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音楽も野球も愛した小澤征爾

ボストンレッドソックスの親善大使に小澤征爾さんが就任するに当たり、恵比寿に在ったMLBカフェTOKYOで開催されたパーティーに私も招かれたことがあった。かつて29年もの長きに渡りボストン交響楽団を率いた小澤は、同時に野球の歴史そのものを物語る様なフェンウェイパークのグリーンモンスターにもどっぷり呑み込まれ、足繁く野球観戦に通ったわけである。

小澤が生前、各国のオーケストラに稽古をつける光景をテレビやビデオで目にしたことのある方ならば、小澤がレッドソックスの半袖丸首Tシャツ姿でカジュアルにタクトを振るい、オケに指示を出している映像に驚かれた方も多いだろう。小澤は生涯、音楽のみならずレッドソックスとベースボールをも、こよなく愛した。

私の父も小澤同様に満州に生まれ、引き揚げ後に相撲や野球に興じ、やがて小澤はピアノに、父は異分野の芸術の道を歩んだ。野球少年だった小澤は私の故郷の大叔父にあたるピアニストの豊増昇に師事していた時季がある。大叔父は郷里、佐賀市の公立の小中高の校歌を多く作曲しているが、東ドイツのベルリンにも暮らし、あのベルリンフィルハーモニーと日本人で初めて共演したピアニストでもあった。

或る日、野球の練習中に小澤は手を大怪我してしまう。こんな不自由な手を抱えて、緻密なピアノで、超絶技巧など、もはや出来っこない、と悲嘆にくれる小澤に、大叔父は「小澤くん、その手でも指揮棒くらい振れるぞ。」と小澤の肩を叩いた、と云う。我が父も含め満州から引き揚げて来た多くの身内を抱える身の上で、同様に生き延びて来た青年・小澤征爾に、大叔父は大いなるシンパシーを抱いたことだろう。

昨今、私はチェコに暮らしていた間に、バスや鉄道で国境を越えて隣国を旅して周ったが、老獪になった後の小澤征爾が活躍したウィーンフィル、ベルリンフィルハーモニーの本拠地公演にも何度か足を運んで来た。ニッポンでは元旦のニューイヤーコンサートがお馴染みで、シュトラウス家の作品を聴き慣れておられる方が多いかもしれないが、個人的には、ベルリンではベートーヴェンが聴きたかったし、ウィーンではチェコの大作曲家、ドヴォルザークが聴きたくて、公演を選んで聴いて来た。シュトラウス家の皆さん御免なさい。私の所有する小澤征爾のCDもベートーヴェンやドヴォルザーク、ブラームスやチャイコフスキーばかりなのである。

後日、もう一度だけ上野の文化会館で小澤征爾と対面する機会があったので、お気に入りのドヴォルザークのジャケットにサインを頂いて、やはりレッドソックスネタで瞬時盛り上がって嬉しかった。ウィーン学友協会をバックにしたマエストロがカッコイイんですな。暇な朝はほぼ、此の【新世界より】を聴いて、かつて暮らしたチェコやニューヨークでの日々に思いを馳せながら、爽やかな一日を始めたいのである。明日から一週間だけTOYOTAの工場で、チェコ語通訳の任務に当たる為に、いま愛知環状鉄道に揺られながら、遠きチェコと関わるレアな仕事を得られる幸せを感じながらnoteを書いている。

さて、レッドソックスネタに話を戻すと、推測するに、小澤征爾は野茂、松坂、斎藤隆、上原、大家、田澤、岡島の各投手がフェンウェイパークのマウンドで躍動したピッチングは実際にご覧になったかもしれない。そして、昨年からは遂に日本人野手も伝統の赤い靴下を履いて、レギュラーとして活躍している。吉田正尚である。WBCの準決勝、メキシコ戰で放った起死回生の無双スリーランホームランは正しく芸術的だったし、尚しく観ることが出来ない様な技術の詰まった一撃だった。その後のボストンでも実に渋い働きを見せてくれている。私が吉田のあの巧みなバットコントロールにしびれて唸っていた頃、病床の小澤も同様に魅了されて唸っていたものと信じたい。

小澤征爾と私はほぼ、一期一会だったけれど、飄々と好きなスタイル、ヘアースタイルをも貫いて、好きなことを極限まで貫いた其の生涯のライフスタイルに、今あらためて畏敬の念を感じている。世間の目など全く気にしないで、好きなことを好きなスタイルを踏襲して生涯貫き通すには、度量と器量が孤高なレベルに及んでいないと叶わないことを、日々私の様な凡人は痛感するからである。

とりあえず、私如きカーブ馬鹿も、大好きなドヴォルザークを聴きながら、好きな仕事にのめり込み、来月には球春到来でカープとマエケンとセーヤの一投一打に唸らせてもらおうじゃないか。その前に、サンフレッチェ広島の街なかスタジアムでの開幕にワクワクが止まらない今日この頃である。末筆ながら、小澤征爾さんのご冥福をお祈りし、その為にもレッドソックスの今季の挽回にも期待したい。吉田頼むぞ!


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