冬季五輪を振り返るシリーズ3(第9回インスブルック冬季五輪まで)

今回から冬季五輪も第一回から振り返っていきます。

今回は第5回サンモリッツ大会から第9回インスブルック大会までを振り返ります。


1948年 第5回 サンモリッツ冬季オリンピック

1944年のコルチナ・ダンペッツオ冬季オリンピックも第二次世界大戦の影響により中止になります。

5回目となるサンモリッツ冬季オリンピックは戦後に開催され、サンモリッツでは2度目の冬季五輪となりました。

第二次世界大戦の敗戦国である日本とドイツの参加が認められませんでした。

ただしオーストリアは1948年の時点では連合軍に占領されていましたが「ドイツに侵略されていた国」としての扱いで参加が認められ、イタリアは戦争中に政権交代していたことを理由に参加は認められました。

同様に敗戦国だったフィンランドもナチス・ドイツ降伏前に休戦へ漕ぎ着けたことから不問とされ参加しています。


1952年 第6回 オスロ冬季オリンピック

第40回IOC総会でコルティーナ・ダンペッツォ、レークプラシッドを破り開催が決定されます。

大戦中、ノルウェーはナチスドイツの占領下にあったため、連合軍からの空襲及びドイツ軍撤退時の焦土作戦により大きな被害を受けたノルウェーの戦後復興の大きな足がかりとなること期待しての五輪招致でした。

開催決定後はドイツチームの参加の是非が議論され、大規模なドイツ参加反対運動も起こりましたが、結局西ドイツの参加が許可されます。

同時に日本の参加も許可され、五輪への復帰となりました。

天才少年として期待された当時高校3年生の猪谷千春が、スキーアルペン男子回転で11位になります。

また、スピードスケートでは高林清高が500mで6位に入賞します。

男子フィギュアスケートではアメリカのディック・バトンが連覇を達成。

男子フィギュアの連覇は後に羽生結弦が達成するまではディック・バトンが唯一の達成者でした。

また、今大会は冬季大会でも初めての聖火リレーが行われた大会としても知られています。


1956年 第7回 コルチナ・ダンペッツォ冬季オリンピック

第二次世界大戦の影響により中止になったイタリアのコルチナ・ダンペッツォにようやくオリンピックがやってきました。

オーストリアのトニー・ザイラーがアルペンスキーの単独種目である回転・大回転・滑降全てで金メダル独占する初の3冠を達成。

また、日本の猪谷千春がアルペンスキーの回転で銀メダルを獲得。

冬季オリンピックで日本初のメダルとなりました。


1960年 第8回 スコーバレー冬季オリンピック

アメリカで2度目の冬季五輪開催となったスコーバレー冬季五輪。

前回アメリカで行われたレークプラシッド大会の再現かのように暖冬に苦労させられた五輪でもありました。

開会式はウォルトディズニーが演出を担当。

今大会からコース建設費用がかさむボブスレーのかわりに、バイアスロンが正式競技として初登場します。

日本は女子でただ1人の代表となった高見沢初枝がスピードスケートで4種目中3種目(500m、1000m各5位、3000m4位)に入賞しました。


1964年 第9回 インスブルック冬季オリンピック

オーストリアで初の冬季五輪開催となったインスブルック大会。

今大会でボブスレーが復活しリュージュが新登場するなど、競技・種目数が大きく増えました。

日本勢はスキーでは90メートル級純ジャンプの笠谷幸生の11位が最高成績。

入賞は、スケート女子で5位に2人、6位に1人だけにとどまり、メダル獲得はなりませんでした。

スピードスケート女子3000mでは北朝鮮の韓弼花が銀メダルを獲得し、これはアジア選手初の五輪スピードスケートでのメダルとなります。

また今大会は2例の死亡事故が発生してしまいます。

リュージュのイギリス男子選手カジミエルシュ・カイ=スクジペツキが開催2週間前の練習中にクラッシュ。

アルペンスキーのオーストラリア男子選手ロス・ミルンが開幕前の練習で木に衝突。

冬季オリンピックでの死亡事故は今大会が初めてでした。


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