【ゲームブック小説】眼球の点滅②-B
あなたは神崎明人を選択しました。
二のB
茜はついに決断した。木々の影がだんだんと濃くなっていくこの時間帯に、むしろ、長い夜を越えたような明るい気持ちだった。フロントガラス越しに見つめていると、山道のむこうにある木々の陰を狐が素早く駆けていくのが見えた。
もう、悩みはない。
一度、決断すれば、その選択しかなかったように感じる。
がたがたと揺れる車の中で、ラジオが悲惨なニュースを伝えていた。
『抉り抜かれた眼球は犯人が持ち去ったものと思われており、犯罪心理学に詳しい専門家によると、犯人は特異な性癖を持っている可能性が高いということです。そのほか、室内から女性のスマホが発見されていないことなどから、消えたスマホの中に犯人につながる証拠が入っている可能性が高いと見られています。それを犯人が持ち去ったとすれば、犯人の用意周到さが窺えます。今回の犯行は、十分に、計画的な犯行である可能性が高いということです』
ラジオから流れてくる不幸なニュースさえも、茜の心を塞ぎこませるだけの力を持っていなかった。あらゆる現実の嫌な側面が死角に消えていく。見渡す限り、お花畑が広がっているようだった。
Sasaki美術館から徐々に遠ざかる車を、茜は山道の脇に停めた。それからスマホを取り出した。この時間なら、神崎明人も新聞社の仕事を終えているだろう。茜は真っ先に神崎明人に電話をかけた。
三度のコール音のあとに、つながった。
『もしもし、山崎さんだよね。急に電話してくるなんて、はじめてだね』
包み込むような温和な神崎明人の声だった。その声を耳にすると、自分の決断は間違っていなかったのだという確信が込み上げてくる。
「急に電話しちゃって、ごめん。仕事はもう終わってるかな、と思って」
『もう終わったよ。帰宅途中にコンビニに寄ってるところなんだけど。それで、なんの用かな』
うすうす悟っているのか、ぎこちない声で訊いてきた。普段はメールでやり取りをしているので、電話がかかってきただけで用件に気づいたのだろう。
神崎明人が電話口で無言になり、その静寂が騒がしい神崎明人の内心を雄弁に物語っているように感じた。
茜は、なんだか、モノマネ番組とかで本人登場をする有名人のような気持ちだった。神崎明人に素敵な報告ができることを嬉しく思う反面、喜んでくれなかったらどうしようという不安もあった。告白をしてきたのは神崎明人のほうだから、喜ばないのは考えにくいのだが、それでも不安は消えない。
神崎明人に告白をされたの、もしかしたら、夢の中の出来事なんじゃないか。茜は不意にそんな気がした。「あのさ」とだけ意味のない言葉を吐いただけで、口の動きが麻痺した。
『なに? もしかして、あの件?』
白々しく神崎明人が踏み込んでくる。これは夢ではない。茜は確信を新たにして、一息に告げた。
「告白の件だけど、こちらこそよろしくお願いします。答えはYESです。私も神崎くんのこと、好きです」
茜はどうしてか頬が熱くなるのを感じた。神崎明人と対面していなくてよかった。対面していれば、茜が赤面しているところを見られるところだった。
感極まったように上ずった声が返ってきた。
『ありがとう。山崎さん。その、こんな僕でいいなら、嬉しいよ』
「私も、告白されて、嬉しかった。すぐに返事できなかったのは、私としても心の準備をしておく必要があったから」
被害的な妄想に走りやすい神崎明人のために、丁寧にフォローした。
『ドッキリじゃないんだね? これは本当に、本当の、嘘じゃない答えなんだね?』
そんなに大きな声を出すのは珍しかった。茜は何度も本当だと伝え、神崎明人の気が済むまで同じように繰りかえした。「私も、好きです」と。
これで、やっと選択問題が終わった。茜は、ほっとした。楽しくもあり悩ましくもあった日々は過去へと流れていって、いままさに新たなストーリーが始まろうとしている。茜は、なにか新しい歯車が動きだしているような予感を楽しんだ。
ふたりはどんな関係を築いていくのだろうか。茜にはイメージが掴めなかった。幼馴染なだけにかえって未知数だったが、それくらいがちょうどよかった。人生で一度も見聞きしていないような特別な関係を築ければ、それを幸せと呼ぼう。
現代が生み出した小型の電話機が、離れているふたりの声を、対面したときよりも近い耳元まで直接に伝えていた。そのことが茜の心を躍らせた。ふたりはそれぞれの歓喜をいろいろな言葉に封じ込めて交換した。お互いが同じ気持ちであることに気づくたびに、茜は、その喜びをさらに言葉にしたくなった。
そんなことを続けているうちに、今度いつ会うかという話題が始まった。
『明日の夜とかどう? 夜の街を散歩とかさ』
「素敵だけど、明日の夜はごめん。飲み会の予定で」
『あれ、でも、飲み屋やってないんじゃないかな』
至極当然の反応だった。茜は、嘘偽りなく話した。
「実は、美術館を貸切って、友達と飲み会をやることになってるの。六人で」
神崎明人なら、それくらいの些細なマナー違反は見逃してくれるだろうと期待していたが、思っていたのと違う反応が返ってきた。
『やめたほうがいいんじゃない? さすがに不謹慎っていうか、まあ、僕の言えることじゃないかもしれないけど』
言いずらそうにしながらも、神崎明人は、最終的には、言いきった。
『オンラインでも飲み会はできるわけだし、そういうやり方を模索したほうが賢いかなって思う。あんまり、そういう軽はずみなことはしてほしくない』
ズバッと言ってきた。茜は意外に思った。周りに合わせることが多い神崎明人だが、彼女と彼氏という関係になると、精神的に変化する部分があるのだろうか。茜としても後ろめたい気持ちがないわけではなかった。自分の気持ちだけを優先しているところがあったのは動かしようのない事実である。
「そうだよね。私も、それはちょっとダメだとは思ってたんだけど、やっぱ、ダメなものはダメだよね。飲み会はなしにしとくよ。じゃあ、明日の夜、かわりに散歩でもしに行こっか」
『そういうことで、お願いするよ』
案外、いろいろなことを言い合える関係になれるかもしれない、と茜は思った。神崎明人とコミュニケーションが円滑に進むのかというポイントは懸念事項でもあったが、杞憂だったかもしれない。
ふたりの未来を描いていくだけで、自然と気分が上向くのを感じた。
佐々木ミツルへのお断りのメールを考えるのは、ちょっとだけ気が重かった。仕事場でこれからも顔を合わせる相手だから、そうなるのも無理はない。
神崎明人との電話を終えたそのときには、とうに日が沈んで、半分だけ夜が始まったようだった。獣が潜んでいるような静寂があたりに満ちている。車内灯のオレンジの光を点灯させて、山道脇に停められた車の運転席にて、茜は打ち込んだメール文を幾度となく推敲した。完成したのは、長文だった。
『例の件ですが、お待たせしてしまい、すみませんでした。私としては、このままの関係を続けていきたいという気持ちが強くなりました。佐々木ミツル展に並んでいる作品をはじめ、私は佐々木ミツル作品のファンのひとりです。これからもどうぞよろしくお願いします』
完成したメール文を送信するのにも気力を使った。十五分くらい躊躇していた。これではいつまでも送信できないぞと反省しつつ、思い切って送信したのが、ちょうど午後七時半ごろだった。
すぐに既読がついた。返信が来るまでに時間を要するかと思ったが、茜が画面を見つめているうちに返信が来た。
『わかりました。とても悲しいです。でも、山崎さんの気持ちは尊重します。どうぞ、幸せになってください』
案外に常識を備えているんだな、と感じた。佐々木ミツルは世間的にはぶっとんだ人物として通っている。実際、身近に佐々木ミツルを観察している茜にも、佐々木ミツルは常軌を逸しているように見える。しかし、そんなのはひとつの側面を拡大解釈しているに過ぎないのかもしれない。
茜は、ヘッドライトを点灯させ、車を発進させた。幅の狭いがたがたとした山道を進んでいると、ここ数日間のいくつもの出来事が頭に浮かんできた。上手に編集された思い出のビデオみたいにBGM付きで流れていた。BGMは、神崎明人の甘い声だった。
もしも逆の選択をしていたら、どうなっていたのだろう。茜はふと、そんなことを考えだした。
佐々木ミツルを選択するのは間違いだと思う。佐々木ミツルには彼なりの魅力があるが、茜が釣り合う相手ではない気がする。それに、もしも佐々木ミツルと付き合っていたら、神崎明人との関係は微妙なものに変わっていくだろう。そんなのは耐えられない。神崎明人を選んで正解だったのだ。茜は確信を強めた。
翌日の夜はあっという間にやってきた。長い遊歩道がある市内の公園を、待ち合わせ場所に決めていた。中学生のときにも一度だけ、神崎明人と一緒に歩いたことのある公園だった。茜は待ち合わせ時間の十分前にアスレチックの前に到着していたが、すでに神崎明人も来ていた。
外灯の下、レースカーテンのむこうに透けているかのようだった。
神崎明人は、ベンチに座っていた。病的に痩せているので力強さは感じない。海水に浮かんでいるようなゆったりとした雰囲気を身にまとっていて、激しい感情を経験したことがないのではないかと思わせる穏やかさがあった。茜が近づいていくと、気づいたのか、神崎明人がベンチから立ち上がった。ぺこり、と頭を下げてきた。
「山崎さん、会えて嬉しい」
いつもと違うな、と思っていると、神崎明人の目が真っすぐに茜の目に向けられているのに気が付いた。視線恐怖症はどうしたのだろう。
「目を合わせて大丈夫なの?」
「実は、コンタクトをしてきたんだ。通販で買ったの。わざと度が合っていないのを装着してきたから、視界がぼやけていて、視線が怖くならない。デートで目を逸らしつづけるのも考えものだから、僕なりに考えたわけ」
視力が弱いわけでもないのにコンタクトレンズを装着すると目が悪くなりそうだったが、それくらいのことには目を瞑ろうというわけだろうか。面白いことを考えたものだ。
茜としても、神崎明人の視界がぼやけているのは好都合だった。神崎明人の目では、茜の顔もぼやけているわけである。じろじろと顔を近くから観察されると緊張するので、それがないだけ、安心感があった。
「とりあえず、歩きながら話そう」
神崎明人に先導されて、アスレチックの前を離れた。ふたりして遊歩道まで行って、硬いコンクリートの地面を労わるようにゆっくりと進んだ。ふたりの歩調は自然に合っていた。呼吸のリズムまで同じような気がした。
