【ゲームブック小説】眼球の点滅③-C

 あなたは神崎明人を選択しました。


   三のC

 茜は涙を拭い、ついに決断した。すぐ傍にあったコンビニの駐車場に車を停めると、スマホを手に取り、佐々木ミツルにメッセージを送信する。
『ごめんなさい。私たちの関係はまだ終わっていません』
 茜は、車を出すと、やってきた方向へと戻っていった。向かう先は、いまさっきまで神崎明人と一緒にいたカフェだ。
 頭の中に騒がしく浮かんでくるのは、神崎明人の声だった。弱弱しい声なのに、どうしてこんなに惹きつけられるのだろう。
 ルームミラーで自分の目を確認すると、赤く腫れていた。ふたたび腕で涙を拭い、恥ずかしい姿を元に戻そうとする。
 茜は、考えた。そもそも、現代の国家においては暴力は国をあげて禁止されているのだから、別段、強い男に惹かれる必要もない。そのように考えると、男を選ぶときに強さを必要事項に入れるのはおかしな話だ。強いパートナーがいなくても、社会生活が送れるような土台はすでに築かれている。
 しかし、それは神崎明人も射程内に入るというだけの話であり、神崎明人を好きになる理由を語ってはいない。
 どうして神崎明人に惹かれているのか。
 その原因がよくわからない。ひょっとすれば、弱いからこそ母性が刺激されるのかもしれない。それも一理あるが、それで全体を語るのは難しい。神崎明人という存在そのものになにか言い表しようのない魅力があるような気がする。
 それは優しさだろうか。わからない。優しさなどと言い出すと、もはや、世の中のほとんどの男に該当する特徴だ。立派に成人した人であれば、誰でも表面的な優しさを身に着けている。その線で考えていくと、神崎明人がとびぬけて優しいとも言い難いのではないか。
 表面的ではない優しさだろうか。わからない。
 茜の頭は、神崎明人で満たされていった。物理学も、経済学も、心理学も、なにも必要なかった。神崎明人という再現可能性のない唯一無二の存在について、それだけに詳しくなれればいい。
 神崎明人という、歴史上に一度しか存在しない、ひとりのミステリアスなホモ・サピエンスのオスについて、知り尽くしたい。
 茜は、さらに涙があふれそうになり、我慢できなかった。せっかく拭っていたのに、台無しだ。失いたくない。離れたくない。ずっと一緒にいたい。なんで疑ったりしたのだろう。自分のことさえ、わからない。
 フロントガラス越しに見える空は、裂けていた雲がふたたび融合し、いまにも雨の降りだしそうな調子だった。
 茜は、カフェに到着してからすぐに、その駐車場に神崎明人の車が停まっているのを確認した。
 できるだけ涙を拭ってから行きたかったが、神崎明人が度の合っていないコンタクトレンズを装着していたのを思い出すと、それは不必要だと気が付いた。なんと言えばいいのか、わからないまま、車を降り、カフェ店内へと戻っていく。
 店内に入っていくと、神崎明人が出てくるところだった。ちょうどソーシャルディスタンスくらいの距離で、目が合った。神崎明人の目も赤く腫れている。それが、どういうわけか、茜の心を安心させた。
 なにかドラマティックなセリフも許容しうるような舞台装置の中にいるような気分だった。茜は咄嗟に、ごめんなさい、と言おうとした。それを言わせなかったのは、当然のように神崎明人だ。
「とんでもないことになった」
 それが神崎明人の第一声だった。様子がおかしい。その気迫が尋常ではなかったので、ドラマみたいなものを演じている場合ではないと茜は強く感じた。
「なにが?」
「とにかく、来てよ」
 神崎明人は、茜の問いには答えず、茜の右手をつかんで店を出た。それほど行動的になるのは珍しい。顔を俯かせたまま、茜の身体を引いていった。茜は、はじめて神崎明人に先導されるのが新鮮で、なにも言葉が出てこなかった。
 曇天の下、そのまま、神崎明人の車の前に到着した。
「乗って」
 助手席のドアを開け、茜を乗車させようとする。
「ちょっと待って。なんなのか、教えてよ、とんでもないことって」
「いいから、まずは乗って」
 神崎明人の声に苛立ちが籠っている。幸せな話題が待っているわけではないのは明らかだった。茜は訝しみながらも神崎明人の車の助手席に座った。神崎明人はぐるりとフロントガラスの前を通り、運転席に乗り込んでくる。
 乗り込んでからすぐ、コンタクトレンズを外した。
「最初にやっておきたい」
 神崎明人は目を俯かせたまま、横顔で話した。
「信じてほしいから。すごく怖いけど。いまからちょっとだけ目を向けるから、それで信じてくれるよね?」
「それは、そうだね」
 茜は、正直、『とんでもないこと』のほうが気になっていたが、実験をやってくれるのなら越したことはない。茜は、神崎明人の横顔をじっと見つめ、ゆっくりと振り向こうとしている神崎明人から目を逸らさなかった。
 神崎明人の目が、ついに茜を見た。途端に、その目が見開いた。大きな瞳が一瞬のうちに激しい恐怖に染まるのがわかった。それはまるで恐ろしい怪物を突然目撃したかのような様子だった。演技をしているようには見えない。それほどの器用さを持った人ではないだろうから、もはや、疑う理由はない。
 数秒間、目を合わせたあと、神崎明人は逃げるように目を伏せた。茜は、自分が無言になっていたのに気づくと、慌てて口を開いた。
「ありがとう。これで信じられる」
 それは嘘偽りのない言葉だった。もう疑ったりはしない。最後まで信じつづけるつもりだった。茜は、感謝を伝えてから、さっきから気になっていた話題に戻った。
「それで、『とんでもないこと』ってなに?」
「それが本題なんだ。冷静に聞いてほしい」
 声の調子が深刻になっていく。曇天のせいで、車内は暗い。ここにきて突然に、嫌な予感が増幅していた。
「確実にはわからないけど、僕は、もしかしたら、いまさっき、山崎さんを呪ったかもしれない」
 車内冷房の低い唸りが響く中、前方から押し寄せてくる冷たい風に寒気が走った。
「呪った? 私を?」
 どういうことだろう。呪いの実在は信じるにせよ、どうして神崎明人に呪われることになるのか。茜にはただちに理解できなかった。
「さっきも言ったけど、呪いには無自覚性があるんだ。僕が望んで呪いたいと思ったわけじゃない。でも、さっき、山崎さんがひどいことを言うから、僕の中でフラッシュバックしたんだ」
 過去の記憶を思い出したというわけか。誰にも話せないような屈辱を。
「僕の中で怒りが膨れ上がった。僕の怒りは要注意なんだ。だって、おそらく、すでに四人を殺害する結果になっている」
 神崎明人は、目を伏せたまま、落ち着きなく、きょろきょろとハンドルの上に視線を彷徨わせている。ひどく動揺しているようだ。
 一方で、茜の心の中にも、微かな動揺が走った。さっきのくだらない喧嘩は些細なものとして片づけられるはずだった。しかし、その喧嘩の中で神崎明人が常軌を逸した過去を思い出し、そのときの感情を茜に向けたのであれば、それは呪いとして伝達されるかもしれない。
 茜は、神崎明人の言いたいところを理解し、ぞっとした。つまり、神崎明人が言いたいのは、茜に不幸が訪れるかもしれないということか。呪いの実在を前提にするならば、そのような考えに至るのは自然だ。
 神崎明人が話していたように、負の感情は呪いとして対象に伝達され、一時的な不幸維持効果が働いたあとで、一日から三日後に、その対象の不幸の度合いを変化させる。
 神崎明人が膨大な負の感情を一時的であれ、茜に向けたのであれば、茜のもとには一日から三日後に膨大な不幸が供給されるというわけだ。すぐには呑み込めなかったが、異常事態であるのは把握できた。
「つまり、神崎くんが私に負の感情を向けたことで、私が三日以内に呪い殺されるかもしれないって?」
「そうなんだ。いまのところは、αが十分に大きいことを期待するしかない」
 神崎明人は、焦ったように言葉を零す。神崎明人が以前に説明していたとおり、αというのは自分に注がれるポジティブな感情の総計である。茜が周りの人からポジティブな感情をどれだけ抱かれているかが重要だというわけだ。
「総量比例効果――つまり、呪いの変化に対してどれだけ敏感に不幸が反応するかというのは、αによって規定されている。αが十分に大きければ、不幸の変化は呪いの変化だけになる。でも、αが小さければ、不幸は呪いの変化の無限倍にもなりうる」
 通り魔となった中学生の少年が研究していた記録によれば、呪い至上主義という立場からは、すべての不幸は呪いによって説明できる。本来は呪いとは無関係のものとして導入された『そのほかの影響』Bも、『呪い』Aによって導かれる。そのときの公式として、B=A/αを採用するならば、αが十分に大きくなければ、Bの量を抑えられずに不幸の量が大きくなるのを避けられない。
 曇天がやけに生々しくグロテスクに思えてきた。茜は、胸の底に嫌なものが溜まっていくのを感じた。自由だった心が突如として縛り付けられたようだった。
「僕は山崎さんが好き」
 目を逸らしたままで、神崎明人は言った。
「本当に好きなんだ。この気持ちが十分に大きいなら、それが大きなαとして機能することで、もしかしたら不幸を抑えられるかもしれないけど」
「どちらにしても、私は呪われた?」
 神崎明人を責める気持ちはなかった。すべては、くだらない言い合いをした自分のせいだ。それでも、堂々と神崎明人をフォローできるくらいの余裕がなくなっていた。余裕がないのは、神崎明人も一緒だった。
「少なくとも、僕は、SNSで、山崎さんのことを、悪く書いてしまった」
 神崎明人が、ひどく後悔するように告げた。神崎明人がSNSの裏アカウントを好きなことを吐き出すための目的に利用していたのは、茜も承知していた。
「もうそれは消したけど。SNSで書いた相手が全員、呪い殺されたのは、さっきも話したとおり。もしも山崎さんを呪ったのなら……」
 その先を言いよどむ神崎明人のために、茜は、ショックを隠しきれないままに言葉を継いだ。
「三日以内に、私の前に連続眼球くりぬき殺人事件の犯人が現れて、私を殺すかもしれないということね」
 神崎明人の呪いによって呪い殺された四人は全員、連続眼球くりぬき殺人事件に巻き込まれるという不幸で死んでいる。だとしたら、茜の場合も、連続眼球くりぬき殺人事件の被害者になるという不幸が供給される可能性を否定できない。
 三日以内に、犯人に遭遇することになる。茜は、怖くなった。ラジオニュースの向こう側だけで起こっていたはずの事件に、自分も関わるかもしれないなんて。しかも、被害者のひとりとして。
「ごめんなさい。自分の感情を制御できなかった僕のせいだ」
 神崎明人は、ハンドルを握った。
「とにかく、遠くに行くしかない。事件は市内でしか発生していないから、市外へ出れば犯人からも遠ざかるはずだ。それが解決になるかはわからないけど」
「じゃあ、お願い」
 茜は懇願するような気持ちだった。死ぬにせよ、生き残るにせよ、いまは神崎明人と一緒に行動していたい。突然迫ってきた命のタイムリミットを前に、茜は、ほとんどなにもできない自分の無力を感じていた。
 すぐ傍にいる神崎明人が、いつもの弱弱しさが嘘みたいに、すごく頼りたい存在へと変わっていた。

