【ゲームブック小説】眼球の点滅③-B

 あなたは神崎明人を選択しました。


   三のB

 茜は決断した。スマホをポッケに仕舞い、研究室を出る。そのときには、すでに佐々木ミツルが提示した制限時間を超過していた。向かった先は佐々木ミツルのアトリエではなく、神崎明人が待つホールだった。
 廊下を進んでホールに出ると、円を描くように並べられたそれぞれのテーブルの横に、金沢たちが佇んでいた。会話が弾んでいるわけでもなく、空気は淀んでいる。四方の壁には、真っ白いライトに照らされて、神々しく佐々木ミツルの作品が並んでいる。
 茜の目的である神崎明人は、汚れた『贖罪のファンファーレ』の前に立ち、その絵を見つめていた。
「茜ちゃん、もう決まったの?」
 いつものような能天気さはどこへやら、白石が、様子を窺うように訊ねてきた。茜がその声に答えるより先に、神崎明人が振りかえった。いつもの視線恐怖症はどうしたのか、神崎明人と視線が交錯していた。
 茜は、薄っすらと笑いかけ、神崎明人を見つめたままで答える。
「もう決まったよ」
 それから、直線で神崎明人のもとへと進んでいった。全員の視線を感じながら、茜の心は浮き立っていく。この瞬間は最高だ。誰かを喜ばせるために自分が存在していると思えるだけで、心が満たされる。少なくとも、神崎明人にとっては、茜は存在意義を持っているのだ。
 茜が近づいていく間、神崎明人は目を逸らさなかった。その代わりに、緊張したように上目遣いになっていった。どんな言葉が飛び出してくるのか、身構えているようだ。茜はソーシャルディスタンスを無視して神崎明人のパーソナルスペースに侵入すると、飛び切りの笑顔で告げた。
「私は、神崎くんを選びました。これからも、よろしくお願いします」
 神崎明人の顔から緊張が抜けていって、みるみるうちに笑顔になった。花の成長を捉えたタイムラプス動画を見ているかのようだった。
「本当だね? 僕でいいんだね?」
「はい」
 茜は、わざとホールに響くような大きな声で答えた。それはキャビンアテンダントのような声だな、と自画自賛したいくらいの美しさだった。
「私は、神崎くんが好きです。いろいろ紆余曲折があったけれど、もう迷わないと決めました」
 それは茜の本心だ。一度、佐々木ミツルを選択したのは、茜の間違いだった。本当に好きなのは、ずっと神崎明人だった。このまま佐々木ミツルと付き合っていたら、のちのち後悔していただろう。本当の気持ちに気付けたのは、幸いだった。
 茜は、神崎明人の笑顔を見つめていた。ふたりの間にふたたび幸せな気持ちが共有されているのが感じられた。抱きしめたいくらいだったが、お互い、そこまでやるのは躊躇していた。
「もう、時間は?」
 神崎明人が、ホール内を見回した。時計を探したのだろう。生憎、ホール内には時計はないので、代わりに、茜はスマホを取り出した。
「いま、三十分過ぎ。もう、佐々木ミツルとの約束の時間は過ぎた」
「あの人には、伝えなくていいの?」
 その問題には、茜も気づいていた。一度は付き合うことに決めた相手である。すでに失礼な扱いはしているのだから、まして、このまま無言で立ち去るのなら、さらに無神経な女になるだろう。茜は、佐々木ミツルにも誠意を込めて返答するつもりでいた。
「あとで。心の準備を整えてから」
 断るのには精神力が必要だった。神崎明人は納得を示した。
「それじゃ、とりあえず、これで僕は山崎さんと付き合えるんだね。二股もなく、純粋な関係で」
「うん。その件は、ごめんなさい」
 茜は、軽く頭を下げてから、ずっと気になっていたことを訊いた。
「そういえば、神崎くん。視線恐怖症はどうしたの?」
 視線恐怖症のせいで誰かと目を合わせることができないはずの神崎明人が、今日になって、急に抵抗なく視線を合わせるようになったのが、ずっと引っかかっていた。そんなにすぐに改善できるものだろうか。
 神崎明人は、右手の人差し指で自分の右目を示した。
「ああ、これ? なんでもないよ。ちょっとしたことがあって、改善したんだ。みんなの前では恥ずかしくて言えない」
 なにか、理由があるらしい。どのように視線恐怖症を克服したのか、それは気になるところだったが、どうしても聞き出したいほどの情報でもない。茜は、それ以上、その話題には触れないことに決めた。
 なにをすればいいかわからないまま、ひとまず、茜は神崎明人と握手を交わした。神崎明人の右手は体温が籠っていて、その心の温かさを示しているかのようだった。お互いの目を見つめながらの温もりのあふれた握手だった。
 そのときになって、ふたりの様子を見つめていた六人が、思い出したかのように拍手を始めた。広いホールに六人ぶんの拍手の音が響いて、開放感に満たされた。
「終わりよければすべてよしって話よ」
 白石が、陽気に言い出した。
「人間なんてふらふらする生きもんだ。大事なのは、ふらふらしないことじゃなくて、ふらふらしたあとにどうするか、だよ。そうだろう、茜ちゃん」
「白石に言われても、ピンとこないね」
 茜は、笑いかける。
「でも、ホント、よかったぜ」と声を上げたのは、山田だった。「おめでとうね」と生け垣が言うと、「今度はビールをこぼすなよ」と斎藤が念を押した。早川少年はなにも言わずに、ただ、にこにこしている。『贖罪のファンファーレ』からいちばん離れたところにいる金沢も、みんなに続いて声を上げた。しかし、それは祝福の言葉ではなかった。
「水を差すようで悪いけど、俺は反対」
 金沢は、テーブルから離れて、輪の中心へと進み出てくる。冗談が一ミリも混入していないような鋭い視線を茜に向けてきた。
「俺はいろんなやつを見てきたから、相手がどんな人物かを見抜くのは得意だ。そんな俺によれば、佐々木ミツルは安全な人物じゃない。あいつを見捨てたら、どうなるか、わからない。ひとまず、一時的には佐々木ミツルと付き合ったほうが丸く収まるんじゃないかというわけだ」
「それはどうかな」
 声を上げたのは、池垣だった。金沢は、神経が苛立ったように素早く池垣を睨み、池垣に近づいていく。
「ソーシャルディスタンスにはご注意ください」
 池垣は、冗談めかして注意したが、金沢は止まらなかった。
「そもそもは、お前のせいだろ。お前にごちゃごちゃ言う権利はない」
 いまにも掴みかかりそうだった。そんな金沢から逃げるように、池垣は後ずさり、かろうじてソーシャルディスタンスを維持していた。あくまでも金沢と距離を取ったままで生垣は語る。
「絵を汚した件は本当に悪いと思ってる。申し訳ない」
 素早く全員に目を走らせて、低く頭を下げた。次に顔を上げたときには、ようやく立ち止まった金沢を見つめていた。
「でも、俺にも言わせてほしい。佐々木ミツルは『贖罪のファンファーレ』を灰にするしかないんだ。だって、あの絵はもはや佐々木ミツルの秘密を明かすものでしかない。秘密を知られたくない佐々木ミツルには、あの絵を残しておく必要などないし、むしろ進んで燃やしたいはずだ。絵のことは心配しなくてもいい」
「論理的には、そういうことになるな」
 金沢は、鼻で笑った。
「でも、生憎、人間は感情で動く生き物だ。一時的にでも佐々木ミツルとの関係を継続させたほうがいい」
「だったら、二股すればいいんじゃないですか?」
 池垣と金沢の対立に口を挟んだのは、早川少年だった。得意げな顔を浮かべている。
 なにを言い出すのか。茜は、不快に思った。二股を解消するためにもう一度選択したのに、ふたたび二股に戻れというのか。それはあまりに本末転倒である。
「それはちょっと違うけれど」
 茜は、早川少年を制してから、金沢に目を向けた。
「佐々木ミツル自身が絵については考慮しないでくれ、と言ってくれたんだから、そこまで心配する必要はないと思う」
 その茜の意見には、賛成の声が集まった。金沢は、みんなの様子を確認すると、不承不承にうなずいた。ただひとつ、「どうなっても、俺は知らない」という不気味な一言が付け加えられた。

 神崎明人とふたりきりになりたかった茜は、そのあとすぐ、神崎明人とともにホールを出た。
 向かった先は、研究室だった。研究室の照明をつけ、飯島が使っている椅子に神崎明人を座らせて、茜は自分の椅子に座った。神崎明人がマスクを装着しているのを見て、茜は自分がマスクを外したままでいたことに気が付いた。慌てて、ポッケに仕舞っていたマスクを装着した。
「ごめんね、忘れてた」
 神崎明人は、いいよというように右手を振る。その目は、優しく笑っていた。
「ここ来るの、はじめてだよ。ここで、いつも仕事しているんだね?」