神崎明人はちらちらと茜に視線を送りながら、口許を笑わせていた。外灯の下を通るたびに、神崎明人の顔が白く浮かび上がった。目を合わせてくれる神崎明人を、茜は新鮮に感じていた。
「なんで僕が視線恐怖症なのかって、知りたい?」
そんな話題が始まった。茜は純粋に気になった。
「理由なんか、あるの?」
「僕は、あると思う。僕がそう思っているだけかもしれないけどさ」
神崎明人のほっそりとした白い腕が上がってくる。ボディランゲッジが自然にできるのは、好印象だった。その腕は闇の中でガラス細工のように輝いていた。
「視線が交錯したときに自分の中身がぶわって相手に向かって流れ込んでいく感覚がするんだよ。それがあまりいい心地じゃない。なんでそんなふうになるのかって考えていたんだけど、たぶん、傍観者の視線を怖がっているんだろうと思う」
茜は、どきっとした。中学生のとき、神崎明人が暴力を受けているのを見て見ぬふりをした経験があった。それを指摘されたのではないかと感じた。
茜が黙り込んでいると、神崎明人は声を抑えながら笑った。
「違うよ、そういうことじゃない。責めているわけじゃないし、特定の誰かを指しているわけでもない」
そうだよね、と心の中でつぶやいた。
「ただ、悪意を持っている人じゃなくて、なにも感じていない人――つまり、傍観者――がいちばん怖いって話。そういう視線がいちばんのつわもので、そういう視線を向けられると、まるで自分が苦しんでいることがバカみたいになってくる」
茜は、わからないでもなかった。はっきりとした悪意も恐ろしいが、無関心の視線も十分に恐ろしい。
茜の視線はどうなんだろう。そんな疑問が頭に浮かんできたが、口にはできなかった。
言葉のやり取りの間のちょっとした間隙を埋めるように、リズミカルな呼吸音がふたりの背後から近づいてきて、追い抜いていった。蛍光色の靴が前方の闇へと吸い込まれていく。
「佐々木ミツルの作品でさ、『眼球の点滅』ってあるでしょ?」
突然、話題を変えてきた。神崎明人は、Sasaki美術館に来館したことがあるので、いつも展示されている『眼球の点滅』を目の前で鑑賞しているはずだった。
「あの作品のこと、よくわかる。点灯していない眼球がいちばん怖いんだよ。ちゃんと見ているのに、なにも見ていないっていう眼球。まさに、傍観者の眼球。光ってない。もう、死んでる。なにも見る気がない。あの作品の恐ろしいところは、あの眼球と同じ人が世の中に多く実在しているところ」
いままで誰にも話したことのない話題ではないだろうか。そう思うと、いつまでも神崎明人の声に耳を傾けていたくなった。
「僕たち自身の眼球が、ああいう状態になっているっていうことだよ。ウイルスが蔓延してからのこと、恐怖に駆られた人たちがデマ情報に流されていくのを、バカだなぁ、と眺めてしまうときがあったんだけど」
「私もそうかもしれないね」
テレビを見ていると、どうしてこんなに頭の悪い人たちがいるのか、理解に苦しむことがあった。
「そんな視線が死んでるんだ。死んだ眼球で見ているから、なにも見えないんだ。もうなにも見ていないに等しい」
人間の想像力には限界がある。機械的な判断しかできなくなったとき、表面的にしか物事が見えなくなる。見ているけれどなにも見ていない眼球が、いちばん怖い。神崎明人が言いたいのは、そういうことだろう。
「より深く見ようとしない眼球が世の中にあふれている。デマ情報に流されてしまうくらいに怖がっているのかもしれないし、藁にもすがる思いで生きているのかもしれない。絶対に感染したくない事情を抱えているのかもしれない。あるいは、ただ単に、脳の構造が一般的な人たちとはちょっと違うだけなのかもしれない。それらのことが見えなくなっていくとき、眼球が点滅している」
発信するのが便利になった世の中で、こんなに伝えたい思いを抱えている人も珍しい気がする。たいていの人は、世の中になにかを求めたくなるほど苦しんでいないし、そんなことをしたくなるほどの経験を持たない。
茜は、神崎明人を早く抱きしめてあげたいという母性の強まりを感じた。
そんな神崎明人は、言い過ぎたなと反省したのか、好きなだけ言葉をまき散らしたあとに、悲しそうに言葉を付け加えた。
「眼球が点滅している人たちもまた、そうなってしまうだけの理由を抱えているんだろうけどね」
それからは、正常な言葉のラリーに戻った。
ときどき、ふたりの傍をランニン中の人が駆け抜けていく。そういうときはお互いに沈黙した。自意識過剰かもしれないが、ふたりのやり取りを誰かに聞かれることに抵抗を覚えていた。ふたりの会話はふたりだけの間で完結していて、そのほかの誰かに聞かれることを一切、想定していなかった。
公園を一周したころ、神崎明人が振りむいてきた。いつも目が合わなかった神崎明人と目が合うのが、不思議な感覚だった。
「山崎さんもなにか、話してよ。最近、どんなことを感じているのか、とか」
「じゃあ、ひさしぶりに泣いたこと、話そうかな」
茜は、館長の前で涙を流したエピソードについて細かく話した。
館長を泣き落とすために涙を流したのだが、その目的はどうあれ、そのために過去の記憶を利用していた。
祖母が亡くなったときや、友達と別れたときなどの記憶もあるのに、どういうわけか、茜が利用したのは、神崎明人がいじめられているときの記憶だった。あのとき真っ先に浮かんできたのが、その記憶だった。
「あの現場を目撃したときから、私、悔しかったんだよ。ホントに、ずっと。だって、あんな惨いこと許されるわけないし、それなのに私にはなにもできなくてさ。思い出すだけで涙が出てきた」
「そんなこと、とっくに忘れてるかと思ってた」
神崎明人の口が、穏やかに笑っている。触れたいのに、すごく遠い。
「忘れるわけないでしょ。好きな人があんな目に遭ってたら」
「でも、もう忘れてよ。そんなに重いものを背負わせちゃったら、僕としても、あまりいい心地じゃないね」
どこまでも優しさに満ちた笑顔だった。その口が楽しそうに動いた。
「ひとつ理解しておいてほしいんだけど、僕は、そんなに勇気がないから、正直にいって山崎さんを守れるとは思えない。もしも山崎さんが悪い人たちに絡まれたりするようなことがあったら、迷うことなく、僕は真っすぐに逃げる。そのときは、僕も悔し涙を流してあげるから、今日の僕みたいに優しい言葉をかけてよね」
茜は笑った。
「もしかして遠回しに私のこと、批難してる?」
「他意はないよ。僕は、いつでも逃げる準備は整っているから」
嘘じゃないな、と茜は思った。冗談っぽく話しているが、本当にそういう状況に陥ったら逃げ出しそうだ。悔し涙を流すというのも嘘ではないだろう。ただ、悔し涙を流す前に警察に通報するくらいのことはしてくれないと困る。
それは茜も同じか、と気が付いた。中学生のとき、見て見ぬふりをするのではなくて誰かに相談するだけでもよかったのかもしれない。
「これから付き合うんだから、教えてほしいんだけど。あのときのことで、後遺症みたいなものって、あったりする?」
神崎明人は、口を開けたままで固まった。なにかを言おうとしていたが、すぐには言葉にならなかったようだ。次に口から飛び出してきたのは、おそらく最初に言おうとしていた言葉ではない。
「普段から思うんだけど、思ったことを口にしたほうがいい、とか、本当の自分を出さないといけない、っていう価値観ってさ。僕は、あれって間違ってると思うよ。本当の自分が正しい善人である人なんて、そんなにいないんじゃないかな……」
またもやなにか言葉を呑み込むように、俯いて口を閉ざした。ふたたび顔を上げたときには、誤魔化すような笑顔になっていた。
「まあ、この僕に限っては、心の底から善人なんだけどね」
それが神崎明人の最終的な答えだった。その笑顔はすごく嘘くさかった。まだ言えないことなのだろう、と茜は納得し、それ以上は触れないことに決めた。
過去の思い出を語り合って懐かしみながら、茜は、不意に分岐点の先にあったもう一方の現在に思いを馳せた。もしも佐々木ミツルと付き合っていたら、いまごろ、美術館でバカ騒ぎをしていただろうか。助言をしてくれる相手がいると、自分の行動まで変化するのだな、と気が付いた。
またすぐに神崎明人と散歩ができると思っていた。川沿いの遊歩道をぶらぶらと歩こうよという約束も取り付けていたのに、そのあと数日間は会うことすらできなかった。神崎明人が急激に忙しくなったのは、ほかでもない、中学生の男子が市内で通り魔的な犯行に及ぶという事件が発生したせいだった。
ちょうど、茜と神崎明人が公園をぶらぶらと歩いていたあの夜の同じころ、市内の商店街で三名の通行人が刺されていた。そのうち一名は重傷を負い、二名は死亡した。
そういうわけで、神崎明人は、事件部の記者として取材が忙しくなったのである。休日までも取材と調査に時間を費やす始末だった。
その場で現行犯逮捕された中学生の男子は、事件後の取り調べで通り魔的な犯行を全面的に認めたうえで、「むしゃくしゃして刺した。それ以外に理由はありません」と答えている。そのように報じられていた。
ネット上では、現行犯逮捕された中学生の情報が大方明らかにされていた。その名前や住所、通っていた中学校名や、顔写真、家族の情報まで詳細に書き込まれていた。
その情報によると、通り魔的な犯行に及んだのは、市内の中学校に通っていた中学二年生の早川壮一、男、十三歳。ひとり妹がおり、両親が共働きをしている家庭だった。学校ではうまくいっていなかったらしく、変人と呼ばれ、笑いものにされていたらしい。
というのも、早川壮一には少々変なところがあったようだ。日々、呪いについて研究をしたいと周囲に漏らしていたという。呪いが実在することを信じ、その客観的証拠を掴もうとしていた。
ネット上では、卑劣の限りを尽くした悪辣な言葉が充満していた。それらの言葉を見るだけで、茜は気分がやられた。
眼球が点滅している。神崎明人が口にした印象的な言葉が、警告ブザーのように頭に響いていた。
犯人を許していいわけがない。死ぬより苦しい思いをして、罪の重さに押しつぶされながら生きればいい。そんなの、誰だって、そう思う。しかし、そんな言葉を口走るとき、その人の眼球はちゃんと点灯しているのだろうか。
ぱち、ぱち、と点滅している。
いや、すでに消灯している。その相手が見えなくなっているなら、人間の命の重さが見えなくなっていた犯人と同じようになにも見ていない。神崎明人が恐れている視線というのは、まさにこういう種類のものなのかもしれない。
