【歴史散策】ヨーロッパ音楽の源流を求めて (3): 幻の民 ケルト
この記事は【歴史散策】ヨーロッパ音楽の源流を求めて (2):アルハンブラ宮殿の奪回 からの続きです。
” The Last Rose Of Summer ” By メイヴ・ニー・ウェールカハ
From her album: 「A Celtic Journey」 (2006年) (”庭の千草”の原曲です)
ケルト民族(the Celts)は、アルプス山脈の北方、東ヨーロッパの草原に、
紀元前1200年頃に、中央アジアから馬と車輪付きの乗り物(戦車、馬車)と
鉄器を持ってヨーロッパに渡来した、インド・ヨーロッパ語族 ケルト語派 の民族を指します。
彼らの歴史は、1846年のハルシュタット近郊で大規模な先史時代の墓地が発見されたことにより、広く知られるようになりました。
(冒頭の写真は現在のハルシュタットの風景です。)
詳しくは、「幻の民 ケルト人」という英国BBC放送にて作成されたDVD
(日本語・英語)をご参照くださいませ。
英語版のみですが、YouTubeにても上記は第1部から第6部に分けられて公開されております。
なんと驚くことに、青銅器時代に、中部ヨーロッパに独自の文化圏を築き、その後、鉄器時代初期にかけて「ハルシュタット文明」(紀元前1200年~紀元前500年)を発展させました。
( 紀元前1200年頃というと、古代トルコにあって鉄生産技術を唯一持っていた「ヒッタイト王国の崩壊」事件、位しか思いつきません。その難民が黒海を渡って東欧に移動したのかもしれません。これは、謎です )
いづれにしろ古代ケルトの人々は、イタリア北部のアルプスの中腹、現在のオーストリア中部 に存する美しい町ハルシュタット(Hallstatt)を中心にして、岩塩の採掘を行い、多くの富を蓄積しました。
( 町の外れに、古代ローマ以前にまで遡る岩塩坑があり、この塩坑からは古代の墓地遺跡が発見され、ハルシュタット文化の由来となりました。
Hallはケルト語で「塩」を、Stattはドイツ語で「場所」を意味します)
( ちなみにW.A. モーツァルトの出身地ザルツブルグも岩塩の産地であり、
ザルツは「塩」、ブルグは「砦」を意味します。モーツァルトを苦しめた
大司教ヒエロニムスはローマ教皇庁から送られた岩塩生産と利権の管理者でありました。)
彼らは南欧の文明社会(ギリシャ・ローマのこと)としきりに交易を行い、
その武力によって傭兵として雇われることもあったことが、ギリシャ・ローマの文献に記録が残されています。
その、交易と人の往来はイベリア半島西部、グレートブリテン島そしてアイルランド島にまで及んでいました。
紀元前400年頃にはマケドニアの金貨をまねたケルト金貨を各地で製造し、貨幣流通という文化を形成します。なんと、紀元前400年です!
紀元前のヨーロッパに、ギリシャ・ローマ文明とは異なる文明を築いた民族が居たこと。
農耕と交易により栄え、部族単位に暮らして家族愛に満ちた人達が居たこと。
部族単位での集団農耕を行いながら、選挙という制度や部族を超えて流通する貨幣(ケルト金貨)まで発行していたこと。
すでに「火葬」という衛生的で高度な式典を持っていたこと。
彼らは、彼らの歴史や文化を文字にて伝承することを好まず、口承にて子孫に伝えていたこと。
・・・・調べていくと、いちいち、驚くことばかりです。
ローマ人は彼らをガリア人と呼び、一種の恐れと敬意を払っていたようです
が、帝国周辺では領土拡張を目論むローマとの間で小競り合いが絶えませんでした。
やがてゲルマン人の圧迫を受けたケルト人は西方のフランスやスペインに
移動し、紀元前1世紀にはローマ帝国のカエサル・シーザーによって征服されます。(カエサル・シーザーの書物「ガリア戦記」の戦闘の相手はケルト
民族なのです)
以降、500年にわたってローマ帝国の支配を受けたのち、ケルト人は俗ラテン語を話すようになり、中世にはゲルマン系のフランク人と融合していくのです…
現代におけるいわゆる「ケルト人」とは、残存するケルト語派の言語が話される国である、アイルランド、スコットランド、マン島、ウェールズ、及びブルターニュの人々のことを指します。
現存するケルト系言語の主だったものは:
アイルランド語(母語人数:~30,000人;よく話せる人数:~100,000人)
スコットランド・ゲール語(母語人数:~45,000人)
ウェールズ語(母語人数:~200,000人)
ブルトン語(母語人数:~750,000人) です。
有名な「エンヤ」は、ゲール語で詠っているのは皆様よくご存知のことでしょう。
さて、私スピンが注目するのは「ブルトン語」であり「ブルトン人」です。
4・5世紀になって(イギリス)ブリテン島やガリアにおけるローマ帝国の支配が大きく後退すると、ゲルマン系アングロ・サクソン人の襲撃を受けた
ケルト人が、ブリテン島西南部から海峡を越えて大量に欧州に移住します。
彼らは、現在のフランスのブルターニュ(フランス語: Bretagne、ブルトン語: Breizh)地方を本拠としました。
ブリテン島から来たケルト人達をフランスではブルトン人と呼び、彼らが住む地域をブルターニュと呼ぶようになったのです。
世界史を調べると、中世初期には三つの王国が分立しましたが、やがてブルターニュ公国に統一されます。ブルターニュ公国はフランク王国に形式上、臣従しましたが、実質的には独立的な政治・社会を構成しました。
ゲルマン系フランク人の支配が形成されたフランス主要部とは異なり、ブルターニュでは、現在も、ケルト系の風俗・風習が強く残存しています。
近世になるとフランス王国の力が強大化し、1532年に、ブルターニュは
フランスに併合され、この以後はパリから派遣された知事が地方行政に当り、またフランス皇太子は代々ブルターニュ公を名乗るようになります。
これはイギリス皇太子がプリンス・オブ・ウェールズを名乗るのと同じ意味です。
歴史散策はこれで充分でしょう。
紀元1世紀頃から、ケルト民族の一部はフランス人と融合する道を歩き、
その文化を色濃くヨーロッパ全域に移植したのです。
つまり、ヨーロッパには、ギリシャ・ローマ文明以外のもう一つの文明があったのです。
しかし、その文明は、自らを記録することなく、異なる文明の中へ自らを融合させて、歴史の表舞台から透明人間のように消えてしまった、のです。
アメリカ大陸発見後、多くのケルト系住民が移民したカナダ・ケベック州には、公用語をフランス語とする地域があり、そこにも同様に、アイリッシュハープを主軸としたケルト音楽が、現在も色濃く伝承されていることも、
以上のように考えれば、納得できるのです。
「エンヤ」がゲール語で詠う「Silent night」をお聴き頂ければと存じます。
「シシリアーノ」の源流と思ってしまいそうな、美しく、静逸この上ない、音楽であることとお感じ頂ければ幸いです。
⇒【歴史散策】ヨーロッパ音楽の源流を求めて (4):ケルト音楽とフランス・
ロマン派 へと続きます。
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