【ゲームブック小説】眼球の点滅③-A

 あなたは佐々木ミツルを選択しました。


   三のA

 茜はついに決断し、研究室を出た。向かった先は、神崎明人が待つホールではなく、美術館の奥だった。その奥にある地下室のアトリエでは、佐々木ミツルが待っている。
 腕時計を確認すると、もはや、十時三十分になろうかというときだった。茜は足早に進んでいって、アトリエへとつながる白く重厚な扉の前で足を止めた。
 不意に、既視感が押し寄せてきた。今朝も同じようにして交際のお誘いへの返答を伝えるために佐々木ミツルに会いにいっていた。あのときから、まだ一日も経っていないのだなと思うと、不思議に感じた。
 茜は、決然とインターホンのボタンを押した。その地下室の中で響いてるだろう呼び出し音は、扉の外には聞こえてこない。
 しばしの沈黙のあと、佐々木ミツルの声が出た。
『待ってたよ。山崎さん』
 さっきよりも鬱々とした声だった。
『いま遠隔でロックを解除するから、中まで降りてきて』
『中、入っていいんですか?』
 純粋に驚いた。茜が知っている限り、佐々木ミツルは、地下室のアトリエに誰かを招じ入れたことはない。つい佐々木ミツルが出てくるものだと思っていたので、こちらから入っていくのは想定外だった。
『もちろん。僕を選んでくれたんでしょ?』
『そうです。あの、いろいろ、右往左往して、すみませんでした』
 茜はカメラの前で、頭を下げた。
『いいんだ。とりあえず、入ってきて』
 間もなくして、ガチャ、と扉が音を立てた。ロックが解除されたらしい。茜は、指示されたとおりに、ドアノブを握り、扉を引き開けた。中には、すぐに階段があるわけではなく、真っすぐと廊下が続いている。その奥に廊下と同じ幅の階段があり、そこを降りたところに佐々木ミツルのアトリエがある。
 茜は、足を踏み入れる前に、何度か、深呼吸をした。未知の世界に入っていくような緊張感と好奇心が胸の中にあった。どんなアトリエが待っているのだろうか。
 それと同時に、ちょっとした警戒感もあった。これから交際していくとはいえ、まだ、ふたりの仲を深めるようなプロセスを踏んでいない。それにもかかわらず、いきなり密室にふたりきりになるというのは配慮が足りない気がする。躊躇するような気持ちがあるのは事実だった。
 しかし、断るわけにもいかなかった。一時的に二股を犯したことや、最高傑作を台無しにしたことなど、茜としても負い目がある。佐々木ミツルの指示通りに、アトリエへと降りていくしかない。
 茜は、覚悟を決めるような気持ちで、その中に足を踏み入れていった。廊下には照明がない。窓もないために、薄暗い。階段の下から微かに青い明かりが差していたので、かろうじて暗闇にならずに済んでいた。
 鉄筋コンクリートに囲まれた廊下を奥へと進んでいって、階段の手前までやってきた。階段を上から覗くと、階段の下にも廊下が続いているのが見えた。その廊下を目にするのは、はじめてだった。階段の足元には青いライトがあり、階段脇の壁を美しく青く塗っていた。
 どこか、水族館を連想させた。最近は、ほとんど水族館には出かけていないが、水族館の内装はだいたいこんな感じではないだろうか。
 茜は、階段を下りていった。一段いちだんが高いので、進むたびに、どんどん深く地底に沈んでいくようだった。
 階段を降りると、廊下の奥に、もうひとつ扉があった。その扉は、入口のところの扉のように白いが、青いライトのおかげで染まっている。廊下の両脇にも青いライトが並んでいるので、鉄筋コンクリートの壁が青く輝いていた。
 茜はさらに進んで、その扉の前に辿りついた。コンコンコンとノックをする。
『入っていいよ』
 中から、佐々木ミツルの怠そうな声が聞こえた。茜はドアノブを握り、回して、扉を引き開けた。
 途端に、冷風が飛んできた。冷房が入っているらしく、肌に心地いい空気が充満している。中はビジネスホテルの一室のようにコンパクトに家具家財が並んでいた。左端にベッドがあり、そこに佐々木ミツルが腰かけていた。
 佐々木ミツルは、暗く沈み込んだような顔をしている。青い間接照明が室内を絶妙な浮遊感で包み込んでいる中、佐々木ミツルそのものも浮かんでいるかのように見えた。茜に顔を向けることもなく、真ん中に立てられたキャンバスにサングラスの目が向かっていた。茜は、いまいちど自分の愚行を悔いながら、謝罪した。
「本当にごめんなさい。私が無責任でした」
「いいんだ。とりあえず、座ってよ、ここに」
 佐々木ミツルは、ぽんぽんとベッドを叩いた。茜は言われたとおりに佐々木ミツルの隣に座った。ふかふかとした羽毛布団だった。
 真っすぐと前を見ると、ちょうど目線の高さにキャンバスがあった。そこには肥大した眼球を持つ奇怪な魚が描かれていた。佐々木ミツルは、その絵をじっと見つめていたが、不意に頭を掻きむしりはじめた。
「うまくいかないんだ」
 そう吐き捨てると、ぱっと立ち上がって、キャンバスの足元に置かれていたパレットから青い絵の具のついた筆をとり、キャンバスに大きく『?』と刻んだ。もったいない。茜は残念に思ったが、佐々木ミツルを止めることはできなかった。
 奇怪な魚が『?』の下で息苦しそうにしている。茜は、なにをすればいいかわからず、呆けた人のようにベッドに座りつづけるばかりだった。
 室内には、本棚もあった。そこには図鑑の類いが並んでいる。人体構造や世界の都市に関する図鑑などもあった。茜は物珍しく思い、室内を見回していたが、それは半分は佐々木ミツルへの言葉がなにも思いつかないせいでもあった。
 佐々木ミツルは、ふたたび茜の隣に座った。『?』と刻んだばかりの絵を見据えながら、ぽつりぽつりと言葉を落とした。
「僕は、すべての作品で、写真を下敷きにしているわけじゃない」
 冷房の音が聞こえていた。まるで、冷蔵庫の中の密室にふたりきりで閉じ込められたような気分だった。
「疑ってる?」
「いえ、信じますよ」
 茜はどうにか明るく応じようとしたが、佐々木ミツルの前で無駄な明るさを演出するのは躊躇われた。佐々木ミツルに吸い込まれていくように、無意識のうちに、同じような声の質や調子になっていった。
「私は、佐々木ミツルの作品が大好きです。写真を下敷きにしているのだとしても、それで佐々木ミツルに才能がないなんてことにはなりません。魅了されたままです。もちろん、写真を下敷きにしていない作品も、下敷きにしている作品も、どちらであれ、同じように好きです」
 嘘を言っているつもりはなかった。『贖罪のファンファーレ』が写真の上に描かれたものであるという事実は少なからずショックだったが、大事なのは完成した作品が心を動かすかどうかだった。制作プロセスがどうであれ、完成した作品が傑作であれば、それほどの問題ではない。
 佐々木ミツルは、少しだけ笑い、茜に振りむいた。
「あの写真がなんなのか、気になる?」
 わざわざ聞くまでもなく、『あの写真』というのが『贖罪のファンファーレ』の下に眠っていた写真であることは察した。
「教えてくれるんですか」
「もちろんだよ」
 佐々木ミツルは、やはり、怠さの抜けきらない声で説明を始めた。
「写真を撮ってくれたのは、Sasakiグループの関係者だよ。悲しみの少女シリーズはすべて写真を下敷きにしている。それらの写真の中の少女はもちろん成人した女性で、モデルとして参加してもらっただけ。撮影されたのはスタジオで、背景はあらかじめ用意した大道具や小道具なんだ」
 ということは、Sasakiグループが全面的にバックアップして制作された作品だったというわけか。佐々木ミツルはSasakiグループの会長の孫にあたるので、それくらいは驚くべきことではない。