「そう。私の仕事場」
 茜は、周りを見回した。相変わらず整理整頓された部屋だった。だからこそ神崎明人とふたりきりになるのに最適だと茜は考えたのだった。
「僕の仕事場は、だいたい、地裁だね。地裁はすごく静かなところだから、わりと性に合っているんだよ。今度、一緒に行く?」
 茜は、笑った。
「そんな厳かなデートは勘弁してほしいかも。でも、ちょっと、気になる。裁判なんて見る機会ないし」
「ぜひ、おいでよ。いろいろな事件を見ていると、どんなに恐ろしい事件だって、結局は人間がやってることだって気づけるよ。さまざまな要因が複雑に絡み合って事件として表出している。中には悲しい事件も多い。浮かれながら生きれることがいかに幸せなのかということについて、実感できる」
 その文脈で、神崎明人は、最近あったという露出狂の裁判について説明を始めた。話題の選び方が独特なのは、昔から変わらないところだった。
 神崎明人によれば、その刑事裁判での被告は、若い女性の前での露出を継続的にいろいろな場所でおこなっていたようだ。
 神崎明人は補足をするように、性的被害に遭った女性がいかに苦しい道を辿るのか、人生がどれほど狂わされるのかについても力説していたが、あくまでも興味の対象は露出という行為そのものにあるようだった。
「性欲だと勘違いされることが多いようだけど、本人たちが言うには違うらしいんだ」
 茜は、まさに、性欲だろうと思っている口だった。
「性欲じゃないなら、なんなの?」
「優越感とでも言えばいいかな」
 神崎明人の頭の中でも、それほど明確に理解されているわけではないらしい。
「僕は、その話を聞いたときに、なんとなく理解できた。たしかにそれは性欲じゃないなって思った。お前に勝った、という優越感みたいなものなんだ。つまり、『お前にはできないだろ』という明確なメッセージ性を含んでいる犯行だ。『俺には、こんなに気持ち悪いことができる。さあ、お前はどうだ?』という優越感」
 神崎明人は、「あくまでも、僕の持論に過ぎないけど」と断りながらも、話を続けた。
「この世界――あるいは、日本では、気持ち悪い自分を晒せる人は偉い、という謎の価値観が存在している。裸踊りをしたり、自虐したりすれば、笑いが取れる。露出狂というのはべつにしてもだよ、自分の尊厳を傷つけることを神聖視するような空気で満たされているように感じてしまってね。そんなの、気にならない人が多いのかもしれないけど、そういうのに傷ついている人たちが露出という行為にたどり着いたりするんじゃないかなんて考えた」
 それを出発点にして、神崎明人の話は膨らんでいった。
「その線で考えていくと、猟奇的な殺人というのもひとつ、気持ち悪いからこそ優越感が得られる行為なのかもしれない。それはたとえば、衆人環視の中で排便をするのと同じで、それを見ている人に一方的な敗北感を植え付けられる行為なんだ。そして、見逃してはいけないのは、気持ち悪い自分を晒せる人は偉いという価値観の源流は、おそらく、お笑いなんだね。つまり、僕は思うんだけど、殺人というのは笑いの延長線上に位置しているんじゃないか」
 ――殺人は笑いの延長線上に位置している――。誰かを笑わせるための価値観が回りまわって殺人を誘発したとでもいうのだろうか。
 神崎明人は、しばし言い淀むように口を閉ざしてから、覚悟を決めたように口を開いた。
「ちょっと話は変わるけど、僕は、露出狂にならないように注意したいと思っている」
 茜は、面食らった。冗談には聞こえない。
「それって、どういうこと?」
「そのままの意味だよ。僕は、あの露出狂の裁判を傍聴しているときに、気付いた。その被告と同じようなものが僕の心の中にもある。気持ち悪い自分を晒すべきだというバイアスが胸の底にある」
 神崎明人は、器用そうに指を組んでから、種明かしをするように告げた。
「僕は露出狂と似ている」
 ついに明言したので、茜は、反応に困った。
「でも、似ているのと、同じなのは、だいぶ違うよ」
「それでも、重く受け止めたほうがいいよ。僕の中には『露出をしなければいけない』という義務感が存在しているんだから」
 咄嗟のフォローも、脆く崩れた。神崎明人は、テーブルに両肘をついている。茜に横顔を見せながら、ちらちらと気にするように茜に視線を送っていた。
「僕がこんな精神構造になったのは、おそらく、いじめのせいだ。いじめというのはありのままを覗き込もうとする行為だから、覗きだ。なんで、みんなは、わざわざ僕を覗き見ようとしたのか。そんなの、簡単な問いだね。僕が自ら露出してくれないからだ。僕が中身を打ち明けようとしないから、ならばこちらから覗いてやろうという気持ちになった。実際、覗かれた。恐怖の顔も、悲しみの顔も、裏の顔も全部。だから、そのときから、僕の中で『露出しなければ、痛い目に遭うぞ』という脅しが機能するようになった。でも、僕は嫌だよ。僕の聖域を死守したい」
 そういうことか。茜は、そのときになって、ついに神崎明人の精神構造がはっきりと理解できた。
 神崎明人は、中学生のときにいじめられたその原因を、他者の前で自分を出さない性格に求めている。そのため、露出―気持ち悪い自分を晒すこと――が解決策だという考えに至った。神崎明人にとっては、お笑いというのも露出の一形態なのだろう。お笑いをしなければ、またいじめられるという恐怖を抱えている。
 思考の罠に陥っているのだ。本人が自分で気づくのは難しいだろう。茜は、神崎明人が必要としている言葉を見抜いた。
「あんなバカたちの真似なんてしなくていいんだよ。そのままの神崎くんが私は好き」
 その言葉を伝えるために神崎明人と付き合ってきたのかもしれない。神崎明人は、茜のほうに振り向いて、固まった。思いもよらない言葉に出会ったかのように、半開きの口の間抜けな顔だった。
 しかし、思い込みなど、そう簡単に解けるものではないらしい。神崎明人は、半開きだった口を一度だけ閉じ、唇を前歯で噛んでから、ぱっと口を開いた。
「周りにいる人たちはみんな、冷や汗を流すくらいの緊張感で笑いを演出しているように見える。露出をしながらね。その中で、僕だけ、取り残されているんだ」
 頼りない声だった。露出を神聖視しているのは、世間ではなくて、むしろ、神崎明人のほうだ。茜は、自信を込めて続けた。
「感覚がズレてる。大事なのは、適度かどうかだよ。神崎くんはいじめっ子たちの影響を受けすぎているだけだよ」
 殻を破るという言葉がある。神崎明人の場合、破らなければいけない殻と、破らなくてもいい殻を混同している。神崎明人の経験が常軌を逸しているから、一般的な感覚が身についていない。
「僕には、ズレているとは思えない。いつも思うんだ。誰かと一緒にいるときに、もっと露出しなければいけないって。でも、僕はなにもできない。子供みたいだ」
 もはや、いじめが内在化している。いま現在、神崎明人をいじめているのは、神崎明人自身だ。尊厳を崩そうとする衝動――いじめっ子たちが神崎明人に降り注いだもの――が、内向きに働いている。
「不思議なことに、こういう報われない気持ちは、殺人でもすれば、すぐに解決しそうな気がする。具体的な露出も、そのひとつ。この劣等感は、そういう明瞭な行為によって優越感に置き換えるのがほとんど唯一の解決策だ」
 殺人衝動を抱えているという言葉の具体的なところは、そういうことだったわけか。茜は、納得し、さらなる言葉を躊躇した。
 神崎明人は、さっと目を逸らして、「なんていうのは、半分、冗談だけどね」と口の端を笑わせた。
 茜は笑えず、そのまま、静寂が落ちてきた。冗談だとは思えなかったが、かといって、それ以上、真面目に言葉を続けることもできなかった。茜がなにを言おうとも、頑丈な思い込みを崩すのは無理だ、という徒労感があった。
 神崎明人は、ちょっと焦った様子で早口に、言葉を続けた。
「僕は、佐々木ミツルにも似たものを感じる。絵画っていうのは、ある意味、露出行為だし。他人の評価を憚らずに、グロテスクなものを描けるのは、鑑賞する人に圧倒的な敗北感を与えたい欲望のような気がしてね」
 たしかに、有無を言わさずグロテスクなものを突き付ければ、少なからず優越感には浸れるかもしれない。「それは、とても興味深い話だね」と茜はうなずいた。
 それからは、何事もなかったかのように雑談に移った。好みや性格はお互いに把握しているつもりだったが、話してみると意外と知らないことがあるのに気付いた。たとえば、神崎明人が流行りの音楽に興味がないこととか、欠かさず見ているユーチューブのチャンネルとか。
