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解放的な開放という解法──秋吉浩気『メタアーキテクト──次世代のための建築』の読解メモ|倉方俊輔

モダニズムとの同一性

左のページから順に見ていってほしい。本書は、右ページに文章が続き、左ページに筆者のプロジェクトに関係する写真や図版と解説文が載っていて、それぞれが独立しても読めるようにつくられているが、その左ページはつくる喜びに満ちている。

具体的で、美しいのである。素材感のある物質が編成され、思いもかけない総体を見せている。見る者が爽快な気分になるのは、各部位が解放されているからだ。全体の形に縛られず、観念の奴隷でもなく、それぞれが内発的に組み合わさって、総体をなしているように感じられる。単に重力に屈するのではない、自由さがある。

なぜそうなっているかということも、背後に隠されていない。そのことが一層、清々しさを与える。それぞれの部位が組み合わさって伸びやかな空間が達成されている様子が、直感的に見て取れる。ここで言う空間とは、閉じられた三次元だけのことではない。それが室内であっても、頭上の覆いであっても、人を乗せる台や床のようなものであっても、それがつくられる前とは違う、人を待っている空気が成立していれば、それは空間と言えるだろう。本書の左ページに収められているのは、このように開放的な空間なのだ。

左ページの全体は「建築以前」「建築未満」「建築以降」の3部に分けられている。制作の背景から小さなもの、次第に大きな制作物へと展開しているが、建物でないものも建物と称されるものであっても、どれもが単なるオブジェや彫刻ではなく、人の行動を支える存在となっている。人間の身体と心情に働きかけ、それによって複数の人間をつなぐものなのである。こうした解法に、各部位がいかに貢献しているのか? 詳しい仕組みは、左ページ下部の解説文に目を通すことで、論理的にも納得できる。できあがった物体が保持している率直な素材感と、クールな図版の描法とが呼応している。客観化されていて、美しいと感じる。

さて、ここまで述べてきたような感覚は、建築におけるモダニズムと同一である。例えば、土浦亀城の乾式工法の追求とその説明図から、林雅子の着想の大胆さと軽やかさから、菊竹清訓の率直な各部位によって織りなされた全体像から、共通して受け取る爽やかさを想起させる。私たちはその背後に、驚くほどの物質と人間に対する洞察力があり、決断力があることを感じざるをえない。こうした建築家の能力のありようの根本は、数十年で変わるものではないし、単純にテクノロジーに置き換わりもしない。そんな個人が未来を切り開き、今もそのひとりがここにいるように思える。このような人間が本書を通して出現、あるいは復活していることに、私は冒頭から綴ってきた爽快さの根底があると思う。

つなぐ実践者として

これに対して、やや問題含みなのがタイトルまわりだ。この本の書名は『メタアーキテクト』という。ただし、その仕事が、昨今では珍しいほどに高いグレードでモダニズムを思い起こさせるとしたら、まず「メタ」ではないのではないだろうか。

作品だけで決めつける前に、文字による弁明を聴く必要があるだろう。右ページと左ページを併走させる本書の構成に関しては、最初に次のように記されている。

これにはメタとベタ、起業家と作家、構想と実装といった両義性を、あえてそのままのかたちで1冊の本のなかに共存させる狙いがある。(p.3)

「あえて」という語法は、たしかに「メタ」的だ。「狙い」というのも、それに近い。「戦略」と書いてくれていると、もっとそう言いやすかったのにと思っていると、その右ページには「本書は、つきつめると建築家の生存戦略の本なのである」(p.2)と書かれていた。先ほどの引用中の「起業家」や「実装」というのも昨今の、いかにもな言葉である。

ただし、このあたりの文章については正直、「周到な」という以上の形容を与えるのが困難なのだ。他の分野でも当てはまる内容だからである。だとすれば、これは「メタ」とは言えないのではないか。AとBのどちらにも当てはまってしまう内容は、両者のいわば公約数である。むしろ次元は低まっている。高次な「メタ」認識ではないだろう。本書の右ページに若干漂うビジネス書のような空気も、そこから来ているのではないか。数年で古びるバズワードを介して世界をフォローしているかのような安心感を与える常習性のある反価値のような雰囲気。

再び市民社会において建築と社会を再接続するには、建築家が「アントレプレナー×アーキテクト」へと変貌を遂げる必要があるのではないか。(p.2)

という先の引用の手前の文章も、そんな「ベタ」な「メタ」なのだが、そのことに冒頭から手放しに称賛してきた左ページに通じる、本書の右ページの良さがある。筆者は「アントレプレナー」(起業家)と「アーキテクト」(建築家)の共通性を、一心に探求しているのである。時にA、時にBといった小器用さではない。本書の価値は、通常の「メタ」が意味するような、次元がいくつもあるような世界とは違った性質にある。それとは正反対に、一元的なものを目指す姿勢が鮮烈なのだ。

本書における「メタ」は、客観的に認識するといった意味ではない。「つなぐ」というくらいに捉えたほうが、この本の独自性が引き立つ。隣接分野との公約数を見つけ、一元的にする、類まれなる真剣さがある。最良の意味で「ベタ」なのである。

「メタ」に込めた想いとして記されているのは、ここまで否定的に──そんな浅い読みをする人はいないと思うが、一般書めいたフレーズが重要だと捉えられたら残念なので──挙げた「自らを客観視することで高次の次元に到達し(メタ認知)」の他に2つ存在し、そこには「代謝を繰り返すことで(メタボライズ)、変貌(メタモルフォーゼ)を遂げる」(p. 2)とある。ここにもやはり、隣接するものをつなぎながら成長していこうとする人間がいて、彼は「アントレプレナー」と「アーキテクト」の二足のわらじを履こうとはしていない。本書の右ページと左ページの構成を説明した文章では、前者を「起業家」と後者を「作家」と記していたが、当然これは「起業家」の本ではないし、「作家」というのも照れから、あるいは不徹底さが非難される可能性を先回りして織り込み済みであるかのように装うために「あえて」付けたに違いない。しかしながら、右ページと左ページは両義性に引き裂かれてなどいないし、本書にはただひとり、つなごうと汗を流す「建築家」がいるのだ。