 茜の車はカフェの駐車場に置き去りにした。店には迷惑をかけることになったが、そんな些細なことに構っている場合ではなかった。
 カフェを出てから向かったのは、市外だった。神崎明人の呪いによって連続眼球くりぬき殺人事件の被害者として死ぬという運命になるのだとしても、現実には、犯人と遭遇しなければいけない。犯人は市内で犯行を重ねているから、市外に出れば、事件に遭う確率は下がるという単純明快な論理である。
 呪いから逃げることができるのか、詳しいところはわからない。とりあえず、可能な行動を取っていくに越したことはなかった。
 金石市を出ると、隣接する市の国道沿いにあったコンビニに立ち寄った。
 ひとまず金石市を出たので、今後を考えるためにも一息しようということになった。呪いの不幸維持効果は一日から三日とされているので、一日――明日の昼頃――までは呪い殺されないはずだった。一時的であれ、安堵してもいい。
 神崎明人とともにコンビニ店内に入店し、ちょっとした菓子類を購入した。『マスクなしでの入店はお断りします』という看板が立てかけられた入口や、レジの周りを取り囲んでいる透明なカーテンなどは物々しい雰囲気だったが、すでに生活の一部として溶け込んでいた。
 菓子類を袋にぶらさげて神崎明人の車に戻ると、また同じように神崎明人が運転席に、茜が助手席に、それぞれ座った。神崎明人は、すかさず、茜が選んだグミを手渡してくれる。
 一時的に、切迫感とはお別れして、緩やかな時を車内に押しとどめていた。
 神崎明人は運転席に深く座りなおしてから、レジ袋の中から購入したばかりの菓子袋を取り出した。その菓子袋を破り、中から出てきた飴玉サイズの袋も破り、中身を取り出して、右の掌の上に載せた。
 それは眼球を模した飴玉だった。そんな商品があるのを、茜は知らなかった。「なにそれ?」と思わず訊く。神崎明人はにこっと笑った。
「面白いでしょ? これはまだ意外と知られてないけど、最近、ひそかに人気を集めているらしいんだよ。パーティーグッズとして販売されたようだけど、コンビニでも売ってるんだ」
 真っ白い表面の一か所だけ黒く塗りつぶされている球体。食欲が減退するような気持ちの悪さだが、たしかにパーティーグッズとしては面白いかもしれない。
「それって何味?」
「なんて言うんだろうね。言い表しにくいけど、とにかく甘いよ」
 神崎明人は、マスクを外すと、右の掌を口まで持っていって、ぱくりと飴玉を口に入れた。
 それをころころと口の中で転がしている様子を見つめていると、茜は、小さいころの神崎明人を思い出した。小学生のころから中学生のときまで、神崎明人は口の中でビー玉を転がす癖があった。その記憶を追っていると、懐かしい気持ちになった。ビー玉を口の中に入れるなんて危ないんじゃないかという心配をしていた自分のことが愛らしく思えてくる。
「そういえば、ビー玉を舐める癖があったよね」
「ああ、そういえば。僕も、忘れかけてた」
 神崎明人も、懐かしそうに温かな笑みをつくった。
 ひとりだけでは過去の記憶がどこまでも闇に染まっていくときがあるのに、ふたりでいると、過去の記憶さえも、なんらかのメッセージが詰まった宝物みたいに見えてくるのが不思議だった。
 神崎明人との記憶も、ふたりで共有するだけで、明るく演出されなおされていく。茜は、言葉を続けた。
「傍から見てると怖かったよ。喉に詰まるんじゃないかっていう気がして」
「それはごめん。でも、その心配は的を射ているね」
 神崎明人は、飴玉で片頬を膨らませてから、少しくぐもった声で続けた。
「正直に言うと、僕は、あのビー玉で死ねるんじゃないかと考えていたんだ。ビー玉が喉に詰まれば息ができなくなって死ねるんじゃないか、と。そういう心づもりで、あのビー玉を口の中で転がしていたんだけど、ついに喉まで転がることはなかった。あのビー玉は死に損ないの味がしたよ」
 どうしようもない一面も、人間らしい。誰かと付き合うというのは、かっこつけた劇を演じることではなく、ありのままを愛おしむことなのかもしれない。茜は、グミを食べながら、静かな時を過ごした。
 少しの間、呪われている現実を忘れていた。ふたりの空間はどんな映画やどんな音楽でも再現できないような落ち着きで満たされていた。茜は、ぱくぱくとグミを食べ、存分にその甘さを味わった。
 神崎明人は、三つ飴玉を食べたあと、飴玉の詰まった大袋をダッシュボードの収納スペースに仕舞った。それが切り替えの合図だった。緊張感が戻ってくる。
「こういうときは計画が必要だと思う。これからどのように過ごすのかについて話し合いたい」
 神崎明人は、コンタクトレンズを外したために俯きがちになりながらも、車内の静寂に声を響かせた。その背後から、冷房の音とエンジンの振動が迫ってくる。
 茜も、考えていたところは同じだ。ふたりで話し合って、どうするかについて決めなければいけない。どこに行き、どのように過ごすのか。
 神崎明人と話し合う中で、いちばんに合意を得たのは、できるだけ遠くへ逃げるという戦略だった。おそらく金石市内に住んでいる連続殺人鬼から逃げるには、金石市からできるだけ離れたほうがいい。
 では、具体的にどこへ向かうかについてはいろいろな案が出たが、最終的に、向かう先はどこでもいいという結論に至った。大勢が利用する公共交通機関は避け、ふたりだけで車で遠くまで向かうのが最善策に思えた。
「念のためになにか武器みたいなものも持っていたほうがいいかも」
 その提案は茜からだった。
「武器ってなると、できるだけ単純なものがいい。バットなんかどうだろう?」
 茜は、その案を飲み込んだ。バットなら振り回すだけで武器になるし、特段、使用者に高い技術力が求められるわけでもない。
 そういうわけで、茜たちはスポーツグッズ専門店へ向かうことになった。神崎明人が運転する車でコンビニを出たときには、ぽつりぽつりと曇天が涙を流しはじめていた。