 神崎明人に関する新しい情報が頭に流れてくるにつれて、神崎明人の心に近づいているような気がした。
 雑談の途中、神崎明人はふと思い出したように言った。
「でも、本当にありがとう。もしもまた選ばれなかったら、僕はきっと、また山崎さんを説得しに行っていたよ」
 それほど強い思いを抱いてもらえるのは、幸せだった。
 それからも、雑談が続いた。茜たちの雑談が盛り上がっていたころ――ちょうど研究室にやってきてから十五分くらいが経過したころ――だ。不意に、研究室の扉が開く音がした。誰かが来るのは想定していなかった。茜も神崎明人も黙り、扉のほうに振りかえった。そこから顔を出したのは、早川少年だった。
「お取込み中のところ、失礼します。ちょっとお話したいことがあるのですが」
 中学生とは思えないような丁寧な言葉遣いだった。神崎明人が「そういえば、この子は誰なの?」と訊くので、茜は早川少年について軽く紹介した。家出中の中学生で、金沢たちに拾われて美術館までやってきたのだ、と。それ以外の詳細はわからない。佐々木ミツルに金沢が説明していたのがすべてだった。
「家出か。ちょっと懐かしい」
 神崎明人は急に回顧をはじめたようだったが、早川少年は、それに付き合うつもりもないらしい。神崎明人には一切興味がないようだ。茜だけにまっすぐと目を向け、扉の前に佇んだままだった。
「ちょっと思いついたことがあるので、お話したくて」
「金沢たちじゃ、ダメなの?」
 話し相手なら、ホールにたくさんいるだろうに、というのが茜の正直な疑問だった。
「だって、あの人たち、あんまり理解してくれないんですから」
 それはたしかに言えていた。大袈裟に反応はしてくれるだろうが、その話の内容については適当に聞き流されるのが目に見えている。
「どんな話なの?」
「無差別な殺傷事件をモデル化してみたんです。その行動原理を合理的な観点から解き明かせるんじゃないかと思いまして」
 早川少年は、マスクをしていない。茜たちへの配慮のつもりなのか、室内に入ってこようとはしなかった。
「面白そう。聞かせてよ。神崎くんもいいよね」
 神崎明人に振り向くと、小さくうなずいてくれた。
「いいよ。僕も気になる」
「じゃあ、お話します」
 早川少年は、得意げに胸を張った。
「これは単純な思考実験なのですが、まずは条件を導く必要があります。ここで考えたいのは、誰かに害を被った人が復讐する状況です。ひとつめの条件は、自分を不幸にした人を殺さなければいけないということ。しかし、これには制約条件があります。ふたつめの条件は、誰が自分を不幸にしたのかを特定できないということです」
 つまり、誰が自分を不幸にしたのかわからない中において、自分を不幸にした相手を殺害するというのが問題の全体像というわけだ。
「なんで、誰が自分を不幸にしたのか、把握できないの?」
 茜が訊くと、早川少年は当たり前のように答えた。
「実際には、そういうケースが一般的じゃないかと思います。自分が不幸であるとき、その原因を誰かひとりだけに限定するのは、よっぽど難しいです。あらゆる人に関する経験が最終的にその人を不幸にしているんですから」
 追い詰められたときほど、たしかに、誰を殺せばいいのか、わからなくなるのかもしれない。
「これは、さきほどの密室のお話の枠組みを利用して考えることができます。ある密室の中で、ひとりが殺されました。その密室の中にいた五人の中に犯人がいますが、誰が犯人であるか、わかりません。この状況はまさに、誰が犯人であるかわからない中において、犯人を殺害するにはどうすればいいか、という問題を浮き彫りにしています。実は、この問題の最適解は単純です。犯人がわからないときに犯人を確実に殺す方法はひとつしかありません。つまり……」
「全員を殺すのね?」
 茜は、なぜか、寒気が走るのを感じた。早川少年は、細長い目を笑わせる。
「そういうことです。全員を殺せば、確実に犯人に復讐できる。この考え方を無差別殺傷にも応用できるような気がするんです。できるだけ多くの人を無差別に殺せば、その被害者の中に自分を不幸にさせた原因がいるかもしれない。もしもそうであれば、復讐に成功する。そういう理屈なわけです」
 そのように考えると、できるだけ大勢を殺したほうが復讐は成功しやすい。大規模なテロが起こるのは、インパクトを与えるためであるような気もするが、こちらの理屈から説明することもできるかもしれない。できるだけ大勢を殺せば、復讐が実る確率が上がるというわけだ。
 次から次へと変なことを考える子だなとも思いつつ、茜は、冷たいものが心にへばりつくのを感じた。その正体が、わからない。
 ただ、神崎明人がなんでもないかのようにつぶやいた言葉が、その正体を雄弁に語っているような気がした。
「『贖罪のファンファーレ』を汚したのが誰か、わからない佐々木ミツルは、僕たち全員を殺せば、復讐に成功するっていうわけだね」
 もちろん、それはちょっとした冗談だった。

 ふたりだけの時間も過ごせて満足したので、その勢いに乗って嫌なことも片付けようかという気持ちになった。そんな茜は、研究室の扉の前で神崎明人と早川少年のふたりと別れると、美術館の奥へと向かった。
 佐々木ミツルからの誘いを断らなければいけない。少々気が重くなったが、避けては通れない道である。時刻は十一時過ぎだった。廊下を進んでいって、いちばん奥にある真っ白い扉の前まで行く。
 インターホンのボタンを押し込む前に、深呼吸をした。思えば、佐々木ミツルからの誘いに答えたのは今朝のことだった。それから紆余曲折を経て、最終的には佐々木ミツルとの交際関係を終了させる決断に至った。とても一日の出来事とは思えないくらい、濃厚な一日を過ごしたものだ。
 茜は、覚悟を決めると、インターホンのボタンを押し込んだ。すぐには出てこなかったので、もう一度、押した。それでも、反応がない。届いているかどうかはわからないが、「佐々木さん、山崎です」と声も出したが、それにも反応はなかった。
 なにか、大変な事態が起こっているのではないか。茜の中で嫌な予感が増幅してきたときだった。
『あ、山崎さん。ごめん』
 佐々木ミツルの声だった。インターホンの装置にはカメラが取り付けられているので、茜の様子は佐々木ミツルに筒抜けだ。反対に、佐々木ミツルの様子はわからない。沈み込んだ声の調子からすると、素敵な気分でないのは明らかだった。
 小型カメラの前で、茜は礼儀正しく頭を下げた。勢いで言おうという気持ちが固まったので、茜は、単刀直入に言った。
「約束の件なのですが、いままでの関係を続けていきたい……」
『いいんだよ、山崎さん』
 佐々木ミツルの声に遮られた。茜は、佐々木ミツルへの申し訳ない気持ちもあり、強引には言葉を続けられなかった。その間隙を見逃さじとするかのように佐々木ミツルは早口で語りだした。
『なんとなく、わかっていたよ。山崎さんは彼のことが好きなんだろう、と。でも、一度だけでも僕を選んでくれたのは嬉しかった。恨むつもりもない。でも、少しだけ話をさせてほしい』
 機械から流れてくる佐々木ミツルの声にはノイズが混じっていた。そのせいか、佐々木ミツルの声が涙声のように乱れているように感じられた。
 茜は、無言を貫くことで、了解を示した。
『いまから話すのは、ちょっとした作り話だ』
 佐々木ミツルは、僅かな間を置いた。
『ある王国に、ある有名な画家がいました。彼の作品は王国の中で高く評価されていました。でも、その画家の心はいっこうに満たされませんでした。画家はいつまでも初恋を忘れることができず、初恋の相手を振り向かせるために絵を描いていたのですが、その初恋の相手はすでに結婚して幸せな家庭を築いていたのです。画家にとって世間から褒められようと貶されようと、そんことはどうでもいいのでした。初恋の相手と結ばれないことがなによりも苦痛でした』
 童話のような物語だ。佐々木ミツルは、そんな作り話に乗せて自分の気持ちを伝えたいのだろうか。
『ある日、画家は、ある噂を耳に入れました。画家の初恋の相手が、その画家の作品を悪く言っているというものでした。その噂の真偽はわかりませんでしたが、画家はすごく傷つきました。王国の中の何人に評価されようと、初恋の相手に評価されなければ、意味がありませんでした。思い詰めた画家は、自殺を決意して、王国のいちばん高い建物から飛び降りました』
 ショッキングな結末である。茜の心に重いものが生じた。
『王国の人たちは、この事件を不思議に思いました。どうして、あれだけ成功している人が自殺しなければいけないのか。画家の遺書には、このように書いてありました』
