妖怪比べ マスター国松対柳龍光
道場に二匹の漢がいた。
壁を背に座る一匹の名はマスター国松。この大日本武術空道道場の当主である。その漢に向かって座るもう一匹は柳龍光、マスター国松の弟子である。
匹、そう匹だ。間違ってはいない。
人を数えるならば、単位としては人を使うべきである。
だが、人でないものを数えるならば匹で良い。
匹――マスター国松のことをそう呼んだが、だからといって獣じみた格好をしているわけではない。
長袖のシャツに作業衣に近いようなズボンを履いている。
どこでも売っているような量産品だ。
かけている眼鏡だって、そこらの眼鏡屋にいえばすぐに買えそうなものである。
額は大きく後退し、髪は薄い。
格好だけならば、そこらを散歩していそうな老人といった風体である。
もしかしたら、一度か二度すれ違ったことがあったかもな、と思うかもしれない。
その目を見なければ。
ぐるん。
そのような音を聞いてもおかしくはない。
マスター国松の左目と右目はそれぞれが固有の意思を持っているかのように、別々に動いていた。
左目が左を。右目が右を。左目が右を。右目が左を。
散眼という。
古代インドの武僧が用いたカメレオンのように両目を動かす技術である。
それに対する柳龍光。
黒いシャツに黒いズボン。黒一色の服装である。
だからといって然程珍しいというわけでもない。
服装に無頓着な中年の親父――そのような風情である。
背は低い。
一見すれば、学校かどこかですれ違ったことのある用務員のような男にも 見える。
だが、その身からは隠しようのない妖気が立ち上っていた。
二匹は妖怪だった。
気がつけばすれ違っている。
人混みの中に隠れてしまう。
もしかしたら会ったことがあるかもしれない。
妖怪とはそのようなものである。
道場であったが、二匹は道着を着ていなかった。
実践的であるからだ。
普段から道着を着ているのならば、その格好で稽古をすればいい。
そうやって稽古を身に馴染ませれば良い。
だが、二匹はそうではない。
道着を着て戦うことはないのだから、普段着で道場にいる。
そういうことである。
そんな二匹が道場で揃ってなにをしているのか。
稽古ではない。言葉を交わしている。
その内容になにか深刻なものがあるわけではない。
日常の会話である。
特筆するようなものではない。
マスター国松は弟子を呼びつけて、このような世間話をすることがある。
何故か。
弟子と話に花を咲かせるためではない。
例えば、ヤクザが「オタクの娘さん、最近高校に入ったんだってね。帰りが遅くなるから夜道には気をつけないとね」と言ったりする。その場合、それは娘を持つ親に対する忠告ではない。脅し文句である。そのヤクザは言外に自身の要求が通らなければ、お前の娘を襲うと言っている。
そのような脅しをするために、まずヤクザはその相手に娘がいるかどうかを知っていなければならない。娘がいなければ妻でもいいし、親でもいい。ペットや大切にしているフィギュアだって構わない。相手に踏みにじられたくない大切なものがあれば、そこは相手にとっての急所になる。
柳くん。
マスター国松が柳龍光に呼びかける。
相手の心に這った生暖かい舌のような声だった。
妖怪は相手がなにを怖がるかを探っている。
マスター国松――本名はわからない。
国松拳という兄がとある高校で校長をやっていることはわかっている。
道場を所有しているのだから、登記がされていないわけがない。
だから、その線を漁ればあっさりと本名を知ることも出来るだろう。
だが、それがマスター国松の本名であるとは限らない。
結婚はしていないはずだが――名字を変えるためだけに婿入りしていてもおかしくはない。下の名前だって彼の兄が知っているものと変わっている可能性がある。
妖怪はわからなければわからないほどに強い。
だから、弟子歴の長い柳龍光であってもマスター国松についてわかっていることはほとんどないと言っても過言ではない。
「国松さん」
会話の流れを切って、唐突に柳龍光が言った。
「敗北を知りたい」
柳龍光にとって、それは予想外の言葉だった。
柳龍光にとってマスター国松は超えるべき師である。
如何にして超えるのか――稽古に励んでいればそのうちにマスター国松が「柳くんはワシを超えたね、おめでとう」と認めてくれるのか。そんなわけがない。
死闘。
マスター国松を超える妖怪になるためには、マスター国松を殺さなければならない。
それで初めて、自分がマスター国松を超えたことになる。
だが、そのタイミングは今ではないはずだ。
例えば、マスター国松が自分に背を向けた時や夜道を歩いている時。
あるいは食事中でもいいし、睡眠中だっていい。排泄中にちり紙に手を伸ばした時などは襲うのに最適のタイミングだろう。
正々堂々――柳龍光もマスター国松もその言葉に大した価値を見出していない。
如何なる形でも勝ったほうが勝つ、そういうことになる。
ならば、真正面から向かい合った今がその時か。
違う。
だが、だからこそ今なのだと柳龍光は思った。
わからない部分が多いからこそ、妖怪は強い。
自分にもわからないこの心の空白こそが――自身を妖怪に対峙する妖怪たらしめる。
そして、敗北を知りたい――そう柳龍光は言った。
「あなたに勝ちたい」であるとか「あなたを超えたい」であるとか、そのような言葉ではない。後ろ向きのようにすら思える。
だが、柳龍光はどうしようもないほどに敗北を望んでいる。
柳龍光は人生で一度も敗北したことがない。
マスター国松の妖怪力のようなものに感服して弟子入りしたが、それだって実際に戦って敗北したというわけではない。
人生の中で勝利を積み重ねている内に、柳龍光はどうしても敗北が欲しくなってしまった。
しかし、ただ敗北するというのは厭なのだ。
ただ敗北するというだけならば、強い漢の前に身を投げ出し腹を見せればいい。相手が己の股間を蹴り上げ、頭を踏み砕くのに身を任せれば良い。だが、それでは駄目なのだ。
相手に差し出すのではない。
自分が徹底的に奪われたいのだ。
目一杯に戦って、それでも勝てない。
あらゆる技を試し、武器すらも用い、それでも通用しない。
経験とともに積み上げた自信を一つひとつ丁寧に粉砕され、最後には無様な命乞いに追い込まれたい。
自分というものを徹底的に壊されたい。
そのような欲求が柳龍光にはある。
だからこそ、柳龍光はマスター国松に勝ちたいのだ。
勝利を積み上げれば積み上げるほどに、敗北の快感は大きくなる。
強くなれば強くなるほどに、その強くなった自分を打ち負かすほどの強い存在に負けることが出来る。
薄着で治安の悪い街を歩き――しかしその懐に刃物を隠し持つ乙女のように柳龍光は敗北に焦がれている。
柔らかく温かいものに愛撫されたかのように、柳龍光の股間が膨らんだ。
敗北か、勝利か。
いずれにせよ――後戻りは出来ない。
「教えてやろうか」
マスター国松が妖怪の顔で笑った。
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