【ゲームブック小説】眼球の点滅①

  予言

 ――退屈すぎて死にそうですというような顔をよく見かける。そういう死にかけている人たちのために、僕は、ちょっとした救いのゲームをつくった。このゲームを始める前に、ひとつだけ、予言しておきたいことがある。それは、このゲームでの読者の勝率は20%以下になるだろうということだ。ゲームの結果は全部で四つあるから、単純な推計では25%になるはずだけど、そうはならないだろうというのが僕のずいぶん大胆な仮説。これはゲーム理論から導き出された予測だ。もしも僕の予言どおりに、ゲームの勝率が20%以下だったら、そのときは拍手をしてくれると嬉しい。逆に、もしも25%よりも勝率が高かったとしたら、僕は敗北を認める。それはそれで喜ばしいことだ。なぜなら、このゲームで勝利するためには、基本的には相手を信頼することが必要だからである――


   読者への挑戦状

 どういう結末を迎えるかは、あなたの選択次第だ。
 本作には、読者が選択できるポイントがふたつある。物語の四分の一くらいで一回目の選択ポイントを通過し、物語の四分の三くらいで二回目の選択ポイントを通過する。つまり、この物語には合計で四つの結末が用意されており、そのうち一つがハッピーエンドになっている。
 いま、僕は、読者に挑戦状を突きつける。
 読者は、二回の選択ポイントそれぞれにおいて最適な選択肢を選び抜き、主人公である山崎茜のもとにハッピーエンドを送り込まねばならない。ハッピーエンドを掴みとれればあなたの勝ち、バッドエンドに終われば僕の勝ち、それ以外(軽めのハッピーエンド)なら、引き分けになる。
 それぞれの選択ポイントに辿りつくまでの物語の中に、選択を助けるためのさまざまな情報が提供される。それらの情報は推理の材料としてだけでなく、あなたを惑わすためにも存在している。
 この冒頭において、それぞれの選択ポイントにおいてどういう選択が要求されるのかについて明かしておく。
 まず、一回目の選択ポイントにおいては「主人公の山崎茜は、佐々木ミツルと神崎明人のどちらと付き合うべきか」という選択を要求される。二回目の選択ポイントにおいては、「主人公の山崎茜は、『一回目で選ばなかった相手』へと鞍替えするか、それとも『一回目で選んだ相手』と関係を継続させるか」という選択を要求される。
 とはいえ、これだけではゲーム性が低いままなので、さらに踏み込んでゲームの構造を明かしておこう。
 まずなによりも、佐々木ミツルと神崎明人のどちらか一方は筋金入りの危険人物である。公平を期すために宣言するが、筋金入りの危険人物というのは、連続眼球くりぬき殺人事件の犯人であるということだ。
 たとえ一回でも危険人物を選ぶと、ストレートのハッピーエンドは掴めない。一回目も二回目も、安全なほうの人物を選択しつづけなければ、ストレートのハッピーエンドにはならないわけである。
 というわけだから、一回目の選択が間違っていれば、もはや、ストレートのハッピーエンドを掴みようがないのだ。
 ただ、もしも二回目の選択ポイントまでに、自分が選んだ相手が筋金入りの危険人物であると見抜いたならば、もう一方の人物に切り替える選択もできる。一回目の選択と二回目の選択で違う人物を選択した場合は、軽めのハッピーエンド(引き分け)になる。ストレートのハッピーエンド(あなたの勝ち)にはならないが、よりひどいバッドエンド(僕の勝ち)を回避することができるのだ。
 つまり、筋金入りの危険人物を二回選択すると、容赦のないバッドエンド。安全なほうの人物を二回選択すると、ストレートにハッピーエンド。一回目に筋金入りの危険人物を選んで二回目に安全なほうの人物を選ぶか、または、一回目に安全なほうの人物を選んで二回目に筋金入りの危険人物を選ぶかすると、軽めのハッピーエンド。わかりやすく図にまとめたので、次の図を参照してほしい。
 
 危険人物(一回目)→危険人物(二回目)→容赦のないバッドエンド
 危険人物(一回目)→安全人物(二回目)→軽めのハッピーエンド
 安全人物(一回目)→危険人物(二回目)→軽めのハッピーエンド
 安全人物(一回目)→安全人物(二回目)→ハッピーエンド
 
 右図のとおり、これは信頼を試すゲームだ。自分が選んだ相手が安全人物(危険人物の対義語として定義する)であることを信じつづけなければ――つまり、一回目で選択した相手を二回目でも選択しなければ――ストレートのハッピーエンドを掴むことはできない。当然のように、二回とも連続で同じ相手を選択するときには、バッドエンドに終わるリスクを背負わなければいけなくなる。
 これはある種の実験でもある。僕の計算によれば、二回目の選択ポイントにおいて鞍替えをすることが合理的な選択になる。この計算が正しければ、一回目で選んだ相手を信じないほうが得をする、という悪意に満ちた物語構造になっており、ストレートのハッピーエンドを達成するのは理論上は不可能(※1)である。
 そういうわけであるから、読者が客観的かつ合理的であれば、ハッピーエンドを達成しようがない。だからといって、むやみやたらに信じろ、と言っているわけではない。筋金入りの危険人物を二回選べば、容赦のないバッドエンドを迎える。そこには十分に気をつけてほしい。
 本作は、ひょっとすれば、アンチミステリに属するかもしれない。ほとんどの推理小説が客観的かつ合理的な判断を読者に求める中において、本作においては読者の主観的かつ恣意的な判断(※2)を求めている。
 ハッピーエンドを掴みたいのならば、基本的には、読者は主観的な判断をしなければいけない。提供されたシグナルを基にして、この相手はきっと安全人物だろう、と信頼する強い気持ちが必要なのだ。少なくとも、十分の七よりも大きい確率でこの相手は安全人物であると信頼しなければ、ハッピーエンドは掴めない(※3)。客観的な読者に用はないというわけである。
 しかし、これだけでは作者の匙加減ではないかというお叱りがあるかもしれない。そこで、本作においては、少々、決定的な事実を紛れ込ませている。それらの事実に気が付けば、一般的に妥当な論理的思考によって、佐々木ミツルと神崎明人のどちらかについて明らかに危険人物ではないと判断できる。
 あなたが、最後まで一度選択した相手を信用することができるのか、僕はそこに強い興味関心を抱いている。これは小説というより、僕の興味関心に基づいた実験である。
 せっかくなので、プロローグを利用して、本作における容赦のないバッドエンドをネタバレしておこう。

(※1)→(ここでの「理論」とは「ゲーム理論」のことである。以下の議論は、ゲーム理論を知らない読者には理解できないはずなので、流し読みで構わない。これは恣意的な利得表を用いたうえでのゲーム理論的な思考に基づいている。読者と作者をプレイヤーとしたときに、一回目に選ばれた相手を危険人物にするか、安全人物にするか、という戦略の組を作者が保有している。一方で、読者は、その相手を安全人物と考えて関係を継続させるか、危険人物と考えて鞍替えするか、という戦略の組を保有している。それぞれの場合の利得表を作成した。読者が安全人物と考えて作者が安全人物にする場合(ハッピーエンド)を(10,0)、読者が安全人物と考えて作者が危険人物にする場合(バッドエンド)を(0,10)、読者が危険人物と考えて作者が安全人物にする場合(軽めのハッピーエンド)を(7,7)、読者が危険人物と考えて作者が危険人物にする場合(軽めのハッピーエンド)を(7,7)とした。なお、一番目の数字は読者の利得で、二番目の数字が作者の利得だ。ちなみに、この利得表は、読者がハッピーエンドを迎える利得(10)が、読者が軽めのハッピーエンドを迎える利得(7)の倍はない、という仮定に基づいている。この利得表から、混合戦略において無数のナッシュ均衡が確認された。作者が十分の三~一の確率で危険人物にする戦略を採用し、読者はその相手を危険人物だと考えるというのが最適反応になる。もっと平易に述べるなら、以下のようになる。読者はハッピーエンドを掴みたいので、一回目で選んだ相手が安全人物であると信じたいが、作者は読者を貶めたいので、一回目に選ばれた相手を危険人物に設定したい。もしも作者が危険人物に設定するならば、読者はバッドエンドを見ることになるので、そういうリスクを取るくらいなら、鞍替えを選択して引き分けに終わらせたほうがいい。そういう思考によって、ハッピーエンドは達成できない。ここだけ切り取ってみても、このゲームでは読者は鞍替えを選択してしまい、美しい信頼関係を見ることはできない。しかし、鋭い読者の方なら、すでに作者が佐々木ミツルと神崎明人のどちらかを危険人物として設定したと告げていることにお気づきだろう。どちらかが危険人物なのだから、その確率は二分の一と確定している。しかし、作者が二分の一の確率で危険人物を紛れさせている場合でも、さきほどの利得表を所与のものとして受け入れるならば、読者の最適反応は一回目に選んだ相手を危険人物と考えて鞍替えすることである。二分の一の確率でそれぞれの戦略の期待利得を計算すれば、安全戦略が5で、危険戦略が7になるので、鞍替えをしたほうが期待利得が大きくなる。つまり、この仮定の中ではやはり、読者が一回目に選んだ相手を信用しないで鞍替えする、というのが合理的な解になっているのだ)
(※2)→(ここでの「主観的かつ恣意的な判断」というのは、基本的には、読者の主観確率のいかんによってしかハッピーエンドを導けないことを意味している。主観確率は、本作において提供されるさまざまなシグナルによって決定される。つまり、これはシグナリング・ゲームでもある。できるだけ優秀な人物を採用したいと考えている人事担当者が、面接や試験など(シグナルの抽出)をおこない、どの人物が優秀であるかを見抜くのと同じようなゲーム構造だ。読者は、人事担当者になったような気分で安全人物を見極めてみると面白いだろう。いろいろなシグナルがありうるが、本作においてはひとつ、『眼球』に関するシグナルに注視していただきたい。これから、本作の中では、神崎明人と佐々木ミツルに関するさまざまなシグナルが提供される。それらのシグナルをいかに受け取るか、あるいは、シグナルのひとつひとつをどのような確率のシグナルとして受け取るか、それによって選択は変わってくる。さきほどの利得表から考えるなら、十分の七より大きい確率でその相手を安全人物だと考えるなら、読者はその相手と関係を継続させることが合理的になる)
(※3)→(ここでの十分の七という数字は、(※1)における利得表の読者の利得に注目すれば求められる。安全戦略と危険戦略の期待利得をそれぞれに計算したとき、ちょうど、作者がその相手を安全人物に設定する確率が十分の七のときにおいて、どちらの戦略も読者の期待利得が無差別になる。つまり、十分の七よりも大きい確率で安全人物だと信じるならば、読者の最適戦略は安全戦略になりうるのだ)


   プロローグ

 なんで殻に閉じこもるの? 
 なんていう疑問を投げられたことがある。でも、それ、誤解してる。正確には、「殻に閉じこもっている」んじゃなくて、「殻に閉じこめている」んだ。
 なにを閉じ込めているかって? 知りたい? じゃあ、もう、打ち明けてしまうんだけど。
 僕は、ランドセルを背負っているときからずっと、透き通るような美しい眼球――山崎さんのようなね――を見ると、舐めまわしたくなる気質だった。眼球マニアだよ。スプーンで抉り出して、そのすべすべした感覚を舌で味わいたくなる。わかんない? そうだよね、気持ち悪いこと言って、ごめんね。でも、ホントなんだ。眼球を見るだけで、もうなにもかもがどうでもよくなって、どうしようもなく心が蠢くんだ。
 異常だとわかっているから、それを隠している。僕はなるだけ興奮しているのを悟られないように、人間の眼球を見ないように心がけている。だから、いつも、誰かと目を合わすことができなかった。山崎さんも含めてね。
 そんな僕から、ひとつだけ、お願いしたいんだけど。こんな僕でよかったらさ、このスプーンで、君の眼球をひとつ、失敬させてもらってもいいよね?


