欧州の当時、情報は大変に貴重なもので、敵国の最新の宮廷の内情などを知らせてくれる人間をスパイとして送り込むことは当たり前で、いろんな宮廷に出入りして情報通となる優れた音楽家は重宝されました。

つまりヘンデルは、ハノーヴァー選帝侯の政治的諜報員、工作員として雇われていたのです。英国ジョージ王となる予定の選帝侯にイギリス王室の内情を伝えて、オペラというメディアをプロパガンダのために駆使して世論に影響を与える立場にあったのです。だからヘンデルは雇用されてすぐさま英国に渡ったのです。

ヘンデルが選帝侯のスパイだったなど、荒唐無稽な漫画的なトンデモ話と思われるかもしれませんが、ここから三々尻さんの説を紹介することで、ヘンデルの作品に込められたメッセージを読み解いてみましょう。

バロック絵画の寓話性

わたしは三々尻さんが著書において語られなかったバロック美術の世界のアレゴリーを思い出しました。ヘンデルのバロック音楽は時代こそ少しばかりバロック美術の世界からは遅れているとはいえ、やはり同じバロック精神の上で制作された作品なのだと感じ入りました。

フェルメールの寓話

バロック音楽は、十七世紀イタリアの巨人モンテヴェルディによって確立されて、百年以上に渡り、モンテヴェルディ的なオペラ作品がヨーロッパの劇場を支配しましたが、その偉大なバロック音楽芸術を締め括ったのが、ゲオルグ・ヘンデルでありヨハン・セバスチャン・バッハだったのです。

モンテヴェルディの同時代人の画家フェルメールやレンブラントやルノワールの絵画的共通点は、絵の世界に仄めかしがあること。

果物が描かれていると生の短さが暗示され、本や地球儀と一緒に描かれる人物は知恵と学問に優れていると暗示するというアレゴリー。絵に書き込まれたさまざまな小さなものには全て意味がある。バロック絵画は謎解きが楽しいですよね。

歪んだ頭骸骨以外にも、楽器など、儚さのオブジェに溢れるホルバインの名画

ジョージ・ハンデルの作品にはバロック絵画的な暗示が込められているのです。もちろんオラトリオ「メサイア」も。

バロック時代の音楽家の価値とは

十七世紀十八世紀の作曲家の仕事は、ただ単に音楽を王侯貴族のために演奏するだけではありませんでした。王侯貴族に雇われた作曲家はやんごとなき雇い主の日常的または非日常的行事のために音楽を用意するのがまず第一の仕事。

音楽は日常には欠かせない。録音されたものを再生するわけではないために、音楽を機会ごとにプロデュースするわけです。いつでも生演奏。でも楽師が足りなければ今いる楽師たちだけで演奏できる音楽を作曲しないといけません。

クラシック音楽にはときどきおかしな編成の音楽がありますが、それは利用できる演奏家がその都度限られていたからです。合唱のないオペラ、フルートのない交響曲やヴァイオリン奏者のいない合奏協奏曲など、そういう事情から生まれたものでした。

例えば、エステルハージ家の宮廷楽長を長く勤めたハイドンの伝記を読むと、楽長として人手不足で財源不足の楽団をいかにして運営するかの苦労話をいくらでも見つけることができます。

そしてさらには、結婚式などの特別な行事の音楽を用意します。

そして上演されるのはオペラなど物語のあるもの。

題材は結婚式に相応しいもので、オペラの内容は結婚する相手を仄めかすものでなくてはならない。苦労して花嫁を勝ち取ったのならば、苦難の上に勝利する英雄物語など。つまりオペラの主人公は花婿というわけです。花嫁がはるばる外国からやってくるならば、やはりそれに相応しい物語で最後にはハッピーエンドじゃないといけない。全て関連付けないといけない。そして見ているものは何が仄めかされているか周知でないといけないのです。これがバロック!