 国道をまっすぐと進んでいると、すぐにスポーツグッズのチェーン店を発見した。ふたりで店内に行き、ふたつ、頑丈そうな金属バットを購入した。手にするだけでずしりと重さが伝わってくる。護身用としては、なかなかに活用できそうだ。強烈な武器として存分に効果を発揮するだろう。
 神崎明人とともに車に戻ると、後部座席に金属バットを置いて、ふたたび発車した。
 車内では、呪いが迫ってくることの恐怖感と、神崎明人と一緒に行動ができることの安心感が拮抗していた。代わるがわる安心感と恐怖感がやってきて、茜の心はなかなか落ち着かなかった。車はどんどん金石市から離れていく。
 助手席に座る茜は、ふと、嫌な考えが頭に浮かんできた。
 神崎明人を信頼できるのだろうか。目を合わせたときに確実にその顔が恐怖に染まった神崎明人を疑う理由はないのだが、もしかしたらという不安な思いもする。もしもそうであれば、一緒に行動している限り、危険は去らない。
 茜は、そんな考えを必死に頭から振り払った。これだけ親身になってくれる彼氏を疑うなんて、とてもできない。茜が警戒すべきなのは、あくまでも連続殺人鬼であり、神崎明人ではない。
 車内では、あまり会話が起きなかった。
 神崎明人が運転する車は、すぐに近場のインターチェンジから高速に入った。まだ雲に隠れた太陽が頭上に佇んでいる中、高速を進んでいく。徐々に雨が強まっていく。のろのろと走っている車を追い抜いて、雨を弾き飛ばし、後ろを振り向くこともなく進んでいる無言の車内では、ふたりの二酸化炭素が集積して、温暖化が始まっていた。
 一時間ほど進んだとき、大きなパーキングエリアに入った。その駐車場に車を停めたとき、ひさしぶりに会話が生じた。神崎明人からだった。
「中学のころ、一緒に公園を歩いたことがあるよね。憶えてる?」
「すごく憶えてる」
 茜の記憶の中でも、ひときわ重要な意味を持つ記憶だった。あの夜、神崎明人と公園で会い、ふたりきりで歩いた。恋人よりも深い関係みたいに、神崎明人が心を打ち明けてくれたのが嬉しかった。
「あのときさ、僕は殺人衝動を持っているって仄めかした気がするんだけど」
 神崎明人は、ハンドルに目を落したままだ。茜は、神崎明人の横顔を見つめたままだった。
「それも憶えてる。私、なにも言えなかった」
 あのとき、神崎明人は、殺人衝動を持っている人はいつまでも満たされないというような話をしていた。まるで、自分が殺人衝動を持っているかのような言いぶりだったのを鮮明に記憶している。
「それが目的だったんじゃないか、っていう気がする」
 神崎明人はちらっと目を動かし、視界の隅で茜を見た。
「本当に殺人衝動なんて持ってたわけじゃないよ。それくらいの気持ちです、っていう表現に過ぎないんだ。それくらい怒ってるよ、って誰かに言ってみたかった。山崎さんになにも言わせなくするための言葉選びだった」
 考えてみれば、当たり前かもしれない。中学生の多感な時期に口から零れた言葉の中には、本当のことなんて、数えるほどしかないんじゃないか。神崎明人だって、本気ではない言葉をたくさん口にしているはずだ。
 またハンドルに目を落としてから、神崎明人は、説得するように言葉を続けた。
「だから、勘違いしないで。僕は、本気で誰かにあたりたいと思っているわけじゃないし、誰かを傷つけることを正当化しようとしているわけでもない。山崎さんになにも言わさないくらいに、ズレたことを言って、困らせてみたかった。ちょっとした助言くらいじゃ解決しないよ、っていう気持ちとか、それくらいの大きなものを背負っているよ、っていう子供じみた気持ちに過ぎない。それが、『殺人衝動』っていう言葉になった」
「疑ってないよ、べつに」
 茜は、慌てて言ったが、それで伝わっているのか不安になり、もう一度、言いたくなった。
「私、神崎くんのこと、信じてる。そんなこと、言われなくても、ずっと信じてる」
 うんとうなずいた神崎明人は、膝の上で両手を組んだ。恥ずかしさを隠そうとする仕草のように見えた。
 茜は、そっと膝で組まれている神崎明人の両手をつかんで、ぎゅっと力を込めた。神崎明人の組まれた手が動かなくなり、ふたりの間に温かな静寂が落ちてきた。茜の中で、最後まで信じつづけようという気持ちが固まる。
 フロントガラスを叩く雨を、ゆっくりと動くワイパーがキャンバスを真っ白に戻すみたいにきれいにしていた。

 パーキングエリア内にある商店エリアのフードコートは、かなり混んでいた。小学校や中学校などが夏休みということもあり、家族連れで訪れている人たちが目立つ。緊急事態宣言が続いていたときの反動もあるのかもしれない。
 そのフードコートの隅っこの席を選び、神崎明人と向かい合った。すぐ傍にあったアイスクリームショップでチョコレート味のアイスをカップでふたつ購入し、それぞれ、ひとつずつスプーンで食べていく。
 神崎明人は、右手にステンレス製のスプーンを持ち、アイスを少しずつすくい、口に運んでいた。「美味しいね」と感想を漏らしたあと、神崎明人の顔が切り替わった。
「それで、もう一度、じっくり考えてみようよ。なにか、対策できることがあるかもしれない」
 車を降りる前にコンタクトレンズを装着した神崎明人とは、目が合うようになっていた。そのせいか、余計に真剣な面持ちであるように見える。神崎明人は、現状についての整理を始めた。
「まずは、前提として、呪いの実在は信じたい。学術的にはもちろん反対派の意見も多いし、いまのところ、確実に呪いが存在するという量的なデータも存在しない。けど、ぽつりぽつりといろいろな証拠が出始めている状況であるのは間違いないし、その詳細についても急ピッチで研究が進んでいる。そこから疑うのはなしにしたい」
「私は信じるよ。信じないまま不幸になるよりは、信じて不幸を回避するために行動したい」
 それが茜の現在の心境だった。神崎明人は、「ありがとう。助かるよ」と言葉を落とした。目の前の話に集中しているようで、スプーンを握っている手をとめていた。
「そのうえで、いまの山崎さんの状況を考えると、やはり呪いがかかっていることは否定できない。僕が負の感情を向けてしまったから。そして、僕の呪いはすでに四人を呪い殺している。連続眼球くりぬき殺人事件が僕の呪いによって生じているのだとすれば、山崎さんもその事件に巻き込まれる可能性を否定できない」
「そうね。私もそう思う」
 茜も、神妙な声で応じる。
「神崎くんの呪いが一時的に私に向けられたのだから、それによって犯人が私のもとに現れるかもしれない」
「繰りかえすように、現在の山崎さんは、すでに呪いを受けているはずだ。けれど、不幸維持効果によって、増えた『呪い』のぶんを打ち消すだけ、『そのほかの影響』が減少している。これは一日から三日、続くとされている。だから、これからの三日間のうちが勝負というわけだよ」
 あらためて現況を確認すると、茜は、かなり危機的な状況であるのを実感した。現在において、呪いそのものはすでに茜に届いている。まさに現在の茜は潜在的に呪われているのである。
 神崎明人は、手元のスプーンをじっくりと見つめてから、顔を上げた。
「それで、いちばん最初の案として、物理的な解決を目指したわけだね。つまり、金石市で発生している連続殺人から逃げるには、金石市から出ればいいというわけ。現在、僕たちは、その案を採用して、金石市から逃げてきた。でも、それだけで安心するのはやめておいたほうがいい」
 物理的に離れれば事件に巻き込まれないという考えは、たしかに、外面的な解決策でしかない。呪いという物理を超越した現象が存在するならば、それだけで安心するのは短絡的だ。それは茜も同じように考えていた。
「次の案について考えるべきなのね」
「ひとつ、僕の中にすでに案があるんだけど」
 神崎明人は、スプーンを握る右手を顔の横に掲げた。注目を集めるためのジェスチャーのようだった。
「もはや呪いの量を変化させることはできないけど、ひとつだけ、いまからでも変化させることができる変数が存在している。総量比例効果を最小限にとどめるためには、その変数を増幅させなければいけない」
 具体的に訊くまでもなかった。唯一の希望は、αだ。茜に注がれるポジティブな感情の総計が十分に大きければ、不幸の総量を抑えることができる。
 神崎明人は、ようやくスプーンでアイスをすくい、ぱくりと食べた。そのスプーン裁きがどこか美しくて、茜は見惚れた。神崎明人の声が聞こえるまで、その細長い指を見つめていた。
「こんなときにバカみたいだけど、ふたりでどっかに遊びに行こうよ。それしかないと思う。楽しんだぶんだけ、生き残れる」
 茜は、その案に賛同した。