 そのような内情を洩らすくらいに、信じてくれているのだろうか。茜は佐々木ミツルの言葉を余すところなく受け止めたかった。どんな言葉が飛び出しても、驚かず、ありのままを受け入れたい。
 佐々木ミツルは、猫背を伸ばしながら、ほんのちょっと声を張った。
「僕は恵まれているんだ。いろいろな人に支えられている。絵を描くだけで生活を送れるなんて、そんなの贅沢だと思うでしょう?」
 茜は、一概に、そうも思わなかった。神崎明人が言っていたように、全体としての傾向は存在するが、絶対的な条件は存在しない。
 お金を持っている人は幸せだという傾向はあるが、だからといって、お金を持っている人がみな一様に幸せを手に入れているわけではない。それと同じで、佐々木ミツルがいくら世界的な芸術家であるからといって、幸せであるという方程式を当てはめるのは、ただの幻想だ。
「でも、僕はずっと、満たされないままだ」
 佐々木ミツルは、鉄筋コンクリートの床を見つめた。
「僕の心は、まるで、深い海の底で水圧で抑えつけられているみたいに、苦しんでいる。浮上しようとしてもダメなんだ。僕ひとりだけの力では、どうしても浮き上がることができない。むしろ、どんどん深海へ近づいていくくらいだ。そんなふうに僕が彷徨ったままでいるのは、あの日から変わらない。あの日から、ずっと。僕の両親が亡くなった日からずっと……」
 なにかを伝えようとしている。茜は、そんな佐々木ミツルを包み込んであげたいと思った。自分にできることがあるとすれば、それくらいだ。
「どうすれば浮上できるんですか?」
「大切な人が傍にいれば……」
 佐々木ミツルは、いや、と首を振る。
「ごめん、そんなのは詩人の戯言だ。そんな簡単なことで解決するわけでもない。結局、人間は幸せに慣れる生き物だからね。母親のいない人は、母親がいれば、と願うし、父親がいなければ、父親がいれば、と願う。その願いはたしかに、両親ふたりが揃っている状態がより幸せであると定義するならば、論理的に正しい。しかし、一度、その状態になると、今度は、そのほかの定義が出てくるだけだ。もっと人から認められれば、とか、もっと社会のためになる仕事に取り組めたら、とか」
 自分の存在価値を認めてほしいのだろうか。茜は、佐々木ミツルが単純な言葉を欲しているように思えた。
 それはなにも贅沢なものではない。あなたはそこにいて、それで意味がある。そのように肯定してほしいだけなのではないか。
 これだけ世界的に評価されているのに、依然として飢えたままでいる。そんなことを打ち明ければ、ふつうは皮肉にしか聞こえないはずなのに、茜の耳には、佐々木ミツルが本当に飢えているように聞こえた。
「山崎さんは、そんなふうに感じることはない?」
 佐々木ミツルが、振りむいた。その暗い目――サングラスのむこうで見えないが――を見つめていると、茜は、不意に、神崎明人の姿を思い出した。
 茜自身はそれほどに飢えたことはないが、神崎明人なら佐々木ミツルと同じように飢えているかもしれない。
 人とのつながりに飢えていると思っていたからこそ、茜は、神崎明人に寄り添うようにしてきた。どちらにも寄り添えたらいいのに、二股をしてはいけないという社会的なルールのせいで、どちらかしか選べない。茜は、息苦しさを感じた。
「社会の枠組みを保とうとしている、意志を持たない構造体」
「なにそれ?」
 佐々木ミツルが、おかしそうに笑った。茜が笑わないでいると、佐々木ミツルも笑わなくなった。
「私は、いつも思うんです。現代社会は、苦しんでいる人に寛容ではありません。苦しんでいる人を、むしろ、叩くようになってきています。社会がぎしぎしと軋みはじめて、このまま維持することに限界を生じてきています」
「それは言えている。一度、動きはじめたものは全力で回しつづけなければいけない。その歯車に参加している人は、参加していない人を追い込むだけの権力を持っている。そう思い込みたくもなる」
「そんな限界を迎えたのは、ある意味、当たり前です。私だって、いまの日本社会を築き上げた人たちのことは、心の底から尊敬しています。そのおかげで物質的に豊かな生活を享受できました。でも、現代の日本社会をつくった人たちが全力疾走してきたとき、ひとつだけ見落としていることがありました。一度、誰かが全力疾走すれば、その人が死んだとき、ほかの誰かがその役割を引き受けなければいけないんです。全力疾走する人が増えていくにつれて、彼らは後継の者にむかって、『俺が死んだとき、お前も全力疾走しろ』というメッセージを送ってしまう。豊かな生活とともに、『高速で回転する歯車になれ』という命令を、日本社会に残していったのは紛れもない事実です」
 大袈裟な議論になったが、茜が伝えたいことはひとつだった。
「誰もが追い込まれているんです。だから、周りの人たちに寛容になれない。誰もが幸せになろうとして、周りの不幸せを見下してしまう」
 それが茜の答えだった。息つく暇のないような欲望の連続に苦しんでいるのは佐々木ミツルや茜に限った話ではなく、そのほかの多くの人に共通していることだろう。不寛容な人たちを生みだしているのは、無理のある社会そのものだ。
 佐々木ミツルは、ほう、とうなずくと、「ちょっと待ってて」と部屋を出ていった。
 茜はひとり、青い部屋に残された。海底に沈んでいる黒いボックスに閉じ込められたような部屋の中で、心細く待っていた。すぐに佐々木ミツルは戻ってきた。その両手には、ひとつの額縁が握られている。
 それは『眼球の点滅』だった。
 美術館内の佐々木ミツル展のブースから持ってきたのだろう。その絵を両手に持ったまま、佐々木ミツルは、茜の隣にいまいちど座った。それから、少しだけ怠さの改善した声を出した。
「山崎さんの話を聞いていると、この絵のことを思い出したんだ。これがなにを意味しているのか、わかる?」
 茜は、しばし考え込むように黙ったが、正直に答えることにした。
「わからないです」
「この絵は、不寛容な眼球を描いている」
 その絵には、大きく丸い物体が描かれている。それは電球のようにも見えて、眼球のようにも見える。点灯していない電球のような眼球が、無言のまま、こちらに視線を送ってきているように感じられる。その絵を見つめているだけで、茜は、名状しがたい不安感に襲われた。
「この眼球は点灯していない。つまり、目を閉じている状態を表している。じゃあ、なにに対して目を閉じているのか、わかる?」
「わからないです」
「簡単だよ。明かりがついていないと、自分の内面も見えない。この眼球は、自分で自分が見えなくなっていることを表している」
 佐々木ミツルは、絵をベッドの上に置くと、肩の力を抜いた。声が低くなった。
「自分のことが自分で見えなくなってしまっている。これは、僕だよ。僕自身を描いているんだ。自分に対して不寛容になった眼球。僕は、僕に優しくできない」
 それは悲しい告白だった。これだけ世界的に評価されているのに、まだ自分を認められないなんて、不幸もいいところだ。茜は、優しい言葉をかけたくなったが、頭の中でうまくまとまらなかった。
 そのうちに、佐々木ミツルが、急に抱き着いてきた。びくっとした。佐々木ミツルの腕が茜の背中をぎゅっとつかんでいる。いくらなんでも急すぎるではないか。茜は途端に抗議したくなったが、それを回避するかのように佐々木ミツルが耳元で囁いた。
「ごめんね、山崎さん」
 びり、という音がした。なにか紙が破けるような……そうだ、これはガムテープを伸ばす音だ。茜の背中のほうからだった。おそらく佐々木ミツルがガムテープを伸ばしたのだろうが、いったい、なんのために?