でも結婚式のオペラをするにしても歌手が足りない良い演奏者がいないでは折角の作曲も成果が出ない。なので超一流のプロデューサーである音楽監督は周りを動かして優れた台本作者を探し、優れた音楽家たちを集めて物凄い演出を作品上演に実現させるというわけです。

三々尻さんはバロック時代の音楽家の能力を三段階に設定して

  • レヴェル1:限られた人材やリソースで音楽上演を実現させることが出来るという音楽家として最低限のことができるレヴェル。足りない資金と人材で苦労して上司の悪口を言い続けて不遇な生涯を送ったバッハは残念ながらこのレヴェル。ザルツブルクの小さな宮廷に不満を持ち続けて解雇された若いモーツァルトもこの範疇の音楽家でしょう。

  • レヴェル2:雇用者が望むメッセージを作品にこめて上演させる。戴冠式などの就任記念式典の音楽にアレゴリーを盛り込めると立派なバロック音楽家。依頼主を喜ばせる音楽を書き続けることが大事。このレヴェルにはヴェニスの劇場で活躍したヴィヴァルディや、ポルトガル・スペイン宮廷のドメニコ・スカルラッティや父のアレッサンドロ、そしてドイツの当時の大物テレマンやハッセも。また生前には欧州最高の音楽家と称えられた後年のサリエリもこの部類。楽長職三十年のハイドンも同様。

  • レヴェル3:バロック音楽の最高レヴェルの音楽家は、不可能を可能にします。王妃を讃えるオペラを上演するのに世界最高の美声が必要だとすれば、ありとあらゆる手段を使って世界最高の美声と歌われた去勢歌手ファリネッリを無理矢理スペインからイギリスへと呼び寄せ、無理な日程な興行でも、パトロンの力を駆使して金の力で不可能な公演を実現させる。もちろんレヴェル1やレヴェル2の仕事も完璧にこなした上でです。十八世紀世界最高の音楽プロデューサーとはハンデルなのです。

という基準を定めています。音楽家の価値は、作品を作る能力以上に、いかにイヴェントを成功できるか、雇用者の望むプロパガンダビジネスを成功させるかの手腕において定められていたのでした。

作品の出来栄えで音楽家が評価される現代の作品中心主義という考え方はバッハやハンデルの時代にはなかったのです。

それでは、どうしてヘンデルが十八世紀の基準では史上最高で、作品レヴェルでは後世において史上最高の音楽家とされながらも生前には二流三流の地位に甘んじたバッハという二人の最高傑作オラトリオを比較してみて論じましょう。

ハンデルのメサイアをめぐる政治事象

ヘンデルもといハンデルはハノーヴァー王朝初代のジョージ一世直属の諜報員としての副業を生涯続けた優秀な音楽家でした。フリーランスというスタンスでしたが、王室からかなりの金額の年金を生涯受け取っています。

諜報員だったという物的証拠はありませんが、ハンデルの全ての劇場作品は政治的プロパガンダのために作曲されたという状況証拠が存在します。

こういうわけです。

スチュアート王朝最後の子供のいないアン女王は、傍系で遠縁のドイツのハノーヴァー選帝侯ゲオルグを次期英国王に指名。

若いヘンデルを寵愛したアン女王

当然ながら英語もろくに喋れないドイツ人の王様をイギリス人は喜ばない。

英国には名誉革命という無血革命において、現役の王様をイギリスから追い出したという黒歴史がありました。押し出されたスチュアート王朝の王様ジェームス2世の子孫は大陸のフランスにおいて存命。

従ってドイツ人英国王を歓迎しないスチュアート王朝支持者たちは、ジェームス王 (フランス読みでジャコブ王)の系統を復活させようと活動してジャコバイトと呼ばれていました。

ですので英国ジョージ王となる予定のハノーヴァー選帝侯は音楽家ヘンデルを極秘の外交官のように送り込んで、ジョージ王が受け入れられるかどうかの世情を知るために、

外国から英雄がやってきて、危急存亡の秋にある祖国を救う物語

をオペラにしてヘンデルに上演させます。

オペラ「リナルド」です。このアリアで現在でも知られています。


ヘンデルの音楽は成功して、知識人は作品にこめられた意図をすぐに理解しました。

反応が悪くないことを確認したジョージ王はやがて英国王に即位。

ですのでジョージ王が英国に住むようになってもヘンデルが王の勘気を買うなどあり得ないわけです。有名な「水上の音楽」は王に望まれて作曲されたものでした。

作品のこうした政治的意図などについて書き残されたものは当然ながら存在しません。当時の人ならば誰もが理解した政治的ニュアンスも後世忘れ去られましたが、制作した側もこういう目的で作品を書いたなどとは書き残しません。