 パーキングエリアを出る前に、神崎明人のスマホで、七十二時間後にタイマーを設定した。ちょうど三日後の午後四時過ぎだ。そのころまでに茜が生きていれば、神崎明人の呪いからは逃れたことになる。αを増幅させるために、この七十二時間を人生の中でも最高の時間にしなければいけない。
 余命三日だと思えば、なんでもできそうな気がした。
 幸いにもぱらぱらと雨が降っているだけだったので、小走りで車まで走っただけでは、身体はあまり濡れなかった。
 車を発進させると、すぐに高速を降り、近場の映画館へと向かった。
 大型ショッピングモールの中にランドマークのように待ち構えていた映画館には、休日のせいか、うじゃうじゃと人が集まっていた。ふたたびコンタクトレンズとマスクを装着していた神崎明人は、その大きな目をぐっと見開いて、想像以上に多くの人が来ていることの驚きを表現した。
 ふたりで選んだ映画は、流行りのアニメ映画だった。惹きつけられる面白い設定のSFだ。テレビアニメとして放映されていたのが好評だったために映画化された作品らしかったが、神崎明人も茜もテレビでそのアニメを視聴したことはなかった。それでも十分に引き込まれて楽しい時間を過ごせた。
 感染予防のために、隣同士の席にはなれなかったので、それが少し残念だった。
 映画が終わったあと、茜は、真っ先に「面白かったね」と神崎明人に声をかけた。劇場を出たところの薄暗い廊下だった。
「僕も面白かったよ。でも、ちょっとだけ残念なところがあった」
「うそ。どこが?」
 茜は、映画の批評に疎いせいか、別段、気になるところはなかった。最初から最後まで目が離せないような内容だったし、次々と魅力的な展開に満ちていたように思えた。いったい、どこに欠点があったのだろうか。
 神崎明人は、厳しく見えないようにするためか、にやけた顔をしていた。
「仕掛けはどれも面白かったんだけど、キャラクターが問題だった。あれじゃ、キャラクターはなんでもいいっていう感じになってしまう。その映画ならではのキャラクターとでもいえばいいかな。そういうのが足りてなかった」
 言われてみれば、たしかに魅力にあふれたキャラクターではなかったが、かといって問題があるわけでもなかった。
 茜は、少しだけ神崎明人の知らなかった一面を覗き見た気がした。なんでもかんでも受け入れそうな雰囲気があるのに、意外と、気に入らないものは気に入らないとはっきり口にするところもあるようだ。茜は神崎明人にとって気に入っている存在になれているのだろうか。そんなことを考えると、寂しくなる。すぐ目の前にいるのに、自分だけ、どこか遠くにいるような気がする。
「ごめん。偉そうな感じになっちゃったかな。かっこつけちゃった。山崎さんにいいところ見せようと思っちゃって」
 神崎明人が、茜を気にするように控えめに笑った。その笑顔だけで、一瞬だけ揺らいだ茜の心は温かく包み込まれる。やっぱり、神崎明人らしく、可能な範囲でちゃんと配慮してくれる。変わりなく神崎明人は神崎明人だ。
「私、神崎くんのこと、かっこいいと思ったことないよ。最近まで童貞だったっていうのだけで、もう、かっこわるい」
 茜は、ちょっと棘のある言葉を選んだ。神崎明人なら、そんな棘まで痛がらずに受け入れてくれそうな気がした。実際、冗談っぽく、神崎明人は怒りだした。
「それはひどい。言っとくけど、僕、彼女できたの、はじめてじゃないよ? ゴムだってつけたことある。山崎さんの前にも」
「そういうところが、ぜんぜん、かっこよくないんだって」
 茜は、笑う。神崎明人の頬をぺしっと叩きたくなったが、それは可哀そうな気がしたので、代わりに手をつないだ。温かい。
「かっこいい人っていうのは、そういう無駄な虚勢がないんだよ。虚言も。神崎くんは虚勢の塊だから、かっこいいっていうより、かわいい」
「聞き捨てならないね」
 神崎明人は、つないでいた茜の右手をぎゅっと握ってきた。なんで、こんなに一緒にいたいんだろう。これからどんな成功を収めたって、この一瞬を超えるような気持のよさは得られないんじゃないか。そんなふうに思えるくらい、血が通っている神崎明人の左手が愛おしい。
「僕は、かわいいって言われるの、あんまり好きじゃない」
 ぷんぷんし出すと、余計に愛らしく見えてくる。
「ごめんね。わざと言ってみただけだから」
「わざとなら、もう言わないでよ。僕はかっこよくなりたい」
 冗談っぽい言葉の中に、本音を紛らせているようだ。
「小さいころから、『かわいい』と『気持ち悪い』の二種類の言葉しか浴びてきてないんだ。僕は、優しい人には好かれるけど、余裕のない人には嫌われる傾向がある。でもさ、どっちにしろ、男に対して『かわいい』って言うのは、ぜんぜん、褒め言葉じゃない。優しさの方向を間違えてる。もしも、僕を『かっこいい』と言えるのなら、その人は、きっと、とてつもなく優しい人だよ」
「残念だけど、私は優しくなれないね」
「そっちがそのつもりなら、僕も、山崎さんのこと、かっこいい、って言ってあげない」
 神崎明人は、茜のことをよく理解しているようだ。茜は『かわいい』よりも『かっこいい』と言われたほうが嬉しいタイプである。
 お互い、本気にはなっていないことを分かりあいながら、素敵な喧嘩を演じているのがとても幸せだった。神崎明人の頭の中にあるものと茜の頭の中にあるものが合致しているのが手に取るようにわかり、そのときだけはどんな孤独も消えた。この一瞬がずっと続けば、息が詰まるような寂しさもやってくることはないのに。
 しばらく喧嘩もどきが続いて、気が付けば、映画館を出ていた。ショップの並んでいるモール屋内の通りに来ていた。吹き抜けから見下ろすと、その三階には浮遊感があった。
「気持ち悪いって言われるかもしれないからさ、ずっと黙ってたけど……僕、やっぱり、世界でいちばん山崎さんが好き」
 そんなことを不意につぶやく神崎明人とともに、仲良く手をつないで歩いていた。これが私の彼氏ですというような誇りを胸に、人前で堂々と歩けるのが気持ちよかった。

 モールを出てからは近場のビジネスホテルに向かった。高級ホテルに行くという案も出ていたが、ふたりでの話し合いの結果、結局のところ、馴染みやすいところのほうが落ち着くという結論に至った。
 さっきよりも強くなった雨がフロントガラスに打ち付ける中、運転する神崎明人が、口の中で笑いを我慢するようにしながら話しはじめた。
「ちょっと思い出しちゃったんだけど、子供のときから、虚勢を張るのが好きだったみたいだよ、僕」
「教えてくれなくても、知ってる」
 茜は、いくつかの記憶が思い当たった。子供らしい神崎明人の側面は、嫌いな人には嫌われるのだろうと思う。「どんなことを思い出したの?」と話を促した。
「小学生のとき、班で給食を食べているときに、『自分はモテるかどうか』っていう話になった。僕は、聞いていただけなんだけど、優しい子が、『神崎くんは?』って参加させてくれた。もちろんモテるわけないんだけど、そのとき、僕は、かっこつけて、含みを持たせるように、なにも答えなかった。ドン引きされたよ。班の子のひとりがあとになって、こっそり、『ああいうときは、自分を下げるものなんだよ』って教えてくれた。そんな決まりにしたがう強さが、僕にはなかったよ」
 神崎明人らしいな、と茜は思う。空気が読めないわけではないのだろう。ただ、空気にしたがうことに対する抵抗感がほかの人よりも大きい。
 虚勢を張らなければ、自分の居場所がなくなると思い込んでいる。ありのままの自分を受け入れてもらえた経験がほとんど、ないのだろう。親に性的に虐待されていた、という情報が説得力を持って頭に浮かんでくる。
「僕はね、僕をいじめてきた人たちにも同じようなものを感じていた。きっと、彼らも虚勢を張らなければいけないくらいに、誰からも見向きされていなかったんだろうって思える」
 神崎明人は、念のためか、「もちろん、彼らは許せないけどね」と、付け加えてから続ける。
「でもやっぱり、僕は、あんなにひどいことをされたのに、いじめてきた人たちに同情する。ステレオタイプみたいな、おふざけのいじめとはぜんぜん、違う。僕はどっちかといえば、そっちの人間だよ。素直になれない。いろいろ隠そうとしてしまう。なにも隠すことがないみたいに笑いあえたらいちばんいいんだけどね、それが簡単にできない人たちがたしかにいるんだよ」
 茜は、ふと、『眼球の点滅』を思い出していた。傍観者の視線。神崎明人が呪っていたのは、いじめの加害者ではなく、傍観者だった。茜は、自分も傍観者のひとりだったのを思い出して、居心地の悪さを感じた。神崎明人に呪われるのは当然の帰結だったのかもしれない。
 雨が強まっていく中、フロントガラスに向けられていた神崎明人の目が、気にするように、ちらっと茜を見た。一瞬だけ、コンタクトレンズをしていないはずなのに、神崎明人と目が合った。
「でも、僕、山崎さんには全部、見せたい。ちゃんと頑張るから」
 力の籠った言葉だった。それはまるで、真っ暗の宇宙にひとりきりで飛び出す宇宙飛行士のような、そんな力強さを感じさせた。
「なにも、隠さないでね」
 茜は、柔らかく包み込むように言葉を返した。
 金石市からずいぶんと離れたところ――アウェイの地で、車が赤信号でとまると、神崎明人はスマホを取り出した。それをじっと見つめてから、緊迫した声で言った。
「残り、六十七時間」

