物語を始めよう 心の海に沈めた 愛されるわたし 心の檻に閉じ込めた 汚されたわたし 哀しいわたしたちの物語
─患者さんの役に立っているのだろうか?─ 私が決めた命の期限の歳に近づいていた。 ─感染症が落ち着いたら逝こう─ 先生 推しが出てる舞台の配信観てよ。 明るい声が診察室に響いた。
「先生、感染しているかもしれない 死にたくない。」 昼夜を問わず連絡が入る。 診療が終われば感染症に関する 情報を集める日々。 ─いつまで続くのだろう─ 弱音は吐かない。 ─私が頑張らないと─
「厄介な感染症が大陸で流行ってるな。」 医学系学会ではその話で持ちきりだった。 この感染症を水際で止めることは不可能。 ─私の患者さんは罹患したら亡くなる─ ─パンデミックになりませんように─ 願いは届かなかった。 その数日後に客船のパンデミックが 始まりつつあった。
命の期限を決めるために私は医療の道を志した。 ─今度は失敗せず綺麗に逝けますように─ しかし、現実はそのことすら思い出せないほど 多忙な日々を送っていた。 歳月は過ぎ去り、命の期限に近づいていた。 ─性の対象としてみられない歳になれば 楽になれる。きっと─ ただ1日だけ その思いを忘れさせてくれる日があった。 ─生まれ変わった弟は幸せかな。 もし本当なら会いたいな─
仕事だけが私の生きている証。 「先生はどのような方が好みなんですか?」 「年上ですね。父と母が18歳の年の差が あったので。」 嘘。 何度か付き合ったこともあったが そういう関係になりそうになると嘔吐していた。 好きな人なのに気持ちが悪い。 若い男の人が恐い。 あの光景がみえてしまう。 幼い私が怯えている。 こわいよ…イタイヨ…
「可愛いね」 私と遊んでくれた父の部下。 20代後半で独身寮に住んでいた。 わたしは優しいお兄さんに遊んでもらっていた。 4歳の冬 「プレゼントあげる。だから…脱いで。」 ─ありがとう。何を?聞こえない?─ 記憶はここまで あとは下腹部の痛い感覚が残っていた事だけ 「汚れてる…どういうこと!!」 ─お母さん 汚れてないよ 私─
私は汚れている。 ─消えて無くなればいい─ あの現実を理解した9歳の夏。 性の授業として女子生徒だけ 別室で保健の先生と婦警さんから 話を聞いた。 ─あれはそういうことだったのか─ その日の夜 わたしは命を絶とうとした。 一度だけ。 ─死ぬことも出来ない惨めな私─ わたしは心の壁を造り始めた。 汚された私が傷つかないように…
わたしが2歳の時に亡くなった弟の供養。 7月に母と訪れた山間のお寺で 5歳から22歳まで祈り続けた。 生まれ変わったら ─優しくて綺麗な男の子に─ ─幸せになりますように─ わたしの祈りが叶ってから幾歳月が経っていた。 「先生、うちの息子と結婚はどうですか?」 半分冗談交じりの言葉。 「仕事と結婚していますので」 いつもの台詞でやり過ごす。 ─男の人は気持ち悪い─ 若い男の人は怖い。 ─わたし自身が気持ち悪い─ 私は忌むべき人。
私は22歳。 夏に弟の供養のために 母と訪れるお寺。 願いは叶ったね。 庵主様が微笑んだ。 弟が生きていれば20歳。 私は安堵し 5歳の私を記憶の奥へ閉じ込めた。 ─幾つまで生きようか─
次に生まれる時には 優しくて綺麗な男の子に 幸せになりますように ─綺麗な人に─ 私は汚れている。 ─幸せになって─ 私は幸せになれない。 私が汚されていたことを 母だけが知っていた。
【承】 あなたの弟は産まれて 直ぐに死んでしまったの。 母と庵主様から聞かされた。 弟がいたこと ─嬉しい─ 死んでしまったこと ─寂しい─ 私が2歳の夏に弟は生を受け 死を与えられていた。
【起】 5歳の夏 母に連れられ 街から離れた山間のお寺。 無邪気に蝉を追いかける私に ─あなたには弟がいたのよ─ 哀しい母の横顔に 嗄れた蝉の声が重なり 私の記憶は遠退いていった。