プロの諜報員のように身分を隠して両陣営に行き来したヘンデルはそうしたものはなにも書き残していないところか、英国時代のほぼ全ての自筆譜が今にも残るヘンデル(ハンデル)の政治的発言は後世には一切書き残されてはいないです。

明らかに意図的証拠隠滅の匂いがします。モーツァルトギャンブラー説同様に、誰でも自分に不都合な証拠は残さないものですから。美食家で毒舌で社交好きなハンデルなのに、政治に関する言葉は皆無なのです。

ハンデルと名乗るようになったヘンデルは、王室を讃える作品や欧州の政治的問題を浮き彫りにして世論を問う作品 (例えばオペラ「ジュリアスシーザー」。史実が目的に応じて改ざんされています) などを書き、さらには表向きにはフリーランスという立場を利用して、敵陣営に当たるジャコバイトのためのプロパガンダ作品さえも手がけます。

敵側の主張を広める作品を作る理由は、ジャコバイトの述べたてる、ハノーヴァー王朝の王家は正当ではないという作品を通じて、誰がその作品を好んだかで、誰がハノーヴァー王朝にとって好ましくないかを炙り出すということが出来ました。なんとも老獪な創作活動。

大陸からアイルランドに乗り込んできてアイルランドで内乱を引き起こしたジェームズ二世の息子ジェームズ・スチュアートがジャコバイトの乱を引き起こしたことは記憶に新しいことでした。1708年、1715年、1719年と、内乱はヘンデルが初渡英した1710年の只中にも起こっています。

このような状況でヘンデルはあるオラトリオ作曲を依頼されます。

名誉革命で退位させられたジェームズ二世
彼の子孫がジャコバイト運動を引き起こして英国政府転覆を企むのです

ハノーヴァー王朝側であることを隠してジャコバイト支持派の詩人が編集した歌詞を用いたオラトリオ、つまり後年「メサイア」と呼ばれる作品にハンデルは着手します。

フリーランスでどのようなプロパガンダ作品も書くという自由な立場を貫いていたからこそ可能だったのです。

ジャコバイト賛美のオラトリオ

新作オラトリオの内容は、暗く抑圧された世界に預言された救世主が現れ、苦難の道を歩んだ救世主が正しい世界を蘇らせて、神の正しさが世界に示されるというものでした。救世主は必ずしもイエス・キリストではないかもしれないという内容。そしてオラトリオの救世主は、この文脈ではジェームズ二世の孫チャールズ・スチュアートなのです。

ジャコバイトの王様が救世主という音楽作品。ハノーヴァーの王様の支配から我々を救うのは、正統なるスチュアートの血統の王様というわけです。

だから冒頭の序曲は、王の登場のための音楽のフランス風序曲。あまりヘンデルらしくない。でもこのフランス風というのは王を暗示します。バロック絵画と同じ仄めかし。アレゴリーなのです。

作品初演はイングランド国内ではなく、アイルランドのダブリン。1742年のこと。

王とは誰なのか、当時の世界で教育を受けた人ならば誰にでもわかるわけです。

作品は音楽的には明るい基調の歌いやすいハンデルの音楽的頂点という作品になりました。クライマックスとなる救世主がはずかしめられるという部分の歌はなんと暗い色調の単調ではない、翳りを秘めた長調の響き。アルトまたはカウンターテナーに歌われる名アリアの He was despised です。

He was despised and rejected of men, 
a man of sorrows and acquainted with grief. 
He gave his back to the smiters, 
and His cheeks to them that plucked off the hair.
He hid not His face from shame and spitting.