   一

 その人は目を合わせようとしなかった。山崎茜としても目を向けるのが躊躇われて、その人の胸のあたりに視線を固定して話を進めた。
 視線恐怖。最近は増えてきていると聞くが、露骨に目を晒されると、怖がっているんだろうという簡易な処理だけでは不十分な気がしてくる。なにか邪な考えを抱いているのではないか。茜としても、居心地が悪くなってくるのだった。
「こちらは最新の作品でして、つい二か月前に仕上がったばかりのもので……」
 説明を続けながら、ちらりちらりと顔色を窺うように男性の変わらない表情を確認していた。少しだけ緊張したように頬に力が籠っている。その頬がぐにゃりと動いて、その口から言葉が飛び出した。
「あの、このローマ字はなんでしょう?」
 男性は、相変わらず目を伏せたまま、最新作、『歪なパレード』の一部を人差し指で指した。絵の右下――そこには『TSKT』と記されている。
「ああ、その『TSKT』。それは実はわからないんです。なにを意味しているか、作者が打ち明けないものですから」
「へえ、なんだか、気になります」
 少し会話できたので警戒心が若干薄れたが、またすぐに気まずいような空気に戻ってしまった。
 その三十代半ばくらいの短髪の男性の伏せがちの目は、『歪なパレード』のタイトルプレートばかり見つめていた。ときどき思い出したように絵に目を上げるが、かと思うと、見てはいけないものを盗み見たかのようにさっと、目を伏せる。マスクをしているせいで、余計に目の動きが際立っていた。
 館内の冷えた空気が背筋にまとわりついて、肌寒かった。五感が冴えてくるのは、目の前の人間への警戒心が強まっているせいだろう。
 とはいえ、気にしたって、どうにもならない。いちいち子細に注目しないよう、作品のテーマに関する説明に集中した。ジェスチャーをつけたりすると、自分自身も説明に没入しやすくなった。
 しかし、それは幾度となく繰りかえしている説明なので、もはや無意識に口が動いてしまい、集中しようとしても限度があった。
 そこで、今度は、神崎明人を頭に浮かべることにした。神崎明人のように、目を合わせようとしないけど根は優しいという人がいるのは事実だ。目の前の男性を神崎明人と重ねることで、心の中の動揺を鎮めようとした。
 最初のうちは成功したが、どうしても神崎明人と年齢差の激しい男性を同一視するのに限界が見えてくると、その戦略も頓挫した。
 茜は、独り芝居をしているような疎外感に負けないように、はきはきとした声を響かせていた。相手は、目を合わせないその男性ひとりである。男性のほうから説明を要求してきたのだが、本当に興味があるのだろうか。
 うなずきさえ返してくれないので、ちゃんと伝わっているのかも定かではない。
 いつからか、母親を独占しようとする子供のように、目を合わせてほしいという期待ばかりが募っていく始末だった。かろうじて、持ち前のスマイルを崩さないでいるのが、やっとだった。
「これは代表作ですね」と一枚の絵を示したとき、ついにその男性は顔を上げ、視線が交錯した。一瞬、どきっとした。このまま目を伏せたままで貫き通すつもりなのだろうと邪推していたせいだ。その男性の目はにこりと笑い、「いい絵ですね」と月並みな感想を漏らした。
「僕はどの作品も、なかなか気に入りました。どれも目力が強いから、直視できないくらいです」
 そういうことだったのか。作品の目力に押しつぶされるようにして目を伏せていたというわけか。
「ホントですね。直視しにくいですよね」
 笑顔で応じた茜の中で、なんとも言えない安堵が込み上げてくる。
 たちまち緊張の糸が緩んでいた。人間の心理はバカげたものだと思う。この人は作品が理解できる人なんだというだけのことで、その人格さえも優れているような気がしてくるなんて。それだけのシグナルを頼りにして相手の内心をよく理解したような気になるなんて、なんの合理性もない。
 茜は、ここぞとばかりに声を大きくした。
「こちらの作品は、当館にある作品の中では、いちばん時価総額が高いものとなっております。世界中で高く評価されておりまして、とくに、ありのままを見つめようとする眼差しの力強さがうまく表現されているのがポイントだと言われています」
 なかなかに力強い作品である。茜としてもお気に入りの作品のひとつだった。
 男性は、目の前にある自分の背丈より大きいサイズの、その絵をじっくりと見つめていた。タイトルは『贖罪のファンファーレ』である。絵の中央に全裸の少女が描かれており、その子の目が額縁の外側を覗き見るように、こちらに向けられている。
「この子は、とんでもないものを見つめているんだけど、まったく目を晒そうとする意思が感じられない。絶対に目を晒さないぞ、っていう強がりとも違って、ただ純粋にすべてを見ようとしているように感じられます」
「それがまさにありのままを見つめるというテーマ性につながっているのですね」
「そうだね。ありがとう」
 男性は、軽く礼をして、「楽しい解説でした」とすたすたと次の絵へと足を進めていった。なかなかのジェントルマンじゃないか。茜は、ほっとした気持ちを胸に、去り行く男性の背中を見つめていた。
 美術好きには神経質だったり繊細だったりする人が多いから、ちょっと変わった反応をする人には慣れているつもりだった。それでもやはり、目を合わせてくれないというのは二十も半ばを迎えてさえ不安を掻き立てられるもののようだ。
 学芸員という仕事柄、ビジネスマンに比べたら人と関わる機会も少ないので、人生経験が足りていないのかもしれない。
 茜は、背筋を伸ばしたまま、その場に佇んでいた。平日の昼間はぱらぱらと人がくるだけで、あまり混雑していない。時間のあるときは館内でお客様の対応をしなさいという先輩からの言いつけを、あまりお客様がいないときでさえ律義に守っている自分は、わりと真面目なほうではないか、と自己評価している。
 茜は、ホールを見渡した。美術館は全体で四つのブースに分かれており、入り口にいちばん近いブースはホールと呼ばれている。そこに月ごとに特集する作品が飾られることになっている。
 どこにいても全体を見渡せるような正方形のホールには現在、残虐趣味で有名なある画家の絵がいくつも並んでいた。八月一日――今日からの新しい特集だ。
 あまりにも残虐なものを美術館の窓口に飾るのは不適切なので、そういうものは奥のブースに飾ってある。ホールには、その画家の作品の中でも比較的に刺激の少ないものが並んでいた。
 ホールを見渡しながらその場に佇んでいると、先輩の学芸員である飯島太一が奥のブースから慌てた様子で駆けてきた。すらりとした男前で、わりとモテるのではないか。茜としてはあまり興味がない。そんな飯島は、茜の目の前までやってくると息切れのまま言葉を絞りだした。
「山崎さん、すいません、あっちに飾ってあった気持ちの悪い絵、知りませんか」
 学芸員としてはあるまじき形容詞を何食わぬ顔で口にする飯島は、茜がぴんと来ないのを見て取ると、「あれですよ、あれ。あの、きっもち悪いさ、なんていうか、ぞくぞくしてくるようなやつ」と貧相な語彙力で続けた。
「タイトルはなんです?」
「忘れちゃったんですけど……。っていうか、タイトルなんてのはどうでもいいことなんですけど、とにかく、その絵がないんですよ。飾ってあったはずなのに」
 気持ちの悪い絵が消えたというわけか。茜としては依然に、どの絵を指しているのか判別できなかったが、どうあれ、展示用の絵が消えたのであれば、ただごとではない。茜はその絵画の失踪の件についてなにも知らない。
 しかし、それほどの危機感はなかった。飯島はいつも研究室に籠っているから知らないのだろうが、絵が消えるのはよくあることである。
「大丈夫です、飯島さん。たぶん、あの人が勝手に持っていっただけだと思います」
「あの人?」
「はい、あの人」
 飯島は、天井に視線を彷徨わせてから、あ、と口を開いた。
「ああ、あの人のことね。でも、彼が絵を持っていって、いったい、なにをするんです?」
 それは茜としても承知していないが、鑑賞するために持っていったと考えるのが妥当ではないだろうか。
「そのうち戻ってくると思うので、気にしないで大丈夫ですよ」
 走ったせいで髪形が乱れている飯島に、茜は安心感を提供する。美術館が開いている昼間に何度も絵が消えたことはあるが、気が付いたら元の位置に戻っているのがお決まりのパターンだ。若手の学芸員としてホールにいることが多い茜にとっては、もはや日常の一部として溶け込んでいる現象だった。
「そうなら、いいんですが。それにしても、山崎さんはいつも頼れるなぁ。さすがビジネススマイル山崎ですね」
 美術館の同僚から、茜は、『ビジネススマイル山崎』という称号を得ている。その称号にはふたつの意味があり、ひとつはいつでも笑顔を絶やさない真面目な性格だという意味で、もうひとつは本性を明かさない性格だという意味だ。茜には表に出さないなにかがありそうだという雰囲気がまとわりついているらしいが、茜自身は、そのような雰囲気を意図的にまとっているつもりはなかった。
「でも、あの人は、なんだって、そんな迷惑な……」
 飯島は溜息を吐きかけたが、ぎりぎり呑み込んだ。
「いや、でも、まあ、それならいいんです。あの人は困ったもんですけどね」
 努めて軽やかに愚痴を零した飯島は、ぱたぱたと乱れた髪を直すように叩きながら、奥のブースへと戻っていった。
 あちらのブースには、より残虐趣味の強い絵がいくつも飾られている。その残虐性だけに評価は二分されているが、評価する人はとても高く評価するのだった。
 不意に、飯島がどの絵を「気持ち悪い」と表現していたのか、茜はピンときた。あちらのブースには、眼球のような、あるいは、電球のような、どちらにもとれるような丸い物体がキャンバスに大きく描かれてある絵がある。その絵はたしかにぞわぞわするような気持ちの悪さを携えていて、その絵と同じ空間に長い間いたいとは思えない。
 たしか、あの絵のタイトルは……『眼球の点滅』だったはずだ。
 