完全に死んだ眼球――なにも見ていない――が死んだような視線を投げてくることの恐ろしさ。もはやコミュニケーションは成立しないだろう。なにも見ようとしていないのだから。
佐々木ミツルが表現しようとしたのも、そういう種類の恐怖だったのだろうか。スイッチが入っていない電球のように、明かりが消えたままの眼球で世の中を見ようとする人たちが多い惨状に恐れを抱いていたのだろうか。
実際のところはわからないが、繊細な感覚で生まれてきた人たちにとって現代のネット社会が異常に見えるのはたしかだろう。
こんな異常な世界の中で、茜は神崎明人と付き合っている。早く会いたい。そんな気持ちが膨らんでいった。
次に神崎明人に会えたのは、翌週末だった。事件の取材が一段落してきたので、約束していた川沿いでも一緒に歩こうかと話がまとまった。
神崎明人は、急な激務に疲弊していた。普段は、地方裁判所で刑事裁判を傍聴して書いた記事をメールで本社に送る、という比較的に動きの少ない働き方だった。いきなり活発に動けば、身体が悲鳴を上げるのも無理はない。もともと細い頬がいっそうに痩せ衰えているように見えた。
山深いところにある美術館でゆったりと働いている茜には、なんと言葉をかけたらいいのか、難しいところだった。
ひとまず、心地のいい風が吹いている川沿いの遊歩道を並んで歩いていた。神崎明人の声に耳を傾けていると、それだけで心の暗がりが晴れていくのを感じた。
神崎明人は、例の事件で頭が埋まっているらしかった。口を開くと、事件のことばかり飛び出してきた。
「犯人の中学生は、呪いの実在を信じていたみたいだよ。山崎さんは、呪いってどう思う?」
「信じないね。あったとしたら怖いとは思うけど」
神崎明人は、うなずいた。
「犯人の子の主張によると、呪いは、負の感情がその対象の不幸状況に直接的な影響を与える現象らしい。たとえば、僕が山崎さんをひどく恨んでいたら、それだけで山崎さんが不幸になるんじゃないか、っていう、そういう仮説だったみたいだけど」
「おかしなことを考えるのね」
茜は、さっそく阿保らしくなってきた。ああいう異常な事件を起こす人は、本来的に頭がおかしいのだろうか。
「僕も、そう思うけどね、犯人にとったら切実な科学的研究だったみたいだ。実際、犯人の子の自室からは研究ノートが発見されていて、そこに記されているさまざまな考えとケーススタディーはたしかに科学的な興味関心を持っていたことを物語っているんだよ」
神崎明人が言うには、犯人の子は、それなりに真面目に呪いを研究していたようだ。
どうあれ、無差別に人を刺すなど、とてもまともとは思えない。事件さえ起こしていなければ、ちょっと変わったところのある子という評価に留まっていただろうに。
神崎明人は、頭に溜まった膿を吐き出すように、言葉を続けた。
「新奇性という意味では十分な研究だったんじゃないかな。犯人の子は、怒りや恨み――つまり呪い――と不幸の関係は純粋な因果関係だと捉えていた。たとえば、ある人が多くの人の怒りや恨みを買えば不幸になるのは当然だというのは一理あるけど、それは呪いとは呼べない。そのような考えの場合、純粋な因果関係になっていないんだ。ある人が怒りや恨みを買い、そのせいで自尊心が傷つけられたり、孤立したり、嫌な経験をしたりといった要素が介在して、その結果として不幸が説明されているでしょ。よりわかりやすく言えば、『風が吹けば桶屋が儲かる』という論理ではない、ということ。風が吹いてから、あれこれの要素が介在して、最終的に桶屋が儲かるというストーリーではない。あれこれの要素を介在せず、直接の影響を与えるというのが、犯人の子の呪い仮説だった」
茜は、ちょっとだけ興味が湧いた。
「わりと本格的なんだね」
「そうなんだ。ネット上では頭がおかしいとされているけど、むしろ、犯人の子はすごく厳密さにこだわっていた」
犯人の子は、そんな呪い仮説について、あらかじめ予想される批判についての見解を示していたようだ。その最たるものが、インターネット仮説だった。
現代においては、内に秘めておくべき感情もネット掲示板やSNSで発信する人が多い。それが対象の目に触れるのも不思議ではない。
つまり、インターネットを介して怒りや恨みが対象に伝達され、対象の精神状態や身体状況に影響を与えているのではないか――インターネットが怒りや恨みと対象の不幸を媒介する役割を果たしているのではないか、という仮説である。
それも一理あると認めたうえで、相手の不幸が独立に存在しているケースから、インターネット仮説だけでは説明できないと犯人の子は結論していた。
「いちばん面白いのは呪い至上主義だ」
神崎明人の声から、少しずつ怠さが抜けていった。呪い仮説を心の底から面白がっているようだった。
「人間の幸福がすべて呪いによって決定しているという考え方を、犯人の子は、呪い至上主義と呼んでいたようなんだ。このことを数式を用いて証明しているんだね。『呪い』をAとして、『そのほかの影響』をBとして、不幸をFとしたとき、F=f(A,B)=A+B という式が現実的に妥当な不幸方程式と考えていたようなんだ。そして、『呪い』の量が変更されても同一の不幸が一時的に持続する現象を見つけ、『呪い』の量が変化すると『そのほかの影響』も変化していると考えた。Aの量が増えたときに同一の不幸が維持されるなら、Bの量が減ったとしか考えられないから。つまり、Bは、Aによって規定されている、というわけだ。これは一時的だけではなく、通時的にも成り立つと彼は考えた。このとき、通時的な『そのほかの影響』をB=(1/α)A と仮定してみたらしい。これをさっきの式に代入すると、f(A,B)={(α+1)/α}A となる。このとき、F=f(A,α) と表現される。この式では、αが十分に大きければ、(α+1)/α の値は限りなく1に近づく。その場合に限り、Bの存在を無視できるため、もはや、F=A である。つまり、不幸は『呪い』だけによって決定される。そういうわけだよ」
「だとしたら、αっていうのは、なんなの?」
茜はその点が気になった。αが十分に大きいという条件下においては、たしかに常に不幸は『呪い』の量と同量であると明かしてはいるが、そのαがなんなのかは説明されていない。
「そこが面白いところなんだ」
神崎明人は、だんだんと明るい声になっていった。
「犯人の子はね、最初は、『呪い』というのは、対象に向けられるあらゆる感情の総計として考えていたようだ。つまり、好きだという気持ちも一種の呪いであり、好きな対象が幸福になるのを助けている、と考えていた。しかし、違った。『呪い』はイメージ通りに負の感情しか含まなくて、好きだとかいうようなポジティブな感情は『呪い』ではないと結論している。じゃあ、ポジティブな感情はなんなのか。実は、それがαだったんだ。ひとつの事例から、αが変数であることを見抜いた末に、結論したらしい。『そのほかの影響』――B――は、対象に向けられるポジティブな感情――α――の逆数にAをかけたものだった。つまり、B=A/αだった。ネガティブな感情の総量を、ポジティブな感情の総量で割ったものがBだったわけ。ということは、その人が周りの人からネガティブな感情よりポジティブな感情を相対的に多く抱かれていたら、Bの値は一より小さくなる。もしもポジティブな感情の量が圧倒していたら、Bの値は限りなくゼロに近づく。一方で、α――自分に向けられているポジティブな感情――がほとんどなかったら、分母が小さくなるわけだから、逆に、Bの値が無限大に膨れ上がってしまい、不幸の量の総計は天文学的な値になる」
神崎明人がなにを言いたいのか、茜にはわかった。
「つまり、『呪い』――自分に向けられる負の感情――の量がいくら少なくても、周りの人からポジティブな感情を向けられていなければ、不幸の量は大きくなる。孤独はもはやひとつの呪いである、というわけね」
「そう。誰かから、好きだとか、楽しいとか、嬉しいとか、そういうポジティブな感情を抱いてもらわないと、どれだけ嫌われなくても、不幸になる」
神崎明人は、声を低くした。
「もちろん、こんなのは、子供だましの遊びに過ぎないのかもしれないけど、犯人の子はそのように考えていた。どうして、こんなことを考えたんだろう?」
「寂しかったんじゃないかな」
神崎明人は、大きく息を吐いた。
「そうだね。そもそも、なんで犯人の子は呪いなんて研究を始めたのかというのは興味深いところだよ。おそらく、自分が不幸になっているのは呪いのせいじゃないか、と考えた。けれど研究を進めていくと、自分が呪われているとはどうしても思えなかった。じゃあ、なんで自分は不幸になっているのか。その答えを、αに求めたんだね。誰からも求められていないから不幸なんだ、っていうことをものすごく遠回しに、誰かに伝えようとしていたんじゃないかと思う。呪いなんて言ってるけど、このf(A,B)={(α+1)/α}Aっていう式は犯人の子自身の個人的な精神構造を表した数式なんじゃないかな」
α――周りの人たちからのポジティブな感情の総計――が少ないと、『呪い』の量がいくら少なくても、Bの値が莫大になる。不幸方程式はAとBの単純な足し算だから、Bの値が莫大になると、不幸も莫大になる。
いちばん怖いのは、呪いではなくて、むしろ、なにも感情を抱いてもらえないこと。人々の無関心の視線に、ぐさぐさと胸の奥まで傷つけられていたのかもしれない。
そんな数式をつくりたくなるくらいに、孤独だったのだろうか。茜は犯人の痛みがわからないでもなかったが、さすがに肯定的な意見を述べるのは躊躇われた。
神崎明人もしばらく黙っていたが、空気を変えようと思ったのか、突然、明るい声を出した。
「ごめん。変な話、しちゃった。べつの話のほうがいいよね」
大きな目が、茜に向けられる。神崎明人は今日もコンタクトレンズを装着しているようで、頻繁に目が合っていた。
茜は「いいよ」と応じながらも、足元にスマホが落ちているのを発見した。雑草の上にディスプレイを上にして仰向けに転がっている。誰かが落としたのだろう。茜は足を止め、しばし考えたが、拾わないことに決めた。
スマホを落としたのに気づいた誰かは、探しに戻ってくるはずだ。茜がそれを拾ったことで、それを探している本人とすれ違ったら、問題になる。神崎明人も文句は言わなかった。
誰かのスマホを置き去りにして、さらに進んだ。
