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責任の語源に”責める”という意味はない

哲学の世界では、責任は自由意志と関係があるものと考えられているようです。人間は次に行う行動を自由に選択することができるので、ある行動をした人にはその選択をしたことについて責任があるでしょ、というわけです。正当防衛とかの文脈では、選択の余地がないので責任が軽減されると。

しかしこの、自由意志の存在というのは人類の歴史を経るに従って、そんなものはないかもしれないという論調が多く見られるようになってきました。人間が行動したり考えたりするメカニズムが科学によって明らかにされてきたからです。どんなに複雑なメカニズムであっても、特定のメカニズムによって行動が選択されているのであればそれは自由意志的ではありません。

では仮に自由意志がなければ、責任もないのかと言えば、そんなこともないんじゃないか。ただし、やたらと責任感がある人にとって、責任というものは重量感がありすぎている。適切な重さまで減らさなくてはならない。責任感がある人だと評価されながら、自分の責任範囲外のものまで背負い込まないようにするには、責任という言葉の意味をどう捉えたらいいんだろう?
今回はそのような話です。

他者が責任者に期待することは何か

ちょっと視点を変えて、責任者の利害関係者の立場になってみましょう。例えばある自動車メーカーが欠陥車を作り、あなたはそれを買った。この場合、責任者はメーカーの社長またはその代理人であり、利害関係者はあなたです。またここでは、欠陥車はまだ重大な事故を起こしていないが、起こす可能性があるものとします。さてあなたは、責任者に何を期待するでしょうか?

まず考えられるのは、リコール等の措置。欠陥のない車に交換しますと、メーカーは申し出てきた。しかしそれだけでは、まだモヤモヤが残ります。そもそもなぜ欠陥車を売ることになってしまったのか?交換後の車に欠陥がないと言える理由は何か?欠陥の重大性はどの程度だったのか?事故が起きていないとはいえ、欠陥車に乗せてしまった点をどう考えるか?今後、欠陥車を作らないためにどのような方針をとっていくか?などなど。

上記の疑問に満足のいく説明が得られない場合、あなたは交換ではなく返金を求め、そのメーカーのファンであることをやめたくなるでしょう。それでもまだファンでいたいなら、責任者には辞めてほしいと思うかもしれません。逆に、説明に納得できるなら、責任者に辞めてほしいとは思わないかもしれない。このことから、説明責任というものは責任という概念にとって非常に重要なものだということが分かります。

ストーリーは1つの人格の中にしか持ち得ない

ここで、「自己物語」という言葉を導入しましょう。哲学者のダニエル・デネットは、人間の自己は物語を通して作られると述べています。

「私達のお話は紡ぎ出されるものであるが、概して言えば、私達がお話を紡ぎ出すのではない。逆に、私達のお話のほうが私達を紡ぎ出すのである」
(デネット『解明される意識』P.495)

私達それぞれには自分自身を表すストーリーがあり、日常的な出来事はそのストーリー上で解釈され、組み込まれていきます。このストーリーのことを「自己物語」と呼ぶことにします。

先のメーカーもそうですが、組織は複数の人間の集まりです。しかし「法人」のような言葉が指し示す通り、組織は1人格として扱われる。メーカーの説明を聞くユーザーの立場になってみれば、分業で動くメーカーの様々な部署の人々の言い分を全て聞いて統合する・・・みたいなことはやっていられないとすぐ分かるわけで、統合されたストーリーをメーカー内で説明できる人が必要ということは明白です。

これは、個人にとっての自己物語に対して、組織という人格にとっての「(拡張された)自己物語」、いわば「組織物語」とでも言うべきものです。

組織物語の担い手としての責任者

どのような組織でも、その組織が何のためにあり、どのような経緯でこれまでやってきて、どのように日々の出来事を解釈しているか、その責任者は理解していると思います。その組織が会社の中の小さい部署であれ、大きい会社全体であれ、趣味のサークルであれ、同じことです。組織物語は常にキープされ続ける必要があり、その保持者が責任者であることが望ましいでしょう。こうして、「責任者とは組織物語の担い手である」という理解がでてきます。

さて、メーカーの話に戻ってみましょう。ユーザーが心底呆れる時とはどんな時でしょうか?それは、責任者が一貫した組織物語に基づいて説明することができなくなった時です。ユーザーの担当者がその場を何とかやり過ごそうとするだけで、経緯も何も話さない、今後の予定も分からないでは、背後に組織物語の担い手がいることさえ疑わしくなってきますし、実際に企業のトップが組織物語を消化しきれていないことだってあるでしょう。

こういう時、責任を取るという意味での「責任」が出てきます。どのような問題が起きたのであれ、責任者が組織物語を適切に保持している限り、そうでない者に役割を譲ることは誰も幸せにしないと私は考えます。この場合、「責任を取る」とはユーザーに対して説明責任を果たし、その説明と今後の企業行動を一致させていくことです。

