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チャイコフスキー:組曲「くるみ割り人形」(作品71a)

Tchaikovsky Nutcracker Suite Op 71a
指揮:ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ
演奏:ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
収録:不詳

00:00 第1曲 序曲
03:05 第2曲 行進曲
05:31 第3曲 金平糖の精の踊り
07:37 第4曲 ロシアの踊り
08:48 第5曲 アラビアの踊り
12:33 第6曲 中国の踊り
13:47 第7曲 葦笛の踊り
16:22 第8曲 花のワルツ

ロシア的ダンディズムを基本にしつつ、東洋風で振幅の深い、こぶしの効いたメロディ展開、そしてヨーロッパ的クラシック音楽の曲想と構成。
円熟期を迎えたチャイコフスキーが残してくれた名作です。

1877年のバレエ『白鳥の湖』の完成の後、約10年間にわたる、フィレンツェやパリ・ナポリ・オーストリアなど、ヨーロッパ周辺を転々とした、放浪の旅を終え、故郷ロシアに居を構えたチャイコフスキーは、既に、「ロシアの大作曲家」の評価を欧米世界で得ていました。

交響曲第5番 作品64 の発表 や、 ピアノ協奏曲第1番 作品23 に有名な「第1楽章 冒頭のピアノによる分厚い和音連打」を追加して 完成した 1888年。

翌1889年には、ヨーロッパ各地で自作の演奏会ツアーを行いながら、
幻想序曲「ハムレット」を作曲して ノルウェイの E. グリーグ へ献呈したり、ツアーの途中のライプツィヒで、かつての恋人デジレ・アルトーと再会したり、充足した日々を送っていたものと思われます。

1890年、フォンメック夫人から財政援助を打ち切られた事にめげることも
なく、歌劇「スペードの女王」や バレエ音楽「眠れる森の美女」を発表
したり、活動は精力的で、明らかに活発化していました。

1891年、この「くるみ割り人形 作品71」を作曲。
ニューヨークのカーネギー・ホールのこけら落とし (劇場完成後の最初のお披露目演奏会) に 出演する為に、大西洋を渡り、アメリカに招待され、
NYCでは「ロシアの大作曲家、来る!」という見出しが新聞に踊りました。

この時、新作の本曲を披露した訳ではなく、以前作曲していた「戴冠式祝典行進曲」をちょこっと手直しして、タイトルだけ変えた曲を指揮して演奏
したそうで、ニューヨークのファン達は、ちょっと肩透かしを喰らった反応を示したようですが・・・

そして翌々の 1893年5月 には、英国ケンブリッジ大学音楽協会から、
サン=サーンスやブルッフ、グリーグらと共に「名誉博士号」を授与
されるという栄誉を得ます。
押しも押されぬ世界的大作曲家として、西欧からも賞賛されたのです。

はた目から見ると、ある種の高揚感に包まれた輝かしい時間に 彼は居た
もの、と想像するのが自然ではあります。

しかし、彼が生きたロシア・世界は、まさに激動の時代の真っ只中に居た
ことを想起いただくと、別の映像が浮かんでくるように思います。

チャイコフスキーが法律学校を卒業し、法務省に勤務し始めた1859年の僅か前の1853年 - 1856年は、クリミア戦争のさなかでした。
フランス・オスマン帝国・イギリスを中心とした同盟軍と、ロシアとが戦い、互いに消耗戦を繰り広げた悲劇的大戦争です。

ペテルブルク音楽院に入学した1861年は、 ロシア皇帝が「農奴解放令」を
発布した年。
農地で働けなくなった小作農さん達がどっと都市に押しかけ、プロレタリアートといわれる労働者階層が形成され、同時に、新しい商売や事業で大金を得たブルジョワジー階級が増加して、ロシアに資本主義経済らしきものが生まれ始める年です。
重要なのは、農奴解放とは、領土が産む膨大な利益で生きていたロシア貴族制度が崩壊し始める、ということであり、大社会構造変革が始まる混乱に
突入していくのです。

23歳のときに法務省の職を辞して音楽に専念し始めた1863年には、ロシアの植民地的立場であったポーランドで武装反乱(1月蜂起)が発生。
この労働者蜂起がきっかけになって、貴族中心だった知識層(インテリゲンチャ)の世界に変化が生じ、聖職者や下級官吏・商人など様々な階層の知識人が現れ始めました。
その中に、共産主義社会の実現を目指すナロードニキ(人民主義者)も、
うごめき始めます。

チャイコフスキーがヨーロッパで放浪していた時期と重なる、1877年-1878年は、ロシア帝国とオスマン帝国(トルコ)の間で戦争がはじまり、さらに1881年には、ロシア皇帝アレクサンドル2世が暗殺されるという大事件が
勃発し、ロシアは騒然とした混乱の中に突入していきます。

そして1890年、チャイコフスキー50歳、フォンメック夫人から財政援助を打ち切られた年は、マルクス主義が台頭し、急進的なボリシェヴィキ(多数派)を率いる、あの「レーニン」が登場した時代です。

以降、ロシアは、共産主義革命の胎動に抗い続ける時代が続き、遂には、
第1次世界大戦終盤の「共産主義政権樹立」という歴史にひた走るのです。

チャイコフスキーが、愛する祖国ロシアの変貌と衰退を目の当たりにして、悲観していたことは、容易に想起できることでしょう。

そして、心中に愛するロシアの運命を憂う想いがうずまく中、次の大作、「交響曲第6番作品74」の構想が、はっきりと形作られていったことで
ありましょう。

⇒ その、チャイコフスキー:交響曲 第6番 ロ短調 作品74 へ、
  まいります。


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