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過去から未来へ Vol.7 ~書籍『物語 日本のハンドボール』をもとに~

スポーツイベント・ハンドボール本誌で2021年9月号まで連載された「過去から未来へ」。日本のハンドボールの歩みを紹介した書籍『物語 日本のハンドボール』をもとに、ハンドボールの生い立ち、歴史に触れ、未来を切り開いていってほしいという願いをベースに、書籍に記された事象や時代背景をより掘り下げてお伝えした当連載を無料公開していく。今回は著者・杉山茂さんに大きなターニングポイントとなった11人制から7人制への移行について語ってもらう。
過去記事は→ Vol.1Vol.2Vol.3Vol.4Vol.5Vol.6
著者:杉山 茂(すぎやま・しげる)スポーツプロデューサー。
元NHKスポーツ報道センター長。慶應義塾大学卒。オリンピック、主要国際大会などのテレビ制作のかたわら、スポーツ評論の著述を手掛ける。
近著に『物語 日本のハンドボール』

11人制から7人制へ

――前回は戦後の日本球界についてお話ししていただきましたが、世界はどのような状況だったのでしょうか。

戦火の影響も大きく、同じフィールドの11人制で行なうサッカーに、あらゆることに決定的な差をつけられてしまい、存在意義、独自性を見出せなくなってしまっていました。

ドイツ(東西)、スイス、オーストリアなどは11人制にこだわるものの、7人制=インドア主流はシーズンごとに明らかとなります。

ソ連、ユーゴスラビア、チェコスロバキア、伝統のルーマニアなど社会主義国(共産圏)が一気に力を伸ばし、国際政治情勢の「東西冷戦」の様相をそのまま映し出しもしました。

こうした情報を日本の関係者はつかむことができませんでした。

海外の情報どころではないのはハンドボールに限ったことではない時代ですし、日本ハンドボール協会首脳や日体(現・日体大。当時は「日本体育会」)、東京教育大(現・筑波大)を卒業した指導者はいずれも11人制ハンドボールを学び、親しんで、ドイツ至上主義的な傾向も強い人たちでした。

招致をめざした1960(昭和35)年(投票の結果落選)、64(昭和39)年の東京オリンピックともに、ハンドボール実施の構想はあっても、まったく7人制の気配はありません。

そんな状況でしたが、1952(昭和27)年、大阪府立体育会館の体育館開きでは、7人制ハンドボールが行なわれています。

大阪を中心とする関西の先進性を感じさせられます。いい意味での打倒・関東、東京の気概があってこそでしょう。関西球界のパイオニアの1人で、日本協会副会長を歴任、「ハンドボールのデンマーク発祥説」も発表した馬場太郎さん(故人、元・桃山学院大教授)の存在が大きかったと思います。

――世界と縁遠かった日本は、どのように11人制から7人制へと移行していったのでしょう。

世界的な流れをつかみ切れなかった日本でしたが、独自に7人制を追う動きが生まれます。

広いフィールドでの11人制ハンドボールは、女子には極めて過酷です。戦中は富国強兵をめざす気運に包まれ、同盟国・ドイツのスポーツということで継承されましたが、戦後はそれを受け継ぐ社会環境ではなくなりました。

1950(昭和25)年の第1回インターハイには、高等女学校の流れを汲む学校を中心に30校が出場していますが、女子競技者は減少の一途をたどります。

日本協会はコートサイズの縮小など『日本ルール』を相次いで採用しましたが、効果は薄く、ついに1957(昭和32)年度から女子と中学(男女)の公式競技を7人制に変更します。

男子の7人制移行も時間の問題となり、11人制は1963(昭和38)年度に“消滅”します。世界的にも1966(昭和41)年7月の第7回世界男子選手権が11人制最後の国際大会になりました。

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長年現場で取材を続けてきた著者だからこそ書けた、日本へのハンドボール伝来から現在までを追った力作。(杉山茂著、スポーツイベント・オンラインショップで発売中

――それにしても、フィールドの11人制からインドアの7人制に。劇的すぎるほどの変化ですね。

日本国内のバレーボールが9人制から6人制となったり、柔道が階級制で行なわれるようになったりしたことはあります。また、サッカーからフットサルが、15人制ラグビーから7人制ラグビーが生まれたように、新たな競技が生まれることは多いですが、スタートした形のフィールドでの11人制が消滅してしまい大きく姿を変えたスポーツは例がありません。

初回からお話ししているハンドボールの特徴の1つです。

国際的には64年の東京オリンピックでは実施競技から外され、68(昭和43)年のメキシコシティー・オリンピックでチャンスがなかったことも11人制の衰退に拍車をかけたと思います。

また、東京で競技種目から削減されたのは、IOC(国際オリンピック委員会)内にのぞく東西対立の力学・作用が無関係ではないと感じます。

そうした数奇な運命を改めて感じるとともに、7人制への移行による発展も見逃せません。

国内ではチームが作りやすくなり、実業団時代へと進んでいきます。

国際的には各大陸に広がりました。とくに日本と韓国だけで争う状態だったアジアの普及、発展は顕著でした。

こうした7人制以降の流れの中で、『インドアスポーツ』への転換を大きく打ち出し、コートサイズが小さくても体育館行事としての実績を積み上げる必要があったと思います。

思い返すに、1960年代後半と70年度以降、各地の体育館新設に40m×20mを確保する強い策が日本協会にのぞけなかったのが惜しまれます。

今月のキーワード
11人制ハンドボール


広いフィールド(90〜110m×55〜60m=57年版ルール)で1チーム11人で行なわれた。ゴールもサッカーと同じ大きさで「手を使うサッカー」と評された。日本では女子は57年まで行なわれ、63年すべての11人制競技が廃止(7人制一本化)となった。


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