ですが、幸いなことに(?)オラトリオ「メサイア」と呼ばれるようになる作品は、初演はあまり評判になることはなかったのでした (つまり王様側には良かったわけです。熱狂的に受け入れられたならば王様側は青ざめたはず)。

1743年のロンドン初演は仮名のまま上演され、満員ではない劇場には国王ジョージ二世も臨席していて、ハレルヤコーラスで思わず立ち上がったために、今でもハレルヤコーラスでは聴衆全員が立ち上がるという伝統が生まれたのですが、ジャコバイト賛美のオラトリオに国王が感動して立ち上がったということは考えにくいことです。怒りのあまりに立ち上がったのでしょうか?

いずれにせよ、予測されていたジャコバイトの第二の反乱、1746年のカデロンの戦いは鎮圧されて、ジェームズ二世の孫チャールズはイタリアに亡命。こうしてジャコバイトたちは完全に敗北したのでした。

チャールズ・エドワード・スチュアート
1720-1788

オラトリオ「メサイア」はジャコバイトの最後の蜂起を目前とした時期に製作された、敵側の内情を炙り出すためのプロパガンダ作品だったのです。

ジャコバイトの乱ののち、ハンデルもオラトリオをただ単に「メサイア」と命名して、毎年孤児院のチャリティーコンサートで演奏させる段取りを組んで、イエス・キリスト不在に見えなくもない救世主到来を祝う (ユダヤ教の音楽としても成立しそうなため) 音楽は、ハンデルの大傑作として知られるようになるのです。

ジャコバイト騒動の後にはジョージ二世讃美の新作オラトリオ「ソロモン」なども作曲しました。個人的には「ソロモン」はメサイアを上回るハンデルの最高傑作だと思います。

ハンデルの生涯とは

世界最高のビジネスマン、ジョージ・ハンデルは英国生まれではないにも関わらず、英国の偉人だけが眠るウェストミンスター死因に埋葬されて、国葬の名誉を受けて、クラシック音楽の世界で初めて、死後も音楽作品が演奏され続ける最初の音楽家となったのでした。

同年1685年生まれのバッハやドメニコ・スカルラッティは死後、知る人ぞ知る音楽家となり、一般的には忘れ去られてゆくなか、ハンデルだけは決して忘れ去られることなく作品が演奏され続けました。

バッハのマタイ受難曲をめぐる政治事情

ハンデルと同い年のドイツのバッハは、外交的で社交的なハンデルとは全く異なる人生を歩みました。

バッハは人生前半、転職を繰り返しましたが、作品的に大傑作の世俗作品が量産されたケーテン宮廷楽長時代にはバッハも雇い主を讃えるような音楽も書いていました。

ですが、より良い給料と職場を求めてバッハは、1723年にライプツィヒ市の聖トーマス教会に就職。最初の数年間は日々の礼拝で必要とされた教会カンタータを嬉々として量産します。ですが厳しい労働条件は改善されず、やがてライプツィヒ市当局と労働条件などにおいて対立してしまいます。

そんなバッハにも転機が訪れたのは1733年でした。

ライプツィヒ市を支配するドレスデンのザクセン選帝侯だったポーランド王フリードリヒアウグストが死去して、息子の同名のフリードリヒアウグストが跡を継いだのでした。

イタリア留学経験がありイタリア贔屓の新王にバッハは取り入ろうと数々の作品を作曲します。

亡くなったポーランド王のために追悼曲を(これはのちにロ短調ミサ曲の一部になります)、そして新王や王妃を讃える祝祭世俗カンタータを次々と発表。

誰にも依頼されたわけでもないにも関わらずです。王の寵愛を得るとライプツィヒ市を飛び越して王から職場の改善を望めるのではと踏んだのでした。

新王はザクセン選帝侯位は世襲で受け継ぎましたが、ポーランド王位は世襲ではなかったため、フランス・スペインが支持した新王の義父が相続権を争い、ポーランド継承戦争が勃発。

クリスマスオラトリオや復活祭オラトリオという「オラトリオ」というイタリア語が付けられた機会音楽は、戦争讃歌ともいうべき王の勝利を歌い上げる応援歌なのです。

バッハにはクリスマスのためのオラトリオは他にはなく、イースターも同様で、歌詞も新王の到来と勝利を寿ぐという宗教音楽らしからぬ内容でした。クリスマスもイースターも年中行事。でも特別なオラトリオはこの期間にだけ書かれたのです。

