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スピッツと青と理想の話

スピッツのボーカル・草野マサムネの世界観が大好きだ。純情さ、猥褻さ、潔癖さ、狡さ、神秘性、俗っぽさ、なんだか矛盾してるようで絶対一緒にいてほしい、素敵で怪しい概念が混ざり合っている。うにゃうにゃと矛盾するものたちが集まりながらも、”草野マサムネ”という確かな世界観を持つ、不思議な曲たちに引き付けられれるままに数年が経っていた。この思いを、どうにかして言語化したい衝動に駆られたので、この文章を書いている。


インディゴ地平線は、そんなスピッツの曲の中でも特に大好きな曲だ。清潔で、この世のどこにもない場所を歌っているように思う。
雑然とした日々が重ねられる日常を愛しく思う一方で、卑俗な世界にふと嫌気がさして、清い世界の存在を信じたくなる。そんな人は、案外多いんじゃないだろうか。

信じたかった世界の輪郭を、歌詞で、メロディーで、インディゴ地平線はあらわにしていく。

この歌から私が読み取ったこと、感じたことをこれから記していこうと思う。一応注意しておくが、この文章は「この曲はこういう意味である」ということを主張する考察ではない。聴く人の数だけ異なった顔を持つ、この曲の表情のひとつを言葉によって描きたい一心で書いている。
正直全体を通してかなり背伸びをした文章を書いてしまった。しかし、初めからノリノリで書けるほど文章慣れもしてないので、ある程度の硬さと見えはり背伸びはしばらく大目に見ていただきたい。すみません。

ぜひ聴いてください。


君と地平線まで 遠い記憶の場所へ 
ため息の後の インディゴ・ブルーの果て


地平線——インディゴ・ブルーの果ては、歩き続けたところでたどり着ける場所ではない。しかし、求める場所は、行きたい場所は、まだ見ぬ新天地ではない。「遠い記憶の場所」なのだ。たどり着けないと分かっているのに、私たちはその場所を確かに知っている。

プラトンのイデア論を、この曲を聞いた時に思い出した。われわれの魂はイデア界からやってきた。美しいものを見ると心が引き寄せられるように感じるのは、魂がイデア界を想い起こしているからであると、西洋思想最大の知の巨人は語った。この世のどこにもない、魂が焦がれる懐かしい世界の存在を、人間は遠い昔から知っていた。

あまりに美しいもの、特に生命と自然にかかわる美しいものを見ると、胸が締め付けられるように「かえりたい」と思うことがある。この「かえりたい」という気持ちは、「帰りたい」とも「還りたい」とも変換できると思う。何なのかもわからない「かえりたい」という想いが求める場所を、先ほど少し触れたプラトンは「イデア界」と呼び、草野マサムネは「遠い記憶の場所」と名付けた。
実体——肉を持たないことで、永遠に腐らず、不変の理想であり続けてくれる世界のことである。


寂しく長い道をそれて
時を止めよう 骨だけの翼 眠らせて

ギリシア神話にこんなエピソードがある。あるとき神々と人間は、大きな牛を山分けにすることにした。そこで人間を愛する神が、役に立つものを人間に与えようと、不公平な分配をした。神には美しい脂で包んだ骨を、人間には醜い内臓で包んだ肉を。そしていつまでも死ぬことも腐ることもない神々と、死して腐っていく肉を持つ人間の運命は分かたれた。

「骨」というのは印象としてはみすぼらしくありつつも、不変と本質の象徴でもある。骨は肉のように腹を満たすことはないが、中心でそれを支えながら、いつまでも腐ることなく残り続ける。
しかし、あくまで肉を求める我々の世界のなかでは、骨はあまりにも弱く、はかない。

「時を止めよう」「骨だけの翼 眠らせて」という言葉を並べた草野マサムネのセンスにしびれた。人は骨だけの翼で生きていくことは叶わず、生きていく限り時は流れ続ける。しかし、肉を持たない本質——骨だけの翼は、眠り隠れながらも、確かに内側に息づいている。それは外側の時の流れに干渉されない、永遠そのものでもある。

成長して変わっていくのは素晴らしいことだが、歪ながらも変わらずにいてほしいものも、人は内に秘めている。その歪みによって生まれる、他者と重なることはない寂しさを、それ故の掛け替えのない愛しさを、人は抱きながら生きていく。


凍りつきそうでも 泡にされようとも
君に見せたいのさ あのブルー

アンデルセンの童話、『雪の女王』と『人魚姫』をモチーフにした歌詞であることは明らかだ。両作品とも、愛のために限りない献身をみせる少女を題材とした物語である。凍りつきそうでも、泡にされたとしても、見せたいもの、共に見たいものがある。潔癖な理想を歌いながらも排他性を感じさせないのは、隣にいる人へ向けた目線の熱がもたらす暖かさが、この曲の根底にあるからだと思っている。

「君に見せたいのさ あのブルー」という歌詞から『優しいあの子』を連想した方も多いのではないか。私も初めて朝ドラで聴いた時には、草野マサムネの変わらなさに安心した。草野マサムネワールドは進化しながらも軸の変わらなさが最高に魅力的なのである。好き……

青という色は、若さの象徴として使われることが多いように感じる。青は未熟などうしようもなさも、まだ何かに染まらない故の純粋さも包み込む。しかしそれは時と共に失われていく……ように思われるが、本当にそうなのだろうか?
新アルバムに収録されている『花と虫』の「終わりのある青さ」「終わりのない青さ」という歌詞がとても好きだ。心の外側の、肉体の青さは永遠であるとはとても言えない。しかし、人は心の内側には変わらない青さを抱き続ける。それは時の流れの外側にある、ひとりひとりの変わらない本質とも言えるのかもしれない。


歌詞をいくつか特にピックアップして語ったが、「希望のクズ」「歪みを消された 病んだ地獄の街」「少し苦しいのは なぜか嬉しいのは」これらの歌詞も本当に大好きだ。正負の意味をもつ言葉が入り交じり、ぐちゃぐちゃにながらも、清潔な一つの世界を草野マサムネは歌い上げる。

綺麗な言葉を並べただけでは、人の心は動かされない。どこか安っぽい嘘くささがそこにはつきまとう。理想を剥製化せずに歌える歌手がどれほど貴重だろうか。今日もスピッツに感謝しながら、インディゴ地平線を聴くのだ。楽しい。


今回やたら肉——俗的なものを嫌悪しているかのような文章になってしまったが、スピッツの魅力は『インディゴ地平線』に見られるような清潔・清純さと、妙に肉感のある俗な艶っぽさが入り交じるところだと思っている。気力が続いたら、『エスカルゴ』か、スピッツの歌詞の中に登場する「ゴミ」についての文章を近いうちに書きたい。

ここまで読んでいただき、ありがとうございました。


#スピッツ #インディゴ地平線 #草野マサムネ


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