 十分な間を取り、静寂に言葉を乗せるように告げた。
『この眼球では、あの人しか見えなくなりました』
 ありがちな言い方だなと茜は思ったが、その言葉が具体的なイメージを伴って頭に浮かんできたので、気味の悪さを感じた。頭に浮かんできたのは、佐々木ミツルの隠れた名作である『眼球の点滅』である。あの絵はひょっとして……。
『以上だ』 
 それきり、佐々木ミツルの声は聞こえなくなった。まるで、問題文だけ読み上げて、解説をせずに立ち去られたような気分だ。まったく釈然としない。できれば解説をしてもらいたかった。
 とはいえ、解説がなくても、なんとなくの理解はできた。おそらく、佐々木ミツルは盲目になるほど恋をしていると告げたかったのだろう。『眼球の点滅』は盲目になった恋心を描いていたのかもしれない。
 茜は、なにも言えず、無言のまま、白い扉の前を離れた。心の中に、息苦しさが生じていた。佐々木ミツルが抱えている苦しみが、茜の中にも少しだけ流れ込んできたかのようだった。

 茜は、神崎明人たちの待つホールに戻った。佐々木ミツルの独特な世界観の作品に囲まれたホールは、それ以上、飲み会を続けるような空気ではなかった。泥水に沈んだかのように重々しい。
 佐々木ミツルの絵を汚したというハプニングは、愉快な気持ちを咎めるくらいの役割を果たすのには十分だった。神崎明人は『贖罪のファンファーレ』の前に立ち、背景の写真が露出している箇所に顔を近づけて凝視していた。
 金沢の不機嫌は改善したようだった。背の高いテーブルにもたれかかり、「やっぱ、うめえな」と、干しイカをくちゃくちゃと食べている。その声だけが静かなホールに場違いに響いていた。
 ソーシャルディスタンスのために距離をとって置かれているそれぞれのテーブルの横には六人が佇んでいる。金沢と早川少年の例外を除いて、なにも話すことはないと宣言するかのようにマスクを装着していた。早川少年は、はじめからマスクをしていなかったので、マスクがないのは仕方がない。
「それで、どうする?」
 金沢が、全員がホールに集まったのを確認してから、白々しく声を上げた。干しイカをパッケージごとズボンのポッケに仕舞い、マスクを装着した。茜が佐々木ミツルに会いに行っていたので、茜が戻ってきたことで、全員が集まったのである。
「とりあえず、お開きにするのがいいんじゃない?」
 背の低い白石が、みんなの意見を代弁した。ほとんどいつも白石と同じ意見になる山田は、案の定、「お開きしかない」と白石と口を揃えていた。当然のように茜も同意見だ。
「もう夜も遅いし、私も、賛成」
 それから、口々に賛成の声が上がった。みんな一様に、飲み会を続けたいと思えるような精神状態ではなかったようだ。
 茜としては、神崎明人との交際関係が成立した記念すべき日でもあったが、その幸せは佐々木ミツルの不幸せと表裏一体である。幸せを噛みしめつづけるような鈍感さが茜にはない。
 金沢は、続いて、恥じらう様子もなく、身体の表面を池垣に向けた。
「池垣にはあたっちゃって悪かった。もう、過去のことは水に流そう」
「ああ、いいんだ」
 池垣は、ドラゴンのタトゥーの入った腕を軽く振った。『贖罪のファンファーレ』が汚れて以来、険悪だったふたりの関係がようやく修復されたようだ。
「そんで、片付けるか?」
 金沢は、池垣とのいざこざを丸く収めたのを確認すると、片付けへと移った。
 みんなで、酒のつまみやビール缶の回収、テーブルの片づけなどを迅速に進めた。ホールの真ん中に並んでいた立食用の背の高いテーブルが片づけられると、館内は元の状態に戻った。
 ただひとつ、『贖罪のファンファーレ』が汚れていることを除いて。
 あらためて見渡してみると、かなり広い空間だった。Sasaki美術館の顔として月ごとに特別展の実施されているホールには、開放感が満ちている。ウイルスの蔓延する前はかなり賑わっていたのだが、それがずっと昔のように感じられる。片づけ終わったころにはホール内の重々しい空気はいくぶん改善していた。
 荷物をそれぞれに担いで、ホールを出て、玄関ホールまで進んだ。玄関の扉は大きな両開きの木製扉であり、ぴったりと閉まっている。美術館が営業しているときは常に開け放した状態だったが、営業外の現在は閉まっていて当然だ。
 茜が代表してその扉を押し開けようとしたが、どういうわけか、扉がびくとも動かない。気のせいだろうと思いなおしてもう一度押したが、やはり動かなかった。ロックがかかっているようだ。
「どういうことなの?」
 茜は、苛立ちを抑えながら、つぶやいた。三度目、押してみるが、またもや、扉は開かない。次に口を開けば汚い言葉が出てきそうだった。神崎明人の前でそんな醜態は晒せないという抑制が働いた。茜は、無言で扉を凝視していた。
「ロックはどこでかけんの?」
 だらしなくリュックを右肩にかけている山田が訊いた。それについては学芸員として把握している。
「美術館内にある制御室で、全館の照明や扉の開け閉めができるようになっている。玄関の扉も、その制御室でロックすることは可能だけど……」
「でも、ロックをかけた覚えはない。そういうわけだな?」
 金沢の推測通り、茜にはロックをかけた覚えがない。どちらかと言えば夜間の美術館でロックをかけるのは防犯上当たり前の備えだろうが、ホールで飲み会をしている以上、防犯上の問題を甘く見ているところがあった。
「では、いったい、誰がロックをかけたのか?」
 金沢が全員の疑問を浮き彫りにした。
 それはたしかに大きな疑問である。制御室には、学芸員のカード――会員証がなければ入れないので、勝手に玄関扉にロックをかけることはできない。少なくとも、会員証を盗みでもしなければ。茜は、にわかに薄気味悪いものを感じた。とはいえ、犯人追求をしたって、余計に気味悪くなるだけだ。
 ここで大事なのは、玄関扉のロックを解除することだけである。なぜなのかという問いはひとまず放置して、目の前の障害を取り除くことに尽力すればいい。茜は、頭を切り替えて、声を張った。
「ロックを解除してくる。少し、待ってて」
 それだけ言い置いて、茜は玄関ホールを出た。まずは研究室に立ち寄って学芸員の会員証を手にしてから、真っすぐと館内の制御室まで向かった。
 足早に到着すると、入り口のところにあったスキャナーに学芸員の会員証をかざして、開錠した。そのまま、しんとした制御室内に入室する。
 制御室内の、館内を制御するための大型ディスプレイに目を走らせた。その表示によれば、やはり、玄関扉にはロックがかかっている。そのタッチパネルで玄関扉を解除するように操作をすると、夢にも見ていなかった表示がディスプレイに現れた。
『※指紋認証が必要です』
 指紋認証? 茜は、今度こそ、「いいかげんにして」と言葉が漏れた。いままで指紋認証を求められたことは一度もない。いろいろなことがあって頭が疲れているときにデジタルの不調に遭うなんて、最悪な気分だ。ざあっとストレスが押し寄せてくるのを、なんとか呼吸を整えながら我慢する。
 なにかの間違いかもしれない。茜は、もう一度、期待を込めて操作したが、ディスプレイに表示されるのは、まったく同じ結果だった。
『※指紋認証が必要です』
 赤文字で表示される謎の一文。茜の経験上、ディスプレイにその一文が表示されるのを見たことはない。
 指紋を検出するためのものか、ディスプレイの右端には指の形をしたアイコンが表示されていた。もしやと思い、茜はそのアイコンをタップした。ディスプレイの中心に浮かんできた掌のマークに右手を押し当てる。間もなくして、ディスプレイに赤文字が浮かんできた。
『ERROR』
 どうやら、茜の指紋ではロックを解除できないようだ。
 これは機械の故障だろうか。簡単な操作にしか慣れ親しんでいないので、エラーのときにどのような対処をすればいいか、茜にはまったくわからない。苛立ちが込み上げてくるのを、呼吸を整えながら抑える。
 茜は、玄関ホールまで戻り、そこで待っていた七人に、扉のロックを解除できなかったことを伝えた。それと同時に、会員証がなければ制御室に入れないことも伝えた。金沢が誰よりも先に、「それはまずいな」と言葉を落とす。
「この美術館、玄関しか入り口はないだろう?」
「そのほかの出口はないね」
 Sasaki美術館には裏口の類が存在していない。そのうえ、採光のための窓はどれも天井に設置されているので、窓からは出入り可能ではない。Sasaki美術館の出入口は玄関しかないというわけである。
