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指先がさようなら。


「待てよ? もしかしてだけど、これ長さ足りてなくない?」

爪が剥がれただけ。そう思って真っ赤な血液が滴り落ちる指先を冷静に見つめていたのに、気づきたくなかったことに気づいてしまった。

長さが足りない。
やっぱ、明らかに足りていない。

その瞬間、恐怖のあまり涙がぼろぼろこぼれ落ちた。声を上げて泣いた。指先が、ちょん切れてしまったのだ。

こういうのって、痛すぎて気絶するもんじゃないの? なんで私、しっかりと意識があって立ってるの?

起きてしまったことがおそろしすぎて、いっそのこと倒れてしまいたかった。気を失っている間にすべてがうまいこと片づけばいいのにと思った。でも、痛覚の閾値を超えた指に感覚などない。いや、本当は痛かったのかもしれない。でももう13年前のこと。思い出せないのも当然だ。


そう、これは中学2年の春休みのことだった。
私は所属していたバスケットボール部の練習試合に出ていた。「そっちが理不尽を突きつけてきたんだから、せめて最後までわがままを言わせろ」と、曽祖母の何回忌かをサボって出場した。大してうまくもならなかったくせに、ただただ親に反抗したかったからコートに立った。

あと1年ほどで卒業を迎えるというのに、年末に父から「転勤が決まった」と告げられた。それは自分も無慈悲に連れて行かれるということを意味していた。受け入れられないと分かっていても、絶望と怒りに狂った私は、幾度も幾度も抗議した。しかしその努力も虚しく、転校以外の選択肢は与えられなかった。これほどまでに両親を憎んだことはあとにも先にもない。視界に入るだけでもいやだったし、同じ屋根の下にいるのも許せなかった。

「おまえはいやじゃないのか」と、こんなときだけ味方につけようと弟に問うたが、「別に」などと涼しげな顔だった。私は孤独をきわめ、ひとり家庭内ストライキを決行した。皆がテキパキ進行する中、一切の荷造りをしなかった。思春期と反抗期まっただ中の私にできる、最大限の抵抗だった。


練習試合に勝ったのか負けたのか、もう覚えてない。1回だけゴールを決めて、めちゃくちゃうれしかったことだけは記憶にある。


事件が起こったのは試合後だ。
練習試合はうちの学校がホームだったので、我々部員はあと片づけに勤しんでいた。私はパイプ椅子をたたんでは運び、体育館の舞台下の収納の中にしまっていた(みんなの体育館にもあったよね? 台車みたいな椅子入れ)。

なぜだか、パイプ椅子ってたいてい収納のキャパを超えた数がある。でも残らずしまわないといけないとき、しまった椅子のさらに上に寝かせて置くだろう。私もそうした。「これで全部だね」と言って、後輩と椅子入れを舞台下におさめようとしたとき。

上に重ねたパイプ椅子が舞台のフチに引っかかって、台車の持ち手を掴んでいた私の手の上になだれ落ちてきたのだ。「いって!」と反射で手を引っこ抜いたときに、それは起こった。パイプ椅子と台車の持ち手の間にはさまれた指先が、持っていかれてしまったのだった(これ、文章で伝わるかな……)。


で、冒頭の通り。
運ばれた先の病院で、医師から「ちぎれてるね」と言われたと思う。顧問の先生が出してくれた車の中で、コーチがずっと「大丈夫だって、爪が剥がれただけだから、すぐ戻るよ」と励ましてくれていたけど、やっぱりちょん切れていた。いや、本人が長さ足りてへん言うとんねん。ちぎれてるに決まっとるやろ。無責任なことを適当に口にすな。


そのあとの展開は驚きの連続だった。
なんと私が病院に運ばれている間、私の指先を友人が見つけてくれたのである。椅子と持ち手の間に挟まったままになっていたらしい。ただ、それを拾い上げてくれた人、相手チームの先生だったと記憶しているが、一度ゴミ箱に捨てやがったという。いやいやおい、なに捨ててくれとんねん。スミスさまの大事な大事な指やぞ。

