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マスターデュエルと自分語り

マスターデュエルをやった。久々の遊戯王。青春時代を捧げ、あるいは青春自体も捧げたかもしれない。愛したゲームだった。
いろんなものをかなぐり捨てて選考会も行ったし、親にもたくさん迷惑をかけた。色んな土地に遠征し、色んなところで普通の人生ではおよそ会わないであろう様々な背景性格年代の交友ができ、大会を作り、今でもつかず離れず遊んだり話したりできる仲間ができた。地元の学校の付き合いの延長なんていうレベルに留まらない、人生の約半分を共に過ごしてきた人すらいる。冷静に考えればすごい話である。
仲間と共に楽しく、時に真剣に過ごした時間がまた帰ってくるのではないか。そんな高揚を予感させてくれた瞬間だった。

カードのインフレはあるためゲーム内容の性質的変化こそあったが、本質的にゲーム自体は何も変わっていなかった。感動すら覚えた。
妨害、見知らぬ相手のカード、自分の好きなデッキが上手く回った時の達成感、綺麗にプレイがハマってゲームに勝った時の高揚感。継続的にプレイしていた時期こそゲーム内容の性質的変化に執着していたため一時期は「遊戯王、変わっちまったな…」などと斜に構えて穿った見方の高説を垂れる老害ポジションを地で行っていたはずが、いざ距離を置いて久々にやってみると変わらない遊戯王のゲームとしての愉しみがそこには確かに存在していた。

でも自分自身は変わってしまっていた。およそ中高生の時にそうしていたように、純粋に受け取り続ければ良いはずのこのワクワク感が何なのかを分析するようになってしまった。
俺が愛したのは友達と楽しく遊ぶ時間でありコミュニケーションであり、その媒介役となったものがたまたま遊戯王というカードゲームだったにすぎなかっただけなのだ。好き放題にデッキを考え、情報を探し、ふざけつつも真面目に探究し、飯を食い、ゲームと関係ないことを共有する、あの瞬間がトータルで好きだったのだ。
周りの競技志向がどんどん増す中、モチベーションのギャップに悩み、向上心に悩み、技術不足に悩み、自分の不出来に悩み、いつしか諦め、投げ出していた。俺は弱かった。手を変え品を変え何とかしようと苦心したが、根底で本当に自分が望んでいることには抗えない。俺は競技者ではなかった。やりたいことでないことは続かない。でも自分を律することができなかったことに対する自分自身への不快感や憤りだけは強く残る。表面的なノウハウこそ蓄積されたが、それは同時に自分を大いに傷つけるものでもあった。
デジタルカードゲームが主流になって、愛したはずのコミュニケーションというものも滅法減ってしまった。ゲームをやる時間は歳を追うごとに減っていった。今思うと素直に息苦しかった。

それでも昔取った杵柄と今日もマスターデュエルを起動している。
純粋にその人自身が楽しめるだけ楽しむ、ただそれでいいのだ。それでもいいのだ。
色々な楽しみ方を見て、少し視界が開けたような気がした。
心地よい充足感を覚えられたのは、狭い視野の中で許せなかった自分をそれでもいいと改めて気付けて許容することができたからかもしれない。
マスターデュエル、いいゲームだった。


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