 つまり、玄関扉が開かなければ、館外へ出られない。もしも玄関扉が開かないままであれば、茜を含めて八人は、美術館内に閉じ込められることになる。佐々木ミツルも含めれば、九人だ。
「ほかに、方法はないの?」
 さっきまで抱えていた荷物を床に置いた白石が訊いた。
「セキュリティーの都合上、玄関扉は制御室でしか制御できない。その制御室でどうしようもできないのだから、そのほかの手段もないね」
 それが茜の嘘偽らざる答えだった。玄関扉のロックを解除するしか、手段はなくなっている。それが絶望的なのだから、完全に閉ざされた密室だ。その事実を目の前にすると、次第に、現在の状況が薄気味悪く思えてくる。
「どうすんのよ。どうやって、俺たち、出ればいいの?」
 高音を響かせる白石に、太い眉毛を歪めながら山田も同調する。
「ここしか出口はないのに、その肝心の扉が閉ざされちゃったら、もう、どうしようもないじゃん。俺たち、今日、トラブルに遭いすぎじゃね?」
「そうなる前に、ちょっと待って」
 茜は、不意に妙案を思いついた。ポッケに仕舞ってあったスマホを取り出し、それを掲げる。
「私たちには、これがある」
 そう、スマホがある。現代社会においては、どこかに閉じ込められたとしても、外部と通信できる。電波的に孤立しない限りは、外に助けを求めればいい。
「でも、俺たちにはないよ」
 金沢が、ズボンのポッケを裏返した。右のポッケからパッケージに入った干しイカが出てきただけで、どちらのポッケにもスマホは入っていない。
 おそらく、金沢以外の、白石や山田、斎藤や池垣も事情は同じだ。彼ら五人は飲み会をするときにスマホを持ってこない習慣があるので、今回も同じように、スマホを車に置いてきたのだろう。
「僕もない。家出するって言っても、すぐ帰るつもりだったし」
 早川少年もスマホを持っていないようだ。その流れで、自然に神崎明人へと視線が集まる。多くの視線に狼狽えるように後ずさってから、神崎明人は、神経質そうに右手を振った。
「僕もない。車に置いてきちゃったみたい」
「ということは、茜ちゃんしか、いま現在、スマホを持っていないわけだ」
 それが悪い事態であるかのように金沢は言ったが、別段、スマホの数が問題になるわけではない。ひとつあれば十分だった。
「それで、どこに電話するの?」
 白石が訊くので、茜は答えた。
「ここの館長だよ。機械の操作に詳しいと思うから、たぶん、機械の不具合を解決できるかもしれない」
 茜は、すぐにスマホを操作し、棚橋館長の番号にかけた。しかし、なぜか、つながらない。スマホを耳から離し、そのディスプレイを確認すると、電波がほとんど届いていないことに気が付いた。茜は、ぞっとするのを感じた。
「電波抑止……」
「なにそれ?」
 山田が訊いた。全員の視線が、今度は、茜に集まる。
「携帯電話を使えなくさせるための設備が、この美術館にはあるの。ときどき、音楽鑑賞会などを館内で開くことがあるんだけど、そういうとき、電波抑止装置を起動させて、一時的に携帯電話を使えなくさせる」
 もしも、その装置が起動していれば、いま現在、Sasaki美術館は電波的に孤立していることになる。
「それが起動しているってわけ?」
 金沢が不審な顔になった。茜は、正直に答える。
「わからない。でも、それが起動していれば、スマホが使えないのは当たり前」
「ちょっと待ってよ。いったい、どういうこと?」
 そのときまで無言を貫いていた池垣が、大袈裟なくらいに困惑した声を上げる。温和そうな顔が半分、恐怖に染まっているように見えた。
「玄関扉は、意味不明なエラーで開かなくなっているし、館内では電波抑止がおこなわれていて、スマホも使えない。これって、誰かが意図的にやっているとしか思えないんだけど。俺たちって、誰かに閉じ込められた?」
 一瞬、全員が無言になった。その数秒間のうちに空気の重さが変質したかのように、茜の身体が重くなった。その場に固定された石像のように動けなくなる。
 茜は思った。池垣の指摘は、的を射ている。誰かの作為がなければ、このような状況を生み出すことはできないだろう。館内の設備に詳しい人物と言えば、茜のほかにはひとりしかいなかった。
「佐々木ミツル?」
 神崎明人が、小さな声を零した。それは無意識だったのか、自分が発声したことに驚くように、びくっと肩を縮めた。すぐに「いや、そんなことは……」と首を振る。
「そんなことが、あるかもね」
 斎藤だ。にやにやと笑っているが、口の端が微かに震えているのを、茜は見逃さなかった。斎藤は低い声で続けた。
「一度、冷静になって考えてみると、おかしいことが多いのに気づく。まずは、あの絵だよ。『贖罪のファンファーレ』。あの絵はいったいなんだ? あの絵の下に敷かれている全裸の少女は誰なんだ? あの少女は生きているのか?」
 それについては、考えてみれば、嫌な想像が膨らんでいく。あの絵の少女はどう見ても成人した女性ではなかった。絵の下に敷かれている写真は、児童ポルノの類になるのではないか。佐々木ミツルはいかにして児童ポルノの写真を入手したのか。あの少女はいま現在、どこでなにをしているのだろうか。
「佐々木ミツルは信用できない。俺はずっと思っていたよ。『TASUKETE』という暗号の件だって、おかしい。あいつは正気じゃないんだよ」
「それって、斎藤。つまり、絵を汚されたことや茜ちゃんに振られたことを根に持って、俺たちをどうにかしようとしているってことか?」
 金沢が、明確に疑いを述べた。はっきりと言葉にされると、造り物めいた嘘くささが漂っていた。フィクションではあるかもしれないが、現実には、そんな単純な人なんてほとんどいない。どんなに恨んでも、相手に危害を加えるという一線は、そう簡単には越えられない。
 しかし、茜は、考えてしまう。もしや、佐々木ミツルなら……と。そのように感じさせるなにかをまとっているような気がする。
「冷静にひとつずつ、考えてみたい。俺の妄想に過ぎないかもしれないが」
 斎藤が、右腕にかけていたバッグを床に置いてから、全員に見えるように人差し指を立てた。
「ひとつめ。『贖罪のファンファーレ』から察するに、佐々木ミツルの作品はどれも写真を下敷きにしているかもしれない。悲しみの少女シリーズはもちろん、そのほかの作品も写真を基にしている可能性を排除できない」
 その可能性は茜も考えていた。あまり気持ちのいい想像ではないので、細かいところには目を瞑っていたが、現在においては目を背けている場合ではない。
「ひとつ、大きな疑問がある。佐々木ミツルの作品の中でもとくに残虐な作品たちも、写真を下敷きにしているのだろうか」
「だとしたら、まずいな」
 金沢が、柄にもなく、掠れたような小さな声を出した。それを恥じるかのように、次に口を開いたときには、無駄に声量が増していた。
「だって、そうだろ。ちらっとしか見てないけど、佐々木ミツルの残虐な作品の中には、言葉にできないくらいにひどいものが含まれていたよ。そんな写真、戦場にでも行かなければ撮れない」
「自分でその状態を作り出さないかぎりはね」
 斎藤のにやりとした口から、意味深な言葉が飛び出した。ふたたび、玄関ホールが空気を失ったかのように静まり返る。
 斎藤のいうとおり、残虐な絵画の下にも写真が眠っているのであれば、その写真は過激なものであるはずだった。茜は、具体的に想像を進めた。たとえば、眼球のような物体が描かれた『眼球の点滅』の下に眠っている写真は、眼球の単体を至近距離から撮ったものではないだろうか。
 斎藤は、続いて、人差し指を立てたままで中指も立てた。
「ふたつめ。Sasakiグループは探偵業で稼いでいて、その調査能力は警察以上ともいわれている。それほどの能力があれば、誰かを行方不明にするのはわけもない」
 それはフィクションじみた考えではあるが、どういうわけか、説得力を持っている。組織的な犯行というわけだ。茜は、想像を膨らませた。佐々木ミツル個人ではとうてい不可能だが、組織で手を染めていれば、可能になるかもしれない。
 痕跡を残さずに誰かを連れ去り、その人を無残に殺害し、写真を撮り、それを拡大してキャンバスに貼り付け、その上から絵の具で塗っていく。そんな無謀とも言える計画が、Sasakiグループの全面的バックアップがあると仮定すれば、俄然、現実的な話になりそうだ。
「そして、みっつめ。そのような佐々木ミツルの秘密を俺たちは半分、知っている。あくまでも想像の範囲でしかないが、俺たちは、たぶん、佐々木ミツルの裏に潜んでいる壮大な計画の一端を覗き込んだ。もしも佐々木ミツルがこの秘密を隠し通そうとするなら、黙ってはいないだろう」