 引き続きホール内に佇んでいた茜は、ひとりの観覧客が『贖罪のファンファーレ』ばかり見つめているのに気づいて、声をかけてみた。
「その絵が、気に入りましたか」
 迷惑がる様子もなく、こくりとうなずいてくれた。六十過ぎくらいのほっそりとした女性である。
「この絵の中の子が、なんだか、私の孫に似ているような気がしてねぇ」
 穏やかに言葉を零して、深く感じ入るような顔をする。
「それは偶然ですね。よろしければ、ちょっとだけ解説しましょうか?」
 嫌がる様子もなく「お願いします」ということだったので、茜は、『贖罪のファンファーレ』のテーマ性や描かれた背景について、そして作者についての解説などを加えていくことにした。幾度となく繰りかえしている説明であり、ほかのことを考えながらでも口が動いた。
 現在、この山奥の美術館――Sasaki美術館――で実施されているのは、残虐趣味の絵画でお馴染みである佐々木ミツルの特集である。おそらく世界でいちばん佐々木ミツルの作品を貯蔵しているのは本館だが、それは当たり前だ。
 というのは、税金対策として本館を運営しているSasakiグループの会長である佐々木隆の孫が佐々木ミツルであり、佐々木ミツル自身も、ここ――Sasaki美術館内の一区画をアトリエとして利用しているからだ。
 佐々木ミツルの活動の本拠地そのものがこの美術館である以上、この美術館には佐々木ミツルの作品が多く貯蔵されている。特集をやっていないときでさえ、佐々木ミツルの作品は多く展示されているのだった。
 佐々木ミツルは、少々変わり者である。いつも館内のアトリエに籠ったままで出てこないし、そのアトリエの中は美術館の関係者でさえ立ち入り禁止となっている。
 創作の空間を邪魔されたくないという気持ちはわからないでもないが、アトリエに籠りつづける奇行についてはあまり理解できない。
 一日中、部屋に籠っていては気がおかしくならないのか。そう考えてみると、あらためて、かなりミステリアスな人物だと思う。
 佐々木ミツルのミステリアスな行動のひとつに、館内から自作を勝手にアトリエまで持って行ってしまうというのがある。今日も、いつもと同じようにひとつの絵を持っていったようだ。悪い場合は、燃やされて灰になって戻ってくることもある。あくまでもSasakiグループの会長の孫であるから、注意することはできないのだった。
「佐々木ミツルは、モチーフとしてよく眼球を使います」
 茜の説明に、六十代ほどの女性は反応した。
「どうしてです?」
「どうして、よく眼球をモチーフにするのか、ですね」
 そのような質問をされることは多いので、その答え方は決まっていた。佐々木ミツルが眼球をモチーフにする理由は、もちろん本人にしかわからないのだが、多くの人の共通認識としては、佐々木ミツルが追求しているテーマと深く関わっているからだということになっている。
 ありのままを見つめる、という一貫した主張を続けてきた佐々木ミツルにとって、脳に入ってくる情報の八割を占めている視覚には特別な思い入れがある。ありのままに世界を見つめるためには、眼球を対象に揺るぎなく向けなければいけない。
 女性はなんとなく納得できないような顔をして、じっくりと『贖罪のファンファーレ』を眺めていた。
「けれど、なんだか、さっきから見ていますと、眼球をどこかに向けているところは描かれているけれど、眼球がなにに向けられているのか、は描かれていませんよね。全部、額縁の外を向いてしまっていますから」
 鋭いコメントは、学芸員としては、とても嬉しい気持ちになる。
 女性の指摘のとおり、佐々木ミツルは視線の向けられている対象を額縁の中に描かない。それぞれの作品の中の眼球がなにを見ているのか、明かさないのだった。
「よく気づかれましたね。実は、佐々木ミツル作品のどれもに共通してるポイントなんですね。だから、なにを見ているのかというのはわからない」
「なにを見ているんでしょう?」
「それは想像するしかないのですが」
 茜としての個人的見解を告げるのは、客観的な説明とは言えない。学芸員として、そこは自制した。代わりに、こちらから伺うことにした。
「お客様は、この絵の中の小さな女の子が、なにを見ていると思いますか?」
 女性は、難しいことを考えるように眉を寄せながら、絵の中の少女と目を合わせるように『贖罪のファンファーレ』を正面から見つめていた。しばしの黙考の末、なにかしら確信を得たように告げた。
「この子が生きている現実を見つめているんじゃないでしょうか。そんな気がします。どれかの現実を選んでいるわけでもなくて、ただ、流れていく現実をじっと見つめている。傍観者ではなくて、当事者として、はっきりと見つめているような」
 感性豊かなコメントをする人は、わりと多い。美術好きには繊細な感覚を携えた人が多いから、茜としても、観覧客がどんな反応をするのか、とても気になるところだった。今回のコメントも詩的で美しい。
 一方で、茜は現実的な解釈をするのが好きだ。佐々木ミツル作品の中の眼球が向けられているのは、虐待とか、いじめとか、暴力とか、そういう現実の負の側面なのではないかと考えていた。直視するしかない世の中の現実に対して、動揺すらできす、ありのままに見つめるしかなくなっている眼球だ。目を逸らすという発想がないからこそ、どの眼球も力強く見える。
 そのような眼球を、実際に、茜は見たことがある……。
 茜が物思いに入り込みそうになっていると、六十代ほどの女性が次の絵へと向かっていったので、歩調を合わせることにした。
 女性とともに館内をゆっくりと進んでいくと、『眼球の点滅』のあるところに行きついた。どうやら、佐々木ミツルがアトリエへと持っていったのは、『眼球の点滅』ではなかったらしい。
 女性は真っ先にその絵の前まで進んでいって、食い入るように見つめた。
 キャンバスいっぱいに描かれた丸い物体。その表面は輝いているが、その光沢がどことなく人工的で機械的な印象を与えるので、それが機械仕掛けの眼球のようにも見えてくるのだった。
 茜が知る中でも、佐々木ミツルの名作のひとつだが、認知度は低い。
「これはいったいなんなのでしょうか」
「わからないんです」
 茜は、はっきりと告げた。
「なにを表現しているのかはいろいろな解釈が入り乱れていて、定説みたいなものがないんです。作者自身もなにも語らない人ですから、いったい、なにを表現したのか、ミステリアスなままです」
 小刻みにうなずいた女性は、その絵の引力に引きつけられるようにしてその場から動かなかった。
 文庫本を四つ正方形に並べたくらいの小さなキャンバスいっぱいに、眼球のような電球のような丸い物体がひとつ描かれている。その丸い物体は自ら光を放っておらず、むしろ光を浴びていて表面が輝いている。死んだ眼球が電球として生き返ろうとしているかのように、自然と人工の絶妙なマッチングが成功している。
 茜は、女性がその場を離れるまでずっと、その場に静止していた。女性は長い間、その眼球らしきものと対峙していた。

 佐々木ミツル展の初日ということもあり、午後になると多くの観覧客が来館した。茜は学芸員の一員として、ソーシャルディスタンスを保ちながらも、佐々木ミツルの作品についての説明を続けた。午後五時、Sasaki美術館の閉館の時間になると、ようやくホールから抜け出して、奥にある研究室へと戻ることができた。
 きっちりと本や資料が並べられている自分のテーブルに辿りつくと、一日の疲れがどっと押し寄せてきた。
「あ、そういえば、山崎さん。あの、気持ち悪い絵、ちゃんと戻ってましたよ」
 隣のテーブルにいた飯島だ。こじんまりとした研究室にはテーブルが六つ並べられており、六人の学芸員がそれぞれのテーブルについていた。
「まったく、困ったもんです」
 声のしたほうに顔を向けると、飯島は不服そうな顔をしていた。ホールではマスクを着用していたが、この部屋の中ではマスクを着用する必要性を感じていないらしい。いつものことだった。
「神経がどうにかしていますよ。いくら自分の作品とはいえ、展示中の作品を勝手に持ち出して、勝手に戻していくなんてさ」
「でも、まあ、よかったです」
「本当ですよ。なにか問題になってたら、怒られるのは僕たちなんだから」
 飯島は、かなり気分が悪いようだ。一般的な感覚からすれば、飯島の主張は、なにも悪いことではない。展示中の作品を勝手に持ち出すとは、どう考えても佐々木ミツルのほうが悪い。とはいえ、世の中は正しさで成り立っているわけではなかった。
 周りに観覧客がいないせいか、飯島はねちねちと愚痴を零すのを躊躇う気はないようだった。
「だいたい、美術館の中にアトリエがあるのが間違ってるんですよ」
 佐々木ミツルのアトリエは、Sasaki美術館の地下室にあった。当然のように自然光は届かないので、人工的な明かりの中で過ごすことになる。それにもかかわらず、佐々木ミツルは好き好んでアトリエに籠るので、美術館の展示ブースでその姿を目撃することはほとんどなかった。
「過保護に育てるから、ああいうふうに自己中になっちゃってるんだろうに」
 とはいえ、佐々木ミツルが芸術家として天才的な才能を保有していることについては誰も疑いを持たない。たしかに、多分にミステリアスで神経を逆撫でするような行動をしているのは事実だが、佐々木ミツルの類い稀なる才能を加味するとバランスはとれているように感じる。
「天才は変人なんて、よく言いますからね」
 佐々木ミツルをフォローするように発言すると、飯島は、「たしかにね」と一応の納得を示した。しかし、納得するだけに留められるほど冷静ではなかったようだ。
「でも、僕、そういうのって、結局のところ、自制してないだけじゃないか、って思うんですよ。アインシュタインだって、そうでしょ。自分は天才だと思い込んでいるからちょっと変わったことをしてもいいだろうって勝手に考えて、下品にも舌を出したりすることになる。それって、結局、自分が持っている変なものを、隠しておかなくちゃ、という努力を怠っているだけじゃないですか」
 飯島の言わんとするところは、案外、筋が通っている。変なところのない人などそうそういないのだから、多くの人は、自分の持つ変なところをなるだけ隠すように生活をしている。それをしないのは、自分は天才だからという言い訳をして甘えているだけだと言えなくもない。
 しかし、かりに、変なところが他人よりも多かったとしたら、それを隠し通すのに必要な努力の量は他人よりも多くなる。それは不平等だから、変なところを他人よりも多く持つ人がそれを隠すのをやめるのは平等的だ。
 佐々木ミツルも、天才であるだけに他人よりも変なところの量が多いのかもしれない。その変なところを隠さないでいることを甘えだと糾弾するのは、生まれつきドリブルの潜在的能力を持っている人がどんなに練習してもドリブルが上達しない人を批難するのと同じで、厳密には論理が破綻している。
 もともと、人間は平等にはつくられていない。人間は平等だというありえない前提条件を基に意見を述べる人が多すぎるのは、人間の認知システムの非合理さのひとつなのだろうと茜は考えていた。
「みんな、自制して生きているのにさ」
 その飯島の主張は、自分はこんなに頑張ってきた、と語るに留まり、自分よりも相手が不幸である可能性を前提から除外してしまっている。
 茜は少しだけ悲しくなった。そういう排他的な態度が、結局のところ、彼ら――佐々木ミツルとか、神崎明人とか――が抱えている生きづらさのひとつなのだろう。世間の冷たさとはそういうもんだろうと納得するには、あまりにも残酷すぎる。
 茜は、しっかりと飯島の主張に耳を傾け、適切に相槌を打つのを怠らなかった。一方で、茜の手は、黒スーツのポケットに仕舞われているスマホへと伸びた。飯島に気づかれないように山積みとなった資料の陰でスマホを開き、最新のメールを確認した。
『それで、そろそろ答えを教えてくれないかな』
 佐々木ミツルからのメッセージだ。あの奇妙な芸術家がまさか一介の学芸員に告白をしてくるなど、誰も夢にも見ない。茜は、ブラインドタッチですらすらと返信文を入力し、送信した。
『ごめんなさい、もっと時間が欲しいです』
 ついでに今朝、幼馴染の彼――神崎明人に送ったメッセージを確認したが、既読がついていなかった。『もっと考えさせてね』という軽さを装ったメッセージが悲しそうに画面に浮いていた。
 