 茜は、急激に警戒心を増していった。いまさっきまでの佐々木ミツルへの温かい気持ちが吹き飛んでいく。
「やめてください」
 茜はついに抗議したが、佐々木ミツルは、茜に抱き着いたままだった。
「本当にごめんね。もう、こうするしかない。これ以上に最善の方法がないんだ」
 びり、とまた音が鳴った。びり、びり、と断続的に続いた。背中にべたりと粘着的なものが付着するのを感じた。
 佐々木ミツルが茜の身体を離れていくと同時に、ガムテープが茜の腹部に押しつけられた。気が付けば、ガムテープが茜の腹部を一周している。
「なんですか、これは?」
 恐怖で声が掠れていた。
「言ったよね。僕は僕に優しくできない。僕の良心さえも大切にできない。僕はすでにイッちゃってるんだ」
「とにかく、これを離して」
 佐々木ミツルは、首を振るだけだった。両腕を動かそうとしても、強力な粘着力によって抑えつけられ、思うように動かせない。
 どういうわけか、佐々木ミツルは、ガムテープを用いて、茜の身体を縛り付けているのだった。茜は恐怖心で身体が動かせなかった。さっきまで心を開いて話していた相手がどうして縛り付けてくるのか。わけがわからない。下手な映画の台本のように、説明なしで急激な展開を迎えていた。
 佐々木ミツルは、なにもおかしなことはしていないとでもいうように、当たり前のような顔をして、ガムテープを茜の身体に回していった。そのたびに強固に縛り付けられ、抑えつけられた部分に熱が溜まっていく。
 茜の腕は胴体にくっついたまま、動かせなくなっていた。足を動かして抵抗しようとしたが、男の力には敵わない。勇を鼓して蹴ろうとしても簡単に佐々木ミツルの腕で抑えつけられ、抵抗らしい抵抗はできなかった。
 茜はガムテープでぐるぐる巻きにされていった。両脚までも巻かれた。大声で助けを呼ぶべきだったが、地下室は防音なので外には届かない。だいいち、大声を出すだけの勇気が湧いてこなかった。
 佐々木ミツルは、部屋の隅に置いてあった椅子を持ってくると、茜の身体をそこに座らせた。そのうえで、椅子の背もたれも含めてガムテープでぐるぐる巻きにしていった。
 ガムテープで椅子に固定されていく茜は、もはや、されるがままの人形のように動かなくなっていた。ズボンのポッケに入っていたスマホも取られた。
 佐々木ミツルは、作業を終えると、怠そうに息を吐いた。
「これで、とりあえず、完了だ。なかなか、たいへんだったよ」
 掃除がやっと終わったわ、とでもいうような調子だった。茜はここにきて強烈に違和感を覚えていた。この人はふつうの人間ではない。ガムテープで他人の身体をぐるぐる巻きにするという異常な行動は抜きにしても、どこか感覚がおかしい。
 茜は、どうにか声を絞りだした。
「なにをする気なの?」
「それくらい、想像しておいて」
 佐々木ミツルはそれだけ言い捨ててから、背中を向けた。部屋の隅に置いてある棚の引き出しを探りながら、背中のままで語る。
「さっきの話の続きだけど、僕は僕に優しくできない。それは人間としての条件を失っているのに等しいんだよ。人間がひどいことをしないのは誰かのためを思っているわけじゃなくて、自分が傷つくからだ。自分のためを思っているだけなんだね。でも、僕は僕を傷つけないように僕を大切にしておくだけの気持ちがなくなってしまったから、好きなだけ、ひどいことができる」
 それは悍ましい告白だった。
 たしかに多くの人が法令違反やモラル違反をしようとしないのは、誰かのためではなくて、自分のためだ。自分の経歴に傷がついたり、世間から非難される事態を回避したいと考えている。そういう気持ちは内面化し、法令違反やモラル違反を責め立てる気持ちが生じてくる。それが良心になる。まさにその良心を失ったとき、人はなんでもできるかもしれない。
「ひどいことをしようっていうの?」
 背中を向けたままの佐々木ミツルは、はは、と馬鹿にするように笑った。
「もっと頭のいい人だと思ってた。そんな質問をするなんて、ひどい笑いものだ」
 茜は頭に来ることさえなかった。ただ、恐怖が全身に拡がっていた。両腕はひじから先しか動かないし、両脚も椅子の脚に固定されて動かない。日用品のガムテープにこれほど危険な使用方法があるなんて知らなかった。
 もはや、自力で脱出できない。どうすれば、生き残れるのだろう。茜は必死に頭を回した。これが笑えないジョークであることを期待するくらいしか希望はなかったが、さすがにこれがジョークだとは思えなかった。だとすれば、もはや、残された道はひとつもなかった。
 佐々木ミツルは、棚の中から、スプーンを取り出した。それをベッドに投げ捨てると、右手に握られているガムテープを見下ろす。
 佐々木ミツルは、そのガムテープをふたたび、びり、と伸ばして千切った。その切り取られたテープを、茜の口へと持っていく。
 茜は声を上げて抵抗したが、佐々木ミツルは、もう一方の手で茜の顎を押さえつけた。口を閉じたまま、ガムテープで塞がれてしまった。なにひとつとして言葉を発せられない。喉からくぐもった音を出せるだけだった。
 地下室の防音の密室の中にさえ、声を響かせられない。
「いろいろ、聞きたいことがあるだろうね」
 佐々木ミツルは、ガムテープもベッドに投げ捨てると、依然として他人事のように言葉を落とした。
「いくつかの疑問には答えてあげられると思う。いくらなんでも、僕を選んでくれた相手に、説明もなく死を提供するのはよろしくない。インフォームドコンセントみたいなものだよ。もっとも、山崎さんに自己決定権はないけどね」
 本当に殺すつもりなのか。茜は戦慄が走るのを感じた。この人は、本人が言っていたように、すでに壊れている。修復不可能なレベルまで故障しているから、本人さえも修復する気をすっかり失っている。佐々木ミツルは、開き直っていた。
 声すら発せられなくなった茜は、成す術を完全に失っていた。命乞いをすることすら許されていない。
 佐々木ミツルは大儀そうにベッドに腰かけると、部屋の中央の椅子に固定されている茜をまっすぐに見つめた。その黒いサングラスが、どこまでも邪悪に思えた。
「ひとつひとつ丁寧に説明していくのが、いちばんだろうね」
 茜は、その声に耳を傾けるつもりもなかったが、それ以外にやれることがない。まるで、脳に流れ込んでくるように、佐々木ミツルの言葉は絶対的だった。
「まずなによりも先に理解しておいてほしいんだけど、恋っていうのは不可抗力なのであって、本人によって制御できるものではない。本人は、むしろ苦痛を感じていることのほうが多いんだ。それを前提として理解しておいてもらわないと、きっと、誤解してしまうんだよ」
 怠さをまとった声が、静かな部屋に響いていた。茜は鼻から息を吸い込みながら、黙りつづけるしかなかった。
「よく、どうして、そんなことをするの、なんて世間の声が聞こえてくる。たとえば、街中を歩くハトをボウガンで痛めつけてみたりすると、多くの人たちは、なんでそんな惨いことができるんだろう、と疑問を口にする。それはたしかにもっともらしい疑問なんだけど、当事者からすると、あまりの無理解に吐き気さえ催してくる。なんで、という質問形式がそもそも、無理解なんだ」
 佐々木ミツルが口にする言葉はどれも異常に思えてきて、茜の恐怖は純度を増していった。
「つまりね、恋と同じなんだよ。本人だって、苦しんでいる。というより、本人のほうが苦しんでいる。当然、通り魔事件なんて起こしたら、被害者に同情が集まるけど、それは違うと思うね。被害者の痛みは一瞬だけど、通り魔本人は、そこに至るまでの間に無限に苦しんでいるんだ。それくらい理解してもらわないと、僕としても、怒りが抑えられなくてね。もちろん、世間なんてバカだから、しょうがないんだけどさ」
 茜を縛り付けたのは不可抗力であって、佐々木ミツル本人の意思ではないとでも言うつもりだろうか。
 茜にとっては、そんな些細なニュアンスの違いなど、どうでもよかった。解放してくれるならば、それでいい。それ以外の言葉は必要なかった。
 佐々木ミツルは、不意に、うっすらと笑った。
