冬季五輪を振り返るシリーズ5(第15回カルガリー冬季五輪まで)

今回から冬季五輪も第一回から振り返っていきます。

今回は第12回インスブルック大会から第15回カルガリー大会までを振り返ります。


1976年 第12回 インスブルック冬季オリンピック

当初はアメリカのデンバーが開催予定でしたが、環境破壊等の問題で住民の反対運動が起こり、住民投票で大会開催が返上されます。

そのため急遽オーストリアのインスブルックで開催されることとなりました。

インスブルックでの開催は1964年以来2回目となります。

また、オリンピック憲章からアマチュア条項を削除してから、初めての冬季オリンピックとなりました。

競技ではスキー・アルペン男子滑降で、地元オーストリアのフランツ・クラマーが圧倒的な強さで優勝し地元のヒーローとなります。

スキー・アルペン女子では、西ドイツのロジャー・ミッターマイヤーが滑降と回転の2種目で優勝し大回転でも銀メダルを獲得。

日本勢は振るわず6位以内の入賞者がゼロに終わります。

期待されたジャンプの笠谷も70メートル級で16位、90メートル級で17位と不本意な成績でした。


1980年 第13回 レークプラシッド冬季オリンピック

アメリカのレークプラシッドでは1932年大会以来2回目となる冬季オリンピックとなります。

冬季オリンピック史上初めて中国が大会に出場。

人工降雪機も初めてオリンピックで使われました。

また、サイラス・ヴァンス国務長官が半年後に行われる予定のモスクワ大会を非難する内容のスピーチを行ったため、開会式をモスクワオリンピック組織委員会委員長のソ連のノビコフ副首相らがこれをボイコットしました。

競技ではスピードスケートでアメリカのエリック・ハイデンが5種目完全制覇の偉業を成し遂げます。

男子のスキーでは、スウェーデンのインゲマル・ステンマルクが回転と大回転の2種目を制覇。

最終日に行われたアイスホッケー競技の決勝リーグ戦では、2月22日の試合でソ連を4-3で破った大学生で構成された、アメリカチームがフィンランドを破り、20年ぶりの金メダルを手にします。

それまで同種目を4連覇し無敵と称されたソ連チームを準決勝で破った上での栄冠であり、後に氷上の奇跡と称される歓喜のフィナーレとなりました。

なお、当時アメリカのジミー・カーター大統領が、同年夏の1980年モスクワオリンピックにボイコットの方針を表明して賛否両論の議論を巻き起こしていた中での大会でもありました。

そのためレークプラシッド大会終了後、カーター大統領は五冠のハイデンやホッケー選手ら今大会の英雄を昼食会に招きましたが、その場で彼らにボイコット反対を表明されるしっぺ返しを受けることとなります。

日本勢は70メートル級ジャンプで八木弘和が銀メダルを獲得。日本ジャンプ陣の名誉を回復します。

また、女子フィギュアスケートで、渡部絵美が6位に入賞しています。


1984年 第14回 サラエボ冬季オリンピック

旧ユーゴスラビア社会主義連邦共和国のサラエボで開催された大会です。

招致レースでは札幌とスウェーデンのヨーテボリと開催を争いました。

1回目の投票でヨーテボリが落ち、札幌との決戦投票となりますが、わずか3票差でサラエボが勝利しました。

社会主義国でオリンピックが開催されるのは冬季五輪では初めてでした。

また規定の変更により、入賞枠が6位から8位までに拡大された初の冬季オリンピック大会となりました。

なおこの大会では第一次世界大戦前のオーストリア=ハンガリー帝国による占領政策を恨んだ一部の地元住民がオーストリア代表チームに妨害行為を働くという事件が発生してしまいます。

民間警備員がジャンプ代表選手を殴打する、閉会後に民衆が代表宿舎を襲撃し投石するなどが行われ、競技どころでなくなったオーストリア代表は冬季スポーツの強豪ながらわずか銅メダル1つと惨敗を喫してしまいました。

競技ではアルペンスキー男子大回転で、ユーゴスラビアのユーレ・フランコが銀メダルを獲得したことにより同国初の冬季オリンピックメダリストになります。

今大会唯一のユーゴスラビアの獲得メダルでもありました。

女子クロスカントリースキーではフィンランドのマルヤ=リーサ・ハマライネンが5km、10km、20kmで金メダルを獲得し、クロスカントリー個人種目完全制覇を達成。

スピードスケート女子種目では、東ドイツが全種目制覇を成し遂げます。

男子アルペンスキー回転ではアメリカのフィリップ・メーアとスティーヴ・メーアの双子の兄弟が金銀を独占します。

日本勢はスピードスケートで男子の黒岩彰が期待されたもののメダルに届かず、代わって伏兵と見られていた北沢欣浩が500メートルで銀メダルを獲得する健闘を見せました。

なお大会後に勃発したボスニア・ヘルツェゴビナ紛争でメインスタジアムなど多くの競技施設が破壊され、大半の競技場が現在も廃墟と化してしまっています。


1988年 第15回 カルガリー冬季オリンピック

カナダのカルガリーで開催された大会です。

スウェーデンのファールン、イタリアのコルティーナ・ダンペッツォを破って開催都市に選ばれました。

今大会は冬季オリンピック史上初めてスピードスケート競技が屋内(オリンピックオーバル)で開催された大会でもあります。

屋内での開催となったことで、風や気温変動による氷の状態の変化などに左右されにくくなったこと、また構造上直線部分が増えたこともあり好記録が続出しました。


今大会でスターとなったのはフィンランドの鳥人と呼ばれたマッチ・ニッカネン。

個人戦の70m級、90m級だけでなく団体戦もフィンランドチームで金メダルを獲得してジャンプでは史上初の三冠に輝きます。

ボブスレー競技4人乗りには国内に競技施設を持たず、雪も降らない中米のジャマイカチームが初参加。

このエピソードから後年に映画『クール・ランニング』が制作されます。

今大会は日本勢も活躍。

スピードスケート男子500メートルで黒岩彰が銅メダルを獲得。

メダルこそこの1個だけだったものの現東京オリンピック・パラリンピック担当大臣(2021年1月現在)の橋本聖子が5種目すべてに日本新記録で入賞する快挙を達成します。

また、女子フィギュアスケートでは伊藤みどりが、当時の女子で最高難易度レベルのジャンプを連発し地元メディアに「flying woman(空飛ぶ女性)」と紹介され、一躍人気を集めます。

決勝では5位に終わりましたが、多くのファンからの要望でエキシビションに登場し、メダリストを差し置いてトリを飾りました。


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