 ほぼ同時にふたりの相手から告白されるというシチュエーションに追いやられるとは、まったく想像できていなかった。
 以前にも、いくつか告白された経験はあったが、そういう場合、だいたい告白される前から相手の気持ちに気づいていた。今回は、佐々木ミツルも、神崎明人も、どちらの気持ちにも気づいていなかった。そもそも、彼ら二人は自分の感情を表に出すようなタイプではない。
 神崎明人はもともと繊細な性格で、自分の感情を表現するのが苦手である。一方で、佐々木ミツルは人を選んでいるようなところがあり、心を開いた相手の前でしか自分を表現しないのだろうと茜は考えている。
 茜としては、正直にいって、どちらの誘いも嬉しかった。幼馴染の神崎明人を異性として意識したことは当たり前のようにあったし、佐々木ミツルの描く世界には純粋に心が動く。どちらも魅力的だ。
 相手を選べるなんて、とんだ贅沢な一時なのかもしれない。たしかに悩ましいが、楽しくもある。茜は、なかなか終わる気配のない飯島の憤怒の声にうなづきを返しつつ、頭の中で、佐々木ミツルと神崎明人についての回想をしていた。
 まずは、佐々木ミツル。茜より五歳年上だ。茜が大学院を卒業したあと、Sasaki美術館に学芸員として職を得たときに出会った。第一印象は、やはり変人というものだった。はじめて会ったとき、茜が丁寧に自己紹介をしていると、「興味ないんで、いいんです」と断られてしまった。あのときはひどく傷ついたが、誰に対してもそういう態度を取るものだと同僚に教わってからは、少し傷も癒えた。
 それからも、いくつか佐々木ミツルの奇行を目撃してきたが、そういうものだと慣れてしまえば、あまり気にならなくなった。完成度の低い絵を勝手に燃やしたり、SNSで自分を誹謗中傷してきた相手と激しい言い争いをしたりといったこともあった。
 もちろん、茜とて、飯島のように、はじめて遭遇する奇行には感情が昂ってしまうこともある。しかし、天才ゆえの異常なのだろうと寛大に受け入れると、むしろ、そういうダメなところこそ彼の魅力なのかもしれないと思えなくもない。変わったところはあるが、根から悪いわけではないような気がしている。
 告白をされる前は、館内で会ったときに軽く挨拶をする程度の関係だった。彼の気分によっては挨拶を返してくれないことさえあった。だから、数日前、美術館内の廊下ですれ違ったときに「あの、よかったら、僕と付き合ってくれませんか」と言われたときはあまりの突然に驚いた。これも彼の奇行のひとつなのかもしれないが、メールでも返事の催促をしてくるので、告白自体は本気の試みらしい。
 世界を驚かせる天才画家と付き合える機会があるなら、それはもちろん、付き合いたいわけである。
 一方で、神崎明人。同い年である。佐々木ミツルとは対称的に重たいものを抱えているのを茜は知っている――幼馴染だからこそ、お互いの苦しみを共有してしまっているポイントが見過ごせない。もちろん、恋愛など相手への同情で成り立つものではないかもしれないが、神崎明人がいかに苦しんできたかを知っている茜にとって、彼の絶望的な人生に微かな望みを注ぎたいという気持ちがどうしても残る。
 もしもこの選択が中学校の道徳の授業で出てきたら、神崎明人を選択することが推奨されるだろう。自分の夢を選択するか、身近な大切な人を選択するか、というような二項対立のように思える。
 神崎明人は、気が弱いぶん、優しい。茜が知っている限り、茜が傷つくような言葉を口にした試しがない。その副作用というのか、自分の主張ができないため、いじめられても反発することができなかった。神崎明人は、小学生のとき、中学生のときにそれぞれべつべつのいじめを経験している。現在は、小さな新聞社に新人の事件部記者として勤務していて、事件記事の作成に尽力している。たいていは地方裁判所に通っており、いろいろな刑事裁判の内容を記事にするのが主な仕事だった。
 順調ではないはずだ。神崎明人のメールアドレスで検索して彼のSNSの裏アカウントを特定しているのだが、そこに投稿される普段の彼なら絶対に口にしないような攻撃的な言葉の数々は明らかに過去を引きずっている。神崎明人には、数年前の地獄を簡単に忘れられるような図太さがない。
 彼が鬱々とした気持ちでいるのを知っているからこそ、茜は神崎明人にときどきメールをして気にかけてきたのだった。
 神崎明人が苦しんでいるところを傍らから見つめてきた茜には、神崎明人がはじめて口にした願いを簡単に断ることができない。
 告白をされたのは、数日前、ひさしぶりに居酒屋で飲んだときだった。一緒に飲みに行こうと茜のほうから誘い、その席で、「付き合ってくれませんか」と告げられた。相当な勇気を必要としただろうことは想像に難くない。思い通りにならなかった人生を必死にどうにかしようとしているのだろうと思うと、胸が痛い。
 しかし、同情で成立する恋愛が正しいのかどうか、茜の人生経験ではわからない。同情だけと言いきることもできないが、それが占めている割合が大きいのも事実だと思う。
 果たして、どちらを選択するのがいいのだろうか。最終的には、茜にとってどちらが望ましいのかという基準で選ぶしかないのはわかっている。自分のことを考えてあげる優しさがなければ、人生はうまくいかない。
 
 飯島の愚痴はなかなか終わる気配を見せなかった。半分は聞き流し、頭の中では佐々木ミツルと神崎明人を比較考量することで時間を潰していた茜だが、さすがに、長すぎると苦痛を覚える。
 そろそろ解放されたいものであると辟易してきたとき、研究室の扉ががちゃりと開いた。振り向くと、ダルマのように恰幅のいい白髪の男がいた。なにか言いたげな小さな黒目が、真っすぐと茜のほうに注がれていた。茜に用があるらしい。
 棚橋館長だ。
 館長の登場によって、とりあえず飯島が静かになったので、茜は清々した。しかし、すぐ、なんの用だろうかという疑問が膨らんでいく。館長が直々に研究室までやってくることなんてほとんどないのだから、その理由は、きわめて珍しい種類のものであるはずだった。
 なにかやらかしただろうか。
 茜が視線で疑問を伝えると、棚橋館長は、しかつめらしく一文字に口を結んで――マスクをしているので、そのように見えただけだが――それから、大きく鼻から息を吸いこんだ。
「ちょっと、いいかな、山崎くん」
 空気を鈍く振動させるような低い声だった。どう解釈しても、素敵な話題が待っているとは思えない。茜は「はい」と返事をして席を立った。
 研究室から出ていくと、棚橋館長は大きな背中を向けて歩き出した。どうやら館長室まで行くらしい。茜は、嫌な予感が拭い切れなかった。あくまでも美術館内においては真面目過ぎるくらいに勤務を続けてきたつもりだったが、どこかにボロがあったのかもしれない。
 いくつか思い当たることを頭の中に箇条書きしてみたが、どれもほんの些細なことに過ぎず、わざわざ呼び出すような種類のものではなかった。
 徐々に全身が重くなるのを感じながら、茜は、棚橋館長に続いて館長室に入室した。手前に来客用のソファがあり、奥に館長専用の特大の木製テーブルがある。茜はテーブルの前まで行き、そこで直立した。棚橋館長はテーブルの奥にあるキャスター付きのブラックの椅子に座り、テーブルの上で両手を組んだ。
 もはや、悪い予感しか、しなかった。
「山崎くん。いつも真面目に取り組んでもらえていることは知っている」
 しかし、という逆説の予感が尋常ではないほど醸成されていた。棚橋館長はわざとその予感を大きく膨らませようとするかのように、あえて茜を褒めつづけた。
「今日も、ずいぶんと親身になって、観覧客のみなさまに作品の解説をしていた。ずっとやっていることだから手慣れたものかもしれないが、手抜きをせずに丁寧に説明しているのはわかっている。しかし……」
 棚橋館長は、ようやく逆説を口にして、組まれた自分の両手へと視線を落とした。茜はついに自分の欠点が指摘されるときなのだと悟り、できるだけ傷つかないように、自分なんて大したものじゃない、と予防線を張るのを怠らなかった。
 棚橋館長は、なかなか、続きを口にしない。
「しかし……なんでしょうか?」
 焦らされると余計に苦しくなるので、どうせなら素早く煮てもらいたかった。茜が怯えながらも促すと、棚橋館長は桐のように小さな黒目を上げた。
「実はね、山崎くんについて、ちょっとした匿名の情報提供があってね。これを見てほしい」
 棚橋館長は、組んでいた両手を解くと、自由になった右手でテーブルの引き出しをがらがらと引いて、そこから数枚の写真を取り出した。
 瞬間、頭から熱湯を浴びたかのように全身が熱くなった。
 テーブルの上に棚橋館長が置いた数枚の写真には、どれも、茜自身が写っている。どの写真も変顔をしており、中には、べーー、と舌を出しているものまであった。茜は湯沸かし器のように熱く赤面した。その場に硬直し、なにひとつとして言葉を形づくることができなかった。
 棚橋館長は、そんな茜を労わるようにあくまでも視線は上げず、手元の写真を見つめたままに口を開く。
「べつに、変顔をしてはいけないという社会的なルールはないのだし」
 棚橋館長はジョークのような空気を演出しようとしたが、茜が硬直しているせいで、それは失敗に終わった。
「もちろん、アインシュタインのモノマネをしてはいけないという決まりなんてものもないわけだ。私が言いたいのはそこじゃなくてだね、これらの写真が撮られた日時だ」
 茜は、もちろん、その写真がいつ撮られたものであるか、承知していた。
「写真の右下に記載された日時を見ると、数日前の夜九時だということになっている。たしかにまだ緊急事態宣言は発出されてはいないのだけどね、さすがに夜遅くに居酒屋でわいわいするというのは控えてほしい。学芸員としてのイメージもあるのだし。友達とわいわいしたい気持ちはわかるのだが、こんな物騒なときに不謹慎だという苦情がいつ出てくるともわからない。お願いできるかな?」
「すみませんでした。迂闊な行動だったかもしれません」
 赤面したまま、なんとか声を絞り出した。美術館で演じているはずの学芸員としての自分がいまや人格崩壊の危機にさえ直面しているような気がした。
「それだけじゃなくてだ、山崎くんが関わっている連中だけれども」
 棚橋館長は、もう一枚写真を取り出した。そこにはどう見てもガラの悪い男たちの姿が写っていた。
「プライベートまでに口出ししたくはないんだけど、もうちょっと考えるべきなんじゃないかね」
 そういう印象を抱かれるだろうことは、想定の範囲だった。茜としては言い返したい気持ちが胸の底に溜まっていたが、口には出さなかった。
「ごめんなさい」
「謝ってほしいわけじゃないんだよ。考え直してくれ。山崎くんは、あくまでも美術館の学芸員だ。腐れ縁だって切らなければいけないときが来ている」
「ごめんなさい」
「わかったのなら、いいんだ。どうか気をつけてほしい。明日からは、緊急事態宣言も発出されるんだから、余計にね。もちろん、感染予防に気をつけるという意味でも、十分に気をつけてくれるね」
 茜は、深々と頭を下げ、何度か謝った。
 ようやく館長室を出たときには、取り返しのつかない醜態を晒してしまったことについて不安が込み上げてきた。今まで通りにやっていけるのだろうか。
 棚橋館長の前で『迂闊』という言葉を口にしたのは、あながち社交辞令でもなかった。Sasakiグループが全国的な探偵業を経営していることについては、十分に警戒しておくべきだった。社員を監視するくらいのことはやっていても不思議ではない。かりに、そこまでしていなかったとしても、タレコミ情報など、情報が非常に集まりやすい組織であることに違いはなかった。そこに考えがいたらなかった自分は、まさに迂闊だった。
 茜は、スマホを手に取ると、いつも一緒に飲み歩いているグループに『今日は、べつのところに変更して』とメッセージを送信した。

