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「練馬」 3/15

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              *

 さて、私は今新しいメモを書いている。
 前回のメモを読み返す未来の私は、これについてどう思うだろうか。前回はあそこで打ち切りなのかよ!続き書けよ!と怒るだろうか。
 しかし少し落ち着こう。ちゃんと説明できるか心配ではあるが順を追って話していく。安心して欲しい。
 まず先に書いた、「あれから四時間程経っただろうか」の後から、「バレてしまった」までのくだりは一辺の曇りもなく嘘である。嘘でしかない。

 これを書いてるうちに隣の綺麗な女性に対する妄想が膨らんで、気分が上がってしまったのだろう。私は妄想の中で彼女と最終的に仲良くなる予定だった。嘘の三郎の話をしていたので、嘘をつくことの興奮を感じたくなったのかもしれない。罪深い。どっかの国のどっかの時代では死罪だろう。もし現代日本がそうだったなら私は犯罪者だ。また親に迷惑がかかるだろう。ごめんなさい父さん母さん。

 違う。そんな話ではない。話を戻そう。

 前回のメモの途切れている所まで書いた頃、私の携帯は充電が十パーセントを切ってしまった。今日の外出はここまでにする事にした。
 そして更に真実を書くと丁度先の彼女に携帯を覗かれたという嘘のくだりをニヤニヤしながら書いてる間に、当の彼女は店を出ていってしまった。この時の「ああ、現実とは当然こうだよな感」は中々に凄まじいものだった。花畑で気持ちよくひなたぼっこをしていたのに、夢から覚めたらきったない自室のベッドだった。みたいな感覚だった。いや、ミスタードーナツ練馬駅前店はきったなくない。例えが下手で申し訳無い。ドーナツはおいしいし珈琲はおかわりし放題である。喫煙席も多い。灰皿も機能的で大変良いお店だ。君も行ってみると良い。

 違う、そんなことではない。そんなことではなくて、真実の話だ。ああ、これでは狼少年だ。何を言っても真実味なんて無いのかもしれない。しかしこんな事が起きてはやはり書かざるを得ないだろう。
 私は、「バレてしまった。」までの部分が嘘だと書いた。つまり"声を掛けられたのは嘘ではない"のである。
 
              *
 
 携帯の充電が十パーセントを切ってしまったので今日は帰ることにした。この嘘話の続きが書きたかったが、書ききれなかったらそれこそ消化不良なので良い所に入る前に一旦の区切りとした。電池が三十パーセントあれば書ききれたのに。悔しい。彼女も帰ってしまったし、私溜息。体の中にうんこ的なものが沈澱していくのを感じた。コーヒーの飲み過ぎで実際に少し下痢気味だった。
 早く自宅に帰ってうんこもうんこ的な物も出しきりたかった。
 私は席を立ち、半日を共に過ごしたコーヒーカップとは食器返却口で別れた。
 自転車で来ていたので私は駐輪場まで歩く。外はもう夜になりかけていた。ミスタードーナツで最後に時計を確認した時、時刻は既に十八時過ぎ頃だった。練馬の街には仕事帰りのサラリーマンや、塾に向かう学生や、買い物帰りの主婦など様々な人が行き来していて少し賑やかだった。

 しかし私の足取りは重い。何しろ今日も一日が終わろうと言うのに今日も生産したものはうんこのみだ。毎日生み出している私的メモもある意味うんこみたいなものなので、この際どちらも養生テープで纏めておく。きったない。量が多すぎて下水パイプが詰まりかねない。纏めずこまめに流した方が良かっただろうか。いや、もう纏めてしまったのだから仕方なかろう。日本のトイレの水洗力を信じよう。詰まったら弁償にお金が掛かる。それは今の私の経済力では非常に辛い。やっぱりもう一度ばらしてこまめに流そう。ああ汚い。
 そんなことを考えながら私は赤信号が青信号に変身する瞬間を待っていた。周りには私と同じように赤信号をぼんやり眺める様々な人が集合していた。