 ビジネスホテルに到着すると、ふたりで七階のツインルームに入った。もう外は真っ暗だった。
 昼頃にカフェではじめて言い争いをしたせいか、お互いの距離がぐっと近くなったように感じていた。ベッドがふたつ並んでいるだけの狭い空間にふたりの息が少しずつ充満していくのも、べつに気にならなかった。
 ふたりきりでいると、むしろ、落ち着いた。
 部屋に入ったのが九時半だった。それから、それぞれにシャワーを浴びたあと、ひとつのベッドにふたりで寝転がった。「しよう?」と誘ってきたのは、神崎明人のほうだった。神崎明人の陰茎は恥ずかしそうに硬直していた。そういう性欲も、αとしてカウントされるのだろうか。
 プレイを始める前に、茜はどれくらいの加減で相手に触ればいいのかについて詳しく教えた。誰とも寝たことがなければ、手加減がわからなくても無理はない。エロ動画と一緒にしないでというポイントはとくに重要だったので、何度も言った。
 一度教えれば、すぐに習得してくれた。それでも、男としてはプライドがかなり傷ついたのかもしれない。
「僕って、やっぱり、気持ち悪いのかな」
 神崎明人が心配するように言った。中学生のときに数えきれないほど罵詈雑言を注がれていた神崎明人を知っている茜は、その言葉がいかに重いかがわかった。
「そんなふうに言わないで。知ってるか、知らないか、の違いだよ。もう覚えたんだから、それでいいでしょ」
 ふたりはベッドの上で抱き合い、セックスした。いろいろな記憶と一緒にセックスするのがいちばんだった。茜の青春を飾る相手は神崎明人しかいない。それ以外の相手とセックスしても、肉体的に気持ちよくなるだけで、頭は満足しなかった。
 神崎明人は、果てたあとも、茜が果てるまで協力してくれた。壮大な宇宙を冒険したような達成感があった。終わったのに、ふたりとも、そのベッドから離れようとしなかった。薄暗い部屋の中で、ふたり仲良く天井を見つめていた。その空間がいつまでも続いていくような気がした。時間の流れからは切り離されて、際限のない新たな世界にいるようだった。
「死ぬまで、誰ともできないと思ってた」
 つぶやくような声が、ふたりの宇宙に響く。
「頑張った人にしか気持ちいいことは訪れないっていう法則があるでしょ。僕は生まれたときからずっと頑張れない人として分類されてきたから、ずっと気持ちよくなれないって考えてた」
「それをバイアスって言うんだよ」
 茜は、同じようにつぶやくような声を出す。
「バイアスでもなんでも、僕は、ずっとそう思ってた。中学校のときの同級生がよく夢に出てくる。みんなペアになっているのに、僕だけ、ペアがいない。みんなはその場でセックスを始めるんだけど、僕だけ、惨めに佇んだままだった。でも、ちゃんと勃起してるから、みんなは僕を笑う」
「それって、ホントにあったことじゃない? 裸を笑われたんでしょ?」
 茜は、当時、学校に流れていた噂を知っていた。神崎明人が、女子の前でやったらしいという噂。性的ないじめを受けていたのはおそらく事実だろう。
「実際にあったのかどうかについては、ひとまず、ノーコメントにしておくよ。けど、その夢が怖い。どんなに溜まっても、ずっと溜まったまま。僕だけ、息を止めているみたいにずっと我慢してる。それを笑われるんだ」
「そんな悲観してもしょうがない」
 暗い天井に、果てしなく拡がる宇宙に、テトリスみたいに最適な形をしたセリフを落として埋めていく。お互いの呼吸音さえ聞こえてきそうな静けさだった。カチカチと進む秒針の音が、メトロノームみたいに心地よく聞こえた。
 神崎明人が、またしがみついてきた。
「あのとき、助けてくれようとしたこと、いまさらだけど、ありがとう」
「やっと素直になったのね」
 茜が笑うと、神崎明人は恥ずかしそうに茜の胸に顔を押しつけた。裸のまま、柔らかく抱きしめていると、茜の胸の中で、そのまま眠ってしまった。その無防備な寝顔に、茜はキスをした。

 先に寝たのは神崎明人だったのに、先に起きたのは茜だった。まだ、カーテンの外は暗い。ぽかんと口を開けたまま眠っている神崎明人の顔が愛らしくて、茜は、こっそりと写真を撮った。
 なんでこんなに素敵な人が、死ぬまで誰ともできないと思い込んでいたのだろう。そのように思い込ませてきた世界はひどい。
 男らしくない人が男として生きるのは、たいへんなのだろうか。茜は、考える。たしかに、女性としては男らしさを求めるところはあるし、ふにゃふにゃした人を見るとしゃきっとしろと思いたくなるところもある。
 しかし、それは相手をあまり知らないからこその短慮に過ぎない。茜は神崎明人に男らしさを求めたりはしない。
 茜は、ふと、神崎明人を選んでいなかったらどうなっていたのだろう、という想像をして不安になった。苦しみの記憶の中に登場しない人と浅はかなセックスをしたって、気持ちよくならない。佐々木ミツルを選んでいたら、この気持ちを味わうことはできなかっただろう。
 茜は、ふたたび眠る気にはなれず、音量を小さくしてテレビをつけた。ちょうど、朝の情報番組が例の事件を報じているところだった。
 金石市で発生している、連続眼球くりぬき殺人事件。新しい情報はなかったが、犯罪の専門家が出てきて、似たような過去の事例を紹介していた。
 数年前に発生した若い女性を狙った連続殺人事件。その犯人が捕まったときに世間は驚いた。茜もぎょっとしたのを憶えている。その犯人は、すごく気の弱そうな二十代の男だった。眉が八の字になっているのがチャーミングでさえあった。
 逮捕後の警察の調査によると、犯人は、女性たちに同情を誘うような言葉をかけ、女性たちの慈悲深い心を悪用して近づいていった。表面上は、なんでも話し合えるような恋愛関係に持っていった末に、隙だらけの女性を殺害し、首を切断し、その舌を切り落として焼いて食べていたという。
 犯人は、警察での取り調べで、何度も口にした。
『僕は、小さいころに、両親に見捨てられたんです』
 犯人の過去についてはテレビでも詳細に報じられていた。そのせいか、犯人に同情するような女性たちが実際に全国から出てきて、裁判の傍聴券を求めて多くの女性ファンが裁判所に駆けつけるような騒ぎになった。
 このような騒ぎを生み出したのはメディアだが、さすがにいきすぎたと思ったのか、ついには、そのメディア自身が警鐘を鳴らしだす始末だった。犯人に同情するのは殺害されていった女性たちと同じ心理状態だというのは、言うまでもない。犯人に騙されてはいけないというスローガンがネット上で拡散した。
 あの事件は、世の中の女性たちに慈悲を持ってはいけないというメッセージを発信することに成功した。茜も、不用意に同情するのはやめておこうと思った憶えがある。ぱっと見ですぐにわかるくらいに気が弱そうな男がまさか殺人鬼だったなんて、想像を絶していた。
 テレビをぼうっと見つめていると、茜は、無意識のうちに神崎明人のことを思い浮かべていた。神崎明人は進んで過去の経験を話してくれる。ふつうなら、恥ずかしくて言えないようなことも。
 同情を誘おうとしているのではなく、ただ話したくなったことを話しているだけなのだろうとは思う。ただ、茜は、ほんのちょっとだけ、違和感を覚えないでもなかった。
 テレビの中では、犯罪の専門家だという五十代ほどの男性が、ジャスチャーをしながら力説していた。
『こういう事件が起こるたびに私は発信しているんですが、たいてい、こういう事件の犯人はいかにも悪そうな人ではないんです。見た目なんかじゃ、わかりません。犯人がバレずに日常生活を続けているのは、傍から見ただけでは、ふつうの人と何も変わらないからなんですね』
 でも、だからって、そんなこと。茜は、ぽっと浮かんできた疑心を封じ込めようとする。もう疑わないと決めたはずだった。神崎明人がそんなわけない。ただの童貞だったのに殺人なんてできるわけない。
 しかし、そう見えるからこそ、女性を騙しやすいという側面もあるのでは。考えを進めていくと、疑いが増えていくだけだ。
 茜は、リモコンを握り、テレビを消そうとした。そのとき、誤ってチャンネルをかえてしまった。
 ちょうどそのチャンネルで放映されていた番組の中で、タレントのひとりが『彼氏がどんな人か、見極めるための簡単な質問があるんですよ』と冗談交じりに話しだしたところだった。
『タイプの女優は誰? っていう質問です。そのとき、すぐに答えてくれたのなら、やましいことはないでしょうね。でも、そのときに、言いよどんだり、答えてくれなかったりしたら、ちょっと注意です。言いたくないことを抱えている人って、タイプの女優を隠したいものなんですよ』
 なんだそれ、と思いながら茜はテレビを消した。
 それでも、神崎明人が目を覚ましたとき、茜は不意を衝くように「ねえ、タイプの女優って誰?」と訊いていた。
 神崎明人はベッドに寝転がったまま、欠伸をひとつしてから答えた。
「うーん。誰だろうね?」
 それっきり、なにも言わなかった。だからなんだという話だが、茜は、ほんのちょっとだけ、胸の中にあった期待を裏切られたように感じた。