 Sasakiグループがいちばん力を入れているのが、探偵業だった。その調査能力は警察以上とも言われていて、失踪者の発見や浮気現場の盗撮など、著しい成果を挙げているのだった。茜はただの学芸員として採用された身なので、Sasakiグループの本業と関わるようなことはない。
 Sasaki美術館の月ごとの特集の企画、準備、運営をするのが主な仕事である。大学では西洋美術史を専攻していたこともあり、その延長線上での研究は継続している。しかし、研究職という色彩はあまりなくて、どちらかと言えば美術館のスタッフという位置づけになる。特集のほかにも不定期で講演会や音楽鑑賞会などを開催しており、その準備に奔走したりするのも茜の仕事のひとつだった。わりと人と関わる仕事なので、ビジネススマイルが身についている。
 小さいころから絵画鑑賞をするのが好きだった茜にとって、美術館で働けるというのはわりと理想的だった。
 茜は定時に美術館を出ると、お気に入りの軽自動車に乗り込み、がたがたとした山道を下山していった。Sasaki美術館があるのは県境の山奥であり、一本のがたがたした舗装道路を三十分ほど進まなければ街に辿りつかない。
 下山している間、茜の頭を占領していたのは、自分の変顔の写真だった。なんとも恥ずかしくて、すぐには開き直れない。なんとか整理しようと冷静に思考を進めた。あくまでも館長しか私の変顔を見ていないという事実に気づくと、茜は何事もなかったかのようにやり遂げられる自信をほんの少し感じた。
 その次に茜の頭に入り込んできたのは、佐々木ミツルと神崎明人だった。どちらも魅力的である。生来より優しい人が好きな茜にとっては同情を抜きにしても神崎明人は魅力的に映る。一方で、奇行が目立つ天才というのも、どこか危なっかしくて、イケている。存分に振り回されてみたいというように刺激を求める自分もいる。どちらを選択すればいいのだろうか。茜は、なかなか決断できなかった。
 街に辿りついてからは、真っ先に、いつものメンバーが待っている、いつもとは違う居酒屋へと直行した。あたりは薄暗いが、まだ昼間の余韻が残っている。
 その居酒屋に行くと、すでにメンバーが集まっていた。
 中学生のころからの友達で、全員、男だ。ちょうど五人、いつも通りに賑やかに話し込んでいる。居酒屋のちょっとした喧噪の中で、彼らのテーブルに茜が着くと、歓迎の声が響いた。飲み会を実施する居酒屋を変更したことについて茜が謝罪すると、いちばん背が高くて筋肉質な金沢が身を乗り出してきた。
「でも、なんで変更することになったんだよ」
 それを聞かれることは想定内だった。
「館長から、遊びまわるのはやめてくれって言われちゃったから。なるだけバレないようにと思って」
 茜が率直に告げると、うわぁ、と声が重なる。
「そりゃ、たいへんだったね。お堅いじいさんの説教でも聞いてきたの?」
 白石だ。いちばん背が低く、鼓膜を震わすような高音で話す。
 白石の言葉に「いやだね、じいさんの説教なんて、俺、聞きたくもないわ」と反応したのは、眉毛が太い山田だ。
「大丈夫だった?」とすかさず心配をしてくれたのは白石の次に小柄の池垣。右腕にドラゴンの入れ墨が入っている。
「じいさんは自分が若かったときのことを棚の上げがちだから」と笑い出したのは、とにかく目が大きい斉藤だった。金色のイヤリングが耳から下がっていた。
「とにかく、みんな、ごめんね。迷惑かけちゃって」
 いいのいいの、という温かい反応に出迎えられて、茜は安堵する。
 危険な人たちだと勘違いされやすいが、実際には人並み以上に優しい側面を持つ。茜は女友達と付き合うとマウンティングのやり合いに発展しそうな気がして、女友達をつくろうとは思えない。
 その点、男なら伸び伸びと付き合える。棚橋館長が彼らを悪く言うのは勝手だが、茜は、彼ら五人との関係を切り捨てるつもりは毛頭なかった。
 茜はさっそく生ビールを注文し、ごくごくと飲んだ。アルコールには弱く、少し飲んだだけで普段から真面目ぶっている自分がどこかに飛んで行ってしまう。徐々に言葉遣いが悪くなり、先輩である飯島を呼び捨てにして、「うっとうしいわぁ」などと嘆きだす始末だった。
 こちらが茜の本性だとしたら、『ビジネススマイル山崎』という称号は的を射ているのかもしれない。棚橋館長が差し出してきた茜の変顔の写真は、同じように彼ら五人とともに居酒屋で飲んでいるときに、酔った勢いで睨めっこをしたときのものだった。まさに裏の顔とも言える。
 愉快な男たちと馬鹿話に興じていると、それだけで疲労が吹き飛んでいった。その中でも、いつまでも頭に残りつづけたのはやはり、佐々木ミツルと神崎明人だった。茜は、衝動的に相談したくなった。きんきんに冷えたグラスを傾け、ビールを飲み切ってから、口火を切った。
「ちょっと、個人的な話をしてもいい?」
「もちろん」
 代表して、金沢がうなずいた。
「いまさ、実は、ふたりの相手から告白されててさ。どっちと付き合おうかな、ってすごい迷ってるんだけど」
「どっちもタイプなわけ?」
 眉の太い山田は、ずばすばと言いたい放題な性格である。茜はしばし考えてみたが、おそらくタイプなのは神崎明人だけだろうという結論に至った。
「一方はタイプだけど、もう一方はあんまり。でも、そのもう一方っていうのが、世界的な芸術家なんだ。佐々木ミツルって知ってる?」
「え、あの?」
 オーバーに驚いたのは、白石だった。
「知ってるに決まってるよ。だって、『贖罪のファンファーレ』とか、Sasaki美術館にも展示されてるのを描いた人でしょ? 超有名人じゃん」
 さほど芸術に興味のない白石でさえ佐々木ミツルを知っているのは、おかしなことではない。佐々木ミツルはSNSでも注目されているから、普段は芸術とは縁遠い人たちの間でもそれなりの知名度を誇っていた。白石以外の四人も知っているようで、佐々木ミツルという名前に五人ともが食いついてきた。
 茜としても、佐々木ミツルには興味がある。どんな言葉を話すのか、どんな関わり方をするのか、数々の作品の中の眼球が見つめている先にはなにがあるのか、ミステリアスなだけに知りたいことが多い。付き合えれば、佐々木ミツル作品への理解がより深まるのは間違いない。
 ただ、そういう興味関心だけでなく、有名人と付き合えるというポイントに魅力を感じているところもあるだろう。ちょっとした自慢になる。そのような下心を携えたまま交際関係に至っていいのかというポイントは、自分の心と相談しておかなければいけないところだった。
「それで、もう一人は誰なの?」
 金沢に訊かれて、茜は答えようとしたが、やめた。なんとなく神崎明人について打ち明けるのは躊躇われた。彼らとは性格や気質が違いすぎる。このような場で話題にするのも失礼な気がした。
 具体的な情報は明かさなかったが、属性とエピソードだけは打ち明けた。
「小中高と一緒だった幼馴染なんだ。ほら、わたしが中学生のとき、いじめられてた子だよ」
 ああ、と五人とも納得を示した。五人は神崎明人と対面したことはないし、神崎明人が怖がるので対面させる気もないが、茜が話すエピソードの登場人物としては神崎明人のことを知っていた。
 茜が中学生のころ、神崎明人が集団いじめに遭遇した。最初のうちは傍観するしかなかった茜だが、激しい葛藤の末に、神崎明人の味方をした。こんなことして恥ずかしいと思わないの、というように反撃したのである。その結果は想像通りだった。茜もいじめのターゲットとされて、学校での居場所がなくなった。
 そのせいか、茜はふらふらと夜の街を徘徊するようになったのだが、その中で出会ったのが彼ら五人組だった。夜の街でふたりの少年が殴り合いの喧嘩をしていたのを、すぐさま仲裁していたのが、彼ら五人組だった。喧嘩強さというより人間としての度量の大きさに惹かれて、それ以来、彼らと頻繁に遊ぶようになった。現在に至るまで関係が継続している。
 そのような経緯を振りかえると、茜が彼ら五人組と関わるようになった遠因は、神崎明人がいじめられたことである。
 ちゃらちゃらとした見た目だが、五人とも定職に就いている。
 リーダー的な存在なのが、いちばん筋肉質の金沢だ。電気工として生計を立てており、唯一結婚している。すぐのうちに第一子が産まれる予定だ。小中高とバスケを継続してきたせいか、とにかく筋肉質なので、街を歩くと誰もが目を逸らしていく。それがとにかく面白い。金沢と一緒に街を歩くと、殿様にでもなったような気がして、茜はどこか勝ち誇った気持ちになるのだった。
 お囃子のような雰囲気をまとっているのが、白石と山田だ。
 白石は五人の中でいちばん背が低く、まさにチンピラという印象だ。声が高いので、仲間内では『モンキー』と呼ばれることもある。白石本人は『モンキー』という渾名を自分の好きなバナナから名付けられたと勘違いしているらしく、誰かから『モンキー』と呼ばれたときは決まって、「バナナがないと返事が出来ません」などと応える。バナナが好きなのは本当らしい。営業マンとして案外、活躍している。
 山田は、太い眉をしているのがチャーミングだ。ずばずばとした性格で、頭に浮かんだことをすべて口にしてしまうようなところがある。ときどきマナー違反にもなるが、なにも隠そうとしないので、愛らしい。仕事はバスの運転手だ。仕事中はさすがにマナー違反をしていないことを茜は願っている。
 五人の中でいちばん穏やかなのが、池垣である。子供好きで、市内の保育園で働いている。右手に入れ墨が入っている件で保護者から苦情の電話が来ることもあるらしいが、保育園の園長が理解のある人なので、かろうじて職を失わないでいる。子供たちからはとても好かれていると聞く。ほかの四人が突っ走りそうなときにブレーキの役割を果たすのが池垣だ。
 いちばん最後が、斎藤である。斎藤は、とにかく笑う。なにが面白いのかよくわからないが、なんでもかんでも冷ややかに笑い、面白がる。笑っていないときのほうが珍しいくらいだ。実家でリンゴの栽培をしているのを手伝っている。新鮮なリンゴをよくおすそ分けしてくれるので、リンゴが好きな茜としては嬉しい。
 茜は彼らをそれぞれ苗字で呼び捨てにしている。逆に、彼らは茜のことを、『茜ちゃん』と呼ぶ。全員、同い年だった。
「それで、茜ちゃんは、タイプな相手と付き合うか、それとも有名な相手と付き合うか、その選択に悩んでいるわけか」
 金沢が、わかりやく対立構造を明らかにした。タイプか、有名人か、という二項対立で考えるのもたしかに間違っていないが、問題はそんなに単純ではない。
 神崎明人への同情や、佐々木ミツルの才能への心酔なども考慮せねばならなかった。この選択問題の争点がどこにあるのか、茜自身、あんまり判然としていなかった。
「俺だったら、佐々木ミツルを選ぶかもね」
「お前、ホモだったのかよ」
 白石に素早く絡んでいく山田は、「でも、俺も、同じく、佐々木ミツルを選びそう」と付け加える。有名人から告白される一般人という構図は、おそらく多くの人が夢見るものである。しかし、現実にはほとんど起きない。そんなシチュエーションにいる自分は贅沢な悩みを抱えているとも言える。
「でもさ、有名人と付き合えるっていうのも羨ましいけど、幼馴染と付き合えるっていうのも、けっこう羨ましくない?」
 池垣が、枝豆をいじりながら意見した。
「僕なんか、異性の幼馴染とさっぱり会わなくなっちゃった身だから思うわけだけど、幼馴染とどうこうなるのって、憧れるよ」
 幼馴染か、有名人か、という争点で考えることもできるわけだ。幼馴染という属性もひとつの魅力を携えている。
 茜も、幼馴染であるからこそ、神崎明人に惹かれるという側面があるのは自覚している。人間はあらゆる情報を入手することはできないわけだから、あらかじめ特定の相手についての情報が頭の中に詰まっているなら、その相手を選びたくなるのは理に適っている。幼馴染と付き合うという発想は、自分に適した相手を探す労力を最小化するという意味でかなり経済的だ。
「どちらかを選べと言われたら、俺も幼馴染を選ぶな」
 にやにやしながら斎藤が口を開く。なにか言いたいことがありそうだと思い、茜は「斎藤、なんで?」とすぐさま訊いた。
「俺は、消去法で幼馴染を選ぶ。だって、佐々木ミツルって、なんだか信用できないんだよな」
「どうしてよ」
「あれ、茜ちゃん、知らない? 佐々木ミツルの都市伝説」
 そんなのは、聞いたことがない。そのほかの四人も一様にぽかんとした顔を浮かべていた。佐々木ミツルの都市伝説なるものの知名度はそれほど高くはないらしい。
「ネットの記事で読んだことがあるんだよ。悲しみの少女シリーズっていう作品群があって、それはもちろん知ってるよね?」
 茜は、素早くうなずいた。佐々木ミツル展のスタッフとして、そのような基本情報はすべて押さえていた。巷の噂まではカバーできていないが、美術界からの佐々木ミツル作品への評価についても大方頭に入っていた。
 悲しみの少女シリーズは、こちらを覗き込むような目をした同一の少女の裸体を描いた四作のことだ。モデルの有無も明らかにされておらず、佐々木ミツル自身もなにも打ち明けていない。
 悲しみを突きぬけたかのようになにかを見つめる少女の顔が、ありのままを見つめようとする力強さに満ちていて、心が震える。
「茜ちゃんに説明するまでもないと思うけど、悲しみの少女シリーズの代表作が『贖罪のファンファーレ』なわけ。発表された順に並べていくと、『罪と罪』、『贖罪のファンファーレ』、『地獄と悲しみの祭り』、『歪なパレード』という順番になるんだけど」
「そうね。どれも、Sasaki美術館に現在、展示されてる」
「そう、そのシリーズなんだけど、これらの作品群について、不気味な噂があるらしいんだよ」
 ふふ、と唇の端で笑い、斎藤は続ける。
「この四作、どれも少女の口の形が違うんだけど、読唇術に長けている人なら、なにの音を発しているか、母音だけならわかるらしいんだよね。『贖罪のファンファーレ』は『う』という口の形をしていて、『歪なパレード』は『え』という口の形をしていて、『地獄と悲しみの祭り』も『え』という口の形をしていて、『罪と罪』は『あ』という口の形をしている」
 そこまで深く読解したことはなかったが、茜も、悲しみの少女シリーズの少女たちの口の形がどれも違うのには気づいていた。茜には口の形から音を察する能力はないので、少しも思い至らなかったようだ。
「それでな、その四つの音を絵の発表された順番に並べていくと、『あうええ』になるわけ」
 ふふふ、と思わず笑いが零れた斎藤は、もうわかっただろ、というように、にやけた目をひとりひとりに向けていった。もちろん、茜にはわからない。長すぎる間を取り、全員の注意力が最大に高まったタイミングで答えを告げた。
「『あうええ』という母音の連なり自体はなにも意味しないが、悲しみの少女シリーズの作品のどれもに共通して記されている『TSKT』というローマ字と組み合わせれば、ちゃんとした言葉になる。『あうええ』――つまり『AUEE』という母音に、上から順に『TSKT』という子音を当てはめていくとだね……ちょうど、『TASUKETE』――つまり、『たすけて』になる。そう、助けて。そんな物騒なメッセージが込められているわけだよ」
「うわ、鳥肌やべ!」
 山田が大袈裟に驚いたが、いくらなんでも、あまりにできすぎた話だ。たしかに『TSKT』の文字列は謎だったが、暗号化したうえで作品に『たすけて』というメッセージを含ませる必要があるだろうか。
 そのように疑った茜だが、一方で、佐々木ミツルの遊び心だと思えば面白い。もしもそのように意図していたのであれば、用意周到に作品に暗号を忍ばせてしまう佐々木ミツルはなかなかにクールだ。茜には不気味とは思えなかった。
「だとしたら、なんで助けてっていうメッセージなんだろう」
 茜は、独り言ちるように疑問を口にした。それに対しては誰も答えなかった。
 そんな文脈の中で、佐々木ミツルと神崎明人の選択問題は、ミステリアスな人物か、深く知っている人物か、という争点でも考えられることに茜は気が付いた。
 佐々木ミツルについてはほとんどなにも知らないが、神崎明人については知りすぎなくらいに知っている。
 神崎明人にはたしかに挙動不審なところがある。おまけに目を合わせようともしないので、一見では怪しい人にも見えるが、「ただの視線恐怖症だ」ということを本人から聞いて知っている茜は気にならない。リスクを取りたくないなら、深く知っている神崎明人を選んだほうが賢明だ。
 一方で、深く知らないからといって、その相手が不審者になるわけでもない。ただ情報が非対称なだけで、佐々木ミツルについて深く知っていくと、神崎明人以上に他人思いな一面が見つからないとも限らない。ちょっとした冒険に出て、佐々木ミツルの奥深くまで探求するのもひとつの手だ。
 かなり難しい選択である。茜が悩んでいる間にも飲み会は続いた。そろそろお開きにしようかというとき、金沢が心配するような目を茜に向けた。
「上司から注意されたのなら、あれだな、飲み会に参加しにくくなるな」
「だね。そのうえ、明日からはほとんどの店が休業しちゃうわけだしね」
 茜は、がっかりしたように低い声を出した。新種のウイルスの蔓延の影響で、飲食店への休業要請が明日から始まる。どうにかして、緊急事態宣言下においても彼らと飲み会をする術はないだろうか。
 そもそも、Sasaki美術館だって、月に一度大勢が集まるパーティーを開催しているくせに、そのことを棚に上げて行動自粛を求められたとしても、なんの説得力もない。
 頭を悩ましていると、不意に、妙案が湧いてきた。
「ちょっと待って。いいこと思いついちゃった」
 茜は、にやりと笑った。バッチグー、と親指を立てた拳を乾杯でもするように金沢に差し出した。
 