「恋は苦しいなんて言っているくせに、それ以上に苦しんでいるはずの殺人には、みんな無理解なんだよ。面白い世界だと思わない? 殺したい気持ちがどんなに苦しいか。胸が張り裂けそうな痛みに襲われるし、眠れない夜だってあるのに。そのくせ、誰も寄り添ってくれない。むしろ、攻撃してくるくらいだ。恋で苦しんでいる繊細な人にむかって、許さない、お前なんかクズだ、死ねばいい、なんて言ってるのと同じだ。僕は、すっかり世間の声に押しつぶされていった。僕には、殺人衝動を抱えた人を責める人たちの神経が理解できない」
 そんなことは知ったことではない。茜は、ただただ佐々木ミツルの気が変わるのを祈っていた。殺人が恋以上の痛みであれ、実行したら有罪なのだ。そのことを思い出して、堪えてもらいたい。
「どうしても、殺したい。その気持ちがなくなればいいな、と思ったことは数えきれないほどだよ。僕も、心の底ではやりたくないんだろうと思う。素直に生きられるなら、そうしたい。でも、消えない。なくならない。ずっと誰かを殺したくて、悶え苦しんでいるんだ。どうにか抑えようと頑張ってきたよ、十分なくらいにね」
 佐々木ミツルは、ベッドの上に放置されていた『眼球の点滅』を見つめた。自分自身が見えなくなったことを示している絵だ。自分を大切にできなくなったとき、良心が消え去り、本能が浮上してくる。
 佐々木ミツルの残虐趣味の絵画の数々は、殺人の苦しみを表現していたのだろうか。それが世界中で評価されているのなら、その殺人衝動は普遍的なのだろうか。
 どうあれ、現在の茜にとっては、そんなことは問題ではなかった。
「山崎さんだって、好きな人といやらしいこと、したいでしょう? 僕だって、同じなんだよ。好きな人を殺してみたい。全部、見たい。苦しんでいる顔も、悲しんでいる顔も、絶望している顔も、全部、この目で見たい。山崎さんを殺したくて眠れない夜を何度過ごしてきたことだろう。なんで、こんな単純な感情に刑が設けられているんだろう。多様性なんて言ってるくせに、僕という人間は、その多様性の中に入り込めない。結局、害のない範囲でしか多様性を認めない、という、かなり、自己利益的な目的によってしか、世界のスローガンは設定されないよ」
 だから、なんだというのか。茜は、言い返したくなった。生まれつき殺人衝動を持っていたとしたら、それを個性として受け止めろとでも言うのか。
 茜は、目の前の狂気が理解できなかった。重くのしかかってくるように恐怖が肥大していく。
 佐々木ミツルは、また、うっすらと笑った。低い声で続ける。
「いいんだ、理解してもらえなくてもいい。どっちにしろ、山崎さんが僕の手によって解体される運命はすでに決まっている。『贖罪のファンファーレ』があんなことになったせいで、自暴自棄になっちゃった。山崎さんも運が悪いね」
 それだけ言い切ると、佐々木ミツルは、ベッドから立ち上がった。ベッドに無造作に放置されていたスプーンを手に取ると、スプーンの先でぺしぺしと左の掌を叩きながら、茜の前までやってくる。屈みこんでくる。
 佐々木ミツルの顔が、視界いっぱいに拡がった。茜は吸い込まれそうな暗いサングラスから目を逸らせなかった。
「これから、どんなに素敵なことが始まるか、あててみてよ。このスプーンで、いったい、どんなにロマンチックな夜を過ごせるのか?」
 そのとき、突然、ブー、ブー、ブー、と大きな電子音が鳴った。それは狭い部屋全体に響き渡っていた。
「邪魔が入ったな」
 佐々木ミツルは、気分を害したように勢いよくスプーンをベッドへ投げた。それから、足早に部屋の隅へと向かった。入口に近いところの壁に、タブレットくらいのサイズの、なんらかの、画面付きの機械が取り付けられている。おそらく、このアトリエへと続く入り口の扉を遠隔で開けられる機械なのだろう。
 茜は、その小型画面を見てから、ぞっとした。
 その画面には、思いつめたような顔の神崎明人が映っている。来ないで、と絶叫したかったが、喉からは悲痛な呻きが漏れただけだった。ガムテープで口を塞がれているので、声が出ない。来ちゃダメ、と心の中で叫ぶばかりだ。なんとか絞り出している呻きは、画面のむこうには届いているのだろうか。
 佐々木ミツルは、画面を覗き込んでから、面倒くさそうに言った。
「なんだ?」
『急にごめんなさい』
 機械越しに聞こえる神崎明人の声は、頼りなく震えていた。
『もしかしたら、ここが佐々木ミツルさんのアトリエじゃないかと思ったので』
「だから、なんなんだ。用件を言え」
『ああ、ごめんなさい。山崎さんはいませんか?』
 佐々木ミツルは、一度だけ、茜のほうに振りかえり、また向き戻った。
「いないが?」
『でも、たぶん、山崎さんは佐々木さんを選んだはずだから、そっちに行っているはずなんですが。それに、なんか、誰かの声が聞こえますが?』
 どうやら、微かに、茜の呻きが聞こえているらしい。ここぞとばかりに、茜はさらに呻き声を出した。もしかしたら、助けを期待できるかもしれない。異変に気付いた神崎明人が警察に報告してくれれば……。
 茜の企みを察したのだろうか、佐々木ミツルは苛立つように大きく息を吐いた。
「わかった。じゃあ、いま開けるから、中に入ってきてくれ。山崎さんも待ってる」
『ありがとうございます。ちょっとだけ、山崎さんと話したいんです』
 神崎明人は、嬉しそうに声を出した。
 茜の心は絶望の色に沈んだ。喉からくぐもった呻き声を絞り出すのも、ついにできなくなった。神崎明人に助けてもらえるとは思わなかった。佐々木ミツルも、それほどバカではない。さっそく部屋の隅にある棚を探りはじめると、すぐにその中からヒラメのような形の硬質な銃器を取り出した。ボウガンだった。
 終わりだ。茜は、もはや、希望を失った。ついに目の前で人が死ぬ。それも、茜にとっての青春の思い出が。
 なにも手はなかった。すでに神崎明人は、この地下室へと進みはじめている。その足を止める方法はない。部屋まで来てしまえば、佐々木ミツルにボウガンで撃たれる。それを回避する術もない。
 茜は、現実を拒絶するように目を瞑ったが、それもそれで恐ろしく、結局は目を開けることになった。
 間もなくして扉がノックされて、扉が開き、緊張したように神崎明人が顔を出した。青いライトに照らされた神崎明人の顔は、半透明な水のむこうに揺らぎながら現れたように見えた。佐々木ミツルはボウガンを構えていた。神崎明人がなんらかのアクションを起こすより先に、ボウガンが発射された。空気を裂いていく。
 ボウガンは、神崎明人の額に命中し、その身体は後ろ向きに倒れこんだ。ばたり、と扉のむこうの廊下に倒れる音が聞こえた。
 なにかのジョークみたいだった。あれだけ苦しんでいた身体が、一瞬のうちに動かなくなった。茜はなにもできなかったし、なにも言えなかった。これほど急激に、展開していいものなのか。現実はもっとスローに進んでいるのではないか。死だって、すごく先の未来にあるのではなかったか。
 佐々木ミツルは、半笑いだった。ボウガンをベッドに投げ捨てると、すたすたと神崎明人の身体へと近づいていった。腰を折り曲げて神崎明人の身体を見下ろしてから、左足で神崎明人の右肩を蹴りつける。
 やめて、と茜は言おうとして、言葉にならない抗議の声を絞りだした。神崎明人の身体は、まるで死んだように――本当に死んでいるのだろう――無抵抗に揺れた。茜はそれ以上見たくなくて、前に振り向く。スプーンやボウガンが放置されているベッドに視線を落とした。
 心の中に、黒いインクを零したみたいに、不可逆的な変化が生じてきていた。もとには戻らない、という強い確信が視界を塞いでいく。どこまで戻れば、このような最悪な事態を防げたのだろうか。茜は、無意味な思考を進めた。どの選択を間違えていなければ、この結末を回避できたのだろう。
 取り返しのつかない事態を招いたのは、結局のところ、自分なのではないか。茜は激しい自責の念に駆られた。それは、いままで茜を貶してきた数々の人の顔をして、いろいろな言葉で茜を責め立ててきた。
 ついには、身近な親しい人までも決して口にしないような言葉をぶらさげて、茜の心を破壊するためだけに近づいてくる。
 重く苦しく、茜は押しつぶされていった。