 それが、現在の状況である。佐々木ミツルを疑うには十分すぎるくらいに感じられなくもない。それが、ただのいきすぎた想像であればどんなにいいだろうか。
 もちろん、不確かな想像に過ぎないのは事実だ。一般的な感覚で考えるなら、妄想症に陥っているといわれても仕方がない。それはわかりつつも、佐々木ミツルには、そういう想像を寄せつけない確固としたリアリティーが欠如している。もしや、あの佐々木ミツルなら……と感じさせる。
 果たして、玄関扉をロックしたのは佐々木ミツルなのだろうか。
「じゃあ、なんだ。佐々木ミツルは、これから俺たちを襲いに来るってのか?」
 山田は、その太い眉に負けないほどの目力を込めて、茜たちに視線を走らせた。うなづきを返す人はいない。その無反応が恐怖心を助長したのか、山田は、より声量を増して続けた。
「どうなんだよ。そんなシネマじみた展開を本当に迎えるのか?」
「そんなの、おかしいでしょ。そんなわけないよ」と、白石も、お馴染みの高音の声で同調した。
「でもちょっと待って。パニックになってもいいことはない」
 白石と山田が騒ぎ出す前に、茜は、冷静沈着に言葉を続ける。
「これから、佐々木ミツルに直接、話に行けばいいの。それですべてが……」
 突然、ぱち、と、視界全体が点滅したように見えた。
「なんだ、なんだってんだ」
 白石が叫んでいる間にも、ぐちゃっと視界が乱れていく。気が付けば、暗幕が垂れるように視界が暗くなった。
 急な展開に茜の心は追いつかず、言おうとしていた言葉が頭から飛んで行った。いまさっきまで目の前に並んでいた顔が暗闇に沈んで見えなくなった。
 どうやら、照明が落とされたようだ。茜の背筋に寒気が走ったが、もっと重症なのは白石だった。暗闇の中から、「これはなんだ。いったい、なにが起こってるってんだ。誰か、誰か!」と、猿のように喚き散らす声が聞こえる。
「いいから、騒がないで!」
 茜は、大声を発して白石を黙らせてから、あたりに神経を集中させる。暗闇の中になにかが潜んでいるような気配を感じる。なにも見えないというのは、それだけで著しい恐怖だった。
 幸いにも、すぐに一部の照明が回復した。壁を照らしている微かな間接照明だ。
 太い通路を挟んだむこうにあるホールも、微かに光っている。ホールの白い壁も間接照明で浮かび上がっているようだ。玄関ホールに佇んでいるみんなが、影絵のように黒く見える。くっきりとそれぞれのシルエットだけが鮮明に見えて、顔や服は黒く塗りつぶされていた。
 よく見ると、むこうにあるホールの間接照明は絵画ひとつひとつを照らしていた。まるで深海に佇むチョウチンアンコウのようだった。
 その光景の気味の悪さに圧倒されていると、すぐ傍から、囁くような、いまにも消え入りそうな声が聞こえた。
「山崎さん、僕はここ」
 神崎明人の声だ。振りむくと、そこにきらりと光る眼球がふたつ、空中に浮かんでいた。神崎明人の、大きな眼球だ。茜は、「よかった」と一息し、神崎明人の肩をぽんぽんと叩いた。それから、人の形をしたシルエットを数えていくと、そのほかのみんなも、無事でいるのが確認できた。
 急に照明が落ちるという謎の現象。「まるで、開始の合図みたいだ」という斎藤の一言には、誰も反応しなかった。
 しばし無言のまま佇んでいると、徐々に目が慣れてくる。すぐ傍にいる神崎明人の鼻や口まで、よく見えるようになった。
 しかし、事態は好転するどころか、悪化した。玄関扉がロックされているうえに、電波抑止が実施されているうえ、さらに照明が落ちた。なにか嫌な計画が進行しているように思えてならない。斎藤のいうとおり、照明が落とされたことは、まさに開始の合図のようにも思えてくるのだった。
 その予感は、間違いではなかった。
 沈黙の玄関ホールへむけて、こつん、こつん、こつん、と誰かの靴音が近づいてくる。すぐのうちに背の高いシルエットが通路に現れたが、そのシルエットを直接に照らすライトがないので、その仔細はわからない。
「誰だ?」と山田が間抜けな質問をするので、金沢が苛立たしげに強く言った。
「この美術館にはいま、俺たちと佐々木ミツルしか、いない」
 茜は、咄嗟に、ズボンのポッケからスマホを取り出した。そのとき、一緒にポッケに入っていた会員証が床に落ちた。素早く、早川少年がそれを拾ったが、「いいよ、そのままで」と茜は断った。いまは会員証どころではない。
 すぐに切り替えて、スマホのライトを点灯させた。それを靴音の響いてくるほうへと向ける。特別展の実施されているホールへと続く通路だ。スマホのライトに白く照らされて、その姿が浮かび上がった。
 そこで靴音を響かせていたのは、やはり、上下ともに黒い服を着た長身の佐々木ミツルだった。お馴染みの黒いサングラスだ。スマホのライトのせいか、真っ白い頬からは死人のように生命力が感じられない。かといって、貧弱なイメージは伴っていない。人間を超越したかのように、中性的な印象を放っていた。
 しかも、その右手には銃器のようなものをぶら下げている。よく見ると、それはボウガンだった。テレビドラマや映画でしか見たことはなかった。
 茜は、全身の骨がかちかちの氷に置き換わったかのような気分になった。筋肉は冷凍されて動けない。スマホのライトを向けたまま、言葉を失っていた。かろうじて、数歩あとずさることができた。
 佐々木ミツルは、眩しいのか、右腕で目を庇いながら、苦言を呈した。
「マナーが悪いな。そういうの、あまり好きじゃない」
 暗闇に声が響く。佐々木ミツルは、ふんぞり返るように歩いてくると、ついに立ち止まった。ホールへと続く通路から数歩進んだところだ。茜たち八人は佐々木ミツルを取り囲むように扇形に並んでいて、その中心に金沢がいた。お互いの荒い息遣いによって、恐怖の量を相互に確認しあうことができた。
 白いライトの光を受けている佐々木ミツルは、呆れたように肩をすくめた。
「ホント、ひどいな。批評だって同じさ。僕の作品を批判するのは構わないが、せめて社会人としての常識的なマナーを守ったうえで批判してくれないと、耳を傾ける気にもならないね」
 それは、スマホのライトを向けたままでは話を聞くつもりはない、という最終通告のように聞こえた。
 茜は、念のため、ライトを下に向け、佐々木ミツルの脚だけを照らすようにした。黒いズボンを穿いた下半身だけ白く浮かびあがり、上半身は白く浮かび上がる壁によって黒く塗りつぶされて見えた。
 それでも圧倒的な存在感を放っていた。まるで、それは神の変死体が息を吹き返したもののようだった。
「俺たちを殺すつもりか?」
 金沢がよく通る声で訊いた。
「まあ、そんなところ」
 佐々木ミツルの調子は軽い。その軽さが、かえって狂気的に聞こえて、言葉のひとつひとつが重く響く。
「きみたちが殺されるべき理由は主に三つある。ひとつは、『贖罪のファンファーレ』の秘密を知ったこと。ひとつは、『贖罪のファンファーレ』を穢したこと」
 茜は、耳を塞ぎたい気持ちに駆られた。殺人をせずにいられる閾値があまりにも低すぎる。狂気に満ちた狂想曲を無理やり聴かされているような気分だった。
「残りのひとつは、僕がきみたちを殺したいと思っていること。以上の三つにより、僕は、君たち八人を殺すことを決定した」
 理路整然として狂っている。茜は声を発することができない。もしも佐々木ミツルを選んでいたら、この事態は回避できたのだろうか。いまさらどうしようもない考えが頭に浮かぶ。いや、ひょっとすれば、よりひどい末路を辿ったかもしれない。
「ここの扉をロックしたのも、お前か?」
 金沢が低い姿勢を維持したままで重ねて訊くと、佐々木ミツルは、革靴の爪先でこつんと床を叩いた。
「当然。僕の指紋認証がないとロックを解除できないように設定した。照明を落としたのは、まあ、ムード作り?」
 はは、と笑い、佐々木ミツルは、ボウガンを構えた。
 茜はぞっとした。逃げなければ、殺される。それはわかっているのに、肝心の逃げ場がない。背中のほうには閉ざされた扉があるだけだ。どうすればいいのか。茜は、必死に頭を回そうとするが、なにも浮かんでこない。茜は、かろうじて、佐々木ミツルの脚をライトで照らすことだけ続けていた。
 佐々木ミツルが持つボウガンの先が、面白がるようにゆっくりと左右に動く。その先端が自分に向けられるたびに、滝に打たれたように全身が寒くなり、まったく生きた心地がしなかった。
