見出し画像

第57話 1978年 『春のセンバツ、名古屋で』

「ハンドボール伝来100年」を記念した1話1年の企画も後半に入ります。オリンピック競技への定着で日本ハンドボール界に国際シーンの激しい波風が吹き込み、国内のトピックスを押しのける年も増え始めます。世界の中の日本ハンドボールが主題となる内容は各大会の足跡やチームの栄光ストーリーをごく限られたものとします。あらかじめご了承ください。
(取材・本誌編集部。文中敬称略。国名、機関・組織名、チーム名、会場名などは当時)

バックナンバーはこちらから→マガジン「ハンドボール伝来100年」

高校界が待ち望んだ「全国高校選抜大会」が3月、名古屋で開幕した。参加は男女とも9ブロック代表と愛知代表の各10校。

長く「高校スポーツの全国大会は年1回程度にとどめる」(1954年4月・文部事務次官通達)とされてきたが1969年7月に「年2回…」と緩められ、1970年をトップに各スポーツは次々と「春のセンバツ」を始めた。

ハンドボール界は基本技を充分に習得する時間が少なくなるとの“慎重論”がベテラン指導者を中心に強く、日本協会もその姿勢を支持した。

見識ではあったが、高校生愛好者が「ハンドボールはなぜセンバツがないのか」と指導者へたずね、地方協会から次々と待望論が持ち上がり、日本協会は3年前に検討を始め、実施を決断する。

国際ハンドボール連盟(IHF)が、1977年から新しいイベントとして男女ジュニアの世界選手権に踏み切った流れも少なからず影響した。日本の世界ジュニアへの参加は1979年以降になる。

1月の第9回世界男子選手権(デンマーク)で日本は12位。西ドイツ(当時)が優勝し大きな話題となる。3位にデンマーク、8位にスウェーデン、歴史を誇る国々が久しぶりに華やいだ。

“東ヨーロッパ圧倒的”のムードが強まり固まる中、西ドイツは久々に伝統の力を見せ、監督にユーゴスラビア(当時)出身のブラド・ステンツェルを迎えていたのも新感覚である。

“西側奮起”の1つに有力選手のプロ化があげられた。オリンピックのプロ容認(第53話参照)がもたらした効果だろう。

衝撃が走る。6月韓国での第7回世界女子選手権アジア予選で日本は韓国に13-17、17-19で敗れ6回連続出場を逃す。同時に女王の座奪回が容易ではないことを知らされもする。

日韓女子の差は70年代後半に入って社会人(実業団)、学生、高校などの定期交流でじわじわと詰められ、とくに1977年4月の第6回社会人交流で遠征した全日本実業団選抜が韓国の単独チームに苦戦(5戦1勝4敗)、韓国のトップレベル充実が報告されていた。

2月2日、日本協会は創立40周年を迎え愛好者人口(高等専門学校を含む)をチーム数2556(男1655、女901)、人数4万2837人(男2万8801、女1万4031)と発表した。チーム数で高校男女の占める割合は72%。

ミュンヘン・オリンピック直後の1973年に比べ全体のチーム数は655増、人数は1万776人増だが、このうち一般男女チームは57増にとどまった。

第58回は9月19日公開です。


よろしければサポートをお願いいたします。いただいたサポートはよりよい記事を作っていくために使わせていただきます。