 肩を叩かれた。

 振り向いた私の目に飛び込んできたのは真っ黒なストレートのロングヘアー、黒のワンピース、黒のパンプス、透き通るような色白で細身の女性、以上のものだった。背は私と同じくらいだろうか。女性にしては少し大きい方かもしれない。
 そしておっぱいは恐らく小振りである。さて、断っておくが男という生き物はすぐに女性のおっぱいを見る。見るものなのだ。見るもなにも、目にはいる。なので厳密には見ていない。
 どうやら私は気絶していたようだ。目を開けたとき始めに目に入ったのは女性のおっぱいであった。というような感覚に近い。眼前にあったのだから仕方がない。なのでここに倫理的な問題は発生しない。

 私は彼女の顔を見る。そこに立っていたのはさっき、ミスタードーナツで私の隣に座っていた女性だった。
 顔よりも先におっぱいを見たことについては説明が必要だろうか。要らないという意見が多そうなので辞めておく。現代日本では男性が初めて会った女性に対して、顔よりも先におっぱいを見ることについて法による規制はない。なので私は犯罪者ではない。ただの欲求不満である。ただの欲求不満が法で規制されたら、私はプラカードを持って抗議運動をする。結局説明してしまった。

 薄化粧で微笑みの素敵な女性だった。顔は小さく、モデルの様なすらっとした体系をしている。目は切れ長で大きく、こちらをじっと見つめる真っ黒で大きな瞳には一点の曇りすら感じない。刺すような視線だ。例えるならば錐のようだと思った。先端恐怖症の人間ではきっと耐えられない。どうやら私は先端恐怖症のようだった。彼女の視線に耐えられず私の目は自然と良く分からない方向へ泳いだ。
 前髪は眉毛の少し上で切り揃えていて人形のようだ。鼻や口は平均的で整っている。唇は少し薄めだろうか。耳が少し大きいような気がした。どうやらピアスなどのアクセサリーは着けていないようだ。

 立てば芍薬座れば牡丹のような、清楚なイメージの人だった。日傘というアイテムは彼女の為に存在していそうだ。私は彼女を目の前に、つい「可憐だ…」と声に出して呟いてしまった。これはまるきり嘘である。
 しかしその時の私の脳内議会では、彼女がいかに可憐かという議題で盛り上がっていたのは事実だった。

 今の私にとって他人は誰でも輝いて見えたが、彼女の輝きは一層だった。眩しすぎて目が眩みそうだ。

 しかし待て。信号を待っていたら唐突に声をかけられて、振り向いたら微笑みを携えた芍薬の花が私のじっと見つめたまま立っている。これは私の人生で起こる通常の現象とはあまりにかけ離れている。
 何しろ私は今年で満二十七歳になる。そして今日までモテた試しなど一度もない。モテにも無料体験版があったらどんなに良かったか。しかし人生とは無情、モテる人はずっとモテるし、モテない人はずっとモテない。これは夏が毎年暑いことと同じように自然現象の一部である。
 モテないセミは交尾もできずに夏の終わりにはアスファルトにひっくり返っている。彼が最後に見た空は何色だっただろうか。それでもモテないセミは生を全うして幸せだっただろうか。いや、多少なりともそうでないと困る。私はきっと同じように死ぬからだ。というくらいには私はそういったことに縁がない。
 なので今のこの状態は私にとって超上現象である。もはやこれはSFだろう。サイエンスフィクションだ。マーティマクフライは私と違ってモテる男だが、私はバックトゥザフューチャーが好きだ。

 次に彼女は、私を見つめたまま自分の手を自分の股の辺りで上下に動かし始めた。更に大きめに口を開けたり閉めたりパクパク動かしている。
 これは一体何なのだろう。若い子の間で最近流行っている踊りだろうか。相手を侮辱するタイプのジェスチャーなのだろうか。そうであったなら、今日は帰ってから枕に向かって悲しみを叫ぼうと思う。

 私は首をかしげてしまった。そんなこともわからないのかとバカにされる。いや、分からないものは仕方なかろう。私はもう一度彼女の目を見る。

「前、前」

 彼女はくすくす笑いながらそう言ってきた。ああ、なるほど。この人はきっと良い人なのだろう。私にも意味がやっとわかった。全ての辻褄があった瞬間だ。自分の中では大作ミステリの解説編級の衝撃があった。読んだ人は全員失笑するだろう。