バッハは王にとりいりたいがために必死に新作を書いて王を讃美する音楽を書いたのでした。楽聖バッハも世俗的世界の人なのです。

ポーランド継承戦争と受難曲

しかしポーランド継承戦争は現代のウクライナ戦争同様に大国の意図で戦況は左右され、バッハは大国フランスやスペイン勢力に翻弄される自分の領主フリードリヒ・アウグスト二世側の敗戦を予測。

そこで作られたのが史上類を見ないほどに悲劇的なオラトリオ「マタイ受難曲」なのでした。これほどに悲痛な響きに支配された宗教音楽は他になく、受難曲というジャンルにおいても異例の作品です。

「娘たちよ、来なさい、嘆きなさい!」という言葉で始まり、ひたすらに痛めつけられてゆくイエスの姿を描写して、最後には希望もなく、十字架上でイエスは悲惨に死んで、イエスの遺骸は墓に葬られて悲劇的に終わるのですが、ここでは希望である三日目の復活については語られもせず、ひたすら受難は大悲劇として終わるのです。

イエス受難の聖金曜日のための悲劇の中の悲劇、それが「マタイ受難曲」なのですが、実はこの大作も政治的な目的において書かれていました。

ポーランド継承戦争は選帝侯側が負けると、領土であるライプツィヒ市は王の不満の矛先に挙げられるとバッハは考えました。戦費を出し渋るなど戦争には非協力的だったからです。そこでライプツィヒ市に悔恨を促す音楽を書いたというわけなのです。

悲しみしか描かれていない異例の受難曲。聴くものに悔恨の念を抱かせる音楽。誰もがフリードリヒアウグスト王の敗戦を悲しむべきだと。そしてその悲しみの音楽を書いたバッハは王に認められるであろうと。

ですが現実世界はバッハの思惑通りに運ばず、フランスが支持した王の義父が継承権を断念して、フリードリヒ・アウグストの敗戦は無くなったのでした。

数々の名作を王に捧げたバッハでしたが、直属の上司であるライプツィヒ市を飛び越して王を讃える音楽を書いて王に直訴した彼をライプツィヒ市当局が面白く思うはずはありません。

数年越しのバッハの職場改善要求はこうして失敗。バッハの冷や飯食いはいつまでも変わらないのでした。バッハは選帝侯である王様から宮廷作曲家の称号をもらいますが、安月給は変わらないのでした。

怪我の功名として生まれたロ短調ミサ曲や数々の世俗カンタータ、クリスマスそしてイースターオラトリオ、マタイ受難曲は、作品自身の価値よって作曲家を評価する現代基準では、まさに人類の遺産なのですが、これらの作品も、ハンデルのメサイア同様に政治的な機会音楽として作られたものだったのです。

これがバロック音楽の真の姿なのです。

「マタイ受難曲」があれほどに悲壮にドラマチックで自虐的なのは、敗戦国民に自責の念を思い起こさせる目的だったからです。わたしは慰めと希望が織り込まれているもう一つのバッハの受難曲「ヨハネ受難曲」をより好みます。

そしてヨハネ受難曲もまた、後年のオーストリア継承戦争が勃発した時に改変されて歌詞が過激になり、プロイセン王を支援する内容に書き換えられています。バッハはオーストリアに対する侵略者フリードリヒ大王を支持したのでした。

ハンデルとバッハの人間的スケールの違い

バロック音楽とは機会音楽。行事のための音楽でした。

十七世紀の世界最初のオペラもまた祝典のための特別な音楽だったように、十八世紀のバッハやハンデルやヴィヴァルディなどの後期バロック音楽の作曲家たちもオペラ創始者の衣鉢を継いでいるというわけなのです

バッハは王に取り入ろうと自発的に自分自身が王を讃える音楽を書き、歌詞も自分で検閲しました。作曲職人としての最良の仕事をして最高の作品を捧げました。でも聴く人はほとんどいなくて、上司であるライプツィヒ市当局からはダメ出しを食らったのです。笛吹けども踊らず。それがバッハの生涯でした。

