スリ・ユクテスワの霊界通信報告7~観念界について
ヨガナンダの元を訪れたスリ・ユクテスワは、「霊界」について多くの情報を語りました。最後に「幽界」の上の階層、「観念界」の様子なども詳細に語っていますので見てみましょう。
・観念界
観念界における欲望は、知覚作用のみによって満たされている。観念体だけを身に着けている魂は、いっさいの執着や束縛からほとんど解放されている。彼らは全宇宙を、神が夢みられた観念の具現化したものであると観ており、どんな物でも、また、どんな事でも、想念の中で実現させ、客観的に知覚することができる。彼らの繊細な感受性は、もはや肉体の感覚的喜びや、幽界人の楽しみを、粗野で息苦しいものとしか感じない。創造主と同じように、いろいろな宇宙をつくり出すこともできる。
魂は本来、姿や形をもたないものであって、身にまとう衣すなわちからだをもつことによってのみ識別される。しかし、一つでもからだをもっているということは、また、満たされぬ欲望があることを意味している。しかし、英知によって完全な無欲の境地に達すると、ついに束縛の殻から脱け出して無限なるものと一つになり、完全な自由(解脱)を達成るのである。
観念界の人々はみな、物質界の究極の構成要素が電子でもなければ、また、幽界の根本要素がライフトロンでもなく、両者とも実は神の想念の超微粒子から出来ていて、それがマーヤという相対性の法則によって分離され、そのために、被造物が創造主とも、またお互いどうしとも、別個に存在して見える、とうことを会得している。
観念界の魂たちは、お互いを、至福の宇宙霊が個別化した点として認識している。彼らにとっては、自分の周囲のことがらはすべて自分が考えたことがらなのだ。彼らは、自分のからだと想念との違いは単に観念の問題にすぎないことを知っている。
観念界の住人は、考えるだけで見たり、聞いたり、嗅いだり、味わったり、さわったりすることができる。彼らは、宇宙心の力によって、どんな物でも創造したり分解したりすることができる。
観念界では、死も生まれ変わりも想念の中にある。ここの住人たちは、尽きることのない永遠に新しい知識を聖なる唯一の楽しみにしている。彼らは平安の泉を飲み、何の執着も残さぬ知覚の大地を自由自在に歩きまわり、果てしない至福の大海を泳いでいる。
観念体をまとった魂は、たいてい数千年間観念界にとどまっている。そして、さらに深い至福を経験することによって完全に解脱すると、ついに一個の観念体から脱け出して、広大無辺な観念宇宙を自分のからだとするようになる。こうなると、それまで身に着けていた個別的な観念の渦や、個々の力、愛、意志、喜び、平和、直感、安心、自己統御、精神集中等のあらゆる波が、永遠の至福の海に溶け込んでしまう。魂はもはやその喜びを、一個の意識の波として経験する必要はなくなり、大宇宙意識の海と一つに溶け合って、そのすべての波をわがものとする。それは永遠の笑いであり、永遠の歓喜であり、永遠の感動である。それはついに、個性をもったまま、無限なるおかたと一つになるということである。
簡単にまとめると、「執着」、「束縛」、「欲望」などから解放されれば、幽界から観念界へと行くことができそうですね。
「肉体」でも「幽体」でも「身体を持つ」という状態は「満たされる欲望がある」ことを意味する・・・。例えば、アブラハム・マズローの提唱する自己実現理論における最も低次の基本的欲求を生理的欲求と云われますが、人間が生命を維持するための「睡眠欲」・「食欲」・「性欲」などがこれに当たります。
現世において、「肉体がある限り(生きている限り)、生理的欲求は必要、また五感をフルに活用して楽しく生きよう」という考え方もあれば、一方、修行僧やヨギのように、「生きている間に、少しでも生理的欲求を薄めよう、第六感覚を鍛えよう」という生き方もあります。
これらは、どちらが正しい、正しくないという事ではなく、個々の人が背負っているカルマによる選択なのかもしれませんし、前者の場合、どれだけ欲望に執着しているかが問題になりそうに思います。要は、欲望に対して、どれだけアッサリしていられるか(けして粘着質にではなく)、手放すことができるか、それが個のカルマの大小となるように思うわけです。
上記のリンクの「マイヤーズの霊界通信」によると、
霊界は、現界、幻想界、色彩界、火焔界、光明界の五つとなっています。レポートは「色彩界」から送られてきているので、スリ・ユクテスワと近い階層なのかもしれません。内容を比較すると更に深く学べると思います。
●イエス
イエス・キリストの魂は、イエスとしてこの地上に生まれる前にすでに最高の解脱を達成しておられた。すなわち彼もまた、その過去世において三つの進化段階を経て、宇宙霊の中によみがえる力を獲得されたのである。彼の死から復活までの三日間は、人間が解脱に至るこの三つの段階を象徴している。
●地上界~幽界~観念界のつながり
地上から来た魂が長く幽界に住みつくことができるようになるためには、その前に、肉体的カルマや欲望をすべて果たし終えなければならない。
幽界には二種類の魂が住んでいる。まだ果たしきれぬ地上のカルマをもち、それを果たすために地上に再生する必要のある者は、肉体の死によって地上から幽界に来ても、一時的訪問者として、幽界の定住者とは区別される。