 感染予防のため、バイキング形式の朝食は休止しており、ホテルからは朝の弁当が支給された。その朝食を済ませてからホテルを出ると、神崎明人とともにドライブに出かけた。空は晴れ渡っている。
 昨日の昼頃に呪いをかけられたのだから、今日の昼頃には、呪いをかけられてから一日が経過することになる。不幸維持効果は一日から三日とされているから、今日の昼頃から、総量比例効果が生じる可能性がある。
 茜は死ぬのだろうか。連続殺人鬼の手によって?
 たとえば、神崎明人が連続殺人鬼だったとして、茜を殺したいと思っているのなら、それはもしかしたら、ひとつの幸せなのかもしれない。神崎明人がもしも連続殺人鬼になったのだとしたら、その原因はどう考えても、中学生のときまで遡らなければいけない。茜も原因の一部を抱えている。償いとしては十分ではないか。
 しかし、そうではないと信じたい。
 そんな気持ちは、ひょっとしたら、すごく都合がいいのかもしれないが、そうだとしても信じたい。茜に見せる表情がすべてではないとしても、殺人鬼の表情なんて、持っていてほしくない。
「すべらない話、していい?」
 神崎明人の声が、どんなBGMよりも美しい。
「僕さ、こう見えて、摩擦力がすごいみたいでね、人生で、一度も転んだことがない。これぞまさに」
「すべらない話?」
 なんで、こんなにくだらない人と一緒にいるだけで、こんなに楽しいんだろう。
「じゃあ、いまからする話は、なんの話なのか、あててみてよ。高校のときなんだけどさ、文化祭のときに、教室に展示されていた『わ』と『ら』と『え』が誰かに盗まれてしまったんだ。みんなで一緒に探したんだけど、ついに見つからなかった。これが俗にいう」
「『わ』『ら』『え』ない話ね?」
「わかってるね、山崎さん。その調子」
 楽しそうに次々と意味不明な問題を出題していく神崎明人は、それに飽きてきたのか、今度は怖い話を始めた。これがまた完成度が高かったので、本当に怖くなってしまい、茜はいますぐやめるように注意した。
 この人は、本当に、自分が話したいことを話すだけなんだな、と思った。なにも計算が入り込んでいない。頭に浮かんできたものをそのまま口にしているだけ。なにかを隠せるほど器用ではないというのが、目に見えてわかる。とはいえ、隠し事がひとつもないというわけではないだろう。
 楽しいドライブが続く中で、茜は、不意に訊きたくなった。
「もうそろそろ、教えてよ、いじめの後遺症のこと」
 付き合いだしてはじめのころに訊いたときは、はぐらかされていた。もう身体の関係だってあるわけだし、本人の口から教えてほしい。加虐的なエロビデオに興奮することだろうか、それとも、悪夢に魘されていることだろうか。それくらいのことで、茜は神崎明人を捨てるつもりはない。
 神崎明人は、「そうだね」と真剣な顔に切り替えた。
「後遺症なのか、わかんないけど、ひとつだけ、隠してたことがある。実は、めっちゃくちゃ飛ぶんだ」
「なにが?」
「飛距離が半端じゃない。発射地点から落下地点までをメジャーで測ったことがあるんだけど、最大で一メートル半くらい飛ぶよ」
「もしかして、下ネタ?」
 茜は、またはぐらかされているのに気が付いた。
「そういうのじゃなくて、本当に、教えてほしい。ただ、知りたいだけ。知ったからって、神崎くんを嫌いになったりしない」
「じゃあ、打ち明けるけど、実は、数学オタクなんだ」
 神崎明人は、まだ真剣な表情を崩さない。
「これだけは隠しておきたかったんだけど、もう打ち明けるよ。僕は、あらゆる現象は数学で説明ができると考えている。いまの僕のいちばんの関心事は、いじめの構造を数学的にモデル化することだよ。いくつかの案はあるんだけど、聞きたい?」
「真面目に教えてよ!」
 茜が堪らなくなって声を張り上げると、少しだけ小さくなった声で神崎明人は答えた。
「山崎さん、今日で死ぬかもしれないんだよ? 悲しませたくない」
 悲しんだりしない、と言いたかった。それなのに、茜は、言葉に詰まった。一瞬だけ、それ、聞きたくないかもしれない、と思ってしまった。こんなに覚悟がないのに、聞き出そうとするなんて、茜のほうこそ真面目じゃない。
 神崎明人の口から、実は、殺人してるんだ、という現実離れした言葉が飛び出してくることが頭を過ぎっていた。もしかすると、この人に殺されるのではないか。茜の心は揺らいでいた。
 誰かを信じるというのは、どうして、こんなに難しいのだろう。もっと簡単に信じることができたら、どんなにいいだろうか。苦悶する茜の隣で車を運転している神崎明人は、息が詰まるような沈黙の末に、諦めたように溜息を吐いてから告げた。
「本当のことを言うと、山崎さんが頭から離れなくなったこと。それが僕の後遺症」
 その言葉には、虚を突かれた。
「わたし? でも、それは悪いものじゃないでしょ」
 後遺症という表現が似つかわしくない気がする。正直、それは茜としては嬉しい言葉でさえあった。
「時と場合によるんだ。学校では従順な人が適応する一方でスポーツでは我の強い人が適応することみたいに、環境との相性の問題でしかない。もしも、僕が山崎さんと付き合えないという環境に置かれていたとしたら、僕は、ストーカーみたいになっていたかもしれないね」
 冗談の雰囲気が微塵もなかったので、茜は言葉を失った。神崎明人がストーカーになるなんて、考えられない。イメージがまったく浮かんでこなかった。それなのに、本人はわりと深刻な問題として考えているように見受けられた。それがどうにも信じ難かった。ショックというより、受け入れられない気持ちだった。
 もしも茜が佐々木ミツルを選択していたら、そのときには、神崎明人はストーカーになっていたとでもいうのだろうか。やはり、うまく想像できない。茜は、どうにかして神崎明人の言葉を飲み下そうと頭を回していた。
 そんな茜にむかって、神崎明人は爽やかに告げる。
「なにがあったか、ちゃんと、話すよ。具体的に話したほうがわかりやすいと思うんだ」
 こうして、神崎明人の回顧の旅が始まった。

