冬季五輪を振り返るシリーズ4(第11回札幌冬季五輪まで)

今回から冬季五輪も第一回から振り返っていきます。

今回は第10回グルノーブル大会から第11回札幌大会までを振り返ります。


1968年 第10回 グルノーブル冬季オリンピック

フランスのグルノーブルで行われた第10回大会。

カルガリー、ラハティ、札幌、レークプラシッド、オスロも立候補していましたが、1回目の投票で札幌、レークプラシッド、オスロが落選。

2回目の投票でラハティが落選。決選投票でグルノーブルがカルガリーを破って開催が決定しました。

この大会は初めてマスコットが登場したオリンピックとして知られています。

競技では地元フランスのクロード・キリーがスキーのアルペン種目で史上2人目の三冠王となり、大会のヒーローとなります。

日本は4年後に札幌での地元開催を控え、はこの大会に過去最高の62選手を送り込みます。

しかし、1月28日に男子スピードスケート500mで世界新記録を出したばかりの鈴木惠一も8位とメダルはおろか6位入賞すら果たせず、スキージャンプ90m級でも藤沢隆が1本目2位に付けたものの、2本目は失敗ジャンプでメダルを逃します(18位)。

入賞者すら一人も出せず、次回の開催に不安と課題を残す結果となってしまいました。


1972年 第11回 札幌冬季オリンピック

日本およびアジアで初めての開催された冬季オリンピックとなった札幌大会。

1964年東京オリンピック開催が決定されたことを受けて、札幌におけるオリンピック招致を実現させようという機運が高まり、札幌も1968年の開催に立候補します。

しかし1968年大会は投票で敗れ、2度目の立候補となったこの時は、同じく前回の投票で敗れたカナダのカルガリーと同じアルバータ州のバンフとの事実上の一騎討ちとなります。

1966年4月26日にイタリアのローマで開催された第64回国際オリンピック委員会(IOC)総会において、開催地決定の投票が行われることになりましたが、この時IOC委員の最長老であった高石真五郎は病気のため現地入りを断念し、その代わりとして自身のアピールコメントを録音したテープを同委員の東龍太郎に託します。

そして総会での投票直前、東が許可を得て高石のコメント音声を会場に流したところ、この「高石アピール」が委員の間で大きな反響を呼び、投票で札幌は32票を獲得。

対抗都市はバンフが16票で、フィンランドのラハティとアメリカのソルトレイクシティが共に7票だったため、第1回投票での過半数獲得により札幌の開催が決定しました。

なお冬季大会は中止になった場合、回次が付かないため、公式的にも日本で冬季五輪初開催となりました。

開会式で日本選手団はスキージャンプ選手の益子峰行が旗手を務め最後に入場。

聖火は札幌北高校1年生でフィギュアスケート選手の辻村いずみがトーチを掲げながら入場し氷上を滑走後、バックスタンドの下でトーチを渡された最終走者、札幌旭丘高校1年生の高田英基が聖火台へ続く階段を駆け上がり点火しました。

競技ではスキージャンプ70m級(現在のノーマルヒル)で笠谷幸生が1位、金野昭次が2位、青地清二が3位と、日本人が冬季オリンピックでは初めて表彰台を独占します。

この時から日本のジャンプ陣が日の丸飛行隊と呼ばれるようになりました。

スキージャンプ以外でのメダル獲得はなりませんでしたが、ノルディック複合個人で勝呂裕司が5位、リュージュ男子2人乗り(新井理、小林正敏)で4位、女子1人乗りで大高優子が5位と健闘しました。

フィギュアスケートでは氷上で尻もちをつきながらも銅メダルをとったアメリカのジャネット・リンが「札幌の恋人」「銀盤の妖精」と呼ばれ、日本中で人気になります。

ソ連のガリナ・クラコワはクロスカントリースキー女子の3種目すべてで優勝する快挙を達成。

オランダのアルト・シェンクがスピードスケート男子4種目中1500m、5000m、10000mで優勝し三つの金メダルを獲得。

アルペンスキー男子回転で優勝したフランシスコ・フェルナンデス・オチョアはスペインに初の金メダルをもたらしました。

なお本大会の開催前に、オリンピック憲章に示されたアマチュアリズムをめぐって大きな論争が巻き起こります。

IOCのアベリー・ブランデージ会長は滑降の金メダル候補、カール・シュランツ(オーストリア)をアマチュアではなく走る広告塔(プロ)としてやり玉に挙げ、アマチュア憲章違反としてIOC総会は多数決(28対14)で、彼をオリンピックから追放してしまいます。

しかし、選手が自分のお金だけで練習して、オリンピックに出られる時代は遥か昔に終わっていたことも事実で、この年限りで退任したブランデージの後任にキラニン卿(英国)がIOC会長に就任すると、『アマチュア』の文字はオリンピック憲章から削除されました。

また、今大会から五輪開催に伴う環境問題も表面化します。

恵庭岳に滑降コースをつくる際、山に手を加えるために自然が破壊されると環境団体が抗議し、結局大会後現状に復帰する約束でコースがつくられることとなりました。

そんな問題点もありましたが、大会は大成功に終わります。

札幌五輪の開催により地下鉄(札幌市営地下鉄)開通や、地下街(さっぽろ地下街)の建設、真駒内地区の整備や市街の近代化など札幌市のインフラ整備に多大な貢献をしたと評価されています。

またインフラ整備だけでなく、オリンピックの開催により札幌の知名度が世界的に向上し、国際化に大いに役立ちました。

北米大陸では三菱自動車がその知名度の向上に着目し、「sapporo(日本名はギャランΛ)」という名称の車種を売り出すなどの事例もありました。

さらに冬季スポーツ用施設が充実したことにより、後にスキージャンプのFISワールドカップに札幌が組み込まれるなど、アジアの冬季競技の拠点としての地位を築くきっかけとなった大会とも言われています。


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