 気が付いたときには、佐々木ミツルが視界に入ってきていた。神崎明人の死体を担いできた佐々木ミツルは、その死体をベッドに仰向けに横たえた。神崎明人の額からは嘘みたいな滑稽さでボウガンの矢が突き出していた。その矢が神崎明人の脳を貫いて、神崎明人の命が消えた。
 茜は目を逸らしたが、どこに視線を向けても、神崎明人の死が脳に入り込んでくる。逃げようのない現実とむりやり対面させられているかのようだった。茜は最大限に首を横に回して、なるだけ神崎明人の遺体を視界の隅に追いやっていた。
「見たくない?」
 佐々木ミツルは、含み笑いをした。
「でも、言っとくけど、山崎さんは最終的に僕を選んだ。見捨てられた男の哀れな最後なんだね。ちょっと可哀そうになってくる」
 恐怖に染まっていたはずの心に、微かに怒りが混ざっていく。紛れもなく生きていた人間を、そんな簡単に殺していい道理などない。茜は、精いっぱいに鋭い目で佐々木ミツルを睨んだ。
「怖いなあ、山崎さん。そんなふうに睨んだって、もう死んじゃったものはしょうがないだろうに」
 佐々木ミツルは、ベッドに座ると、そこに転がっていたスプーンを手に取った。スプーンの先を矯めつ眇めつして、満足したようにこくりとうなずく。スプーンをメトロノームのように振りながら、その先で、神崎明人の額をぺしぺしと叩いた。大声で叫んだのにやまびこが返ってこないときのように、静寂が際立っていた。
 茜は、あらゆる言葉で佐々木ミツルを罵倒したかった。その気持ちは目の前の恐怖におしつぶされて、惨めに縮んでいく。
 佐々木ミツルは、神崎明人の額を叩きながら、語りを再開した。
「邪魔が入って、中断されたんだった。たしか、このスプーンでどんなにロマンチックな夜を過ごせるかという話題で止まっていた。でも、まあ、それはあとに回すことにしようか。恋と殺人の関係について、そして、殺人とはなにかについて、もうちょっと話しておきたい」
 そんなのは、どうでもいい。茜は切実に思った。束縛を解いてくれるなら、それだけでいい。
「僕はつくづく、殺人っていうのは恋とは切っても切り離せない関係にあると思っているんだよ。『その根源に性欲が存在する』というポイントだけでも、それなりに共通点を備えていることにはすぐに気づいてもらえると思う。殺人以外、ほかのなにをしても満たされないというのは、ある特定の相手に恋をしたときに、その相手と一緒でなければ常に孤独になるというのとすごく似ている。だから、ここからは殺人を恋と置き換えて話を進めていくことにしよう。もちろん、殺人というのは恋の上位変換かもしれないけど、だいたいは同じようなものと考えられるから」
 明らかに、狂っている。茜は、口を塞がれていなくても言葉が出なかっただろうと思った。
「たとえば、いまさっき、山崎さんの前で殺人を実演したわけだけど、僕はあの瞬間にも恋をしていた。相手はべつに女性じゃなくたっていい。女性のほうが好ましい場合が多いけれど、べつに男性でも構わないんだ。ボウガンを撃ちはなったときの一瞬は、まるでキスだった。それもファーストキスだよ。あの、初めてのときにしか味わえない興奮と歓喜がぎゅっと凝縮されて、僕の心に飛び込んできた。彼が倒れたときには、ぎゅっと強く抱きしめたかのようだった。永遠にも続くような気がする相思相愛のシーンにも思えるくらいだった」
 壊れている。茜は、耳を塞ぎたかった。この人とは、まとまに話ができない。その強い確信が込み上げてくる。
「ひとつ、不思議なことがある」
 佐々木ミツルは、茜のほうに右の人差し指を差し出した。
「何度も言うように、恋は不可抗力なんだよ。自分で決めているようでいて、実際には自分で決めていない。もともと存在する世界の真実を発見したかのように、ある日、不意に、これって恋なんじゃないか、と本人が気付く。あの人に恋をしよう、などと本人が独自に合理的な判断をしているわけじゃない。感情は自然発生的なんだから。だとしたら、恋=殺人という同一性の原則を採用したときに、必然的に、とある矛盾が生じてしまう。殺人は本人が決めているわけじゃない、つまり、動機など存在しないという真理が導きだされてしまうんだ」
 佐々木ミツルは、話すにつれて、だんだんと楽しそうに頬を歪めていく。それが気味悪いばかりだった。
「ここでひとつ、大きな問いが生じてくる。殺人が本人の意思によって決定されていないのであれば、いったい、殺人の原因はなんだろう? 殺人を引き起こしているものはなんだろう。ここでひとつ気が付く」
 佐々木ミツルが、ついに、ぞっとするくらいの満面の笑みを見せた。
「原因は殺人する側にあるのではない。殺人する側は、本人の意思とは無関係の衝動によって、半ば強制的に殺人をさせられているのであるから、むしろ、原因は、殺意を呼び起こしたきっかけ――殺される側にある」
 そんな無責任な理論を、死んだ神崎明人の前で言いふらせるなんて、神経がどうにかしているとしか思えない。茜は、また睨みたくなったが、それだけの精神力がなくなっていた。
「実は、とてつもなく簡単なんだ」
 佐々木ミツルは、引き続き、一定のリズムで神崎明人の額をスプーンで叩いていた。
「殺意を集めた人が殺されている、という当然の論理を、僕たちは忘れがちだ。しかし、実際のところ、こちらのほうが正しい。殺人する側に動機なんか聞いてもどうしようもない。だって、殺人する本人には、殺意を呼び起こしたきっかけなんて把握できていないケースが多いだろうから」
 佐々木ミツルは、茜の顔を覗き込んでくる。暗く沈んだサングラスのむこう側は依然として見えない。
「その顔は、理由があれば殺人していいわけじゃない、っていう顔だ。山崎さんの言いたいこともわかるよ。でも、いま、僕が話しているのは、許されるべきかいなか、ではなくて、純粋に殺人とはなにか、について話しているんだ。規範的な問いではなくて、実証的な問いに答えているというわけだ」
 もう、これ以上、聞きたくなかった。
「ケーススタディーに移るとしよう。僕が殺人をする理由――それは僕の意思決定とは無関係に殺人衝動がこみあげてくるからだけど、じゃあ、その殺人衝動はいったい、なにによって喚起されているのか――そのきっかけはなんなのか? 小さいころのトラウマ体験は少なからず影響しているだろうね。そのせいで、抽象性の高い殺意が胸の底に沈殿している。それはたとえて言うならば――呪いかもしれない」
 呪い? 茜は、笑いたくなった。呪いが実在するなら、佐々木ミツルはすでに呪い殺されているはずだ。
「呪いのメカニズムは単純だ。負の感情が高まったとき、その感情を高めた相手が不幸になる。そういうメカニズムが世の中に存在していれば、殺人なんて起きないよ。それが世の中に存在していないからこそ、呪いを実現しようとする人たちが出てくる。殺人が起きるのは、世の中に呪いが存在しないからだ」
 茜は、鈍くなった頭で考えた。呪いが実在していれば、殺人は起きない。殺人が起きるのは、直接的に相手を傷つけなければ相手を不幸にできないから。そう言いたいのだろうか。
「ひとつ断っておきたいけど、呪いというのは、特定個人だけに注がれるものじゃないんだよ。抽象性を帯びているケースがほとんどだ。つまり、イケてる感じの兄ちゃんに殺意が湧く人は、そういう人の全体に殺意が湧くし、マナーの悪い若者に殺意が湧く人は、その全体に殺意を抱いている」
 それはたしかにそうかもしれない、と茜は思った。無数の人たちを個別具体的に把握するのではなく、特定のグループに分類しているような側面がある。似たもの同士を同じものとして扱おうとするのだ。
 悪い場合には、自分の性質でしかないものを拡大解釈して、人間のすべてに当てはまるかのように考える人もいる。陰口を言わない人はいない、とかいうように。そういうケースは傍から見ると面白い。一般化して話を進める人は、たいてい、自分がどのような人間であるかを雄弁に語っている。
 だからこそ、茜は、普段から、一般化しながら話をするのを避ける傾向にあった。あくまでも観察者でいたかった。