「まず、はじめに言っておきたいんだけど、僕は、誰かを恨んだりするのが好きじゃない。たとえ服を脱がされて笑いものにされたり、息ができなくなるくらいに冷たい水を頭から浴びたりしてもね、僕は基本的に、やってきた相手を悪く言うつもりはない。自分にも落ち度があったのはわかるし、いちいち周りにあたっても、なにか、変化があるわけでもないからね」
 神崎明人の運転する車は、ふたたび、近場のインターチェンジから高速に入っていた。どこに向かっているのか、茜は知らない。
「それに、復讐なんていうのは、筋違いだと思うんだ。誰かに復讐できるほど、あなたは正しく生きてきたんですか? って言われると、僕には厳しくて。そんなわけだから、僕はすごく平和主義者。それだけ言っておきたかった」
 そのような温和な側面を、茜はイメージ通りだなと受け取った。ただ、神崎明人は自他ともに認める臆病さだから、世間がどう評価するかについて敏感になり、世間が求めている言い方を選んでいるだけなのかもしれないという気もした。
「それで、本題に入るんだけど、ご存じのとおり、僕は、あんまり楽しい学校生活を送ってこなかった。あくまでも僕は平和主義者なんだけど、思い出しながら話していると、はとぽっぽではいられなくなるかもしれない。そういうのには、目を瞑っていただけるとありがたいわけだよ」
 それだけ断りを入れてから、高速をすいすいと進む中、神崎明人はついに熱を込めて語りだした。
「僕は、玩具だった。毎日のように殴られたし、蹴られたし、口にするのも憚れるような言葉をたくさん浴びた。みんなは、それを静かに見ていた。僕の心が丸裸にされていくのを楽しんでいた。少なくとも、僕には、そう見えた。僕のプライドはぐちゃぐちゃになっていった」
 話しているうちに気迫が出てきて、ただごとではない空気が充満していた。誰かへの呪いにならないように気を付けているのか、神崎明人は、何度も息を吐いて、自分の怒りを鎮めようとしている。
 神崎明人の運転する車は、引き戻り始めていた。向かっている先に金石市があることに茜は気づいていた。
「小学校のときから、山崎さんが声をかけてくれるのが、本当に嬉しかった。僕には友達がいなかったから。でも、山崎さん、僕がいじめられるようになってから、声をかけなくなったよね? ……寂しかった」
 胸が痛い。もうやめてほしい。話さないで。茜は、胸まで浮上してくる言葉を放出することができず、なにも言えなかった。
「いつものように、僕は頭から水を浴びた。息ができないくらい冷たい水を。蛇口の下で。びちょびちょになって家に帰った僕は、いつも、『水遊びをしたんだ』って言った。いじめられてるなんて、言えるわけないよ。いちばんかっこつけたい時期なんだから。母さんは、そんな僕を『いじめられてんの?』って笑った。『いじめくらいで、めそめそすんなよ』って頬を殴られたよ」
 だんだん早口になっていく。
「みんなは、僕が悪いとしか言わなかった。教師も、周りの同級生も、家族も、テレビのコメンテーターだって、みんな、口を揃えた。直接言われなくてもわかるよ。バカじゃないんだから」
 それは黒白の考え方だ、と茜は思った。全員がそういうわけではないのに。茜は、声が出ない。
「あのときに僕は気づいたんだ。僕は、人間になるのに失敗したんだって。だから、芽生えたばかりだった性欲も死ぬまで満たせないんだなって、途方に暮れた。誰かを好きになるのもおこがましかった。僕は誰かに責められるために生きていた。自己嫌悪がじゃらじゃらと降り注ぐパチンコ台ではまったくあたりが出ない。僕の中で溜まっていた殺意はいろいろな人に向けられたけど、喧嘩はできないし、口も動かない。ただ、心の内側がぼろぼろになっていくだけ」
 横顔のまま、「あのとき、死んでたら、きれいな物語になりそうだ」と自信を込めて付言する。度の合っていないコンタクトレンズを長時間、装着していたせいか、神崎明人の目は充血していた。
「そんなとき、山崎さんが僕を助けようとした。神様みたいだった」
 神崎明人の声が、ほっとするように音量を下げた。
「この人がなにかを変えてくれると思った。そうやって期待したくなる気持ちだった。僕が学校を脱走した日は、雨が降っていた。雷も降っていた。名前も知らない暗い高架下の公園で、僕はひとりで体操座りをして泣いていた。正しい道から無残に脱落したのを悟っちゃったから。あのとき、僕は、ずっと、山崎さんが来てくれるのを待っていた。あのときからずっと、僕は、山崎さんを待っていた。僕の神様だから」
 狂気に染まっていく声。その声は、どういうわけか、寂寥感をまとっているように感じられた。
 高速を進む車は止まらず、だんだんとスピードが上がっていく。もしも神崎明人を選んでいなかったら、どんな事態に陥っていたのだろう、という想像が悪いほうへ膨らんでいく。この人は信じてはいけない人なのではないか。
 茜は怖くなって声を上げた。
「どこに向かってるの?」
「高架下の公園。金石市内じゃないから、安心して」
 神崎明人の運転する車は、金石市方面に向かっていた。

 たしかに金石市内ではなかった。隣接する市の川沿いにある高架下の公園。日曜日なのに、遊んでいる子供はいなかった。小さなブランコがひとつあるだけで、錆びたフェンスで囲まれている。野球やサッカーができるほど広大でもないから、ほとんど使い道はないだろう。
 白いソフトテニスのボールが、寂しそうに、風に吹かれて、転がっていく。
 その公園を見つめていると、歴史遺産を訪問するときのように、堆積した過去の記憶が渦巻いているように感じられた。
 茜の頭に浮かんでくるのは、中学校のときの記憶だった。たしか、七月だった。三時限目が始まったときに、教室に神崎明人がいないことがわかり、騒ぎになった。教師たちが校内を探していたようだったが、ついに見つからなかった。『すぐに出てきなさい』という放送まで入った。窓の外には激しく雨が降っていた。
 あのとき、茜は、感じていた。もしかしたら、これでもう、神崎明人とは会えないのかもしれない。あのときの茜は、疲弊しきっていた。
 あいつ、死んでくれたんじゃない。笑い声が聞こえてくる教室のどこかぼんやりとした現実の中で、茜は、同じ疑問を頭の中で繰りかえしていた。
 どうして、自分は神崎明人にこれだけ関わろうとするのだろう。もう、やめておいたほうがいいんじゃないか。
 そう悩みはしたのだが、それで自分を納得させることができなかった。神崎明人が傍にいないと、人生にとって大きなものが欠落しているような感じがする。その感覚の原因はなんなのか、現在の茜にもわからない。
 茜は、いまいちど寂れた公園を見渡した。現在は、眩しいような晴天だが、日光は高架に遮られ、公園は高架下の影に沈んでいる。
 当時、パトカーに見つかるまでこの公園にひとりでいた神崎明人は、どんな気持ちだったのだろうか。どんなことを考えていたのだろう。
「当時は、雷の音がすごく反響していたんだ」
 神崎明人は、ガイドするように言い、ブランコへ近づいて行った。ブランコに乗ると、ぎい、ぎい、と揺らしながら、笑顔を見せる。
「本当のことを言うと、僕は、ずっと、山崎さんとこの公園に来てみたかった。ここに来ると、僕はすごく落ち着く」
「怖くなったりしないの?」
 気になったことを直接、訊いた。あまり楽しい記憶が眠っている場所ではないような気がする。
「さあ、よくわかんないけど、痛い記憶って、あとになってから回顧すると、魅力的に見えたりすることもあるじゃん。当時は、本当に痛かっただけなんだろうけど、現在の僕にとっては嗜好品みたいなものでもあるんだ。自分が主人公になるために記憶を利用するわけだよ」
 神崎明人が過去を進んで話そうとするのは、同情を集めるためではなく、ただ話していることが楽しいからなのだろうか。過去の記憶を語ることで、あたかも自分が世界の主人公になれたかのように錯覚するのが気持ちいいのだろうか。
 神崎明人は、ブランコを漕ぐのをやめた。ふらふらと揺れながらも徐々に揺れは収まっていって、ついに動かなくなる。神崎明人の目は、自分の膝に向けられていた。茜は、ブランコの前に立ち、神崎明人の挙動を見つめていた。
 本当に、この人が連続殺人鬼なのだろうか。この人はもはや、人間としての感情を失っているのだろうか。
 すでに午後二時を過ぎていた。そろそろ、不幸維持効果がなくなるかもしれない。神崎明人の呪いが茜を殺害するまで膨れ上がっていたのなら、茜の人生は終わる。もしかしたら、この人の手によって。