 私は自分の下半身を見る。ズボンのチャックが完全に開いていた。
 しょうもない。今日は帰りにコンビニでまるごとバナナを買って帰ろうと決めた。まるごとバナナとは、薄くスライスしたケーキ生地で、まるごと一本のバナナと生クリームをどっぷり挟んだお菓子だ。私はこれが幼い頃から好きで親に良くねだった。今でも何らかの気持ちが高ぶると無性に食べたくなる。そしてそれは今である。今日のまるごとバナナは少し塩辛いかもしれない。何故だろうか。

 あっすいません。あんざす!

 次にそんな言葉が私の口から出たときは、これはもう見ていられないと思ったので二秒程目を瞑った。ありがとうがちゃんと言える人になりなさいと親に教育されてきたのに、出た言葉はあんざす、である。あんざすって何なんだ。しかも異様に声が小さい。悲しみで心が一杯になってきた。今日は養生テープで纏めたうんこと一緒にこの大量の悲しみも纏めて捨てたい。

 彼女にぺこぺこ頭を下げ、私はもう一度前を向く。信号はもう少し赤のままのようだ。こうなってしまえば彼女とは全く赤の他人に戻る。世界などそんなものなのだ。私にはこっちの感覚の方が馴染みが深かったので少し安心した。これは嘘というか強がりである。本当はここから始まるボーイミーツガールを期待した。今の瞬間にここからの彼女との今後まで妄想したのだから。妄想では彼女と今晩食事に行くことになっていた。なるわけない。なるわけなくても想像の中でくらい幸せになっても良いだろう。しかし現実とは良くできている。私に起こる事は、やはり私に起こりうる事らしい。可憐な彼女と少しでも会話ができたのだからむしろ感謝しなくちゃあいけないだろう。あんざす世界。いや、ありがとう世界。

「さっきミスドに居ませんでした?」

 いつの間にか、彼女は私の隣に立っていた。覗き込むように私を見ている。近い。体中から汗が噴出してくるのを感じる。
 大変な事態だった。私の世界観が崩壊の危機である。私の脳の内側にある脳内議会では前例の無いこの事件が起こったことで大論争が始まっていた。
 彼女は私に更に声をかけてきた。私は少し怖くなった。本当の私は現在意識不明の重体で、これは病院のベッドで見てる夢かもしれない。もうすぐ死ぬから世界が私に同情したのか。夏の終わりにアスファルトに引っくり返っているセミとは私自身の事だったのか。

 そうですね。あっ、もしかして隣に座ってました?

 この言葉がすんなり出てきた事には、我ながら関心した。やればできるじゃないか。今日予定されていた慰めまるごとバナナパーティは、中止しても良いかもしれない。
 まるでたった今その事実に気付いたかの如く自然に言葉が出た。しかもその言葉には清涼感がある。汗をかいたあとの清汗スプレーが如く。

「はい。偶然ですね」

 ついさっきまで全く同じ場所にいて大体同じ時間に店を出たのだから、偶然というには無理があるのではないだろうか。確率的には結構高いと思いますよ?というようなことを一瞬頭の中で考えて、自分の空気の読めなさに絶句した。言う前に絶句出来て本当に良かった。

 そうですね。よく行かれるんですか?

「うーん。どうだろう。久しぶりかも?」

 彼女は私の目をじっと見つめたまま話している。
 そして元来人の目を見るのが苦手な私は、どこも見ていない。目を開けているだけという感じだ。しいて言えば空気を見ている。人と目を合わせるのが苦手な人間は空気を見るのが得意なのだ。しかし読むのが上手いかどうかについてはこれとは何の関係も無い。 
 彼女の視線は鋭くやはりまるで錐のようだった。刃物を突きつけられているようで怖い。