 Sasaki美術館は、県境の山奥に位置するので、隠れ家のように世間の目から孤立している。さらに換気設備が整っているため、三密のうちの密閉には該当しない。およそ三十分で館内の空気が入れ替わるように設計してあるのだ。つまり、Sasaki美術館は飲み会を開くのに最適である。
 翌朝、Sasaki美術館に出勤すると早々に、茜は館長室に行った。すでに棚橋館長は館長室のテーブルにおり、朝からの雑務を熟しているところだった。
 茜がノックをして入室した瞬間には、ダルマのような巨体を椅子に預けていた棚橋館長の顔に不審の色が走った。それにもお構いなく、茜は、妙な自信を胸に抱いたまま、テーブルの前まで進んだ。自分の醜態を見られたせいか、わざわざ普段の自分を貫く必要性を感じず、やけに開き直った気持ちでいることができるのだった。
「なんの用だ」
「昨日お話ししていた飲み会の件なのですが」
 棚橋館長のたるんだ頬に力が籠る。茜は、生真面目な顔と声を持続させた。
「その件について、ちょっとした提案があるのです」
「では、聞かせてもらうよ。なんだね?」
「館長としては、学芸員の立場にある私に外で飲み歩いてほしくないという気持ちがあるのでしたね。一方で、私としては、仲のいい友達とどうしても飲み歩きたい気持ちがあります。その折衷案を探っていたのですが、いちばんいいのは、私たちがこの美術館で飲み会を実施することではないでしょうか」
 それは完全なる折衷案だった。美術館のイメージ悪化に尽力したい館長としては、美術館のスタッフがいかにも悪そうな仲間たちと異常事態の中で居酒屋で楽しんでいるのは見過ごせない。その解決案として、飲み会を実施しないことを求めたくなるのも理解はできる。ただ、論理が飛躍しすぎている。問題なのは誰かに見られることであり、であれば、誰にも見られなければ問題はない。
 幸いにも、Sasaki美術館があるのは、街はずれの山奥であり、そうそう誰もやってこない。ここで飲み会を開いたとしても誰も気づかないわけである。
 は、という口の形で固まった棚橋館長の反応を、呑気に待つほど暇ではない。茜は説得を続けた。
「私のような立場で申し上げるのも恐縮ですが、実際、この美術館では月に一度、Sasakiグループのパーティーが催されていると存じ上げます。大人数で集まるわけですが、いままで一度もバレていないはずです。そうであれば、私たちもバレずに飲み会をすることができるはずです」
 人生で唯一の楽しみと言ってもいい飲み会を、政府の方針によって奪われては溜まったものではない。
 自粛警察などをやっている人の多くは、もともとインドアだった人たちに違いない。そうでなくても、外で遊ぶ以外にもインドアな趣味でも持っているのだろう。茜はそろそろ自粛の圧力に限界を感じていた。他人の痛みをわかりもしないで、よくも一方的に正義感を前面に押し出し、傲慢な要求を言いふらすことができるものだ。ワクチンなど待っていたら、そのうちに発狂しかねない。
 棚橋館長は、あくまでも穏やかに言葉を選んだ。
「昨日も言ったばかりだが、山崎くん、君の気持ちは十分にわかるんだ。そりゃ、自分の楽しみを奪われて、それを横目に家の中でゲームで遊んでいるような連中のことを思うと、殺意だって湧くかもね」
 かなり無理をして合わせてくれているのが伝わってきた。どうやら、茜の提案を呑み込めないことを婉曲的に伝えたいようだ。
「世の中は残酷だ。たまたま適合している人が活躍するだけのシステムなのだし、そのうえ、そのシステムは変化する。時代とともに適合する人の種類も変わり、まさにいま、世の中に適合する人たちの大変異が起こっているわけだ。その中で取り残されていく人たちがいるのはどうしようもない事実だ」
 なにを言い出すかと思えば、いまさらあらためて確認するまでもない世の中の不条理だった。優れていないのではなく、適合していないだけ。茜はその真理を実感していた。佐々木ミツルは適合しているが、神崎明人はあまり適合していない。どちらかが優れているのではなく、ただ佐々木ミツルのほうを世界が求めているだけ。
 いま、残酷な世界の信号機が点滅している。急いで向こう側に進んでいかなければあっという間に取り残される。世界は優れた人が欲しいのではなく、世界自身が求めている人を欲しがっているだけだ。
 茜は、日々鬱積してきた思いがついに爆発しそうになるのを感じた。学芸員という殻に閉じ込められた自分の中に、その枠には収まりきらない人間としての単純な感情が苦しげに悲鳴を上げているのを感じる。怒りだ。
 あの日も、そうだった。どうしようもない不条理に身を打ちひしがれたあの日。
 茜の脳に、鮮烈に十年以上も前の光景が浮かんできた。小学生が遊んでいる公園。そこに中学生だった神崎明人が膝立ちをしている。その周りを取り囲んでいるのは複数の男子生徒。神崎明人は目を伏せ、恥じらうように体操ズボンを握っている。茜は公園の入り口のところで、たしかにあのとき止めに入ろうと決意を固めていた。しかし、次の瞬間、男子生徒のひとりが神崎明人の腹部を蹴りつけた。
 茜は息を呑んだ。神崎明人は、呼吸が止まったかのように、苦しそうに身悶えしていた。
 茜はひどく動揺し、気が付けば背中を向けて駆け出していた。あのとき一瞬、神崎明人と目が合った。佐々木ミツルが描く少女のように、なにかを超越してしまったような、真っすぐとすべてを見ようとする神崎明人の目が茜を貫いていた。
 神崎明人が、それから、どのような苦悶の日々を過ごしたのか、茜にはわからない。なにか異常な性癖が育っていたとしてもべつにおかしくはないと思えるくらい、あの現場は異常だった。
 茜が感じたのは、加害者への怒りではなく、その背後に佇んでいる世界の気紛れへの怒りだった。まるで、世界そのものが神崎明人にむかって「お前は要らない」と宣言する現場を目撃したような気分だった。
 誰かが優れているわけでもない。ただ、世界が気紛れに誰を求め、誰を求めないか、サイコロを振って決めているだけだ。会計システムが実用化されれば経理の多くがお役御免となるように、世界が求めているものは絶対的な価値観に基づいていない。ただの、その場限りの、ふざけた、気紛れだ。
 茜は、やり場のない怒りが込み上げてきた。誰かに対する怒りではない。それは自分たちが生きている場所に対する怨念だった。
 茜は感情の渦に身を任せていると、怒りが悔しさに変換され、悔しくて、悔しくて、涙が流れてきた。その絶好の瞬間を利用しない手はないわけである。茜は右腕で涙を拭いながら、荒い息を吐き出した。
「私の友達――ユウくんって言うんですけど、彼が引っ越すことになりまして。ずっと仲良くしていたのに、これからずっと会えなくなるから、寂しいんです。いまのうちにたくさん会っておきたいんです。けど、このような状況になり、せめて美術館を利用できないものかな、と思ったんですが」
 肩を揺らしながら、全力で涙を流す。すると、棚橋館長は、いつもの気丈さはどこへやら、女性を泣かしてはいけないという男としてのプライドが悲鳴を上げたのか、「わかった。もう、いい。許可するよ」とすぐに引き下がった。
「その代わり、山崎くんのほうから、佐々木ミツル氏には伝えとくようにね」
「といいますと、この美術館を利用していいんですね」
 茜は、感謝の笑顔を供給する。
「許可する。ちょうど、空いているんだが、明日の夜ということでいいかな。明日の夜、佐々木ミツル氏もアトリエに籠っているはずだから、飲み会をやることになったと彼に伝えといてくれ。佐々木ミツル氏が断ったら、それまでだ。この美術館の所有者は、実質的には彼なんだからね」
 茜は深々と頭を下げ、館長室を退室した。無理そうだったら、嫌なことを思い出して涙を流し、館長を泣き落とせ。そういう金沢からのアドバイスのおかげで、切り抜けることができた。
 それにしても、久々に自分の感情を溢れさせてみると、世界に翻弄されてきた人生だったのだな、と気が付く。自分の力で人生を切り開いてきたという実感に乏しいのは、ちょっとした不幸なのかもしれない。全能感とはほど遠いところをとぼとぼと歩いている自分が、惨めにも思えた。
 どうあれ、佐々木ミツルか、神崎明人か、どちらかを選べば、どちらかを断ることになる。自分も彼らにとっての世界の一部を形成しているのだと実感した。
 茜は気を取り直し、さっそく佐々木ミツルのもとへと向かおうと思った。ふと、ユウくんって誰、というツッコミが頭に浮かび、笑いが零れた。
 