 茜は不意に、既視感を覚えた。すぐにその原因に、思い当たった。数時間前、早川少年にも同じように恐怖した瞬間があった。あれはドッキリだったが、現在、目の前で起こっていることがドッキリだとは思えなかった。
 佐々木ミツルは何往復か、ボウガンを左右に動かしたあと、いまいちど、ボウガンの先端を床に向けた。全員の恐怖を嘲笑うかのように、革靴の爪先で床を叩く。こつん。こつん。こつん。
「僕は、いつも、誰かを殺すときには、相手が聞きたがっていることを丁寧に説明することに決めている」
 茜には『いつも』という副詞が無視できなかったが、それについて聞きたいとも思えなかった。
「だから、なにか、聞きたいことがあれば、聞いてくれ」
「じゃあ、聞かせてもらうが、すべての作品で、写真を下敷きにしているのか?」
 金沢だ。おそらく時間稼ぎになると考えたのだろう。佐々木ミツルが語っている時間を利用して、なにか生き残る案を捻りださなければいけない。茜は、手汗でぬるりとしてきたスマホをぎゅっとつかんだまま、頭を回した。
 どうすれば、佐々木ミツルに殺されずに美術館を脱出できるのか。なにか、柔軟な発想が必要だ。そんな茜の黙考を邪魔するように、佐々木ミツルは挑発的な軽い調子の声を響かせる。
「すべて、とは言えないが、ほとんどすべてだ」
「なら、無残な絵の下にも、写真が?」
「僕のお気に入りのコレクションなんだよ。どれも、実に美しい」
 この異常者を相手にして、どう切り抜けられるのか。金沢が佐々木ミツルの相手をしているうちに、茜は考えを進める。佐々木ミツルはボウガンを所持している一方、茜たちは武器を所持していない。それだけで不利だ。茜の支配下にある道具といえば、せいぜいスマホくらいだった。
 そのスマホも、いまとなっては、玩具も同然だ。電波抑止が実施されているために通信手段としては機能しない。
 茜は、すぐに思考の袋小路にぶつかった。人数では圧勝しているのに、佐々木ミツルが殺傷能力の高い武器を所持しているせいで茜たちの劣勢だ。佐々木ミツルの脚を照らすしか能がない自分が情けなくなってくる。
 この際、誰かがボウガンで撃たれるリスクを背負い、全員で佐々木ミツルを取り押さえにかかるしか手段はないのだろうか。しかし、それでは怪我人が出る。悪ければ死ぬだろう。まず間違いなく断言できるのは、佐々木ミツルは、ボウガンを躊躇わずに使うだろうということだった。
 茜の額から、一粒、汗が流れていく。冷房の効いている館内でも、著しい緊張のせいで身体は燃えているかのようだった。
 まだ金沢が時間稼ぎをしていたが、佐々木ミツルも、あれこれと質問攻めをされると気分がよくないらしい。革靴の爪先で床を叩いて、こつんと少しばかり大きな音を立てると、佐々木ミツルは大きな声を響かせた。
「命を引き延ばそうとしたって、ダメだよ。そろそろいいかな?」
 ボウガンが、金沢へと向けられる。このままでは撃たれる。なにか、しなければ。なにか……。茜の手は震えていて、佐々木ミツルの足を捉えているスマホのライトも小刻みに上下左右に揺れていた。
 佐々木ミツルの動きを封じるためにはどうすればいいのか。佐々木ミツルが苦手なものといえば……。
 点滅だ。茜はついに思いついた。どうして、いままで思い至らなかったのか。興奮で頭が熱くなる。
 佐々木ミツルは、今朝、点滅恐怖症だとはっきりと告げていた。点滅を目にすると、恐怖で縮み上がり、まともに息ができなくなるらしい。そのため、Sasaki美術館には点滅がないように配慮されているとも言っていた。
 それだ。それしかない。
 しかし、不安ポイントもある。佐々木ミツルは一方で、サングラスを装着していれば点滅恐怖症が和らぐとも告げていた。現在、佐々木ミツルはサングラスを装着している。それが不安ポイントだったが、この暗い部屋で点滅が起きれば、サングラスによる効果を圧倒するかもしれない。
 それが最後の切り札だ、と茜は期待を寄せた。スマホのライトを点滅させれば、佐々木ミツルは呼吸困難に陥るのではないか。
 茜は、両手でスマホを握り、震えを抑えながら、そのスマホのライトを佐々木ミツルの上半身へと向けた。佐々木ミツルの顔がくるりと茜を見る。
 いまだ。
 茜は、スマホを操作し、手動でライトを点滅させた。暗闇の中で玄関ホール全体が明暗を交互に繰りかえす。アニメのコマ送りのように見える佐々木ミツルは、ボウガンを足元に落とし、サングラスの上から両手で目を塞いだ。床に膝をついて、腰を折り、丸まっていく。喘ぐような声が玄関ホールに響いた。それは小さな子供の悲鳴のように哀しみに満ちていた。
 明らかに、効いている。茜は、ほっとする気持ちを胸に、依然、点滅を続けた。それでも警戒感はまだ薄れていない。隙を突かれれば殺される。それを阻止するためには、佐々木ミツルの苦しみに耳を傾けている場合ではない。
「説明してくれ、これはなんだ」
 金沢が訊いた。茜は、手元の操作に神経を集中させつつ、答えた。
「佐々木ミツルは点滅恐怖症なんだよ。本人から聞いた。だから、点滅を見ると、まともではいられなくなる」
「もっとやれ。やってやれ」
 白石の声がむしろ邪悪に聞こえた。「いいぞ、いいぞ」と山田も続く。点滅を見せるのは、佐々木ミツルのトラウマを再生するのに等しかった。茜は、胸が痛まないでもなかったが、心を鬼にしてでも――たとえ心をなくしてでも――点滅を続けた。同情して殺されたら笑いものだ。このまま続けなければいけない。バッテリーが切れない限りはずっと……。
 ふと気づいて、茜は、スマホのディスプレイを確認した。衝撃が走った。一転して、一時の安堵が消えていく。スマホのバッテリー残量がすでに『1%』だ。すぐのうちにバッテリー切れになるだろう。
「誰か、あいつのボウガンを取って!」
 茜が叫ぶのと同時に、床に落ちていたボウガンを佐々木ミツルの右手がつかんだ。死に物狂いの勢いを感じさせた。床で悶えつづけたまま、ターゲットを見ることもなくボウガンを発射した。臓物をつかまれたような気分になる。
 空気を裂く音を伴い、矢は右の壁に消えていった。幸いにも、誰にもあたらなかったようだ。玄関ホールには、佐々木ミツルの、はあはあと荒く息をする音と、なにも着飾っていない裸のままの呻きが続いていた。
 茜は、はじめて神を貶したくなった。このままでは点滅を続けられない。茜ができたのは、叫ぶことだけだった。
「バッテリーがもたない。電池切れになる」
 雷のように降り注ぐ点滅が、その場の禍々しさを強調していた。その中、茜の左隣にいた早川少年が、突然、駆け出した。なにも言わず、苦しんでいる佐々木ミツルの横を通り、ホールへと入っていく。
「早川くん!」
 呼び止めたのに、一度も、振りかえらなかった。どこに行くつもりだろう。いや、あるいは、早川少年が正しいのかもしれない。茜は、考え直した。いまのうちに館内に逃げるのが最善の戦略なのではないか。
 しかし、遅かった。そのチャンスは突然に途絶えた。あろうことか、点滅がなくなったのである。茜がぞっとしてスマホのディスプレイを確認すると、黒い画面だった。すでにバッテリー切れだ。
「切れた」
 茜の小さな声に、白石が慌てだした。
「やばいぞ、おい。どうすんだよ。点滅がなくなったら、あいつ、復活するぞ」
「死ぬ。俺たち、死ぬ。もうだめだ。唯一の望みが消えちまった」
 白石の恐怖が伝染したように山田も声を上げる。
「ほかに案は?」
「ない」
 金沢の問いに、茜は、正直に答える。もはや、なにも、ない。
 さっきまで息を荒くしていた佐々木ミツルは、呼吸を整えるように深呼吸をしながら立ち上がっていた。その手にはしっかりとボウガンが握られている。ホールの微かな光によって、その厳めしいシルエットが浮かび上がっている。そのボウガンを茜のほうに向けているのが見えた。
「いまさら期待なんて、しない。僕の苦しみは笑われるためだけにある。わかってるよ、そんなこと」
 瀕死のように息を吸っている佐々木ミツルだ。茜は動けなくなっていた。少しでも動けば矢を発射される気がする。これで万事休すだ。唯一の突破口はコンクリート詰めされて塞がれた。ひんやりと背筋を汗が流れていくのを感じた。
 茜が本格的に死を覚悟したときだった。
 突然、玄関ホール全体が点滅を始めた。派手なライブ演出のようだ。これは、いったい、なんだろう。わけがわからないが、点滅しているのは事実だ。その事実は茜たちがふたたび形勢逆転したことをどこまでもわかりやすく物語っている。茜は救いの音楽に身を委ねるような心地に包まれた。
 点滅すれば、佐々木ミツルはまともに息ができなくなる。
