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第61話・1982年 『アジア大会初代王者ならず』

「ハンドボール伝来100年」を記念した1話1年の企画も後半に入ります。オリンピック競技への定着で日本ハンドボール界に国際シーンの激しい波風が吹き込み、国内のトピックスを押しのける年も増え始めます。世界の中の日本ハンドボールが主題となる内容は各大会の足跡やチームの栄光ストーリーをごく限られたものとします。あらかじめご了承ください。
(取材・本誌編集部。文中敬称略。国名、機関・組織名、チーム名、会場名などは当時)

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2月、西ドイツで21年ぶり3回目の開催となった第10回世界男子選手権の運営は、すべてにプロフェッショナルな手法が取り入れられ「ビジネスとしてのハンドボールイベント」のカラーを強く打ち出した。
 
国際オリンピック委員会(IOC)のアマチュア規制緩和-プロ容認(第53話参照)はヨーロッパ・ハンドボール界を刺激し、その先頭に立って走ってきたのはスペインでもフランスでもなく西ドイツだった。日本のハンドボール関係者は、市民のスポーツクラブを基盤に西ドイツは“プロ化”は急がないと見ていたが、モントリオール・オリンピック(1976年)以降、全国リーグ(ブンデスリーガ)を軸にビジネス路線へ舵を切ったのだ。1978年の世界選手権優勝(第57話参照)は“最初の結晶”であり、西ドイツの底力だった。
 
熱狂裡に開かれた世界選手権は奮起した東ヨーロッパ勢が挽回、ソ連が決勝でユーゴスラビアを延長の末に破って初優勝、西ドイツは7位、日本は1次リーグで勝算のあると思われたスイス戦を落とすなどあって14位に終わる(参加16ヵ国)。
 
女子も沈みこんでいる。5月、東京での第8回世界女子選手権(1982年12月・ハンガリー)アジア予選は日本、韓国、中国が2回総当たりで1つの座を争い、日本は中国に1勝1敗、韓国に2敗し2大会連続で本大会への出場権を逃した。韓国は本大会で6位に躍進、日本との「88年オリンピック開催地の明暗」を感じさせる。予選前のトライアル、ヨーロッパ遠征で紀野奈々美(立石電機)が女性初の代表チームコーチ(選手兼任)となり注目された。
 
11月、ニューデリー(インド)で開かれた第9回アジア大会にハンドボール男子が初めて採用され(屋外コート)、8ヵ国が参加した。
 
日本は「初優勝」をめざし、活気を取り戻す絶好のチャンスと捉えるが、コーチングスタッフの編成に手間どるなど“緊張感”に欠けたのはなぜか。
 
1次リーグで警戒していたクウェートを25-20で退けたあと準決勝は韓国に粘られ21-20の辛勝、中国との決勝は相手ペースで進み日本は一度もリードを奪えぬまま19-24で押し切られ、国際総合競技大会での初栄冠はならなかった。
 
ハンドボールに限らず日本のボールゲームは全般に精彩を欠き、大会後マスコミの総括は「アジアを甘く見た」「精神的な弱さ暴露」などと手厳しかった。
 
日本ハンドボール協会は危機感を募らせ、ロサンゼルス・オリンピックアジア予選を男女いずれも日本招致を決めるとともに強化スタッフを白紙に戻して新編成を図る方針を固めた。
 
7回目を迎えた日本リーグは女子・立石電機(熊本、現・オムロン)がユーゴスラビアから2選手の加入を発表、そのうちの1人、カティア・イレシュは長く同国代表チームの主力、モスクワ・オリンピックでは銀メダルに輝いたチームのキャプテン。京都でのデビュー戦には1000人を超える観客が集った。男女を通じヨーロッパのトッププレーヤーが日本チームに所属するのは初。1983年シーズンまで在籍したイレシュは日本協会に請われ、全日本女子の特別コーチも引き受けた。
 
8月、西ドイツ女子代表が来日、全日本女子との公式戦(横浜)は西ドイツ25-18だった。
 
国内では12月の第25回全日本学生男子選手権(名古屋)で大阪体育大学(関西)が24年間不落を誇った関東勢によるチャンピオンの座を奪う快挙があった。大阪体育大学は1965年4月大学創立とともに誕生し部員不足に悩みながら関西学生リーグ2部で活動、1968年秋季に待望の1部昇格、1972年春季に初優勝を飾り10シーズン連続優勝を遂げ「西の雄」の実力と名を高めた。全日本学生選手権では第18回(1975年)に準優勝、それから7年目での宿願達成だった。

第62回は9月23日公開です。


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