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嫌いな人から好かれる理由なんて要らない

引用元ツイまで読んで、誰かへの賛同/批判ではなく「嫌うこと・嫌われること」に対する自分のスタンスを改めて整理してみた。そもそも一般人なので、不特定多数の人に嫌われたり誹謗中傷されたりするシチュエーションが日常的にある訳ではない、という前提の上での話だけど。

いつからか嫌われて(いるように感じて)もあまり傷つかなくなったのは、嫌いな人に好かれても仕方なくて、嫌いなら嫌いでどうぞと思っているから。1対1の話ではあるけど、どちらかだけが嫌いなことってあまり無いように感じている。

相手が自分のことを無理だと思っているとき、たぶん自分も無理だなと思っている。そして逆も然りで、そういう気持ちは伝わってしまうものだと肝に銘じている。

もっと言うと「嫌い」というのはわりと能動的な心の機微。相手のことを意識してしまっているのだから。アンチが時にファン以上に活動を「見ている」ように。

そして、そこには「好きになってほしい」という気持ちすら内包されていることもある。私にも、心底腹が立って「嫌い」と思うときと、好きになってほしいから「嫌い」と思うときがある。

しかし「好きの反対は無関心」とはよく言ったもので、どうでもいい相手には興味すら持たない。「嫌っている」というのはかなり能動的な態度なのだ。

私の中では「嫌いな人」というよりは「苦手な人」という、やや受け身での捉え方をすることが多い。生理的に無理、とか、この人と対峙すると心が疲弊してしまって嫌だな、とか。

積極的に嫌っていると相手のことを考え続けてしまって腹が立つので(時にその怒りや許せない気持ちが原動力になることもあるけれど)、身体も心も適度に距離をとって、思考の外へ追いやってしまったほうが健やかな場合もある。

嫌いな人にどう思われたって正直どうでもよくて、好きな人を好きでいたいし、好きでいてもらえるよう努めることにエネルギーを使っていたい。

そう思えるのは、自分のことを好きでいてくれる人たちの存在を認識していられるおかげ。それが大人数であったり重ための愛であったりする必要はないし、ともすれば思い込みかもしれないけど、その事実に感謝しながら生きていくことが、たとえ嫌われることがあっても心を守ってくれる術なのだと思う。「誰か」に嫌われた可能性より、見知った「あなた」が好きでいてくれる事実の方を大切にしていたい。

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