 案の定、佐々木ミツルは、「やめてくれ」と叫び、ふたたびその場にくずおれた。床に手をついて、激しく息を吸う。過呼吸のような状態なのか。
 その様子が純粋な子供のように見えるのが不思議だった。少しも悪に染まっていないように。いまさっきまで命を狙われていたはずなのに、佐々木ミツルが可哀そうに思えてくる。
 すぐのうちに、その気持ちは、茜の心の端っこに追いやられた。茜は、ふたたび安堵を手に入れていた。点滅によって苦しんでいる佐々木ミツルには、もはや、なんの殺傷能力もない。
 今度こそ、その瞬間を見逃さないぞというように金沢が駆け出した。佐々木ミツルの手からボウガンをひったくると、それを遠くへと蹴る。
「動くなよ。もう、終わりだ」
 金沢は、そのまま佐々木ミツルの腕を背中に回して確保する。かすかに抵抗しただけで、佐々木ミツルはほとんど動かなかった。「点滅をやめてくれ」という要望だけを喉の奥から精いっぱいに絞り出していた。
 その願いは届かないまま、終わらない点滅の中で、佐々木ミツルはひたすらに息を吸おうとしていた。魚のようだというありきたりな形容でも遠くはないだろう。白石や山田も加わり、三人がかりで佐々木ミツルを押さえつけていた。
 茜はようやく心の底から落ち着いて、全身の筋肉が弛緩する。佐々木ミツルのようにくずおれてしまった。そんな茜のもとへ、神崎明人が近づいてくる。
「きっと、早川くんだね」
 神崎明人が、点滅する照明を見上げて、穏やかに言った。茜はうなずいた。茜の会員証を持っていた早川少年は、それを用いて制御室へと駆け込んで、室内照明そのものを点滅させているのだろう。
 あの子に、救われた。茜は、早川少年を抱きしめたくなった。

   *

   山崎茜さまへ

 あの日から、すでに二週間が経過しているのかと思うと、不思議な心地がします。伝えたいものが膨らんできたので、手紙でも書こうと思いました。拙い手紙で失礼かもしれませんが、そのへんはご容赦ください。
 佐々木ミツルの悪行については大方、明らかにされてきたようですね。その一連の事件についてSasakiグループの関与も少なくないということで、Sasakiグループとしても大打撃を受けた格好です。Sasaki美術館も閉館するというニュースを見ました。途方もないようなお気持ち、お察しいたします。
 あの日、僕は制御室を探し、駆け込んで、玄関ホールの照明を点滅させました。あの行動はテレビでも大々的に取り上げられて、僕は、一躍、時の人となりました。ちょっと大袈裟な新聞では、『中学生、決死の行動』、『命を救った勇気ある行動』などと騒ぎ立てられていました。正直に言って、僕は浮かれてしまいました。こんなに褒められたことは一度もありません。
 ですが、あまりに誉めたてられると不快になります。僕はそれほどすごいことをしたわけではないのに、あんな勘違いが広がっていくのを、どうすればいいでしょうか。僕は、あのとき、誰かを助けようなどとは思っていませんでした。ただ、あの状況下において自分が助かるのに最適な行動はなにかを考え、その行動を実行に移しただけなのです。
 はっきり言って、自分のための行動でした。自分が死にたくないから、あのような行動を取っただけです。
 そんなこと、ちょっと考えればすぐにわりそうなものなのに、世間というのは単純ですね。こんな単純な人たちの集合が社会なのだから、勘違いなんて、そこら中で、数えきれないほど発生しているのでしょう。僕も、世間から勘違いされている人たちのうちのひとりなのだと思います。
 ここだけの話ですが、僕は佐々木ミツルの気持ちがわかる部分があります。なにかにあたりたくなるときがあるんです。扉を殴ってみたりしたこともあります。拳が裂けるまで壁を殴って、叫んだりもします。
 人にあたったこともあります。僕にはひとり妹がいるのですが、数えきれないくらい殴りました。僕は犯罪者でしょうか。殴ってしまうたびに、こんなことはもうやめようと思うのに、またやってしまいます。罪悪感に押しつぶされそうです。
 僕は、最低です。テレビなんて、すべて虚構です。イメージ通りの僕はどこにもいません。
 こんなことを話したら、迷惑でしょうか。それでも、なぜか、山崎さんなら真面目に聞いていただけるような気がしたので、お話しています。
 僕は、ときどき、自分が怖くなります。そのうち、誰かを殺すんじゃないか、という不安があふれてきます。そういうときは、欠かさず、自分の部屋の壁を殴るようにしているのですが、それはすごく痛いです。これで我慢できなくなったときに、もしかしたら誰かを刺し殺したりするんじゃないかという気がします。
 お話する順番を間違えたかもしれませんが、僕は、いま、学校でひどい目に遭っています。一躍有名になってからも、同じ状況が続いています。僕の性格が悪いせいです。頭の悪い人を見ると、うっかり「バカだなぁ」と言ってしまうんです。そのせいで、いじめが始まりました。その人たちを殴ればいいのかもしれないけど、怖くてできません。そんなことしたら、もっとひどいことをされそうな気がします。
 僕はどうすればいいですか? 僕はいつか佐々木ミツルと同じようなものになるのでしょうか。どうすれば、そうならずに済むのでしょうか。
 生きている意味がわかりません。僕はなんのために生きているのでしょうか。苦しむためだけに生きているのでしょうか。それとも、僕は誰かを殺す前に自殺するために生きているのでしょうか。
 変なこと書いて、申し訳ありません。返答の手紙を書くのは難しいでしょうから、返答はなくていいです。これだけ、伝えておきたかったです。僕はみんなの命を助けるようなすごい人ではないということだけ、伝えておきたかったのです。
 幻滅してください。

                             早川壮一

   *

   早川くんへ

 少しだけ、お話させてください。
 まずは現実的な問題についてですが、金石市では現在、不適合児のための勉強空間としてヒマワリ学校という制度が存在しているので、そちらに通うことを現実的に考えるのはいかがでしょうか。いじめ対策をするNPO法人もネットで調べればたくさんありますので、急いで相談してください。
 また、暴力などを振るわれている場合は、すぐさま刑事事件として立件可能ですので、証拠を集めてください。証拠集めが困難な場合は、Sasaki探偵ネットワークほか、探偵事務所に証拠集めを依頼するのがいいかと思います。いま、Sasaki探偵ネットワークは不祥事の影響で依頼料が値下がりしていますので、格安で依頼できます。ひとりだけでも少年院送りにすれば、自然にいじめはなくなると思います。
 それほど大袈裟にしたくない場合には、やはり、自分の置かれている環境を変えていく必要があるでしょう。いろいろな制度や方法についてスクールカウンセラーの先生と相談しながら解決策を模索していくべきだと思います。
 とはいえ、そういう行動を取りたくない気持ちも察します。酷かもしれませんが、自分で判断してください。
 ひとまず、以上のような対応をとったうえで、続いて、心の問題についてです。時間が立てば解決するわけでもありません。いつか幸せになれるだろうとも約束できません。もしかしたら、佐々木ミツルのようになるときがくるかもしれません。それを否定することもできません。
 ですが、忘れないでください。早川くんを気にかけている人もいると思います。そんなこと言われても、なんの慰めにもならないでしょうが、それくらいしか言えることがありません。
 結局のところ、人間は誰かに認めてもらわないと生きていけない生き物だというのが私の持論です。早川くんはいま、周りにいる人たち全員から認めてもらえていないと感じているのではないでしょうか。
 でも、早川くんがそこにいるだけで誰かを苦しめているように、早川くんがそこにいるだけで価値を見出す人がどこかにいます。その人のために生きていてください。
 私の彼氏は、みんなができることができないし、すごくダメなところがあるのに、私は彼に生きていてほしいと強く思っています。
 不思議です。私にとったら、その人がどんなものを抱えていたとしても関係ないんです。一緒にいるだけで落ち着くんです。
 私は早川くんに助けられました。早川くんがいたおかげで、いまも生きているんです。早川くんがどんな人であったとしても、その事実は変わりません。
 いつでも遠慮せずに手紙をください。

                              山崎茜