嘘みたいな晴天のもと、ふたりはのんびりと川沿いを歩いた。茜はしっかり日焼け止めクリームで強い日差しへの予防をしていた。芝生と雑草に支配されている足元は柔らかくて、気持ちがいい。いろいろな鳥の声が響いていたが、その中でも、中年男性が溺れかけているようなサギの声がひときわ目立っていた。激しい水飛沫の音は、川が号泣しているかのようだった。
前方から小太りの男性が駆けてくる。休日のせいか、わりとランニングしている人が多い。
通り過ぎるかと思いきや、その男性は、徐々に減速していった末に、茜の横で立ち止まった。なんだろう。茜が驚いたままの目を男性に向けると、その三十代ほどに見える男性は「あの」とよく通る声を発した。はきはきしていて、どこか教師らしさを感じさせる声だった。
言葉を継ぐ前に、半袖のランニングウェアの肩の部分で口許の汗を拭った。
「すみません。このへんでスマホが落ちているの、見ませんでしたか。どっかで落としちゃって、いま、探してるんですけど」
そういうことか、と納得する。茜は神崎明人と顔を見合わせ、うなずきあった。
「それなら、さっき見ましたよ。あっちのほうで、雑草の上に落ちていました」
「おお、よかった。それならちょっと、一緒に来てくれません?」
男性は両手で手招きして、茜が指したところへと駆けだした。一緒に探してほしいらしい。茜としても断る理由はなかったので、従順にあとに続いた。
神崎明人とともに、さきほどスマホを見つけたところへ向かった。記憶を頼りに探していると、茜はスマホを見つけた。わりと簡単だった。雑草の陰に隠れていたが、真上から見下ろすと、はっきりと見えた。
「これじゃないですか?」
「え、どれどれどれ」と男性は進み出てきて、深い穴を見下ろすような大袈裟な動作で足元を見つめると、「あ、これだ!」と喜びの声を上げた。そのスマホを拾い上げて確認してから、「間違いない、これです」とふたたび叫んだ。茜は笑顔を用意する。神崎明人もいつもの穏やかな笑顔で「よかったですね」と声をかけていた。
男性はランニングズボンにスマホを仕舞うと、骨の髄まで染み付いたような手慣れた笑顔をつくった。
「いやぁ、助かりました。せっかくですから、お礼をしますよ」
「そんな、大したことでもないですから」
茜は咄嗟に断ろうとした。ちょっとした手助けのつもりだったのに、大袈裟な事態になっても困る。しかし、男性の圧は強かった。
「そんなわけにはいきません。ちょっとくらいはお礼をさせてください」
二重顎をさらに強調させるように顎を引くと、じろじろとふたりを見つめ、確認を求めるように訊いた。
「おふたりさんは、カップルさんですよね」
「そう……ですけど?」
なにを言い出すのかと訝しんでいると、男性は、ぽんと手を叩いた。
「だったら、写真を撮りますよ。こう見えて、僕、プロのフォトグラファーなんです。スマホを貸してもらえれば、ふたりの様子を自然な感じで撮れますが。それをお礼にしようというわけですが」
茜は正直、心臓が震えるくらいに魅力的な提案だと思った。勝手にスマホを落として勝手に探していただけの人が、いまや、ほとんどなにもしていない茜たちにお礼をしようとしている。
神崎明人に振りむくと、彼は目を伏せていた。プロのフォトグラファーに写真を撮られるなんて恥ずかしい。そんな内心を覗き込んだような気がした。それでも、茜の答えは自分でもびっくりするくらいに明瞭だった。
「ホントにいいんですね。じゃあ、ちょっとだけ、お願いします」
弾かれたように、神崎明人が顔を上げた。その大きな目が困惑したように茜を見たが、茜は笑いかけただけだった。こんなチャンスを逃したらもったいない。頼んだわけでもないのに写真を撮ってくれると言っているのだから、せっかくのことだし、喜んで撮ってもらうべきではないか。
「ちょうど、川の景色もきれいなところだし、これを背景にしてお願いしたいです」
「え、でも、山崎さん?」
神崎明人がなにか言いたげだったが、茜は取り合わなかった。
「これでお願いします。川の景色と一緒に」
茜は、カメラアプリを開いてから、男性にスマホを渡した。男性はにこにことしてスマホを受けとると、さっそくカメラマンらしく声かけを始めた。
「ほら、彼氏さん、そんなに硬くならないで。もっと肩の力を抜いていきましょう!」
「そ、そんな、言われても」
「もう、神崎くん、ほら、笑ってよ」
茜が向かい合って笑顔を向けると、神崎明人は困惑したままで笑顔をつくろうと努力を始めた。それがあまり成功しておらず、失敗した福笑いみたいな顔になっていた。茜は思わず吹き出してしまい、すると、神崎明人も釣られて笑いだした。
かしゃ、かしゃ、とシャッター音が響いた。
「なんでもいいので、なにか、話してください。お話ししているところを撮りたいんで」
男性から要求が入ったので、茜がリードすることにした。どことなく中性的な男性を前にすると、恥ずかしさはなかった。
「これからどんなところに出かけるか、決めようよ。一緒にどんなところ行きたい?」
「哲学の道かな。一緒に歩いてみたいし」
戸惑いを残しつつ、神崎明人も、撮影に協力することに決めたようだ。
「いいね。歩くの、楽しそう」
茜は、芝居のようなセリフを口から出すことへの違和感を携えていたが、その違和感さえも吹き飛ぶような気持ちのよさを感じていた。
「ほかには、どんなところ?」
かしゃ、かしゃ、と響く。ふたりが主演を務めるラブロマンス映画の公開記念試写会の舞台に出演者として登壇しているような気分だった。ふたりの世界がどこか遠くまで拡張しているような気がした。
「国会図書館にも行ってみたいね。あそこの資料はすごいから」
「それだけ? もっとカップルが行くみたいなところは?」
「じゃあ、逆に訊くけど、山崎さんはどこに行きたいの?」
「いろいろあるじゃん。遊園地とかさ」
「つくられた幻想なんて面白くないよ。それよりは、現実の神秘のほうが魅力的」
「なら、水族館は? 現実の神秘でしょ、あれは。魚は人間がつくったものじゃないよ」
「じゃあ、水族館に今度、一緒に行こうか」
「決まりね!」
かしゃ、かしゃ、とシャッター音が響く。茜は神崎明人と向かい合っていた。心の底からその場を楽しんでいる。
お互いの顔を見ているだけで、笑いが込み上げてくる。口いっぱいに詰め込んだ牛乳を噴き出す芸人みたいに、口からなにかを零れさせているような感覚がした。零れたものはふたりの周りの世界へと拡がっていって、ふたりの関係が世界に対する匿名性を失おうとしていた。
スマホのシャッター音のむこうに、無数の人々からの祝福の声があふれているようだった。
神崎明人が、こんなに楽しそうにしているのを見たことはない。それだけで、もう十分だった。そんな笑顔が見たかった。たとえ一時的なものだとしても、その一瞬をいつまでも脳の保管庫に詰め込んでおく準備はできていた。
「私のこと、茜ちゃんって呼んで」
茜は、なぜか、そんな注文をしていた。
「そんな呼び方していいの?」
「いいよ、付き合ってるんだから。いまだけでもいいから。明人くん?」
神崎明人は、どきっとしたように固まってから、そんな自分をバカにするように笑った。
「じゃあ、呼ぶよ? 茜ちゃん?」
抱きしめたくなった。茜は神崎明人の腕を引っ張り、ぎゅっと抱き寄せた。バカみたいに、幸せだった。神崎明人の腕がいかにも気が弱そうな力で茜の背中をさすっていた。そんなふたりにカメラのレンズが向けられている。
「いいね、いいね、いい顔してるよ」
男性は嬉しそうに声を上げ、抱き合ったままのふたりをいろいろな角度から撮っていった。ランニング中の二十代ほどの女性が迷惑そうに避けながら通っていったが、少しも気にならなかった。茜は目を瞑り、神崎明人の胸に耳を押しあてた。
はっきりと心臓の音が聞こえた。
どくどくどくどく……。激しく興奮しているような音に嬉しくなり、茜は上目遣いをする。神崎明人と目が合った。その大きな目が、茜の眼球を見つめていた。
それからのこと、茜は空いた時間を見つけるとスマホの写真フォルダを開くようになった。そこに記録されている神崎明人との幸せな写真の数々は、何回見ても飽きることがなかった。
いちばん気に入った写真は、神崎明人と茜が向かい合って満面の笑みをしている写真だった。背景には青い空と緑の川があり、ふたりの笑顔を壮大に演出していた。スマホのホーム画面の背景に設定しているくらいだった。ホーム画面で神崎明人の笑顔が出迎えてくれるたびに、茜の心は満たされた。
Sasaki美術館の研究室にいるときも、仕事が一段落するたびに、スマホのホーム画面を開くようになった。
その日も、いつものように写真を見つめていると、隣に座っている飯島がマスクを装着していない顔を近づけてきた。
「ビジネススマイル山崎が、ハッピースマイル山崎に進化ですね。恋でしょ? 僕にはすべてお見通しなんですから」
秘密を暴くような口調だったが、茜はべつに隠しているつもりはない。むしろ見せびらかすようにスマホの画面を飯島に押しつけた。その画面の中で、神崎明人が素敵な笑顔を浮かべている。
「幼馴染です。ずっと付き合いたかったんですけど、断れない性格の人だから、こっちから告白しづらくて……。そんなときに、むこうから告白してくれて、すごい助かったんです」
それは正直な気持ちだった。佐々木ミツルからも同時に告白されるというハプニングがあったが、それは一時の気の迷いだ。本当に付き合いたい相手は、変わらずにずっと神崎明人だった。告白をしてくれたことにはすごく感謝している。
「その気持ち、僕もわかりますね」
飯島は、クールを気取ったような言い方をした。
「告白をしてしまうと、受け入れざるを得なくなるんですよ。その相手が、僕みたいに魅力的な人だったらね。ある意味、強制するような感じになってしまい、相手の気持ちを尊重することができないから、告白もしづらいわけです。魅力にあふれてしまった人っていうのは、大変ですよ」
そのナルシスティックな言葉を前に、少しばかり、飯島の髪にマッチで火をつけたくなった茜だが、たしかに飯島が魅力的であるのは間違いない。一見、大雑把そうに見えるが相手のことを思いやれるところがある。神崎明人のように、優しい言葉を恥じずに言える――ある意味、鈍感なだけなのだが――ところもポイントが高い。
茜は、率直に気になったことを訊いた。
「じゃあ、どうやって交際関係に発展させるんですか?」
「山崎さんと同じように、相手が誘ってくるのをひたすらに待つんですよ」
一緒にしないでほしい。茜はたしかに神崎明人が好きだったが、そんな邪な思いで神崎明人に寄り添っていたわけではない。
