近代五輪を振り返るシリーズ外伝(1940年東京オリンピック)

近代五輪を第一回から振り返っていくシリーズ。

今回は外伝ということで中止になってしまった幻の1940年の第12回東京大会を振り返っていきます。


1940年 第12回 東京オリンピック

1929年に、日本学生競技連盟会長の山本忠興は来日した国際陸上競技連盟(IAAF)会長・ジークフリード・エドストレーム(後のIOC会長)と会談し、日本での五輪開催は可能か否か、という話題に花を咲かせます。

このエピソードが東京市当局や東京市長・永田秀次郎にも伝わり、にわかに五輪誘致の機運が高まりました。

翌1930年にドイツで開催された世界学生陸上競技選手権から帰国した山本は、「オリンピック東京開催は俄然実現可能である」との調査報告書を市長あてに提出します。

1931年10月28日、東京市会で「国際オリンピック競技大会開催に関する建議」が満場一致で採択。

1932年に行われたIOC総会の席上、日本代表はIOC会長に対し正式招待状を提出。

開催地を決定する1935年にオスロ(ノルウェー)で開催されたIOC総会では、東京、ローマおよびヘルシンキの3市の争いとなりました。


1933年10月に病没した岸清一の後任としてIOC委員に選任された副島道正は駐伊日本大使となっていた同じIOC委員の杉村陽太郎とともにイタリア首相・ベニート・ムッソリーニへ直接交渉を行い、ローマが候補地から辞退するという約束を取り付けます。

しかしIOC創設50周年にあたる1944年度オリンピックに、IOC本部のあったスイスのローザンヌが立候補することが明らかになると、1944年の開催は困難とふんだローマ市があらためて1940年度のオリンピックに立候補を表明。

1935年に行われた総会は紛糾して会期切れとなり、開催地決定投票を翌年にベルリンで開催される総会に延期するという異例の展開となります。

しかし同年10月にはイタリアが第二次エチオピア戦争を開始し、ムッソリーニは再び東京における開催を支持する旨を表明します。

翌1936年3月19日にIOC委員長のアンリ・ド・バイエ=ラトゥールは客船秩父丸で来日。

3月27日、バイエ=ラトゥールは二・二六事件をのりきったばかりの昭和天皇に謁見し4月9日に離日します。

6月2日に副島は昭和天皇に謁見した後、6月4日に横浜港を出発。

ベルリンのホテル・アドロンで同年7月29日より行われたIOC総会における7月31日の投票の際には、日本の招致委員会を代表して柔道創設者の嘉納治五郎が「日本が遠いと言う理由で五輪が来なければ、日本が欧州の五輪に出る必要はない」と演説しました。

結果として東京36票、ヘルシンキ27票で、アジア初となる東京開催が決定しました。


日本のみならずアジアで初、有色人種国家としても初の五輪招致成功をうけて、「第十二回オリンピック東京大会組織委員会」が成立し、元貴族院議長でIOC委員の徳川家達公爵が委員長に就任するなど本格的な準備に着手します。

1940年は紀元2600年(神武天皇が即位して2600年)に当たる記念すべき年で、国家的祝祭として計画されます。

さらに日本政府は、夏季オリンピックの東京招致に併せて、冬季オリンピックを札幌市に招致することを目指して招致活動を継続した結果、1940年に第5回冬季五輪として札幌オリンピックが開催されることに決定します。

これもアジア初かつ有色人種国家初の冬季オリンピック開催となるはずでした。


しかし1937年に日中戦争が勃発。

1937年3月20日の衆議院予算総会では河野一郎(政友会、後に日本陸上競技連盟会長)が「今日のような一触即発の国際情勢において、オリンピックを開催するのはいかがと思う」旨を発言。

さらに日独伊防共協定を巡り日本と対立していたイギリスだけでなく、大会開催権を争って敗北していたフィンランドからも、東京開催の中止と「漁夫の利」を目論んでのヘルシンキでの代替開催を求める声が上がっており、さらに日中戦争の一方の当事国である中華民国も開催都市変更を要望してきます。

イギリス以上に中国大陸に大きな利権を持つために、日中戦争に政府が否定的な態度を取り続けていたアメリカ人のIOC委員は、東京大会のボイコットを示唆して委員を辞任。

また、ド・バイエ=ラトゥール伯爵の元には東京開催反対の電報が約150通寄せられており、ド・バイエ=ラトゥールから日本に対し開催辞退の話が持ちかけられてきました。


日中戦争の長期化により鉄鋼を中心とした戦略資材の逼迫した為競技施設の建設にも支障が生じ、東京市の起債も困難となってきました。

さらに陸軍大臣・杉山元が議会において五輪中止を進言し、陸軍が軍内部からの選手選出に異論を唱えるものも出ました。

その上、5月に東京での開催に大きな役割を果たした嘉納治五郎がカイロからの帰途、氷川丸船上で病死するに至り、軍部からの圧力を受けた内閣総理大臣の近衛文麿公爵は、同年6月23日に行われた閣議で戦争遂行以外の各資材の使用を制限する需要計画を決定。

この中に五輪の中止が明記されていたことから、事実上五輪の開催返上が内定します。

国内情勢が返上に傾いた日本政府は7月15日、閣議で開催権を正式に返上。

東京市が1930年から返上までの間、拠出した五輪関係費用は90万円(2017年8月現在の価値で約23億4千万円)にのぼります。

代わってヘルシンキでの開催が決定しますが、1939年9月にヨーロッパで第二次世界大戦が勃発したため、こちらも結局開催することはできませんでした。

なお、夏季大会は開催返上・取りやめの場合でも第1回からの通し回次番号がそのまま残るため、公式記録上では東京・ヘルシンキそれぞれ1回は「みなし開催」となったことになります。


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