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第11話・1932年 『東京、1940年オリンピック開催地に立候補』

スポーツイベント・ハンドボール2022年8月号(7月20日発行号)で特集の通り、日本のハンドボールは7月24日、「伝来100年」を迎え、新たな発展に向け力強く踏み出しました。
積み重ねられた100年はつねに激しく揺れ続け、厳しい局面にも見舞われましたが、愛好者のいつに変わらぬ情熱で乗り切り、多くの人に親しまれるスポーツとしてこの日を迎えています。
ここでは、記念すべき日からWeb版特別企画で「1話1年」による日本のハンドボールのその刻々の姿を連続100日間お伝えします。
テーマは直面した動きの背景を中心とし、すでに語り継がれている大会の足跡やチームの栄光ストーリーの話題は少なく限られます。あらかじめご了承ください。取材と執筆は本誌編集部。随所で編集部OB、OG、常連寄稿者の協力を得る予定です。
(文中敬称略。国名、機関・組織名、チーム名、会場名などは当時)

バックナンバーはこちらから→マガジン「ハンドボール伝来100年」

東京市(当時。東京都となるのは1941年)が1940年の第12回夏季オリンピックの開催地に名乗りをあげた。1932年7月28日にロサンゼルス(アメリア)での国際オリンピック委員会(IOC)総会での正式招聘(へい)状提出である。

日本でのオリンピックへの関心は1912年のストックホルム(スウェーデン)大会に初参加して以来、大会ごとに高まり、前回(1928年、オランダ・アムステルダム)、陸上競技と競泳で金メダリストが生まれ、いっそうの熱気となった。

陸上競技関係者を中心に「東京誘致」の動きは急となり、東京市会は1931年10月、満場一致で立候補を決めた。

誘致の機運はアムステルダム大会後の1929年あたりからとされるが、正確な日時などは明らかではない。

相変わらず“ハンドボール人”の姿は見えない。東京市の立候補と授業を結びつける流れの音も聞こえなかった。

1936年の第11回夏季オリンピックの開催地はベルリンに決まっていた。ハンドボールが開催地選択競技で実施されるのは有望、東京が招致に成功すれば、「東京でのハンドボール」へプラスの影響となるのは明らかだ。

この認識を当時の体育指導者・教師に求めるのは難しい。教課ハンドボールとオリンピックは“無縁”に近く距離は開いたまま、情報も乏しかったのである。

1940年の夏季オリンピック開催地には東京を含む世界10都市が意思を示したが、間もなく7都市が降り、さらに1都市が引いて残ったのは東京とヘルシンキ(フィンランド)の2都市。東京市周辺は勢いづく――。

第12回は8月4日公開です。

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