ずっと付き合いたかったのは事実だが、神崎明人が抱えている生きづらさが少しでも減ればいいという思いを貫いてきた。そっちのほうが強い。それはいまも変わらずに胸の底にある。
飯島とは違うのだ。茜はつい言葉が飛び出しそうになったが、すんでのところで自制した。
「それなら、飯島さんは、いままで告白したことないんですか?」
「一度も、ないね。とはいっても、まあ、いろいろなシグナルは出すんですけどね。それらのシグナルを解読してくれた子とは、たいてい、うまくいくんですよ。恋愛っていうのは、実はシグナルの誤読を予防しながら、お互いの真意を見抜いていく、とてつもなく膨大な戦略体系なんですね」
面白い言い方だ、と茜は思った。お互いに発されるさまざまな言語、非言語情報を適切に見抜いていく洞察力がなければ恋愛は難しい。そう考えると、案外、恋愛というのは高度な頭脳ゲームだ。
一方で、ある種の思い込みが必要とされる側面もあるだろう。いろいろな情報をすべて解読していくという途方もない作業に乗り出すと、もはや、収拾がつかなくなる。そんなことをするよりは、とりあえず相手はこういうものだ、と勝手に整理しておいたほうが効率的なのは言うまでもない。
茜は、そちらのタイプだろうと自己分析する。神崎明人が茜を好きだという情報は、神崎明人が告白してきたという表面的な行動によってしか見抜けなかった。いちいち細かい動作を分析しては、一喜一憂していたが、それが決め手になることはなかった。
技術や洞察力なんて持ち合わせていないような不器用さでも、相手が素直に口にした言葉を信じつづければ、恋愛は成立するのではないか。
きっとそうだろう、と茜は思う。不器用だからこそ、はっきりしたシグナルを信じつづけていたい。たとえ、これから、どんな疑いが生じてきたとしても……。
「あ、そうだ。もしも彼氏が信じられなくなってきたら、また相談してくださいよ」
飯島が、できるバイトリーダーのように軽やかに言葉を零した。
「僕、Sasaki探偵ネットワークの調査員に知り合いが、いっぱいいるんです。浮気調査くらいなら、無料で頼まれてくれると思いますよ」
「そんな人じゃないです、神崎くんは」
茜は、きっぱりと断った。飯島は、にたにたした顔で、「最初のうちは、みんな、そう言うんですよねぇ」と小さな声で付け加えた。茜はさすがに我慢ならなくなり、つい飯島を睨んだ。
「ま、それはそれとして」
飯島はわざとらしく話題を変えていく。
「そういえば、あの人、どうやら、今度もまたひどく気持ちの悪い絵を描き出したらしいですよ?」
「佐々木ミツルですか?」
茜は、まんまと策略に嵌った。
「そう、あの人。調子が優れないんですかね。調子がいいときはいつも地下室のアトリエに籠っているのに、最近は、籠るのが苦痛なようですね。珍しく、よく、どっかに出かけるようになったんですが、どこに出かけてるんでしょうか。あの人が精神的に不調なときって、ホント、きっもち悪い作品しか出てきませんから、また心配です」
それは茜のせいだろうか。茜は、なんとも言えない居心地の悪さを感じた。
とはいえ、失恋がどんな苦しみにつながっていたとしても、それを表現するだけの能力と機会に恵まれているだけ、佐々木ミツルは幸せだろう。たいていの人は、どんなに追い詰められたとしても、それを美しく発信できない。だから、通り魔事件なんかが起こったりする。
それ以上、深くは考えたくなかった。
その休日は、水族館に出かける予定だった。八月も半ばを過ぎて暑い日が続く中、あまり外を出歩くのも疲れるので、屋内にしようじゃないかということになった。そんな話になったとき、茜も神崎明人もお互いに「水族館に行きたい」と言い合っていたのを思い出した。即座に行先は水族館に決定した。
午前八時、神崎明人が運転するシルバーの車が茜の自宅まで迎えにきてくれた。こんな朝から一日中、神崎明人と一緒の時間を共有できるなんて、あんまりに贅沢だった。
茜が助手席に乗り込んだときから、神崎明人は、ジェントルマンだった。
「その服、よく似合ってるよ。僕なんか、ぜんぜん詳しくないから、また今度、ファッションについて教えてよ」
「それはご謙遜でしょ」
茜は、ばっちり決まっている神崎明人のカジュアルな服装を見つめた。
「よく考えてきたっていう感じの服装だけれど?」
「そんなことないよ。時間がなくて、急いで選んできたくらいなんだから」
神崎明人の目は茜を見ていなかった。車の運転のために、度の合っていないコンタクトレンズを装着していないようだ。危ないので仕方がない。
なにか、コンタクトレンズ以外の方法はないのだろうか。
それが神崎明人が思いついた唯一の視線恐怖症を改善する方法なので、口出しはしにくかった。コンタクトレンズを外せば、また目を伏せながら生活することになるだろう。それは堂々としていることを要求されるジェンダー的な男性像から乖離するから、本人にとっても息苦しいに違いない。
茜はふと、佐々木ミツルがサングラスで生活しているのを思い出した。
「いま思いついたんだけど、サングラスをしてみるっていうのはどう? コンタクトレンズだと、目が悪くなるからさ」
「ちょっと、嫌かな。サングラスをかける勇気がない」
それは、茜にも理解できた。芸能人がよく使っている印象のせいか、どこか敷居が高い感じがする。そのうえ、マスクに加えてサングラスを装着すると、もはや不審者にしか見えなくなる。
さっそく発車してからも、なにか良策はないものかと茜は思案を巡らしていた。十分ほど経過したとき、不意に、ポッケのスマホが震えた。手に取ると、佐々木ミツルからメッセージが着信していた。
『魚の眼球って美味しい?』
唐突で意味不明だった。眼球をモチーフにすることが多い佐々木ミツルだから、ひょっとすれば、次作では魚の眼球を題材にするつもりなのかもしれない。とりあえず、茜は、『私は食べたことないです』というメッセージを返信しておいた。
それからも頭を回しつづけたが、茜は、結局、神崎明人の視線恐怖症についての良策を思いつかなかった。こういうときこそ、ぽんぽんとアイディアが出てくる人が羨ましくなってくる。茜は、どこか悔しかった。
「そういえば、例の呪いの件は、実証研究が始まったみたいだね」
神崎明人が話題を提供した。その話題については、茜は承知していなかった。
「どっかの大学が研究に乗り出したの?」
「そうみたい。犯人の子が整理していた研究ノートと、ネット上に公開していた研究報告を見た科学者が、これは面白い、と反応したらしい。すぐに研究チームを立ちあげて、理論仮説の実証研究に乗り出したようなんだ」
面白い時代になったものだ、と茜は思った。たしかに、ここ最近でも世界を驚かせる発見はいくつもあったわけだ。人間には無意識の領域があることを示したフロイトの精神分析学、人間は猿から進化したものであり、そのプロセスは環境によって規定される自然選択の法則に基づいていたと示したダーウィンの進化論、そして、複雑にして奇妙な経済現象を鋭く洞察したマルクスの資本論。
二十一世紀になり、今度は、呪いの実在を証明しようとする呪い仮説が登場してきたわけである。残念ながら、その創始者は通り魔になったが、その呪い仮説が実証されれば学者としても名を残すだろう。
「前も話したけど、犯人の子は、『呪い』の量が増加したり減少したりするときに一時的に不幸が維持される現象を見つけていたんだ。これは不幸維持効果と呼ばれている。その反対に、『呪い』の量に応じて不幸の量が再度調整される現象を、総量比例効果と呼んでいた。これは図と数式を用いて説明できるんだけど、生憎、運転しているものだから、口だけで説明してみるね。まずは、不幸維持効果。これは『呪い』がA1という水準にあったときからA2という水準に減少したとすると、A1ーA2だけ減少したことになる。思い出してほしいんんだけど、いちばん簡単な想定では――もちろん、そのほかの想定もあるようなんだけど――不幸FはAとBの単純な足し算だった。もしも、呪いAがA1ーA2だけ減少したのに、不幸Fが維持されているとしたら、BがA1ーA2のぶんだけ増加していなければいけない。つまり、これが不幸維持効果だ。Aの減少ぶんと同じぶんだけ正負逆の方向にBが変化する。A1ーA2のぶんだけね」
あくまでも、F=A+Bという単純な想定のもとでは、たしかに不幸維持効果はそのように説明されるだろう。
この不幸維持効果があったおかげで、BがAによって規定されている側面が発見されたわけだから、とても都合のいい効果である。
「一方で、総量比例効果はちょっと複雑だ。これは二次元の図で表現したほうがわかりやすいんだけど。ともかく、まずは、横軸にAを、縦軸にBを取った図を考えてみよう。そこに、不幸水準F1を表す同一直線を引いてみたい。つまり、F1のレベル集合だね。たとえば、Aが3で、Bが3のときは、F1は6だ。そして、この6と同一の不幸を示す直線はどうなる? Aが2のときはBが4,Aが1のときはBが5。そう考えていくと、同一の不幸6を示す直線は傾きが1で縦軸と横軸にそれぞれ6で交わることがわかるね? もしも現在Aが3でBが3のとき、Aが2に減少したら、Bは4に増加する。これが不幸維持効果というわけ。同一の不幸6を示す直線を左上がりに上がったわけね。しかし、Aの減少に伴って、長期的にはBも減少し、不幸の量が少なくなる。このBの減少分が、総量比例効果なわけ。じゃあ、Bは4からどれだけ下がっていくか? 実は、それは、αに依存している。Bが(1/α)Aだったことは覚えているね。それを覚えていれば、その図においてAとBを結んだ直線の傾きが1/αであることに気づけるはずだよ。つまり、Aのところから傾き1/αの直線を引いて、それが縦軸に交わるところがBと考えられるわけ。かりに、αが1だとすると、Aが2のとき、1/1×2=2で、Bも2になる。最終的には、この水準、つまり、A+B=2+2=4で、不幸が4になる。不幸は6から4に下がったわけね。一方で、Bは、不幸維持効果で4まで上がり、最終的に2に下がったから、Bの変化分は2になる。不幸全体の変化分2と、Bの変化分2が同じであることに気づいてほしい。不幸維持効果では不幸の量6は変化していないから、ここにおけるBの変化分は不幸の量の全体の変化と同じと考えられる。つまり、Bの変化分はもはや総量比例効果であると言える。この例での総量比例効果は2であるわけだ。この総量比例効果を、文字だけで表してみると、F1ー(A2/A1)(A1+B1)になる。F1は変化前の不幸量、A1は変化前の『呪い』量、A2は変化後の『呪い』量、B1は変化前の『そのほかの影響』の量。図を書けば簡単に導き出せるから、時間のあるときにでも、やってみてよ」
