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第14話・1935年 『競技スポーツへ力強いスタート』

スポーツイベント・ハンドボール2022年8月号(7月20日発行号)で特集の通り、日本のハンドボールは7月24日、「伝来100年」を迎え、新たな発展に向け力強く踏み出しました。
積み重ねられた100年はつねに激しく揺れ続け、厳しい局面にも見舞われましたが、愛好者のいつに変わらぬ情熱で乗り切り、多くの人に親しまれるスポーツとしてこの日を迎えています。
ここでは、記念すべき日からWeb版特別企画で「1話1年」による日本のハンドボールのその刻々の姿を連続100日間お伝えします。
テーマは直面した動きの背景を中心とし、すでに語り継がれている大会の足跡やチームの栄光ストーリーの話題は少なく限られます。あらかじめご了承ください。取材と執筆は本誌編集部。随所で編集部OB、OG、常連寄稿者の協力を得る予定です。
(文中敬称略。国名、機関・組織名、チーム名、会場名などは当時)

バックナンバーはこちらから→マガジン「ハンドボール伝来100年」

日本陸上競技連盟(日本陸連)がハンドボールに向かって動く。1940年の東京オリンピックを巡る動静に有利と判断する材料が多かった、と思われる。ベルリン・オリンピック(1936年)で初採用されるハンドボールの東京での実施にも淡い希望がのぞく。日本スポーツ界の中枢に座す日本陸連ならではの情報と言えた。

日本陸連1934年度事業として、3月に「ハンドボール専門委員会」の活動が始まる。スタッフは前年9月に人選され、委員長に日本陸連会長・平沼亮三自らが就いた。規則制定委員会という名の小委員会も同時に置かれ、体育研究所スタッフとともに「IAHF1928年12月版ルール」の翻訳に取りかかる。

7月19日付で草案ができ上がり、日本陸連名で発行される。和紙に謄写版刷り。日本のハンドボールが競技スポーツとして起ち上がった第一歩と言える。

この翻訳書をテキストに7月、東京で指導者養成講習会が開かれる。学校体育の指導手法を伝えるのではなく、競技スポーツとしての指導者――つまりコーチの養成である。もちろん史上初めてだ。講師にライプチヒ体育大学(ドイツ)のマルチン・パムペルを招いた。パムペルはロサンゼルス・オリンピック終了後、ドイツに回った大谷武一が知り合ったとされる。

着々とステップは踏まれるが、1940年夏季オリンピック開催地に東京がヘルシンキを投票の末に制して決まるのは1年後のことだ。

平沼や大谷には、仮に「東京」を逸しても、この機を除いてハンドボールの“競技化”は果たせないとの“勇断”があったのではないか。

大谷の教え子たちが集う東京高等師範学校(東京高師。文理科大学-東京教育大学を経て現・筑波大学)の体育関係者が、築かれ始めようとする「日本ハンドボール界」の力になるのもこのころからだ。

第15回は8月7日公開です。

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