 人間を観察するときに、注目すべきポイントのひとつは、周りの人間をいかに分類しているかだ。周りの人間をどのように分類して把握しているかを探れば、その人の見ている世界の形はだいたい把握できる。その分類が不十分であればあるほどに、無差別な殺意が生じてくるのもおかしくはない。分類が進んでいなければ、全人類に対する自分という対立構造も出来上がるかもしれない。
 佐々木ミツルは、スプーンで神崎明人の額を叩く。
「僕の殺意も抽象度が高い。おそらく、ほとんど人間全体に対する殺意が形成されてしまっている。僕の殺意を呼び起こしているのは、人間の全体だ。だから、僕は、人間の全体が不幸になってくれれば、きっと殺人をやめる。滅亡すればね。人類が絶滅したときはじめて、殺人をしなくても済む。しかし、この世界には呪いがないし、人間はゴキブリ以上にしぶとい。だから、自分の手でひとりずつ殺していくしかない」
 呪いが存在しない世界では、自分の手で対象を不幸にするしかない。そうだとすれば、殺人というのは顕在化して具体化した呪いであるとも言える。
 茜は、しかし、佐々木ミツルの講義には納得できなかった。この世の中には、殺人衝動を抱えながらも、その負の連鎖を自分で押しとどめようと努力している人たちがいる。たとえば、神崎明人とか……。
 佐々木ミツルの独壇場は止まらない。
「自分の好きな人を殺したくなるのは、矛盾しているようだけど、実は、そんなに矛盾していない。気になる相手にこそ、自分の中に沈殿している殺意が強く反応するだけだ。それは家の外では従順なサラリーマンが家族にだけは強くあたるのと同じだよ」
 本人の中では論理が通っているのが、恐ろしいところだった。
 佐々木ミツルは、スプーンで神崎明人の額を叩く速度を上げていった。肩に力が籠り、その声も徐々に大きくなっていく。
「助けてほしい。それが純粋な僕の気持ちだ。何回も言ってるでしょ。望んでいるんだけど、望んでないんだ」
 佐々木ミツルの顔に、いつの間にか、悲しみが満ちる。茜は、悲しみの少女シリーズに隠されていた暗号を思い出した。『TASUKETE』というメッセージ。この人の真意はどっちにあるのだろう。茜にはわからなかった。
「この地獄から抜け出したい。助けてほしい。でも、もう、こうするしかないんだ。僕は僕を助けることができない」
 佐々木ミツルは、ふっと息を吐いて、肩を落とした。
「まあ、これくらいで山崎さんが殺される理由はだいたい説明できたかな。これでインフォームドコンセントみたいになっているはずだ。あとは、もっと立ち入った細かいことも説明しておくべきだけど、その前に」
 スプーンを茜のほうに向けてくる。ぞっとした。
「少しだけ、遊ばせてもらうよ。もう一度、訊きたい。このスプーンで、いったい、どんなにロマンチックなことができるだろう?」
 茜は、力を振り絞って、首を振った。大きく振ったつもりだったが、実際には、小刻みに震えただけだったかもしれない。佐々木ミツルは、バカにするように笑い、スプーンの先を神崎明人の顔に向けた。
 なにをするかは、想像できていた。具体的にイメージしたくなくて、茜は恐ろしい発想を頭に隅に追いやっていた。
「目を逸らしたって、ダメだよ」
 佐々木ミツルが、気怠そうな声を落とした。見ると、にやりとした顔をしている。
 それからは、一瞬の出来事だった。佐々木ミツルが手にするスプーンの先が、躊躇なく、神崎明人の死体の眼窩に差し込まれた。ぐじゅ、と粘着的な音がする。茜は咄嗟に目を瞑ったが、聞こえてくる音が雄弁に物語っていた。
 ぐじゅ、ぐじゅ、と不快な音が続いた。
 腹の底が波打つように騒がしくなり、吐き気が込み上げてくる。茜は、必死になって現実を遮断しようとしたが、そうしようとすればするほどに頭の中は惨い現実に染まっていった。
 茜が次に目を開けたときには、佐々木ミツルの黒い服の腹部に赤い色が付着していた。もともと青い絵の具で汚れていた服は、赤と青に汚れて血管の人体模型のようだった。
 佐々木ミツルのその手には、抉り出されたばかりの球体が置かれている。その黒目が揺るぎなく茜を直視していた。総毛立つような感覚がした。
 佐々木ミツルは、その球体を見せびらかすように茜の鼻先に近づけてくる。ぬるぬると血液で汚れているそれは、生もののようにてかてかと輝いている。血の臭いがした。茜は、顔の表面を逸らした。
「なんて美しいんだろう」
 陶然とするような佐々木ミツルだ。「そう、思わない?」と声をかけてくるので、茜は、また首を振るしかなかった。
「そうだね。口を塞いだままじゃ、可哀そうだ。だいたい話したいことも話せたから、そのガムテープはとってあげよう」
 佐々木ミツルは、空いているほうの手を茜の口に伸ばした。加減することもなく、勢いよく茜の口を塞いでいたガムテープを引っ張った。唇の皮がめくれたような、熱を帯びた痛みが走った。自由になった口で最初に飛び出したのは、祈りだった。
「どうすれば、助けてくれるの?」
 佐々木ミツルは、突然、不快感を露わにした。
「それはずるいと思わない? そういう無神経な言葉は聞きたくなかった。僕だけ、一生助けてもらえないのに、自分だけ、助かろうとするなんて。そういう態度をとるから、僕の殺意だって消えない」
 佐々木ミツルは、ひとつ息を吐いてから、気分を切り替えるように首を回した。いまいちど、手元の眼球を人差し指と親指で持つと、視線の高さまで掲げた。ベッドには、右の眼球がなくなった神崎明人の死体が転がっている。
 眼球を見つめる佐々木ミツルは、だんだんと明るい顔に戻っていった。ふたたび眼球を茜の鼻先まで持ってきた。口は自由になっているはずなのに、茜は、今度はなにも言えなかった。
「ちょうどいい」
 納得したように言うと、佐々木ミツルは、神崎明人の眼球を茜の唇に押し付けてくる。
「やめて!」
 叫んでも、まるで意味がない。ぬるぬるとしたそれは、カタツムリを連想させた。茜は全力で口を閉ざしたが、それはつるりと口の中に入り込んできた。ぞっとするでは言い足りない心地だった。楽しそうに笑った佐々木ミツルは、ふたたびガムテープで茜の口を塞いだ。
 舌の上に、神崎明人の眼球がのっていた。大きすぎて飲み込むことはできないし、飲み込みたくもない。塞がれた口からは眼球を吐き出すこともできない。
 茜の頭に、記憶の中の神崎明人の視線がいくつも浮かんできた。その視線がいまや茜の口の中を見つめている。こんなに全身がざわざわしたことはなかった。
「心地は、どう?」
 佐々木ミツルは、おかしそうに笑った。ベッドに放置されていたボウガンとスプーンを手に取ると、部屋の隅に置かれていた青いバケツにそれらを仕舞った。そのバケツの取っ手をつかんで持ち上げて、「ちょっと、待ってて」と言い置いて、佐々木ミツルは部屋を出て行った。
 海底のような部屋は、静寂に支配された。

 神崎明人の死んだ眼球が舌の上で転がる。気持ちが悪い。吐きそうだったが、口を塞がれたままで吐けば、最悪、窒息しかねない。茜は、懸命に吐き気を我慢していた。口の中に押し込められた眼球をなるべく動かないように舌の上に固定する。
 ああ、いったい、どうしてこうなったのだろう。茜は、トラップにハマった原因を探っていた。人生には数々のトラップが満ちている。佐々木ミツルは、茜が知る限り、人生で最大のトラップだった。
 このトラップを見抜けなかったのはなぜだろう。茜は、考える。眼球に必要以上に執着している絵画の数々や、普段の奇行などを考慮すれば、佐々木ミツルが異常なのは目に見えていた。それを肯定的に判断したのは、茜の希望的観測に過ぎなかったというわけである。
 振りかえったところで意味もない。茜はどうにか切り替えて、目の前の問題について思考を巡らせた。どうすれば生き残ることができるのだろう。
 考えたところで、善後策が浮かんでくることもなかった。身体の自由とともに思考の自由も拘束されているように感じた。
 茜の思考は次第に脱線していった。もしも最初から神崎明人を選んでいたら、という夢想が拡がっていく。
 それは諦めのサインでもあった。生き残るのはほとんど不可能であるからこそ、現実ではないものに思いを馳せたくなる。
 ベッドには、神崎明人の死体が仰向けに置かれていて、片目だけで静かに天井を見つめている。その死体を見つめたまま、茜は空想に耽った。