ハンデルは王を讃える音楽を描くことを依頼されて、歌詞を当代一流の詩人に書かせて、音楽上演にふさわしい会場を用意させて、最高の楽団を編成させて、作品を人脈を駆使して宣伝させました。王を讃えるのはハンデルのみならず、ハンデルに巻き込まれた全ての人たちでした。

音楽的大天才バッハはなんでも一人でしましたが、ストリートスマートなハンデルはなんでも自分でやらずに周りの人たちに仕事を作ってやり、味方にして多くの人を巻き込んで自分の作曲活動を個人活動ではなく、社会的イヴェントにしてしまいました。

ヘンデルは作曲に手抜きしました。旧作を使い回し、他人の作品も平気で剽窃して自作の一部に取り入れたのでした。ハンデルの作品の細部は隙間だらけだったりしますが、大事なところは徹底的に効果的に響くように書いてあり、非常に経済的な作曲家でした。

バッハはマニアックにまで細部にこだわり、オリジナルな作品を極め続けて、ついには忘れ去られてゆくフーガという特殊音楽技法の伝説の達人となりました。ハンデルもフーガを書きましたが、バッハのフーガの複雑さには遠く及ぶものではありません。ハンデルのフーガはピアノ上級者ならば初見で弾ける程度のものです。でも単純な音符なのに演奏効果抜群な不思議な音楽。

小さな街で小市民として宮仕えの薄給で大家族を支えて、僅かばかりの支持者による名声を得るも諦念に生きたバッハ。ある事件で非難されたバッハは、自分を弁護してくれる新聞記事を友人が書いてくれたことがあり、その記事をいつまでも大切に持っていたそうです。バッハは悲しむ人と共に泣き、喜ぶ人と一緒に喜べる人でした。

イタリアやドイツやイギリスを飛び回り、経済的に困窮することなく(伝説では劇場経営に破綻して破産しかけたということですが、事実ではありません)、生涯独身でお金持ちで大食漢で人生を愛し尽くしたハンデル。他人に優しい男ではなく、自信過剰の頭のキレる男だったでしょう。ハンデルは悲しむ人と一緒に悲しまないで、むしろ泣いても意味がない、行動して喜べるような生活を作れと他人を促す人だったことでしょう。

なんて対照的な二人なのでしょうね。

でも二人とも王様のために政治的な作品を書き、同じ時代を生きていた人たちだったのだと心から思えます。

バッハの作品にはバロック絵画のような隠された音型や特別な数字に意味が込められたりしています。受難曲には音符において十字架の音型が書き込まれています。でもバッハは、ハンデルのようにプロパガンダ音楽を上手には扱えなかったのです。

バッハの音楽が好きな人は是非とも、ハンデルの音楽を聴いてみてください。バッハの音楽がよりわかるようになり、本流のバロック音楽とはまさにハンデルのように豪快で開放的で朗らかな音楽なのだということが分かります。

ハンデルの音楽ビジネスから学べること

三々尻正さんの「ヘンデルが駆け抜けた時代」、副題は

政治・外交・ビジネス

と題されています。

音楽専門書のようで、バッハの成功しなかった就職活動とハンデルが成功させた音楽ビジネスの対比が印象的でした。プロパガンダを成功させるハンデルの手腕は仕事でプロジェクトを成功させてゆくためのヒントにもなります。わたしも今後の本職における同僚たちの人心管理に役立てたいです。

ハンデルって本当にすごいビジネスマンだったのです。

誰かを褒めたいのならば、他人に褒め言葉を言わせる、周りの人間動かす!これは真理ですよね。ハンデルはこれを成功させる天才だったのです。もしかすれば音楽以上に。

ヘンデルは作曲家である以上に、音楽プロデューサーだったのです。稀有な人物でした。

Rejoice!喜べ!この歌は本当にハンデルらしい曲ですね。バッハの喜びの歌はこんなに天真爛漫ではないのですから。Viva Handel!

ほんの小さなサポートでも、とても嬉しいです。わたしにとって遠い異国からの励ましほどに嬉しいものはないのですから。