しかし友人は冷静で賢明だった。彼女は特異な経験の持ち主で、身内が指を切断してしまったことがあったらしい。そのときの記憶をたどり、「指先! 氷詰めにして! 病院に持ってって!」と大人に指示したというのだ。彼女の英断には拍手喝采を贈らずにいられない。天使である。女神かもしれない。

ビニール袋の中で氷詰めになった指は、すぐに病院にやってきた。とりあえずそれを医者が縫いつけてくれたが、「傷口がちょっとアレだから(筆者による濁しです)うまくくっつかないかも」と言われた。翌日病院へ行き包帯を外したら、先生の予言通り残念な結果となってしまった。

「え? 大阪に引っ越すの? 2日後!? えー、大阪なら僕の師匠にあたる先生がいるから、そこの病院宛てに紹介状書いとくよ」

そこはくしくも、越した先から徒歩圏内の病院だった。なんというめぐり合わせ。先生、天才がすぎる。


私が放置した分の荷造りはすべて親がやり、東京から大阪へばたばた引っ越した。その後すぐに入院。手術の日取りを決めた。医療の技術と人間の治癒力とはすばらしく、私は「手のひらの肉を指に移植する」という手術を受けることになった。


当日は局所麻酔だったので、完全に意識のある中での手術だった。若い医師が執刀を担当、紹介状を書いてくれた先生の師匠にあたる人が監督についた。

手術台の上に寝転がる。
麻酔の注射を打たれ、効いてきた頃に作業がはじまった。一応、作業の様子が私からは見えないように、腕の付け根から覆いがされていた。


もうこれは一生忘れられないのだけれど、私は信じられない言葉を耳にした。手術がはじまってしばらくした頃、監督をしていたおっちゃん先生が突然、執刀医に怒号を浴びせたのだ。

「おまえ! どこ切ろうとしとんねん! そこちゃうやろ!」

えぇええ〜〜〜〜〜〜〜!?!? こわすぎまじでやめて!!!!! 若い先生や! おまえさん、さては研修終えたばっかりか? やさしそうでほんわぁかした雰囲気の人やな思てたけど、メスさばきがゆるふわなのはあか〜〜〜ん!!!

このときほど心の中で、「あぁ、ブラック・ジャック先生……」と唱えたことはなかった。あの人はヤのつく職業の人に切り落とされたスリ常習犯の指だってあざやかに縫いつけたのだ。私の手術なんてちょちょいのちょいだろう。

その後も何度か、おっちゃん先生の怒鳴り声が飛んだ。そのせいで神経がどっとつかれたのか、私は強い眠気に襲われた。そのあと手術台の上で眠りこけ、気づいたら終わっていた。


術後、何日間かの入院を経て転校先の学校へ通いはじめた。新学期はとうに開始していた。「異物は目立つべからず」。小学3年生のときにも転校を経験していた私の教訓だった。なのに、スタートの時期がずれたせいでしれっとクラスに混じることができず、余計に注目を浴びてしまった。最悪である。


ちなみに指だが、ぱっと見ではわからないほどきれいに治った。おっちゃん先生が怒鳴り散らしてくれたおかげかも知れない。ちぎれたのが骨のぎりぎり上だったこと、指と一緒に全部はがれたと思っていた爪の細胞が根元に残っており、移植した肉の上を覆うように伸びてくれたことも幸いした。いやはや、本当に人間ってすごい。感覚は鈍いし、ギターをつまびくと痛いし、手のひらには若干、手術痕が残っているのだけれど。

どの指かわかります?(手さらすのって恥ずかしいね!)

この怪我で得たことは、びみょ〜に両利きになれたことだ。
やられた指が利き手のものだったため、食事は左手を使っていた。しかもちゃんと箸を持てる。左手でペン回しもできる。我ながら器用だな。


先日書いた交通事故の件といい、このちょん切れ事件といい、引っ越しの前後にやらかしすぎである。3年前に配属先の田舎から転勤が決まったときは、細心の注意を払ってしばらくを過ごした。おかげでなにもなく、今日を元気に生きている。

いつなにが起きるかわからないから、人生、油断は禁物だよ。



最後まで読んでくれて、ありがとうございます!