欠陥車を作ってしまった事象をメーカーの組織物語に基づいて上手に解釈・説明することができないと思えば、それが出来る者に引き継いで辞めることが「責任を取る」ということになりますが、いずれにせよ誰かは説明責任を果たす必要があります。辞めるだけで終わってしまえば、これはもう組織の人格が存在しないと言われても当然のことです。

悪いことが起きただけで糾弾される責任はない

企業等の組織で何か悪いことが起きると、現代のSNS社会ではすぐに責任者が叩かれる流れになります。責任とはそのような糾弾や、上司等を含め様々なステークホルダーからの理不尽に耐えるための我慢なのである、と理解すると、責任についての本質を見誤ることになります。

個人がその人自身をコントロールするのと比べ、組織におけるマネジメントというのは本質的に制御不能なことが多いものです。誰がトップに座っても、悪いことが起きるのは防げない。そのようなことが起こったら、これまでの美しい組織物語が汚れることは致し方なく、汚点を取り込んだ上でこれからの最善のストーリーを考えていくことになります。その助けになる叱責や提案ならともかく、組織の罪は責任者の罪とばかりに糾弾しても、組織の活力を阻害するだけのことです。

そしてこのことは、責任感の高い人が自分自身を責める時にも、同じことが言えます。部下が何かやらかした、自分が責められる。そう思って、相手の糾弾を正当化し、自分の精神を痛めつけ、部下を抑圧さえするようになる。これは責任という概念を肥大化させていることの非常に大きな弊害です。そうではなく、部下が何かやらかしたことの意味を責任者が理解することが重要で、相手の糾弾は流して説明責任を果たす方向に持っていけばそれでいいのだと思います。

ポジティブマインド・ドリブンな組織へ

部下が増えれば増えるほど、予想外のことが起こる確率は高まります。悪いできごと勃発イコール責任者が悪い、と思っていたら、毎日不安で仕方ないのではないでしょうか。経営指標の把握をリアルタイムに近づけることはできても、起きてからヒヤリングなどに時間をかけて把握しなければならないことはいくらでもあります。それをする覚悟を持つことが責任感ある人間の条件なのですから、予想できないことについて慌てる必要はありません。

それにしたって、景気自体が、あるいは企業全体が悪い流れにある、悪いことは連続しており、責任をどう解釈しようが苦しいものは苦しいじゃないか、という声もあると思います。しかし、これは他人が求めてもいない責任感を背負い込むことによる苦しさと、それ以外の状況の悪さから来る苦しさを混同しています。

そのような人にとって、責任という概念は際限なく広く感じ、責任範囲も不明瞭になっているかもしれません。そのような責任がどうしてワークライフバランスと両立できるのか、その点に苦しんでいる中間管理職の人は多いのではないかと私は想像します。

しかし、全体状況の悪さは中間管理職の管轄する組織の物語を超えたところにありますから、全体状況を良くするために努力はするとしても、それは管轄組織のリーダーとしての責任とは別のことです。このように責任概念や責任範囲を明確化することで、余計な心配をすることがなくなり、責任範囲外の部分でよりポジティブになれます。

また、他人の責任についても無用な追求はしないようになり、ネガティブマインド・ドリブンではなくポジティブマインド・ドリブンの行動を誘発できるようになると思います。そのようなわけで私は、責任という言葉の解釈は結構重要なんじゃないかなぁ、と感じている次第です。

※ネガティブマインド・ドリブンとは、怖いからやる、心配だからやる、のように、ネガティブな気持ちを避けることを動機として行動すること。反対に、ポジティブな気持ちを求めて行うものをポジティブマインド・ドリブンと呼ぶ。ドリブンは「~によって駆動される」という意味。

補足・自由意志がなくても責任はある

伝統的哲学で、自由意志と責任は密接に関係しているという話をしました。しかしこの密着には弊害があります。1つには、自由意志があるから責任があるのだという言い方は、おまえのせいだというニュアンスを含んでおり、ネガティブマインド・ドリブンだということ。もう1つは、自由意志がなければ責任もないじゃんという理屈になってしまうこと。

組織物語を保持することが責任だという立場は、既に見たようにネガティブマインド・ドリブンを減らす効果があり、また自由意志があろうがなかろうが組織物語を保持したほうが全体利益に資するという観点から保持はするので、責任のない世界にはなりません。

過大評価しすぎている責任は有害ですが、適切に評価された責任はむしろ人のモチベーションを高めると考えられます。実際、責任ある仕事をしたいという言い方は一般的です。責任という言葉の裏には権限がくっついています。権限という観点から責任を考えてみるのも重要なことかもしれませんが、今回はこのへんにしておきます。

参考記事:

ではでは。

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