今度、やってみたら面白いかもしれない、と茜は思ったが、そう思うときはたいていやらないだろう。
「この数式が表しているのは、とても面白いことなんだけど、わかる? 実は、まだ整理することができてね、A1+B1というのは、つまりF1――はじめの不幸の水準――だから、その数式はF1{1ー(A2/A1)}ということを意味する。(A2/A1)というのは、『呪い』Aの変化したあとの水準を変化前の水準で割ったものだね。つまり、この式が表しているのは、『呪い』Aの変化後の変化前に対する割合を1から引いたもの、つまり、Aが変化した割合×F1が総量比例効果になるってわけ。さっきの例でいうと、『呪い』Aは、3から2に減少し、2/3になった。ということは、1ー(2/3)=1/3になる。これがAの変化した割合。はじめの不幸水準が6だから、6×(1/3)=2で、総量比例効果はやっぱり、2になる。不幸の量は、もとの水準から『呪い』の量の変化分と同じだけ、2/3に減少しているね。『呪い』の量に比例して不幸が決定されることを示している。だからこそ、総量比例効果と名づけられたようなんだ」
神崎明人は、水を得た魚のように話していた。
「でもさ、このままの数式だとαの効果がぜんぜん表現されてないな、って、そう、不満に思ったでしょ? 僕もそうなんだ。いまのは、αが一定であったときの話に過ぎないからね。しかし、そんなのは犯人の子も考えていたようなんだね。この数式のF1をさ、(A1+B1)と書き換えてみて、このときのB1に、あのお馴染みの、(1/α)A1を代入してみるといい。まずは、F1{1ー(A2/A1)}を展開して、F1ーF1(A2/A1)とする。F1を(A1+B1)に書き換えて、(A1+B1)ー(A1+B1)(A2/A1)になる。B1に(1/α)A1を代入すると、{A1+(1/α)A1}ー{A1+(1/α)A1}(A2/A1)となる。前のほうは、A1でくくると、1+(1/α)が出てきて、後ろのほうも、A1でくくると1+(1/α)が出てくる。後ろのほうのA1は、(A2/A1)の分母と打ち消しあって消える。最後に1+(1/α)でまとめると、{(α+1)/α}(A1ーA2)というように簡単に整理することができる。これが、総量比例効果のいちばんわかりやすい表現で、かつ、いちばん面白いところなんだ。横軸にαと、縦軸に(α+1)/αを取ってみるとすぐにわかるけど、その曲線はαが1のときに2を通過し、それ以後、αが大きくなるにつれて限りなく1に近づいていく。その一方で、αが1より小さい場合は、どんどん増加していって、無限大に発散していくんだね。この曲線を犯人の子は、ポジティブカーブと呼んでいたようなんだけどね、これが意味しているのは明白だよ。その名のとおり、α――周りの人たちからのポジティブな感情の総量――が多い場合には総量比例効果はほとんど『呪い』Aの変化量だけになるけれど、αが限りなく少ない場合には、総量比例効果は『呪い』Aの変化量の無限倍にもなりうるっていうわけ。つまり、周りの人たちから大切にされていない人は、ちょっと周りからの負の感情が減るだけで不幸の度合いが急激に改善される。逆に言えば、ちょっと周りから負の感情が増えるだけで不幸の度合いが急激に高まる。これは敏感性と呼ばれている。周りの人たちからポジティブな感情を抱かれていないような人は、自分に向けられる負の感情の変化に敏感に反応するっていうわけ。もっとわかりやすく言うとすると、仲間から求められていない人はちょっと嫌われただけで激しいダメージを受ける。仲間に恵まれている人は、ちょっと嫌われただけだとそれほどのダメージを受けない」
「これまた呪いとは違って、現実的な側面の証明になっているようだけど?」
「そうだね。当然の現象を、呪いという仮定を媒介にして、証明してしまったわけだ。犯人の子が言いたかったのはただひとつだろうね。仲間がいないと苦しくなる、というだけのことだ」
寂しいなら寂しいと言えばいいのに、それを数学的に証明しようとするなんて、どんなに不器用なのだろう。茜は思う。日本語で伝えられないことを、数学という言語で表現するしかなかったのだろうか。
「犯人の子は、微分についても先取りして勉強していたようでね、αの限界的な変化に対する総量比例効果の大きさの変化の関係や、αの限界的な変化に対する不幸の大きさの変化についても導いていたんだ。ポジティブな感情――愛――を微分していたわけだね」
神崎明人が悲しそうに言い、それ以上は言わなかった。
犯人の子は、愛を微分していた。その背後にあるメカニズムを解き明かすために。いや、自分の不幸を説明するために。あらゆる仮説を検証し、ミステリーとしての不可侵性を世界から抹消しようとしていた。わからない現象をすべて説明しようとしていた。茜にもその気持ちの片鱗が理解できるような気がした。
茜も、神崎明人への気持ちを解き明かしたかった。これはいったいなんなのか。同情なのか、愛情なのか、贖罪なのか。どうして神崎明人にこれだけ執着するのか。そのミステリーを、少しでも早く厳密に明確に理解したかった。
しかし、茜は、その答えが数学的な記述にあるのではない、と理解している。神崎明人とともに時間を過ごす中で、徐々に解き明かしていくしかないのだった。
「美味しそうだねぇ」
神崎明人は水族館に入ったときから、そのボケを貫いていた。無理をしている感じが面白かったので、茜は泳がせていた。
「ねえ、山崎さん。あの小さいのなんか、すごく美味しそうじゃない?」
「ホントだね。蒸したら絶品になりそう」
「それ、わかる。あの魚は蒸したほうがいいんだよね」
ほのかに白いライトがスポットライトみたいにところどころ、黒い床に穴をあけているだけだった。館内は暗い。自分たちが深海を泳いでいる二足歩行の生き物になったような気分だった。
大きな水槽に包まれた空間は本当に水底のようだ。BGMとして流れる水飛沫の音が心地よく身体をリラックスさせてくれた。
「ねえ、マグロって、生で見ると、あまり美味しそうじゃないね。それよりは、あっちのクリオネのほうが美味しそうだった」
「私は、マグロも食べたくなっちゃったけど?」
神崎明人は、なんだか、そわそわと肩を揺すりはじめた。どうしてツッコんでくれないのという内心があからさまに伝わってきた。
ノリツッコみという手法を知らないのだろうか。さすがに可哀そうになってきたが、タイミングを逸したのか、徐々にグロテスクになっていく神崎明人のボケを処理することができなかった。
「そういえば、山崎さんも美味しそうだよね?」
「どこらへんが美味しそうに見える?」
茜は、自分の身体を見せびらかすように、両腕を拡げた。この切り返しはさすがに刺激的だったらしく、神崎明人は申し訳なさそうに目を伏せた。水族館に入る前にちゃんとコンタクトレンズを装着したはずなのに。困惑しているのも素敵だな、と思った。
「だから、その、あれだよ、あれ。そういうの、やめて」
声に力を込めながら、怒りだした。ついに耐えられなくなったらしい。
「おかしいこと言ってるんだから、ちゃんと、おかしそうにしてよ」
「ごめんって、ごめん。じゃあ、もう一回、いまの会話、やり直してみようよ」
そういうわけで、将棋の棋士が対戦を振りかえるかのように、水族館に入ったときからの会話がもういちど始まった。
「見て、あれ、山崎さん。あの魚、美味しそうじゃない?」
「食べる気満々じゃん」
神崎明人は、ようやく嬉しそうに笑った。茜も笑う。一秒経つごとにがキャビアが零れているみたいだった。
たとえば、茜がいるだけで神崎明人のαが無限大に膨れ上がるなら、そのBを限りなく0に抑えることで、神崎明人の不幸Fは縮減する。神崎明人がどれだけ過去の相手に責められて呪われたとしても、その影響を最小限にとどめることができる。それだけで充分だった。
神崎明人のαになりたい。
茜はそんな切なる思いを頭の片隅に浮かべながら、凪のように静かな水族館内を神崎明人と進んでいった。館内ではマスクをしていたから、神崎明人の顔がよく見えなかった。それが少し残念ではあるものの、ふたり並んで歩いているという事実に何度でも心が躍った。
館内を回っている途中、神崎明人がお手洗いに行った。エイが遊泳している巨大水槽の前で待っていると、ぽんぽんと肩を叩かれた。すごく早いなと思いながら笑顔で振りかえると、そこにいたのは神崎明人ではなかった。
「いいところだよね、山崎さん。こんなに生き生きと魚が泳いでいるなんて」
茜より頭ひとつぶん背が高いサングラスの男だった。マスクのせいで顔が見えない。それでも、そのほっそりとした体格と、聞き慣れた声で判別できた。天才画家、佐々木ミツルだ。
いつものように真っ黒の服で、ところどころ絵の具で汚れている。主に青い絵の具で汚れているその服は、水族館内の半透明のブルーと調和していた。
はじめに感じたのは違和感だった。水族館に佐々木ミツルがいるのは、大物有名人が民家に住んでいるのと同じようなちぐはぐ加減だ。
次にやってきたのは、ネガティブな感情だった。告白を断ってからも美術館内ですれ違うことはあったが、そういうときは挨拶を交わす程度だった。いざふたりきりで対面したとなると、途方もなく気まずい思いがした。
そのうえ、せっかくの非日常世界が、音を立てて崩れていく。急に仕事場に戻されたような憂鬱が込み上げてきて、茜は、夢から覚めたときのような脱力感を覚えた。なるだけ明るい声を出すように気をつけた。
「こんなところで会えるなんて、意外です。今日はひとりですか?」
「相手がいないものだから」
佐々木ミツルは、当てつけのように残念そうな声を落としてから、ちらちらと確認するように周りに首を回した。
神崎明人が戻っていないことを確認したのだろうか、と茜は考えた。おそらく、神崎明人がお手洗いへといなくなったのを見計らったうえで、茜に声をかけたのだろう。
ひょっとして、尾行してきたのか。そんな疑いが頭に浮かんできて、茜は訊いた。
「どうして、今日は水族館に?」
「来ちゃダメなの?」
佐々木ミツルは、突き放したような言い方をした。気分を害したのではないかと一瞬不安になったが、佐々木ミツルはいつも、そんな感じだ。
