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教育本としての「令和版 現代落語論」

今夏、会社の同僚から「最近出た本で、子どもの教育のためになる本はないでしょうか?何か一冊、お薦めしてください」という問い合わせを受けた。
私はいろいろ考えた。その同僚は経済の専門知識があるので、この分野の本はややこしいことになりそうだ。それにしても良書はたくさんあるが、最近の新刊から一冊を選ぶとなると迷うものがある。回答は長くできないままだった。
でも、先日友人から送られてきたある本を読んだ直後、私は迷いなく彼にメールを書いた。
「お待たせしました。良い本、見つけましたよ。タイトルは『令和版 現代落語論』という」

世界各国で働いた人々の中には、ビジネスにおけるユーモアの重要性を実感された方が多いかと思う。私の実体験に基づく独断と偏見で言うと、要人とのお茶や会食の席で、最も重宝されるのは控えめにしていながら要所要所で実体験に根ざした小話によって座を盛り上げられる人だ。
こういう場で、他の参加者に気を遣わせ「つまらない人間=アタマの悪い人間」だと認知されてしまうと、二度と内輪の会合に呼んでもらえなくなる。たとえ学生時代の成績はトップでオックスフォード卒だろうが、全く関係ない。ましてやどの中学や高校に通ったとか、共通一次(後の大学入試センター試験)の成績がどうだったのかなんて何の意味もない。
逆に「面白い人間」と認められると、仲間として受け入れられる。次々に少人数の集まりに呼ばれるようになり、一気に世界は広がることになる。だから政治家、外交官やビジネスパーソンでも、いざという時の小話のネタをいくつか仕込んでいることが多い。ユーモアは真剣勝負であり、戦いなのだ。
そしてこういう技量を向上させるために、目の前の観客に語りかける伝統芸能である落語ほど役に立つものはない。うすうす気付いていたことであったが、本書を読んでそれは確信に変わった。ネタバレを憎む性なのでここに詳述はしないが、皆さまも読めば私と同じ感想を持つことと思う。
もう一つの教育的利点としては、落語を通じて文章力の向上が見込めることだ。笑いの世界は、とても厳しい。話の内容に少しでもわかりにくいところがあれば、すぐに観客の冷ややかな反応を引き起こす。
だから、一流の落語家の話はほどよく鍛え上げられた青年の肉体のように明快で、スピード感がある。語る速度を速くしても、観客の誰も置き去りにしない徹底したわかりやすさと描写力がある。
特に本書の前半部分を読んでほしい。わかりにくさのカケラもない。本書の文章は口語体であり、限られた紙幅に最大限の情報を詰め込む新聞記事に比べると無駄がありそうな風にみえる。しかし、実は読者の理解を助けるための「必要不可欠な無駄」しかない。
一見簡単に書けそうなこういう文章ほど、実は書くのは最も難しい。ある一定の内容を伝えるにしても、言葉を削ぎ落としすぎれば理解がしにくくなるし、たくさんつづれば散漫で読みづらくなる。最も適切なラインは綱渡りのロープにも比せられ、名文はその上にある。私は本書を読み進めるにつれ、高度20メートルで命綱なしに平然と綱渡りをする曲芸師を想起した。
余談だが、太宰治も落語から学んで文章力を高めた一人だった。太宰は青年時代、寄席に通い詰め、伝統落語の語り口やオチを徹底的に体に取り込んだ。それが「駆込み訴え」や「走れメロス」「女生徒」などの名作の誕生につながった。落語がもたらした日本文学への貢献はとてつもなく大きい。

もちろん「ビジネスに役に立つから」という動機で趣味を始めるのは馬鹿らしいことだ。親が子どもに「おまえの将来にとってプラスになるから落語を聴け」と強要したら、かえって逆効果になるだろう。
本書には、たくさんの人々の落語への興味の扉を開きたいという著者の切なる願いが込められている。だから私は親御さんや保護者には、まず自分用に一冊買うことを薦める。読んで面白いと思ったら、リビングにでも置いておけばいい。家庭内の会話でも触れたらいい。それで十分だ。あとは本が勝手にその役割を果たしてくれる。
落語の楽しみを知って、それに夢中になることで自分や子どもの成長が後押しされるというのは、とても素敵なことだ。私はすでに自分用に一冊確保したが、子供用にもう一冊、買い求めたいと考えている。


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