 きっと、幸せなデートを重ねていったに違いない。すぐのうちに濃厚な関係になっただろう。それはありふれたラブストーリーかもしれないが、茜にとっては大切な思い出になっていったはずだ。
 その幸せを掴みとれなかったのは、茜のせいだ。猟奇的な殺人鬼を選ぶなんて、どうにかしている。茜は、ふたたび自責の念がこみ上げてきた。気が付けば、目の前にいる死体に、心の中で声をかけていた。
『変人の芸術家に騙されるなんて、私ってバカだね』
『自分を責めないで』
 神崎明人の声が返ってきた気がした。
『僕は思うの。そこらへんの人たちよりもずっと、佐々木ミツルには同情できる。本当の痛みを抱えている人にしか、わからない。人を殺さなければ息をつくことができない、という呪縛だよ。映画を観たって、ソファに寝転がったって、誰かにキスをしたって、なにも効果がない。人を殺さない限りはね』
 なぜか、神崎明人の声は、佐々木ミツルを擁護していた。
『山崎さんは僕を選べば幸せだった、とも限らない。運が悪ければ、僕だって、山崎さんを引き裂いたかもしれない。想像以上に普遍的なんだ。誰の心の中にも、多かれ少なかれ、悪い部分が紛れ込んでいる』
 考えてみれば、そうかもしれない、と茜は思った。ほとんど多くの人が一度くらいは自殺を考えるのと同じように、殺人することも考えているかもしれない。しかし、ほとんどの人たちは実行に移さない。
『実行に移すかどうかの違いはなんだと思う?』
 神崎明人の声は、優しかった。
『ありのままを受け入れてあげないとダメなんだよ。その場限りの怒りとか、ちょっとした差別意識で、相手を評価したらダメだよ。どんなに気持ちが悪いことをする人でも、どんなに道を外れたことをする人でも、ありのままに受け入れてあげないと、また誰かを殺すよ』
 受け入れてもらえないという単純な経験が、凶悪な殺人に飛躍することがあるのだろうか。茜には、わかりかねるところもあった。
『殺人を生み出しているのは、邪悪な思想じゃなくて、正義なんだ。不寛容な正義が極限まで人を追い詰める。だから、佐々木ミツルを怖がらないで。否定しないで。ちゃんと、話を聞いてあげて』
 それを最後にして、神崎明人の声が聞こえなくなった。
 明瞭に理解できたわけではないが、考えてみれば当然の解決策だった。ありのままを否定されてきた人には行き場がない。誰かひとりでも寄り添う人がいなければ、みるみるうちに邪悪な思いを含ませていくだろう。
 だとすれば、佐々木ミツルを受け入れなければいけない。茜は、考える。殺人鬼に寛容になるのは道徳的には間違っているが、現実的には最善の解決策だ。つまり、佐々木ミツルの話に傾聴すればいい。
 目を合わせ、うなずきながら、話を聞く。点灯した眼球で。
 それくらいしか道は残されていない。いっそのこと、最後の足掻きだ。
『ありがとう、神崎くん』
 茜は、心の中で神崎明人に感謝を伝えた。
 
 佐々木ミツルが戻ってきたのは、体感では、二十分ほど経過したあとだった。さっきよりも赤色で汚れている服は、より全身の血管を示す人体模型のように見えた。ボウガンは持っていなかった。血液の滴る青いバケツを片手にぶらさげていて、それをベッドの上に置いてから、にんまりとした顔を茜に向けた。
 相変わらず真っ黒のサングラスをしていたが、怠さは抜けきっているようだった。サッカー観戦の興奮から覚めていないサポーターのような、エネルギッシュさが全身に漲っている。
 佐々木ミツルの両手は、血液で手を洗ったかのように赤黒く汚れていた。その右手でバケツの取っ手をつかんで、茜のほうに差し出してくる。バケツの底になにがあるか見えなかったが、だいたいは想像できた。
「なんだと思う?」
 小さな子供が独自の発見を母親に伝えるときのような声だった。茜は、ガムテープで口を塞がれているので、一言も返答できない。それに気づいたのか、佐々木ミツルは、強引に茜の口を塞いでいたガムテープを引き?がした。
 口の周りに電気が走ったような痛みが生じる。
 茜は、ただちに、口の中に入っていた神崎明人の眼球を吐き出した。鉄筋コンクリートの床に眼球が転がり、その生々しさを目の前にして、ふたたび吐き気が込み上げてくる。なんとか吐き気を堪えてから、茜は、佐々木ミツルに目を向けた。睨みではなく、純粋な視線――ありのままを見ようとする視線だった。
「そのバケツの中、眼球が入っているんですよね」
 茜は、攻撃的な発声にならないように気を付けた。むしろ、佐々木ミツルのすべてを優しく包み込むような余裕のある声だった。
 当てが外れたような顔をした佐々木ミツルは、「どうしたの」と低い声を零した。
「どうもしてないです。それ、美術館にいた六人分の眼球ですよね」
「まさに、そのとおり」
 佐々木ミツルは、バケツを傾けて、その底を茜に見せた。いくつもの眼球が視神経をまといながらバケツの底で転がっている。咽そうなくらいの血の臭いがした。茜は不快感を顔に出さないように注意し、神崎明人からのアドバイスを実践に移した。
「教えてください。どうして、こうなったのですか。佐々木さん――いえ、ミツルはどうして、こうなっちゃったの?」
 敬語を排除し、お望み通りの呼び方をする。
「聞きたくなった?」
 佐々木ミツルは、神崎明人の脚の上に座りなおすと、バケツを太ももに載せたまま、語り始めた。太陽が雲に隠れたように、佐々木ミツルの顔が暗くなっていた。
「すべてが始まったのは、あの日だった。あの日はまるで、僕の人生の予言だ。あの出来事に帰して人生のすべてを説明できるかもしれないとまで思わせてくれる。そんな重大なことが起こったあの日、山崎さんも知ってるだろう?」
 茜は、うなずきを返した。
「ミツルの両親が……」
「僕の両親が死んだ」
 さっきまで全身に漲っていたはずのエネルギーが、一瞬のうちに佐々木ミツルから消滅するのを感じた。まるで、すべての温かい思い出が一瞬のうちに泥水で流されていったかのようだった。
「パパもママも大好きだったんだ。それなのに、殺された。そんなのが許されていいわけないだろう?」
 声に力が籠る。
「パパとママを殺したやつの顔を鮮明に憶えているんだ。その顔はね、青信号の点滅を受けて、ちかちかと青く光っていた。その眼球は僕のほうを見て、青く点滅していた。あの眼球が頭から消えない。助けてほしい」
 佐々木ミツルは、あくまでも強い口調で言葉を落とすと、バケツの中からひとつの眼球を取り出した。タバコを吸うかのような仕草で、手に取った眼球を口に入れる。ぐじゅぐじゅと?み砕いて飲み込んでしまった。
「どこまで行っても、追いかけてくるんだ。青く点滅する眼球が。あの日からずっと、僕はなにも達成できなくなったから、一瞬たりともほっとする時間がない」
 佐々木ミツルは、一粒だけ涙を流した。頬に付着していた血が溶けて、赤い雫となって顎からぽたりと落ちる。その目で、茜を見ていた。
「気持ち悪いだろう? 僕は、どうすればいい?」
 佐々木ミツルは、答えなど求めていないとでもいうように目を伏せて、また、ひとつ、眼球を手に取り、口に入れた。ぐじゅぐじゅと?み砕く音が響く。ごくりと嚥下する音まではっきりと聞こえた。
 グロテスクの限りだった。しかし、気持ち悪がってはいけない。茜は、どうすればいいか、不思議なくらいに、はっきりと把握できていた。
「それを食べてると、落ち着くんだよね?」
 大事なのは、無条件の受容だ。
「わかってくれるの?」
 佐々木ミツルが、びっくりしたように口を開ける。そのあとすぐ、なにかを納得したかのようにうなずいて、「わかってくれるんだね?」ともう一度、訊いた。茜は、そこには正直に答えた。
「わからないけど、それを食べてると落ち着くんだよね? ミツルがそういう状態であることはわかる」
 佐々木ミツルは、悲しそうに笑った。
「どうかしてるよ、山崎さんも。一緒に食べる?」
 バケツを寄こしてくるので、茜は、強く首を振った。食べられるわけがない。それは食べ物ではなく、尊厳を守られるべき死んだ人間の一部だ。茜は、そんな説教を胸のうちに押しとどめた。