「次作の参考にしようと思ってね、最近はずっとここに通っているんだ。今度の作品では魚を書こうと思っている」
そういえば、最近の佐々木ミツルはよくどこかに出かけているようだ、と飯島が言っていた。そのどこかが、水族館だったというわけだ。今朝のメールでも、『魚の眼球って美味しい?』という魚に関する質問を送ってきていた。
なんとなく佐々木ミツルは、想像力だけで作品を生みだしている印象があったので、入念に準備していることは意外だった。
「タイトルもすでに決まっている。『蒸された魚眼』。だから、本当に偶然だよ。告白を断られたばかりだから、山崎さんが疑うのも無理はないけど」
「そんな、疑ったわけじゃないんです。すみません」
茜は、あらたまって頭を下げた。むやみに疑ったことを恥じつつ、仕事用の笑顔を用意した。
とはいえ、気分はだだ下がりだった。幻想的な館内が、義務感と責任感に支配された日常に逆戻りしていくようだ。豊かな時間が燃やされて灰になっていく。
茜が必死に頭を切り替えながら、佐々木ミツルの次作について深掘りしようと考えていると、佐々木ミツルが先に口を開いた。
「邪魔をして悪いとは思うんだけど、どうしても言っておきたいことがあって」
マスクとサングラスで隠れている顔は、マスクがもごもごと動くだけで、なにも変化しない。あくまでも声の慎重さからすると、それほどポップな話題でもないようだった。茜は純粋にどんな内容か、気になった。
茜が言葉を待っていると、佐々木ミツルは、顔を近づけてきた。いまいちど確認するように左右に首を回してから、真っすぐとサングラスの顔を茜に向けた。
バスケットボールを間に挟んだくらいの至近距離で、マスクも動かないくらいの小さな声で言った。
「あいつには気をつけたほうがいい」
誰かに聞かれるのを恐れているような、囁き声だった。まるで文脈の存在しない、余白に投げ出されたような言葉だった。近くから聞こえていたカップルの話し声が遠くへと消えていく。真空になったように音が消えて、佐々木ミツルの言葉がエコーを響かせて頭に残留した。
あいつには気をつけたほうがいい。
いったい、誰のことだろう。いまの茜の周りには危険人物などいないはずだ。誰に気をつけろというのか。
茜が無反応でいると、佐々木ミツルは少しだけ苛立ったように口早に続けた。
「山崎さんのいまの彼氏だよ。僕にはわかる。やめておいたほうがいい。山崎さんは騙されてるんだよ」
神崎明人と別れたほうがいいと言いたいわけか。もしもそうなら、いくらなんでもやりすぎだ、と茜は思った。どんなに気に入らなかったとしても、茜が真剣に付き合っている相手を悪く言うなんて、あまりにひどい。
心の中に、ぼっと炎が揺らぐのを感じた。抑えられなかった。茜の口は勝手に動いていた。
「それはずるいですよ。さすがに」
「違うんだよ」
佐々木ミツルは、僅かに声量を上げた。
「最近、眼球が抉り抜かれた死体が発見されるという事件が続いているのは知っているよね?」
それは茜も承知していた。いろいろなホテルから、立て続けに、眼球を抉り抜かれた若い女性の変死体が発見されており、その犯人はいまだ特定されていない。そのような猟奇的殺人事件が、神崎明人とどう関わってくると言いたいのか。
「いいから、とにかく別れたほうがいい。手遅れになる」
茜は感情的になった。
「私たちの邪魔をしないでください。いま、デート中なので」
茜は足早に佐々木ミツルから離れていった。案に相違して、それ以上、佐々木ミツルは、追いかけてこなかった。それが余計に頭に来た。まだまだ佐々木ミツルに言いたい言葉はたくさんあったのに、そのどれもが心の奥で硬質化していった。
佐々木ミツルのもとに戻るわけにもいかず、振りかえりもせずに、どんどん離れていった。重いものが心の中に溜まり、身体が不自由になった気がした。
気分は最悪だった。早く神崎明人に会いたかった。
それからは、館内では佐々木ミツルに会わなかった。幸いなことに、お手洗いから戻ってきた神崎明人と合流すると、嫌な記憶は滝壺に流されていった。贅沢な時間を過ごしていると、心の奥に溜まった重いものにも無関心になれた。どう佐々木ミツルが邪魔をしても、ふたりの関係はどうにもできない。そんな確信が込み上げてくる。
しかし、茜は、なんとなく猟奇的殺人事件のことが気になった。館内のフードコート――といっても、緊急事態宣言の影響か、すべての飲食店が閉まっていたが――のテーブルで神崎明人と向かい合って座っているとき、スマホで『眼球 猟奇的 殺人事件』と検索していた。
市内で発生している連続殺人事件がすぐにヒットした。八月のはじめから半ば過ぎの現在までにおいて、三人の女性が眼球が抉られた状態で発見されている。犯人の特定につながる情報はいまだ掴めていない。被害者の女性のスマホがいずれも発見されていないことより、スマホを介して――おそらく、出会い系アプリなどで――犯人と被害者たちがつながっていた可能性があるとのことだった。被害者三人が発見されたそれぞれのホテルの一室からは、精液の入ったコンドームも発見されており、犯人との肉体的な接触のあとに殺害されたものと思われている。
いずれもビジネスホテル内で殺害されているが、ホテルの部屋はすべて被害者名義で契約されている。監視カメラの設置場所が悪く、犯人の特定は難しい状況だった。
佐々木ミツルは、いったい、なにを言いたかったのだろうか。茜には、それが理解できなかったし、単純に理解すればわからなくもないが、それは明らかに間違った考え方だと思わずにはいられなかった。
水族館を出たのが正午過ぎだった。それからはフリータイムでカラオケに入ろうと思った。とはいえ、休業要請の中で営業しているカラオケは込んでいて、個室に入るまでに一時間以上待った。個室に入ってからすぐ、ルームサービスで昼食を取ったが、あまり美味しくはなかった。
最初に歌ったのは茜だった。思うように声が出なかった。次に歌った神崎明人もあまり声が出ていなかった。それからは、ジャンケンをして勝ったほうが歌うというルールに決めた。茜が歌っているときは、神崎明人は手を叩いてリズムを取ってくれた。反対に神崎明人が歌うときは、茜がリズムを取ってあげた。
最初のうちはお互いに恥じらっていたが、歌が下手なのはお互い様ということに気づくと、恥ずかしがる必要もなくなった。中学校とかで歌うような合唱曲を一緒に歌ったりもした。
徐々にふたりの声が大きくなり、自然な笑顔が増えていった。
神崎明人は、執拗に十年くらい前のヒット曲ばかりを歌っていた――それは神崎明人がいじめられていた時代と重なっている――が、茜は最新のヒット曲を好んだ。最近の曲には興味ないのか、と訊くと、「僕は囚われているんじゃない?」と神崎明人は他人事のように答えた。茜は看過できなかった。
「なにに囚われてるの?」
「記憶と言えばあたらずとも遠からずというところ。肥大した記憶は現在よりも現在らしく振舞い、未来までを呑み込んでいく。そんな言葉を、どっかの文豪が言っていたんじゃないかな。でも、こんな話題は、やめようよ。好きなものは好きだし、興味ないものは興味ないっていうことで」
神崎明人は、引き続き、少しだけ古い曲ばかり歌っていた。
歌うのに疲れてくると、狭い個室の中で、どうでもいいことを話した。あまりにどうでもいいのに、それは宝箱に閉じ込めておきたいくらいに大切な時間だった。
カラオケを出たのは、夜の八時だった。入ったときは明るかったのに、すでに暗くなっていた。運転席に座った神崎明人が、「明日からまた裁判所通いだよ」と悲しそうにつぶやくので、茜は、咄嗟に「帰りたくない」と口走った。夜深くまで、ふたりだけで楽しみたかった。
神崎明人は、目を合わせてくれなかった。コンタクトレンズをちゃんと装着しているはずなのに、表情のない横顔のままだった。
「僕も」
それだけ、いまにも消え入りそうな声で返ってきただけだった。それから車内が無言になった。もっとクールに付き合いたいのに、お互いに激しく緊張していた。神崎明人はすぐにコンタクトレンズを外した。「じゃあ、行くよ」と発進した車がどこに向かっているのかさえ、茜は聞くことができなかったし、神崎明人は自ら言おうとしなかった。
結局、神崎明人が運転する車は、二十分ほどで近場のラブホテルに到着した。
「先に言っとくけど、冗談でも笑わないでね?」
横顔のまま確認するように言った神崎明人にむかって、助手席に座る茜はうなずいた。
「笑うわけないよ。気持ち悪がったりもしない」
「それならよかった。裸を笑われたのがいちばんトラウマなんだ。それだけ怖かったんだけど……」
神崎明人は、いまいちど心配そうな顔をした。
「これって、強引じゃないよね? 僕わかんないんだけど、大丈夫……だよね?」
そんなことを心配するなんて、どんなに気が弱いのだろう。茜は、ぎこちなく笑いを返した。どうしてか、こんなに固まっている。はじめてじゃないのに。
一階のロビーには、部屋を選ぶためのタッチパネルがあった。緊急事態宣言が出ているにもかかわらず、すでに半分ほど埋まっていた。神崎明人が、「記念だから、僕がお金を出すよ」と、いちばん贅沢な部屋を選んでくれた。エレベーターで上階に上がり、部屋に入った。
暖色のライトに照らされた部屋は、ムード満点だった。それに、とても広い。レディファーストというわけで先に茜がシャワーを浴び、一日の汗を流した。その次に、神崎明人がシャワーを浴びに行った。ガウンを羽織ってベッドに腰かけて待っているとき、茜は、なんとなく、テーブルに置かれた神崎明人のスマホの黒い画面に目を向けていた。
ちょうど、そのときだった。その画面が点灯し、スマホの利用状況を知らせる通知が入った。先週より画面を見ている時間が20%伸びました、と知らせている。しかし、茜の目を鷲掴みにしたのは、その通知ではなかった。
ロック画面の背景として設定されているもの。それは拡大した眼球だった。茜は、戦慄が走るのを感じた。その眼球はおそらく茜のものであり、川沿いの遊歩道でプロのフォトグラファーに撮ってもらった写真を拡大したものだった。
茜は、ほとんど無意識に神崎明人のスマホを手に取り、ロック画面に神崎明人の誕生日を打ち込んだ。違う。その次に茜自身の誕生日を打ち込んでいくと、ロック画面が解除された。
心臓の動きが早くなっていく。そのスマホのホーム画面にも、同じように眼球を拡大した画像が設定されていた。それは茜のものではない。これはなに?