 館内の奥の通路に、地下室へとつながる扉がある。常時閉ざされていて、佐々木ミツル以外、その中に入るのは禁止されている。茜は扉の前まで行くと、扉の脇に取り付けられたインターホンのボタンを押しこむ。防音設備のせいか、その扉の中で響いているだろう音は扉の外には漏れてこない。
 しばらくしてから、『誰?』という返答が来た。不機嫌そうな声だったが、カメラを通して茜の姿を確認したのか、『ああ、山崎さんか』と声が温和に切り替わる。
「ちょっとお話ししたいことがあるんですけど」
『例の件?』
「それとは違う件で」
『そうか。いま行くから、待ってて』
 それだけ言い終えると、通話は途絶えた。誰もいない通路に静寂が訪れた。深海のようだった。告白された件のせいか、緊張してきた。茜は扉の前で足踏みを始め、にわかに込み上げてくる緊張を鎮めようとしていた。
 いまから佐々木ミツルと対面するのだ。いちばん最後に佐々木ミツルと会ったのは、告白をされたときだった。
 告白の件について聞かれるかもしれないが、茜の気持ちはまだ決まっていない。佐々木ミツルか、神崎明人か、茜にはまだどちらかに偏ることができないでいた。その件については、なんとか誤魔化すしかないだろうと茜は考えた。
 ともかく、美術館での飲み会の件を承諾してもらわなければいけない。佐々木ミツルはかなり気分屋の性格だから、承諾してもらえるかどうか、不安が消えなかった。
 茜がそわそわと足踏みを継続していると、それほど待つことなく、がちゃりと扉が開いた。その短さが世界的な芸術家のフットワークの軽さには思えず、どこか非現実に迷い込んだような感覚がした。扉の中は短い廊下になっていて、その奥に地下へと続く階段がある。
 扉の中から顔を出したのは、館内ではあまり見かけることのない天才画家、佐々木ミツルだった。
 扉が開いたときから、なんとも言えない異質な空気が拡がっていた。佐々木ミツルの身体は目には見えない特殊ななにかをまとっているように見えた。黒一色で統一された服を着用しており、そのところどころに絵の具の汚れが付着している。青色の汚れが多いのはおそらく、現在書き進めている絵で青色を主に使用しているからなのだろう。髪の毛も黒で、もじゃもじゃと頭を覆っている。その目にはいつもと同じように黒いサングラスがかけられていた。
 佐々木ミツルはいつもサングラスをかけているから、その目を見たことは一度もなかった。反対にマスクはいつも装着していないので、口許は見えていた。
「で、なに?」
 佐々木ミツルは長身なので、その声は頭上から降ってきた。サングラスのむこうからじっと見つめられているのを感じた。茜は文法の規則を守ろうとする学生のように律義に笑顔をつくり、さっそく本題に入った。
「お願いしたいことがあるんです。実は、その、私の友達が……」
 ユウくんという架空の設定を口走りそうになり、すんでのところで堪えた。どういうわけか、佐々木ミツルの前では上手に嘘を吐けるような自信がなかった。茜は素直に白状することに決めた。
「実は、友達と美術館内で飲み会をやることについて、館長から許可をもらったんです。今日から、休業要請のせいで飲み屋が閉まっちゃうから。それで、その、佐々木さんからも許可をもらえないかなと思いまして」
「そんなことか」
 佐々木ミツルは、露骨に落胆を示した。
「いいよ、許可する。好きなだけ、飲めばいいんじゃない」
 想像以上にあっさりした反応だったので、茜はすぐに呑み込めなかった。まだ日時も告げていないのに。
 ひとまず、頭が追い付かないままで感謝を伝えると、佐々木ミツルは「いいよ、いいよ」と軽くあしらうように手を振った。茜の中で、ようやく許可してもらえたという実感が込み上げてきた。これで、いままで通りのストレス発散方法を手放さずにいられる。
「日付としては……」
「そんなことよりさ、例の件はどうなの?」
 容赦なく、避けたい話題に入り込んできた。茜は言葉が詰まってしまい、百円玉を誤飲したかのように動けなくなり、表情が歪んだ。佐々木ミツルは、そんな茜の反応を品定めするように見つめている――ように見えた。サングラスをしているので、実際、どこを見ているのかはわからない。
 うまく誤魔化せるだろうと甘く見ていたが、佐々木ミツルのどこか神々しいオーラの前に立つと、舐めたような態度を取りづらかった。佐々木ミツルは?発見器だ。
 茜を真っすぐに見つめているように見える佐々木ミツルは、とうとう腕を組んだ。半袖から伸びている長い両腕は白っぽくて繊細である一方、静脈が浮き上がっていて、力強さも感じさせる。
「山崎さんさ、もしかして、ほかの相手からも告白されてる?」
 どきっとした。心の中を見透かされたかのような不快感が駆け巡る。なにも答えられないでいると、「そうなんだ」と佐々木ミツルは納得を示した。
「べつに仕事のことは考えなくていいよ。告白を蹴ったからって、この美術館をクビになるなんてことはないから。でも、僕は正直いって、山崎さんと付き合いたい。絵のモデルにもなってほしいんだ」
 それは初耳の情報だった。茜は素直に嬉しくなり、感謝を伝えるようにうなずいた。ただ、それで難しい選択が終わるわけではない。
 茜がなにも言おうとしないのを見て取ると、佐々木ミツルは、「ちょっと館内を歩こうよ」と誘ってきた。ひょろ長い身体が通路に出てきて、すたすたと歩いていく。茜はその細くて長い背中に無言でついていった。
 佐々木ミツルが向かった先は、ホールから中に入ったところにあるブースで、ちょうど佐々木ミツル展を実施しているところだった。残虐趣味の絵画が並んでいる光景は異様であり、どこか幻想的だった。
 佐々木ミツルは真っすぐにあるひとつの絵のところに進んでいって、その絵の目の前で立ち止まった。ぶらりと力なく垂れた長い両腕が造り物めいて見えた。茜も、佐々木ミツルの隣に並んだ。
 それは『眼球の点滅』だった。
「僕はね、小さいころに両親を亡くしてるんだ」
 それは茜も承知していた。佐々木ミツルの両親はふたりとも、彼が小学生のころに死んでいる。SasakiグループのSasaki探偵ネットワークは、昔から探偵業で稼いでいる。その調査員に不倫を暴かれて逆上した三十代の男性が、当時Sasaki探偵ネットワークの代表取締役を務めていた佐々木ミツルの父とその妻を殺害した。佐々木ミツルは殺害事件の一部始終を目撃している。
 重いものを抱えているのは神崎明人だけではないというわけである。
「真夜中の交差点だった。急にパパが倒れてね、振りかえると、男が立っていて、血で濡れたナイフを持っていたんだ。そのナイフで今度はママが刺された。青信号がぱちぱちと点滅していたのを覚えている」
 佐々木ミツルの目は真っすぐに『眼球の点滅』を見つめていた。この絵は、彼自身のトラウマを描いたものなのだろうか。茜が訊けずにいると、佐々木ミツルは何事もないかのようにくるりと身体を回し、大股で歩き去っていった。
 それだけ。なにが言いたかったのだろうか。茜はもう佐々木ミツルの背中を追わなかった。