地上のカルマをまだ果たしきっていない魂は、幽界の滞在期間が終わって幽体を脱ぐ時期が来ても、すぐに高い観念界にはいることは許されず、引きつづき肉体と幽体に交互に身を包んで、地上界と幽界の間を往復しなければならない。
霊的にもっと未熟な魂の場合は、肉体の死によって幽界に移っても、その間のほとんどが死の眠りという深い昏睡状態に陥っているため、幽界の美しさすら意識しない。そして、幽界でしばらく休息すると、再び物質界での経験を積むために地上に帰って行く。こうして何度か訪問の旅をくり返しているうちに、彼はしだいに精妙な幽界に自分を順応させることができるようになる。
幽界の定住者は、すべての物質的欲望から完全に解放されているので、もはや粗雑な波動で出来た地上の世界に帰る必要はない。彼らに残っているのは、幽体のカルマと、観念体のカルマだけである。彼らは幽体を脱ぐと、より霊妙で限りなく精妙な観念界に昇って行く。そこで、宇宙法則によって定められたある一定の期間を過ごすと、今度は幽界で果たしきれなかったカルマを完全に取り除くために、再び新しい幽体を身に着けて、ヒラニャローカまたはこれに似た同様の高い幽界の星に生まれ変わって来るのである。
地上のたいていの人間は、生前、幽界生活のより高い喜びや幸せを瞑想によって味わう修練を怠っているために、死後もなお地上の粗野なはかない快楽に戻りたいと願う。ちょうどそれと同じように、多くの幽界人もまた、彼らの幽体が正常に崩壊してゆくときでも、観念界の高い霊的喜びの状態を想像することができないために、依然として幽界の濃厚な幸福に執着して、再び幽界の楽園に生まれ変わりたいと希望する。このような人たちは、幽界のそうした根強いカルマを完全に果たさないうちは、創造主との間にわずかな薄い仕切りしか残していない観念界に定住することはできないのである。
魂が、もはや楽しい幽界の経験を願わず、また、そこに帰りたいという誘惑にも陥らなくなったとき、初めて観念界にとどまることができるようになる。そして、さらにそこで、いっさいの過去の欲望の種子である観念体のカルマを完全に根絶し終わったとき、魂は、これまで自分を閉じ込めていた三つの無知の栓の最後の分を開いて、観念体という最後の容器から脱け出し、ついに永遠なるおかたと一つに融け合うのである。
「肉体的カルマや欲望をすべて果たし終えなければならない。」とありますが、「欲望」は薄める、あるいは執着心を失くす方向で良いのかと思いましたが、「果たし終える」という表現からは、「味わい尽くす」というのも有りでしょうか(笑)
どの段階でも、その界にとってのカルマがあるようですね。1枚ずつ、服を抜いていくような順調な状況なら良いでしょうが、3枚脱いでは、また2枚着こんで・・・
幸せは歩いてこない だから歩いてゆくんだね~♪
一日一歩、三日で三歩、三歩進んで二歩下がる~♪
(三百六十五歩のマーチより)
こんな感じで、山あり谷あり、螺旋状に進んでいくのかもしれません。
最期には観念界から抜け出し、神と一つに溶けあうのがゴールということでしょうか。
今一度、上図で「観念界」を確認してください。イエス・キリストは観念界の上、創造主の領域に住まうと思われますが、ならば、神と一つに溶けあっていても「個」は維持されているのでしょうか?
「シルバーバーチの霊訓」より「個性」に言及している個所をピックアップしてみます。
物的な尺度で物事を考えるからそれが問題であるかに思えてくるのです。地上で見せる個性は個体全体からすればホンの一部分にすぎません。私はそれを大きなダイヤモンドに譬えています。一つのダイヤモンドには幾つかの面があり、そのうちの幾つかが地上に誕生するわけです。すると確かに一時的な隔絶が生じます。つまりダイヤモンドの一面と他の面との間には物質という壁ができて一時的な分離状態になることは確かです。が、愛の絆のあるところにそんな別れは問題ではありません。愛する者同志を永久に引き裂くことはできません。(シルバーバーチの霊訓4 P61-2,66)
現世で「自分と思っているもの」は、海面からわずかに飛び出た氷山の一角だとも云われます。上記ではダイヤモンドの一面と比喩していますが、自分自身で知らない大きな自分がいるわけですね。こうなると自分で思っている自分の個性は限定的だということになります。
(類魂の一団が何百万年かの後に完全に進化しきって一個の霊になるのか)
そういうことは有り得ません。なぜなら進化の道程は永遠であり、終わりがないからです。完全というものは絶対に達成されません。一歩進めば、さらにその先に進むべき段階が開けます。進化すればするほど個性的存在が強くなり、一方個人的存在は薄れていきます。おわかりですか。個人的存在というのは地上的生活において他の存在と区別するための、特殊な表現形式を言うのであり、個性的存在というのは霊魂に具わっている神的属性の表現形式を言うのです。進化するにつれて利己性が薄れ、一方、個性はますます発揮されていくわけです。(シルバーバーチの霊訓4 P78)
「個人的存在」と「個性的存在」。少し解り難いですが、一般的に云う個性からエゴを取り除いたモノが個性的存在ということになりましょうか。
次回、まとめをして、このシリーズを終えたいと思います。
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