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「自分らしく生きる」ってなんだろう?

ありのままの姿で生きたい

今朝、起きてツイッターを開いたら(ツイ廃)、「氷川きよし」がトレンド入りしていたので、なにごとかとリンクを開いた。

詳しくは記事を読んでいただきたい。要するに「周囲の期待する型にはまらず、自分らしくありのまま生きていきたい」という、うつくしく堂々とした宣言であった。

すてき! と胸を高鳴らせると同時に、「ここまで言うなら、カミングアウトすればいいのに」というコメントには胃が重くなってしまった。カミングアウトってなんだ? 自分の性がなんたるものかに関して、いちいち周囲に報告しなければならないのだろうか? 

確固たる自分の「性」を生きている人たちは、カテゴライズできない性には不安を覚えるのかもしれない。まぁ、それはわからなくもない。男なら“男らしく”、女なら“女らしく”。そういうステレオタイプがあることで、人間は楽に情報処理ができるのだ。

でも、型に則って振る舞うことがしあわせなんだろうか? そうとは限らない人に、価値観を押しつけてしまってはいないだろうか? 氷川きよしさんの宣言から、みんないま一度考えてみてもいいんじゃないだろうか。

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「自分らしく生きる」を考える

じゃあ、自分らしく生きるってなんなんだろう。自分らしさとはなんなんだろう? そう考えるためのヒントになればと、漫画作品をふたつピックアップさせてもらう。

1.放浪息子

志村さんの漫画には、ステレオタイプではくくれない、幅広いキャラクターが多く出てくる。本作の中心人物は、女の子になりたい男の子の二鳥修一くんと、男の子になりたい女の子の高槻よしのちゃん。全15巻の中で、小学校高学年から高校生までのふたりが描かれている。

自分の性に違和感を覚えているふたり。女装と男装で外へ出かけたり、異性の制服を着て学校へ登校したり。そんな彼らに対する反応は、肯定的なときもあれば、否定的なときもある。後者のときは、その「否」が友人や家族にまで及ぶ。周りを巻き込みながら、それでもふたりは「自分らしく生きること」を常に模索する。時に傷つきながら、時に自分を奮い立たせながら、立ち向かっていくのだ。

ラストではそれぞれが自分の道を見出して終わる。
15巻と少し長いけれど、彼らの葛藤と向き合いながら「自分らしさとはなんだろう?」と考えてみるのにぴったりの漫画だ。

この作品の見どころは、「女の子の男装は不快がられないのに、男の子の女装は格好の『餌食』になってしまう」という非対称性や、「同じ女装でも、かわいい男の子とそうでない男の子では周囲の反応が異なる」という残酷な部分(ルッキズム)までしっかり描かれているところだ。

だれかと向き合うとき、無意識にそんな目線を向けていないだろうか。これも気にしていきたいポイントだ。


2.しまなみ誰そ彼

クラスメイトに「ゲイ動画」を観ているところを知られてしまった主人公・たすく。絶望した彼の前に現れたのは「誰かさん」と呼ばれる、謎に包まれた女性だった。彼女に誘い出された「談話室」には、たすくと同じく性的マイノリティとして生きる人々がいた。「談話室」のメンバーとの交流の中で自分らしさを獲得していく様を描く。

この物語ではさまざまな性指向を持つ人が出てくるけれど、「性的マイノリティ同士だから」といった理由だけでは互いを理解しあえないことも描かれている。

ゲイのたすくには、レズビアンの「大地さん」の気持ちは理解できても、こっそり女装をたのしんでいる「美空さん」の気持ちはすくい切れない。それで彼を傷つけてしまう。アセクシャル(他者に対して性的欲求も恋愛感情も抱かない人のこと)である「誰かさん」の心中も、分かり切ることができない。

でも、「互いをわかり合えなくても、わかり合えないまま生きていける世の中がいい」

作中に出てくるこの言葉が、すべてを表している。これは、Xジェンダー(男でも女でもない性)でありアセクシャルである作者の鎌谷さんが肌身で感じてきたことでもある。

また、本作では「善意によって人を傷つけてしまう」ことも描かれる。「談話室」にいるメンバーに対して「理解してあげる。分かってあげる。居場所をつくってあげる」と“善意”をぶつけてくる人物が出てくる。でも、そんなことされなくとも、彼らは変わらず「自分」として生きていく権利を持っている。「マイノリティだから」という理由で特別扱いされることは、ある意味「差別」につながりかねない。「普通に」、「当たり前に」、誰になにを言われずとも生きていくことが大事なのだ。


余談だけれど、興味深い記事を見つけた。
アグネス・チャンさんが「差別」について学び、考えたものだ。

友だちの中に、「私は同性愛者に対する差別は反対です。みんな同じ人間だし、誰を愛するのは勝手ですよね」と主張する人がいます。
そこで「もし、あなたの子どもがゲイだったらどうする?」と聞いたら「うちの子は絶対に違う。それは許せない」と言うのです。
これも明らかなに差別です。でもその友だちは気づいていませんでした。「自分は差別しない」と思うのは危険です。

まだまだ、みんなが「その人らしく生きる」ということが難しい時代だということがよく分かる。でも、少し前までは「ないもの」とされてきたことがだんだん見えるようになってきたことは、一歩前進。よろこばしいことだと思う。

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今回は「性」を起点とした「ありのままの自分」という視点を紹介したけれど、「その人らしさ」とはなにも、「性」に限られたものではない。

なにが好きでなにがきらいか。どんなことが得意で、逆になにが不得意なのか。だれにも負けない知識はどこにあって、知らないことはなんなのか。などなど……。

「多様性のある社会を実現」って言葉、私は好きじゃない。なぜなら多様性はもともと存在している。それをないように、見えないように扱ってきたのがこれまでの社会なだけ。日本だけでも1億3,000万人くらいはいて、そのだれもがみんな「異なる人」なのだ。それぞれの持ち味、「その人らしさ」を生かせるような世の中になってほしいなと私は思う。私もそのほうが生きやすいから。

そして、「カミングアウトすればいいのに」なんて、いちいち言われない社会になってほしい。


最後まで読んでくれて、ありがとうございます!