 帰りの車の中、茜の頭にはまだ迷いが残っていた。佐々木ミツルか、神崎明人か。どちらと付き合えばいいのだろう。なんとなくの感覚で、この機会が自分にとって最後の青春であるような気がしていた。もしかしたら、ここで選んだ相手と結婚することにもなるかもしれない。
 小さいころ、茜は神崎明人が好きだった。その当時なら、告白されたことを喜んですぐさまOKを出したと思う。しかし、そんなのは子供の短慮だ。どんな人間にもいい面もあれば悪い面もある。気分だけで選択するような年齢ではない。
 だからといって、深く考えれば相手の本質が見えてくるわけでもない。結局のところ、付き合う相手を選ぶのには多少なりとも賭けの要素を回避できない。たしかに神崎明人のことは深く理解しているが、知らないままの側面も数えきれないだろう。人生の選択はゲームだ。
 茜は、だんだんと悩ましい気持ちが肥大していって、選択を楽しむ余裕はなくなってきた。もう数日も待たせている。これ以上待たせるのは、勇気を振り絞って告白をしてきた相手に対して失礼だ。
 がたがたとした山道を進んでいく茜の頭に、神崎明人の顔が浮かんできた。視線恐怖症のせいで、大人になってからは、目が合ったことはない。小さいころに目を合わせた記憶があるくらいだ。告白をしてきたときも目を合わせなかった。頼りがいという意味ではあまり期待できないが、恥じることなく、たくさん優しい言葉をかけてくれるところがいい。
 神崎明人は、告白のとき、次のように話していた。
『僕は強くはないよ。男らしくもない。変なところがあるのも自覚している。たくさんの他人から嫌われているのも、嫌なくらいに知っているよ。でも、山崎さんが好きです。それだけです』
 せめて目を合わせて話してもらいたかった。そしたら、その場でOKを出せたかもしれない。茜は悔しさを感じた。神崎明人と付き合いたい気持ちはあるが、どこまで信じていいのかわからない。告白のときも全力だったかもしれないが、もっと心を開いてくれないとこっちだって信用できないよ……。
 そんな注文をするのは、茜の猜疑心のせいか。これは茜の問題なのか。本当はもう答えは出ているのではないか。なにを迷っているんだ。茜は自問自答を繰りかえした。
 車中に流れているラジオが、最新のニュースを読み上げていた。
『今日昼頃、市内のホテルの一室で、一体の変死体が発見されました。警察の発表によりますと、性別は女性、年齢は二十五歳の、市内在住のOLです。発見された当時は全裸で、腹部に無数の刺し傷があり、ふたつとも眼球が抉り抜かれていたとのことです。同室内からは眼球は発見されておらず、犯人が持ち去ったものと思われています。その部屋は女性名義で宿泊契約が結ばれており、犯人は不明のままだということです』
 猟奇的な殺人事件のニュースを聞き流しながら、茜はふと気になることを見つけた。
 いつも佐々木ミツルは黒いサングラスをかけているが、なんのためだろう。サングラスをかける目的は基本的に日光の眩しさを軽減するためだが、一日中地下室に籠っている佐々木ミツルにとって日光など、なんの脅威でもないはずだ。
 人によっては、視線の動きを見られたくないからサングラスをかけるという場合もあるだろう。視線というのは著しい個人情報であるし、多くの場合、目は本人の意思よりも敏感に動く。それを隠したいというのは自然な反応だ。しかし、佐々木ミツルは、それほど繊細なタイプには見えない。
 なにを見ているのか、隠そうとしているのではないか。サングラスをかければどこに視線を向けてもバレない。いったい、佐々木ミツルはなにを見ているのか。
 考えすぎだろうか。茜は不意に、斎藤が話していた都市伝説を思い出した。悲しみの少女シリーズにひっそりと隠されていた『TASUKETE』というメッセージ。あれはいったい、なにを意味しているのだろうか。佐々木ミツルは、どうして助けを求めているのか。それとも、ただ単に暗号を隠すという遊びをしているだけなのか。
 考えれば考えるほど、疑いは止まらない。疑いを増やしていった先に待っているのは闇だ。闇の拡がりは神崎明人のほうが少ない。
 やはり、情報量が多いというポイントにおいては、神崎明人を選択するのが安全だ。どんな人物なのか、どんなものが好きか、どんなものに心が動くのか、ほとんど把握できている。一方で、佐々木ミツルはさっぱりわからない。ふたりだけで話した経験さえ数えるほどしかないのだから、当たり前だ。リスクを取りたくないなら神崎明人を選択したほうがいいわけである。
 しかし、その考え方は不平等でもある。情報量が少ないからといって佐々木ミツルを選択しないのは、ただのこちらの都合だ。
 茜は、考えを進めていくうちに混乱していった。漫然と考えているだけではなにも解決しないが、かといって、箇条書きをするように考えたところで望ましい結果が得られるわけでもない。
 最終的には、どっちに心が動くか、そこだろうか。ふたりとも魅力的だ。どちらにも心は動くわけだが、あえてどちらかを選べというのなら……。
 茜は、考えつづけた末に、ついに結論に達した。

 さて、ついに、ひとつめのターニングポイントを迎えた。読者に与えられた選択肢は、佐々木ミツルと付き合うか、神崎明人と付き合うか、である。それぞれの選択肢の先には、まったく別の物語が待っている。
 念のために確認しておこう。佐々木ミツルと神崎明人のどちらか一方は筋金入りの危険人物である。ハッピーエンドを掴むためには、危険人物を回避し、安全人物を二回選択しなければいけない。この一回目の選択ポイントにおいても、安全人物を選択しなければいけない。
 どちらが安全人物だろうか?
 答えが決まったなら、さっそく、物語の続きへと進もう。

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