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第16話・1937年 『オリンピックへ不安な評価』

スポーツイベント・ハンドボール2022年8月号(7月20日発行号)で特集の通り、日本のハンドボールは7月24日、「伝来100年」を迎え、新たな発展に向け力強く踏み出しました。
積み重ねられた100年はつねに激しく揺れ続け、厳しい局面にも見舞われましたが、愛好者のいつに変わらぬ情熱で乗り切り、多くの人に親しまれるスポーツとしてこの日を迎えています。
ここでは、記念すべき日からWeb版特別企画で「1話1年」による日本のハンドボールのその刻々の姿を連続100日間お伝えします。
テーマは直面した動きの背景を中心とし、すでに語り継がれている大会の足跡やチームの栄光ストーリーの話題は少なく限られます。あらかじめご了承ください。取材と執筆は本誌編集部。随所で編集部OB、OG、常連寄稿者の協力を得る予定です。
(文中敬称略。国名、機関・組織名、チーム名、会場名などは当時)

バックナンバーはこちらから→マガジン「ハンドボール伝来100年」

衝撃が走る。

4月20日、東京で開かれた東京オリンピック準備のための国内新組織「オリンピック委員会」(1936年12月19日結成)の第9回委員会が「ハンドボール開催は希望しない。ただし1~2年中に国内で著しく発達し参加国多数となる見込みを得れば議題とする」(大日本体育協会史 補遺〈上〉、大日本体育会編、1946年5月刊)との申し合わせを行なったのだ。
 
ベルリン・オリンピックと同内容の20競技(芸術展示を含む)で開催するとした方針の突然の“転換”。ハンドボールのイメージは下がる。
 
国際オリンピック委員会(IOC)はどう受け止めるか。実施競技などを決める6月8日から11日までのワルシャワ(ポーランド)での総会に注目が集まったが、「ハンドボールとカヌーはプログラムに加えないものとする。ただし、今後6ヵ月以内(年内)に世界からの参加国数が5ヵ国(以上)の保証を得れば実施する」となった。
 
「オリンピック委員会」よりも条件は緩められた印象だが、この場で承認された18競技とは“差”が生じる。ワルシャワの決定を最終とし、ハンドボールが欠落したままの資料は現在でも残っているほどだ。
 
国際アマチュア・ハンドボール連盟(IAHF)の加盟国は前年9月現在23ヵ国(ヨーロッパ15、アメリカ大陸6、アジア(日本)、アフリカ各1)。「5ヵ国」のハードルは高くないと思われたが普及のバランスがヨーロッパに偏り、IOCの評価には不安がある。
 
ワルシャワで一気に逆転ともいうべき決定を期待した日本陸上競技連盟(日本陸連)をはじめとする関係者は落胆するが、IAHFはこの経過を予想していたようで、「IAHF年報1936年版」では「東京での実施は1938年カイロ(エジプト)のIOC総会で決まる」とドイツ選出役員の発言を掲載している。
 
日本陸連内の「ハンドボール委員会」は内心はともかく予定の行動を続け、3月に同委員会の呼称を「日本送球協会」としたほか、東京の大学にハンドボールチームの結成を呼びかけている。

真っ先に名乗りをあげたのは慶應義塾大学だ(9月10日)。IAHF1936年版ルールの日本語版が完成、東京オリンピックへのアピールのため11月1日の第9回明治神宮体育大会陸上競技にハンドボール種目を「第1回全日本送球選手権」(男子のみ)として加える積極的な展開を示す。

これに先立つ10月の「第1回関東送球選手権」(男子のみ)は日本初の公式大会になる。会場は両大会とも体育研究所。11月28日、岡山で「第1回岡山県送球大会」が開かれたニュースに驚かされもする。12月2日、日本陸連は全国総会で「日本送球協会」の独立を承認する。
 
12月14日付でIAHFカール・リッター・フォン・ハルト会長(ドイツ)から至急電が届く。「5ヵ国が揃った!!」。

第17回は8月9日公開です。

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