 青く照らされた室内で、佐々木ミツルの口が猟奇的に赤黒く染まっていく。眼球に付着していた血液のせいで、佐々木ミツルの歯も赤く変色していた。平和なアクアリウムに狂暴な外来種が紛れ込んだかのようだ。そんな佐々木ミツルは、また暗い声で語りを再開した。
「青く眼球が点滅しているのがトラウマになったんだ。そのときから、僕は矛盾するふたつの感情に悩まされるようになった。ひとつは、眼球への異常な性欲、もうひとつは点滅への異常な恐怖。話したとおり、僕は点滅恐怖症だ。眼球が点滅するのも恐ろしい。でも、この、眼球と点滅のふたつの要素のうち、眼球だけには、なぜか、ありえないほど興奮してしまう。両方がそろったときには、とてつもなく恐ろしいのに、眼球が単体であるときには、むしろ好きなんだ」
 どういうメカニズムでそのような精神構造が生み出されたのか、茜には、わからなかった。それでも、説明なしの現実として、そのままを理解すればいい。
 思えば、神崎明人も、子供のときにビー玉を舐める癖を持っていた。ビー玉を口の中で転がしているだけで落ち着くということだった。佐々木ミツルの場合も、要は、それと同じである。たまたま法外な癖であっただけだ。
 佐々木ミツルは、眼球を食べつつ、話を進めた。
「僕は、すぐに学校に通えなくなった。学校は大嫌いだった。だって、みんなは、僕がいちばん性的に興奮する部分を好き放題に露出しながら生活していた。あんなのは公然わいせつだ。僕はいつも興奮しなければいけなかったし、あらゆるときに緊張を強いられていた。僕は、誰とも、目を合わすことができなかった。激しい劣等感に押しつぶされそうだったよ」
 茜は、静かに耳を傾けていた。口を挟まずに、佐々木ミツルから飛び出していく言葉のどれもを平等に?み砕いていた。
「学校に通えなくなった僕を、祖父が心配してくれてね。親身になって話を聞いてくれたんだよ。僕はすべて話した。眼球に興奮するということも含めて。誰かを殺したいということも伝えたよ。全部、正直なところを」
 だとしたら、佐々木ミツルの祖父は理解者だったのだろうか。
「祖父は僕を否定しなかった。殺したいなら、殺せばいい、と僕を励ましてくれた。そうして、この美術館の地下に、まさにここ――このアトリエをつくってくれたんだ。祖父は僕のために、人間を用意してくれた。その人間を、僕は好き放題に扱うことができた。写真を撮ることもできたし、殺すこともできた。その眼球を食べることだって、できた。完璧な生活だった」
「それは素敵なことね」
 茜は理解を示したが、佐々木ミツルは、思いつめたように間を置く。
「でも、最近になって、そんなのじゃ我慢できなくなってきた。だって、そんなの、祖父の言いなりだろう? 自分の力で誰かを誘い込んで、その人を自分だけの責任で殺してみたくなった」
 つまり、自立心が芽生えてきたというわけか。茜は、納得する。年齢を重ねるにつれて自分の裁量の範囲を拡げていきたいという気持ちは誰でも膨れていく。殺人についても、自分だけで完結させたいと思うのは、おかしなことではない。
「それで、例の事件を起こすようになったんだね?」
「そう。いつまでも、ここに閉じこもっているわけにはいかない。自分の力で。山崎さんも含めて、自分だけで殺したかった」
 それにはうなずけなかった。茜は心臓が冷えるような思いがしたが、顔には出さなかった。
「まあ、そんな感じで現在にいたる、ということ」
 佐々木ミツルは、そこで、手を止めて、眼球を食べるのをやめた。不意に訪れた沈黙の中で、茜は、次に口にするべき言葉を必死に探しはじめた。
 茜が理解者であることを雄弁に語るようなセリフが必要だ。佐々木ミツルのすべてを受け入れ、殺人に手を染めずとも落ち着けるような環境が出来上がればいい。
 たとえ一瞬だったとしても構わない。殺されずに済むのなら、それでよかった。茜は言葉を探しつづけた末に、ひとつの言葉を思いついた。
「私は、それでも、ミツルが好き」
「勘違いしてるんじゃないか?」
 それは突然だった。被せるような勢いで、佐々木ミツルが声を上げた。茜は、その大声に驚いて、肝が冷える思いがした。すぐには声が出なかった。
 佐々木ミツルは、サングラスをしているせいで、異様な剣幕に満ちている。お互いに目を見ているはずなのに、ふたりの間ではなにも共有できていなかったということが決定的になった。茜は、恐るおそる口を開いた。
「勘違いって、なにが?」
 かろうじて喉を通ったのは、その言葉だった。佐々木ミツルは、ふたたび声量を落とした。
「山崎さんは十分に優しいとは思うけど、取り返しがつくと考えているようなのは間違っている。すでに取り返しはつかない。一度動き出したものは止められない。いい? どんなことをしても、僕は助けられない。哀れだ」
 茜は、言葉を失った。やはり、茜がなにを企んでいるのか、佐々木ミツルはすべて見抜いていたのか。どんなに受容しようとも、佐々木ミツルはもはや満たされない。そういう次元ではなくなっている。
 こいつは怪物だ、という思いが、絶望感をたっぷりと背負い込んで、茜の心を押しつぶしていく。
 本当に最後だ。なにも手はない。茜は、呆然と佐々木ミツルのサングラスを見つめるしかなかった。
 佐々木ミツルは、いまいちど神崎明人の脚に座りなおすと、躊躇することなく、サングラスを取った。子供のような二重の目だった。その目は、まっすぐと茜の目を見つめていた。たちまちのうちに、佐々木ミツルの黒いズボンの股の部分が膨れ上がっていく。数秒のうちに陰茎が屹立していた。
 目の前の芸術家は、いつの間にか、すっかり得体のしれないエイリアンに様変わりしていた。ふたたび、大量のアドレナリンが分泌されているかのような、あるいは躁状態であるかのような、そんな顔をしていた。
「このサングラスはあらゆるところを黒く塗りつぶしてくれるから、誰かと目を合わせても興奮しないんだ。誰かの眼球を目にすると一瞬で興奮してしまう僕にとって、このサングラスは必需品だった」
 夜空から一瞬のうちにすべての星が消滅したような気分だった。ただ純粋な闇がどこまでも遠くに拡がっている。その際限は見えない。
「なんで殻に閉じこもるの? なんていう疑問を投げられたことがある」
 佐々木ミツルは、楽しそうに語りだした。
「でも、それ、誤解してる。正確には、『殻に閉じこもっている』んじゃなくて、『殻に閉じこめている』んだ。なにを閉じ込めているかって? 知りたい? じゃあ、もう、打ち明けてしまうんだけど」
 茜はなにも反応していないのに、佐々木ミツルは話を進めていく。
「僕は、ランドセルを背負っているときからずっと、透き通るような美しい眼球――山崎さんのようなね――を見ると、舐めまわしたくなる気質だった。眼球マニアだよ。スプーンで抉り出して、そのすべすべした感覚を舌で味わいたくなる。わかんない? そうだよね、気持ち悪いこと言って、ごめんね。でも、ホントなんだ。眼球を見るだけで、もうなにもかもがどうでもよくなって、どうしようもなく心が蠢くんだ」
 いまさら再確認するまでもなかった。佐々木ミツルは、いまさっきまで眼球を食べていた。
「異常だとわかっているから、それを隠している。僕はなるだけ興奮しているのを悟られないように、人間の眼球を見ないように心がけている。だから、いつも、誰かと目を合わすことができなかった。山崎さんも含めてね」
 佐々木ミツルは、青いバケツの中から血で汚れたスプーンを手にする。
「そんな僕から、ひとつだけ、お願いしたいんだけど。こんな僕でよかったらさ、このスプーンで、君の眼球をひとつ、失敬させてもらってもいいよね?」
 急激に明るさを取り戻した佐々木ミツルの顔が迫ってくる。獲物を見つけた殺人鬼の顔とは、まさにこれだ。エネルギッシュさが復活していた。
 佐々木ミツルの手に握られたスプーンが、伸びてくる。室内の青いライトに照らされて、ステンレス製のスプーンはアクアリウムのような輝きに満ちていた。
 茜は全力で目を瞑った。
「やめて、お願い!」
 叫び声も虚しく、冷たくて硬いものが眼窩に挿入されるのを感じた。燃え上がるような痛みが眼球に走る。意識が覚醒したまま、強烈な痛みが消えない。
 どこか遠くで、佐々木ミツルの笑い声が反響していた。