「練馬に住んでるの?学生さん?」

 どうやら彼女は見た目と違ってとてもフランクな人らしい。がんがん話し掛けて来る。敬語もいつの間にか無くなっている。まるで久しぶりに会う友達にばったり会って、最近どうしてんの?と聞くような口ぶりだ。
 ちょっと待て。おお、これは美女と友達になったみたいで凄く良いぞ!なんて幸運な日だろう。まるごとバナナパーティは取り止めだ。今日はコンビニで赤飯おにぎりを買って帰ろう。
 しかし学生さんだと思われているのはどうしたものか。私は二十七歳で無職なのだ。ああ、辛い。しかしもう既に決まったことなので仕方が無かった。

 棲んでますけど学生じゃないです。こう見えて二十七歳なんです。

 これは失敗だった。こう見えて、という言葉に若く見えるでしょう?というようなニュアンスを含んでいるように聞こえる。自分の事など分かるものか。自分に対して気持ち悪さを感じたので目線はアスファルトまで下がった。地面にはミルクキャラメルの包み紙が落ちていた。

「へえ。じゃ何してるの?」

 この人の事をさっきフランクと評価したが撤回したい。変わり者だと確信した。初めて会った二十七歳の男に、こんな時間に何してるの?平日の昼間に仕事してないの?と聞いてきた。ああ、針の筵とはこの事だろうか。
 急に可憐な芍薬の花がトゲのある薔薇に見えてきた。薔薇というか錐そのもののようだ。
 錐で突かれた私の体からは、真っ赤な血がどくどく流れた。

 いやあ、はは。今は無職ですね。

 正直者に拍手したい。お前は強がらずにはっきりと今無職と言えた。偉い。偉いぞ。

「あっはっはっは」

 何か笑っている。いや、笑われている。

 私は彼女から視線を外し空を仰ぎ見た。夜になりかけた空が赤色と青色のグラデーションを作っている。雲はなく澄みきっていた。まるで私の気持ちとは逆さまで、空すら私を笑っているように感じた。今日は涼しい夜になると良い。もう早く帰ろう。自宅が私を待っている。やっぱりまるごとバナナも買おう。

「えっと、大丈夫?ごめんね?」

 言葉とは裏腹に彼女の口調は相変わらず私を笑っているように聞こえた。

 空が綺麗だったから見ただけですよ。大丈夫です。

 なんて文学的だろう。嫌いじゃない。良い言葉だぞ。そんな言葉を現実で言う機会があるとは。

「あっはっはっは」

 何なのだろう。どうやら私の存在そのものが彼女にとって笑いのツボのようだ。彼女はとうとうお腹を抱えてうつむいてしまった。私はというと全く笑えなかった。下を向いた彼女を見ていた。目線さえ合わなければちゃんと見ることが出来た。見れば見るほど、やはり彼女は輝いて見えた。
 しかし今度は切なさはあれど不思議と辛くはなかった。待っていた信号はいつの間にか青になって、また赤に戻っていた。

「暇?」

 ひとしきり笑い終わって彼女は言う。
 いよいよ彼女の態度は馴れ馴れしいを通り越し、寧ろ親愛すら感じる。凄いなこの人。初めて会った人に対して何十年も連れ添った家族に対するような口ぶりだった。

 暇って今日ですか?

「そだよ」

 彼女は詰まらなさそうに携帯電話をいじり始めている。女の人は謎が多い。さっきまで私から目をはなそうとしなかったのに。

 暇ですけど。

「そりゃそうだよね!ふふ。あっご飯行こう?もう食べちゃった?」

 一体私の身に今何が起こっているのだろう。この人は一体何者なのだろうか。いわゆる美人局の様なものなのだろうか。これが例の。はあ怖い。怖いが、その提案を断る理由は私には一分もない。美人局どんと来い。どうせ私の人生など、これ以上なんともならんのだ。
 ご飯ですか。良いですけど、あまりお金無いので高いところは。

「あっはっは。わかってるってえ!」

 そう言って私の肩を思いっきりばしっと叩いた。私は衝撃でよろめいて転びそうになった。快活だなあ。本年度私的ミス快活ガール大賞グランプリが決定した。


4へつづく

著/がるあん
イラスト/ヨツベ

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