 車はふたたび金石市を離れていく。その先に待っているのは、生か、死か。
 なにか大切なものをどこかに置き去りにしてきたような感覚が胸に迫ってくる。もう二度と取りかえせないものと対峙しているような。それを失った茜は、どんなことをしても報われない。そんな予感を全身で感じていた。
 神崎明人が楽しそうに独演する車の助手席で、茜は、いままで感じたことがないほどの大きな孤独を感じている。ふと、神崎明人が感じているのはもっと深い孤独なのではないかという思考が生じてきて、茜の心を苛んだ。
 とてもではないが、耐えられない。こんなに大きなものを背負いながら、なんでもないかのように演じるなんて。下に見てきたわけではないはずなのに、神崎明人が急に誰にも成しえないことをしてみせたのではないかという気がしてきて、いままでの自分の浅はかな同情心が恥ずかしくなってくる。
 この人は、本当に生きているのだろうか。
 振りかえるまでもなく、神崎明人が経験してきたものは常軌を逸している。それでいて誰にも理解されずに生きてきてみせた。茜にはそんなことはできない。
 生きているという事実が神がかり的な奇跡のように思える。神崎明人がなにを考えているのか、なにを感じているのか、もはや、茜のいる次元を超えている。
 手の届かないところへ、すでに消えている。目の前にいるようで、実際には、どこにもいない。
 茜の胸に、深い悲しみが押し寄せてきた。こんなものを以前にも感じたことがあるような気がするのに、思い出せない。助手席で神崎明人の話に相槌を打っているのに、ふたりの間にはなにも心が通っていないかのように思えてくる。茜は、苦しくなって、言葉を零した。
「神崎くんのこと、私、誤解してたかもしれない」
 慌てて、つなぎとめようとしていた。どういう言葉を並べれば、神崎明人をつなぎとめておけるのか、必死に頭を回していた。
「いま、ちょっとだけ、わかった気がする。私の眼球は点滅してたんだよ、きっと」
「なにを言ってるのか、よくわかんないけど」
 神崎明人は、運転に集中しつつ、横顔を笑わせた。本人は『わかんない』とは言っているが、『眼球の点滅』という言葉がふたりの間で同義で用いられていることについて、茜は自信を持っていた。きっと、伝わっている。茜は、信じていた。
「本当にごめんなさい。私、ずっと勘違いしてた」
「そんなこと急に言われてもね」
 神崎明人は、表面上、困惑したような顔をした。それが作り物であることに茜は気が付いていた。その証拠に、神崎明人の続いての言葉は、明らかにふたりだけの文脈を理解していた。
「僕は、壮絶な経験を経たあとに、大きな鎧を手にしたんだ。普段から、いろいろ嫌なことはあるけれど、鎧のおかげで、僕はぜんぜん痛くなかった。僕が過去に受けてきた痛みに比べれば、蚊の針に等しい。みんなと同じような、感覚を麻痺させるための鎧。僕はそれを得られたことが嬉しかったし、誇りに思ってた」
 それは強がりではない、と茜は確信できた。むしろ、恥ずべきことだと捉えているのが明確に伝わってくる。
「でも、その鎧を被ったままだと、周りに対して残酷なくらいに不寛容になるんだよ。自分が痛くないから、痛がっている人の気持ちがわからなくなる。僕はすぐのうちに、鈍感になっていくことを喜べなくなった。僕は、だんだん自分が鈍くなっていくのを恐怖するようになった」
 神崎明人は、決然と告げた。
「鎧のないままで、僕は、この世界を見つめていたい。だから、僕は、そのかっこいい鎧を誇るのをやめた。脱ぎ捨てようと思った。それからすぐに、僕は、視線恐怖症になっちゃったけど、このままでいいのかもしれない」
 この人は、自ら、痛みを感じるほうを選択している。痛みがわからなくなることを心の底から嫌悪している。惨めな戦いを続けている。茜は、神々しいものと対峙している気分だった。
「この鎧を被っているのは、みんなも同じ。みんな、鎧を装着したままだと、他人の痛みに気づけない。他人を責めることができるのは、自分のほうが勝っているっていうおこがましい勘違いのせいだけど、その勘違いを生み出しているのは、鈍くなってしまった感覚なんだよ。みんな、鎧を被ってる。ずるい。ずるい! ずるい! なにも見ていないくせに、すべて見ているようなふりをするなんて! まさに――」
 ――眼球が点滅している。
 だんだん相手のことが見えなくなっていく。そのせいで、自分のことだけしか見えなくなっていく。そのうち自分のことさえ見えなくなっていく。
 茜が見つめてきたのは、茜自身がつくりあげた独善的な世界でしかなかった。そこに登場する神崎明人は、茜の脚本のとおりにしか動かない。本当の神崎明人はその視界には存在していなかった。
 いま目の前にいる人間をひとりの人間として尊重して適切に理解するという小学校で教えられているようなことを、実践できている人は実際、どれだけいるのだろうか。どう考えても、それほど多いとは思えない。少なくとも、茜は、それができていなかったとはっきりと自覚した。
「だから、僕は、その人がどんなことを言う人でも、どんなことをする人でも、本人が望んでいるのなら、その苦しみを想像したい。それが正義に反することだとしても、バカにしないで、尊重したい。見えなくなりたくない」
 キレイゴトだと言えばそれで済むが、神崎明人はそれで終わらせるつもりはないようだった。
 これがこの人の魅力だと茜は気づいた。この人は、すべてを見ようとしている。まるで悲しみの少女シリーズに登場する少女のように、あますことなく、すべてを見ようとしている。少なくとも、見ようとする意志を持っている。
 視線恐怖症なのに、見ようとしている。表面的には、ただ臆病なだけにしか見えないが、この人は現実を忘却していない。
 茜は、いま、はっきりと確信した。この人は絶対に人を殺さない。たとえ、どんな殺人衝動を持っていたとしても、最後まで絶対に見失わない。盲目を回避するための戦いに勝ち続けている。
 かっこいいんだ。この人は――神崎明人は、かっこいいから、こんなにも惹かれてしまうんだ。茜の心は歓喜した。神崎明人を見失っていたのは茜だけだ。それもいま、ちゃんと取り戻した。最後まで信じられる。簡単だ。この人を信じるなんて、そんなに簡単なことはない。
 茜は、キスしたくなった唇を丸めて、神崎明人の横顔を見つめた。

 呪いが生じてから一日が経過したから、すでに、茜は呪い殺されてもおかしくはない状態だった。しかし、神崎明人に殺されることは絶対にないし、最後まで神崎明人が守ってくれるはずだ。その確信が茜を安心させていた。
 その日の午後は、近くにあった動物園に出かけた。日曜日のせいで混んでいた。他愛もない会話を交わし、同じ経験を共有するだけで、茜の心は満たされた。同じように神崎明人の心も満たされているなら、茜の不幸は最小化するはずである。
 その夜はふたたびビジネスホテルに泊まり、次の日も美術館を休み、ふたりだけの時間を過ごした。その次の日も同じだった。ずっとふたりでいても苦痛を感じないことが確認できて、それがどうしようもなく嬉しかった。
 神崎明人のスマホで登録したタイマーが残り五時間を知らせたとき、茜たちは、はじめの夜を過ごしたラブホテルに到着した。はじめのときと同じようにいちばん贅沢な部屋を神崎明人が選んでくれた。その密閉された部屋の中で、残り時間を過ごすのだとふたりで決めていた。スポーツグッズの専門店で購入した金属バッドは車に放置してきた。なにも警戒する必要はない。
 防音になっている部屋の中では、声を発するたびにスポットライトを浴びているような気分になった。
「過去の暗い話をすると、けっこう引かれるんだけど、僕たちの間だけでは、絶好の子守唄みたいだよね」
 ベッドに並んで座り、手を握りあっていた。
「僕は、それがすごく嬉しい。話したいことを話すだけで、病んでるとか、重いとか思われるような関係性だと、僕はたぶん、続けられない。僕の傷をちゃんと愛してくれる人がいるだけで、傷ついてることが嬉しくなる」
 神崎明人の言葉は、美しい詩のように、心に溶け込んでいく。その空間には、どんな悪意も入り込む隙間がなかった。外気に混じったあらゆる悪いものがきれいに浄化された空気で満ちていた。
 茜は耳を傾けていた。神崎明人の声がすごく懐かしいような気がする。ずっと昔にもどこかで聞いたことがあるような……。茜は、首を傾けて、神崎明人の肩に左耳を押し付けた。どんな音楽を聴くときよりも落ち着く。
 静寂さえも気にならなかった。ふたりの間に生じるどんな無音も、疑いや焦りを含んでいなかった。凪いでいる海のようにふたりの心は落ち着いていた。
 座るのに疲れてくると、ふたりそろってベッドに寝転がった。言葉はいらなかった。もしかしたら、この先、この人と家族になるのかもしれないという予感が茜の中で膨れ上がっていった。
 静かな部屋に優しくフルートを響かせるような繊細な声が、茜の耳元で聞こえる。
「どうして、殻に閉じこもるの? なんていう疑問を投げられたことがある」
 そちらに振り向くと、神崎明人が見つめてきていた。その目は大きくて、きれい。水星がふたつ並んだようだった。にやにや笑っている神崎明人だ。
「でも、それ、誤解してる。正確には、『殻に閉じこもっている』んじゃなくて、『殻に閉じ込めている』んだ」
「なにを?」
 茜は、ほとんど見抜いていた。神崎明人がなにを言いたいのかについて。
「なにを閉じ込めているかって? 知りたい?」
「うん、知りたい」
「じゃあ、もう、打ち明けてしまうんだけど」
 神崎明人が、さらに、にやっと笑った。
「僕は、ランドセルを背負っているときからずっと……山崎さん――茜ちゃんとふたりきりで生きていられたらなって考えてた。その気持ち、ずっと隠していた。でも、もう隠しきれなくなっちゃった」
 すごく近い距離――あとちょっとでキスできそうな距離――で、神崎明人と顔を合わせていた。茜は、弾けそうな心をむりやり押し込もうとして、それに失敗し、一瞬のうちに赤面してしまった。
 恥ずかしくなって、神崎明人から顔を逸らせようとしたのに、それができなかった。神崎明人は続けざまに口を動かした。
「僕がいる限り、誰にも茜ちゃんを呪わせないよ」
 そのとき、ピー、ピー、ピー、と電子音が鳴った。神崎明人はスマホを取り出して、その画面を見る。嬉しそうに頬を緩ませると、その画面を茜に向けてきた。『00‥00』という表示。七十二時間のカウントが、終わりを告げていた。
「タイムオーバー。僕を選んでくれて、本当にありがとう」
 茜は、ほっとして、全身の力が抜けた。もう大丈夫だ。最後まで、信じきることができたのだ。
 いつの間にか涙が流れてきた。茜は、ぎゅっと強く神崎明人を抱きしめた。無抵抗に茜を受け止めた神崎明人は、優しい笑顔を浮かべている。
 この幸せは、私がつかみとったのだ。誰にも渡さない。誰かにむかって威張りたくなるくらい、茜の心は自由に弾んだ。