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【日本語版】(1)「レクイエム」という音楽 W. A. モーツァルト:大ミサ曲 ハ短調 K. 427

演奏:オランダ放送フィルハーモニー管弦楽団
   オランダ放送合唱団
指揮:マルクス・シュテンツ
収録:2018年4月1日 at Het Concertgebouw Amsterdam.
演奏時間:57分

洋の東西を問わず、常に「権力者」は意図的に「反権力勢力」を生じさせるものであります。

"生じさせる" という婉曲な表現よりは、"仕立てあげる" という直接的な表現が、ひょっとしたら正しいのかもしれません。
だって、「反権力勢力」が存在すること自体が、逆説的に、権力者の存在を強烈にアピールするのですから。

歴史をひも解くと、常に、権力者は、反権力側を抑制する( 弾圧、ともいいます )行動によって、より強固な力を手中に収めることが、いくつもの例で実証されています。

判りやすい、つい最近の日本での例では、小泉さんが単純でシンプルな
「反対勢力」という言葉を使うことにより、自らの哲学を正当化し、権力
構造を明確にしつつ揺るがない政権運営を行うことに見事に成功しました。

さて、中世カトリック教会は、小泉さんよりもう少し手の込んだ「演出」を
使いました。

堕天使「ルシファー」の存在を吹聴し、享楽に逃避する人民の神と決め付け、戒律を守らぬ人民をルシファーを信ずる「悪魔」と称し、バチカンの教義に
異を唱える宗派を「異端」と称し、異端審問により、魔女裁判により、滅ぼしました。
殺戮を、神の名の下に正当化する、実に手の込んだ作戦です。

そうすることにより、バチカンの権力は強力となり、王侯は異端とされることを恐れ、封権諸侯の影響をしのぐバチカンの支配構造を確立したのです。

権力者であるカトリック教会が、人民を神の下へ送り出す崇高な儀式は、
権力者の威光を示すための最高の儀式として、荘厳にして絢爛、見事に様式化されました。
そこに使われた葬送の音楽が「レクイエム」であります。

バッハの時代、レクイエムは紛れもなくキリストへの鎮魂でありました。
神を讃え、神の怒りに許しを請い、人間の救いを願いました。
同時に、荘厳にして天空に聳え立つ葬送の儀式は、権力者バチカンの威光を示すものでした。

この教会の権威に起源をおく「レクイエム」は、それぞれの時代の作曲家によって、その生きた時代を映すものとして変化していきました。
この「時代を映す」という点を聴き取ることが、クラシックの面白さであると、私スピンは思っております。

モーツァルトの最初のレクイエム「Great Mass in C minor, K. 427」も、
キリストへの鎮魂歌です。
バッハの時代と同様、神を讃えるミサのために作曲されました。死の匂いはどこにも感じられません。絢爛豪華な祭壇と、煌びやかな典礼衣装を身にまとう司祭たちの栄光を表現しています。

モーツァルトの白鳥の歌(最後の曲)「Requiem KV 626」では、もう
神も教会も登場しません。
まぎれもなく、モーツァルトの父への鎮魂と、懺悔と、後悔の曲です。
曲の構成はなるほど、教会のレクイエムの形式を踏んでいます。
が、その一曲一曲には、心底からの父親の死への悼み、報いることも
出来なかった自分への容赦ない懺悔の想いが込められています。

ブラームスの書いた「A German Requiem, Op. 45(ドイツレクイエム)」には、ヨーロッパを破壊していく政治思想によって 傷つき 苦しむ人々への「慰安と祈り」が 満ち満ちています。
変容する世界の災いから人々を救って欲しいという、神への祈りの曲であるといってよいでしょう。

クラシック音楽は権力によって育ちました。王侯・貴族を賛美するもの
として育ってきました。
ですが、次第に作曲家たちは、人間愛に目覚め、人類の平安を願う想いを
作品の中に織り込んで来ました。

そのような、クラシック音楽の深奥にある、社会の変容を悲しみ、人類への救いを希求する願いを、是非、聴き取って頂きたく願うのです。


⇒ 「レクイエム」という音楽(2)レクイエム KV626 へ
   続きます。

≪ご参考≫
今回、拝借したYoutube Musicは、2018年4月1日(日)に、オランダ・アムステルダムの王立コンセルトヘボウ・ホールにて行われたサンディ・コンサートの映像です。
なんと18ユーロ(約2100円ほど)で聴くことができる、クラシックファン垂涎のコンサートであります!

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