「アーキテクト」への違和感

次にタイトルの後半にあたる「アーキテクト」への違和感に移りたいが、ここまでずいぶん書いてきたので、多くを語る必要はないだろう。書中において「建築家」と「アーキテクト」の語は使い分けられていない。両者の次元を区別することで論旨をより明快にする方法もあったとは思うのだが、いずれにしても従来型の「アーキテクト」(建築家)は否定的に言及されている。試しに全文の小見出しから「建築家」を含むものを抽出せよと命ずると、次のような結果が得られる。

「10%の価値しか生まない建築家」「10%の人類のための建築家」「弱い建築家の可能性」「メタ化する建築家」「建築家が再び部品をつくる時代」

「建築家」が乗り越えられるべき対象とされている傾向がわかる。だから、タイトルは『メタアーキテクト』なのだろう。建築家は「未来の社会像を語りつつも、一方で市民社会を顧みず特権階級にのみ奉仕する」(p.12)、「完璧な作品をひとりで緻密につくり上げ、その制作過程において他者の介入を拒む」(p.106)といったように、抽象的な「建築家」への批判は威勢がいい。

他方で本書には、菊竹清訓、磯崎新、石山修武など、オーソドックスに有名な建築家が数多く登場する。彼らに対する記述は丁寧だ。おおむね肯定的と言っていい。

当然ながら、疑問が湧く。批判されている「建築家」は、一体どこにいるのだろうか? これも一般書にしばしば見られるような、存在しないストローマン(藁人形)を見事に論破し、読者の溜飲を下げる芸にすぎないのだろうか。

いや、そうではない。筆者の敵は明確だ。それは次の一文に表れている。

むしろ多くの建築家は建築士化しすぎてはないだろうか。(p.112)

全文中で「建築士」という単語が登場するのは、ここともう1カ所の2回だけだ。しかし、「戦後の『プロフェッサー×アーキテクト』時代の栄光を捨て、変わらねばならない時期に来ているのではないだろうか」(p.3)と述べられている割に、一向に具体的な批判が始まらないところからすると、筆者が問題視しているのは、むしろ「建築士」すなわち職業としての設計者であって、先ほど「プロフェッサー」が挙げられていたのも、両者を併せて「既得権益者」的な非難であることがわかる。じつはオーソドックスな有名建築家の像は、無傷なのである。

「建築士」という単語を使っているもう1カ所は、次の通りだ。

現在日本には100万人近い建築士が存在し、そのほとんどが都心部に集中しているが、これをアンバンドリング化し、地域に飛散することでメタアーキテクト化する必要がある。(p.134)

こちらのほうが、常識的な「建築士」という単語の取り扱い方だろう。通常の意味で連想する「建築家」は、「インテリ」で「強者」といった雰囲気をまとっているから、石を投げつけやすい。「建築士」という単語はその反対である。それにも関わらず、なぜ前者の部分では「建築士」をディスってしまったのだろうか。

後者の引用部における「アンバンドリング」とは、セットになっているものを切り離すといった意味である。それが「都心部」と対極に置かれていること、見え隠れする既得権益者への嫌悪、「いつから建築家は作品だけをつくる、設計だけを行う職能になってしまったのだろうか」(p.112)といったフレーズなどからすると、筆者が乗り越えの主対象としているのが、組織設計事務所の一級建築士のようなものであることが窺える。

通常の意味で連想する「建築家」は、そのように専門職として独立し、分離してしまう傾向をむしろ、つなぎ、解毒する側に置かれている。そう捉えると、肯定的な言及にも納得がいく。「アトリエ vs. 組織」の構図は意外に健在なのだ。本書の論旨が単に錯綜しているのか、慮ってそうしているのかはわからないが、「アーキテクト」(建築家)という単語を誤読させるように使用することは、低位の読みを誘発しかねない。そうだとしたら、もったいないと思う。

分業の世界を目指す人びとに抗して

筆者の真の敵は「分業」である。社会の高度化によって広がる、立場への分化。それをデジタルの力でつなごうとしている。意志が成果を上げていることを左ページの作品が証明している、美しさを持って。

加えて、右ページの意義も大きい。作品に至る思考と手法の過程を閉じず、共有のものにしようという筆者の真摯な思いが、詳細な文章に表れている。それが精緻に読まれることに、少しでも貢献できたらと考えた。したがって、先に否定的なことを書いてしまった。本書で開かれた思想と情報から、次の個人が生まれてほしい。

そして、秋吉さんには、どんどん進んでいただきたい。試み、繰り返し、上達していく建築家のプロセスに歴史のなかではなく、同時代人として、これからも立ち会えることを楽しみにしている。


倉方俊輔(くらかた しゅんすけ)
1971年東京都生まれ。建築史家。大阪公立大学教授。早稲田大学理工学部建築学科卒業、同大学院修了。博士(工学)。主な著書に『建築家 石井修』(共著、建築資料研究社、2022)、『京都 近現代建築ものがたり』(平凡社、2021)、『東京モダン建築さんぽ』(エクスナレッジ、2017)、『伊東忠太建築資料集』(監修・解説、ゆまに書房、2013-14)、『吉阪隆正とル・コルビュジエ』(王国社、2005)など。

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