茜は、写真フォルダを開いた。そこには川沿いの遊歩道での写真がいっぱい詰まっていたが、それだけではなかった。
眼球の拡大写真。いろいろな人の、いくつもの眼球が画面いっぱいに拡大された写真が、無数に保存されていた。視線恐怖症のはずなのに、なんなの、これは?
茜は、全身の皮膚がざわざわするのを感じた。頭に浮かんでくるのは、また、佐々木ミツルが水族館で告げた言葉だ。あいつには気をつけたほうがいい。
手が震えてきた。知らず知らずのうちに、涙が零れてくる。
茜は、震える手でスマホをロックし、ふたたびテーブルの上に置いた。頭の中はぐちゃぐちゃしたままだった。タオルで涙を拭きながら、ベッドに沈み込んだ。
暴力を受けている神崎明人の姿が鮮明に蘇ってくる。茜が逃げ出したあのとき、たしかに目が合った。佐々木ミツルが描く『贖罪のファンファーレ』の中の少女みたいに、はっきりと、目を逸らす意思もなく、こちらを見ていた。
もう手遅れだよ。神崎明人の優しい声が聞こえた。いまさらどうにもならないよ。
やめてよ、と絶叫したくなった。茜は動揺した心を立て直そうと努力した。神崎明人がシャワーを浴びて出てくるまでに、どうにか、笑顔をつくる準備を整えた。
バスから出てきた神崎明人は、腰にタオルを巻いていた。さっそく茜をベッドに誘うと「巻きこみ事故になっちゃうから、気をつけて」と茜の長髪を気遣いながら、布団の中で向きあってくれた。すかさず、茜は訊いた。
「なにか、隠していることはない?」
「なんで?」
その顔に不審な色が走る。
「なにかあるなら、話してほしいだけ」
「なにもないよ」
神崎明人は、真面目くさって言いきった。まだ、コンタクトレンズは装着しているのだろうか。少しだけ目を逸らしてから、また目を向けてくる。そのときには、神崎明人は笑顔になっていた。
「あえて言うとしたら、もう抑えられないっていうことだけ。これ以上、我慢したら、爆発しちゃうよ」
にやにやと笑う神崎明人を前に、茜は我慢ならなくなった。
「じゃあ、スマホのロック画面の写真。あれはなに?」
ズバッと指摘した。これでふたりの関係が修復不可能になってもいいというくらいの覚悟をしていた。それなのに、意外にも、神崎明人は余裕の笑みだった。
「あれはなんでもないよ。エクスポージャーって知ってる?」
それは茜も耳にしたことがあったが、具体的には知らなかった。
「不安とか恐怖とかを克服するために、わざと不安や恐怖を掻き立てるような状況に自分の身を晒してみるっていう一種の心理療法だよ。まさに、それ。視線恐怖症の克服のために人間の視線に晒される生活をしようと思ってね、山崎さんの視線をロック画面に設定した。ほかにも、いろいろな視線を用意して、日々、エクスポージャーを試してみようと思ってる」
茜の心の中に、突き上げるように安堵が込み上げてくる。それだけのこと。一瞬だけでも疑った自分が恥ずかしくなってくる。茜は、布団の中でガウンを脱ぐと、神崎明人に抱き着いた。
「疑っちゃって、ごめん」
耳元で囁いてから、丸まり、神崎明人の胸に耳を押しあてた。どくん、どくん、と心臓が動いていた。心臓の音が聞こえる、なんていう歌詞を書くようなアーティストたちはみんな、茜と同じように誰かの心臓の音を心地よく感じたことがあるのだろうか。こんなにも鮮明に生きている音が聞こえるなんて、奇跡だ。
神崎明人の手が、静かに伸びてきた。躊躇いがちな臆病な手にむかって、「いいよ」と茜は促してあげた。ふたりは禁断の果実をこっそりと齧るかのように、濃厚接触に明け暮れた。
翌朝は、目覚めがよかった。自宅で起床した際に、これだけ身体を軽く感じるのははじめてかもしれない。茜はスキップをするように軽やかに準備を整えて、自宅を出た。市内の自宅からは、車でおよそ四十分ほどで山奥の美術館に到着する。
車内では、ラジオをつけていた。起きてから朝のニュース番組をゆっくりと見ているだけの時間がないので、代わりに、いつも車でラジオニュースを流している。世間の情報に追いつくための時間なので、わりと真面目にニュースの声に集中していた。
いちばん注意深く聞かなければならないのは、もちろん、流行している新種のウイルスの感染状況だった。
緊急事態宣言が発出された影響により、八月の初旬から、感染者数は大幅に減少していた。宣言が解除されたらリバウンドする可能性があるが、いつまでも宣言を継続すると経済へのダメージが大きくなる。宣言の延長か解除かについて、政府の諮問委員会が忙しくしているらしい。
ラジオニュースに耳を澄ませていると、ポッケに入れていたスマホが震えた。
『昨日はありがとう。素敵な夜だったね』
神崎明人からだった。
『これからは、茜ちゃんって呼んだほうがいいかな。山崎さんのほうが、しっくりとはくるんだけど。とにかく、素敵だった。昨夜の幸福を保存するために、ポエムを書きたいくらい』
頬が緩んでいくのを感じた。山道に入っていた車を道路脇に停めてから、茜は返答を書いた。
『昨日のでも充分だったけど、私は、もっとクリエイティブなこと、したいよ。せっかくだから、面白いアイディアを考えといて』
『任せて!』
すぐに送られてきたそのメッセージに続けて、グッドマークのスタンプが添えられていた。それで終わりかとも思ったが、まだ続きがあった。
『いま思いついたんだけど、台本を用意するのはどう? この僕がセクシーな台本を書くから、それを一緒に演じようよ』
それはイケている、と茜も思った。『いいね』と送信したあと、筋肉そのものが意思を持っているかのように頬がにやけた。
お互いの愛情を確かめるために電波を利用するなんて、かなりクレイジーな時代になったものだと思う。そのうち、遠隔で夜の営みをおこなえるようになるかもしれない。茜はスマホをポッケに入れて、ふたたび車を発進させた。
車内では、パンデミックのニュースに続いて、市内で発生している連続眼球くり抜き殺人事件のニュースが流れた。事件に関する新たな情報はなかった。被害者の葬儀が盛大におこなわれたことを漠然と伝えるのみであった。
世の中には、類い稀なるアイディアを思いつく人がいるものだ。茜は、他人事のように感心していた。眼球をくりぬいて持ち去るなんて、いったい、犯人はどんな顔をしているのだろう。
昨夜の温かさが抜けきらないままの茜の中では、それくらいの心の動きしか生じえなかった。しかし、すぐのうちに、茜は、ふと気が付いた。
犯人は若い女性を標的にしているようだから、もしかしたら、自分も標的にされるかもしれない。そう思うと、被害者への同情がどこからともなく湧いてきた。犯人を許してはいけない。
単純な図式が頭の中に出来上がった。掛け算の仕組みを理解できた小学生のように、誰かに教えたくなった。犯人を許してはいけない、と。その単純なメッセージを声高に発信しながら、いつまでも神崎明人と遊んでいたい。ふたりの関係を邪魔するような人はみんな、敵だ。
茜は、なにか大いなるものに身体が馴染んでいくような、そんな不思議な感覚を味わった。
自宅を出てからちょうど四十分ほどで、Sasaki美術館に到着した。研究室に直行すると、まだ飯島が来ていなかった。毎日のようにいちばん乗りで出勤してくる飯島がいないとなると、茜が早すぎたのか。スマホで時刻を確認するが、いつもより早いわけではない。それに、飯島以外の同僚は揃っていた。
茜がきょろきょろしていると、同僚のひとりが含み笑いをした。
「飯島さんでしょう? まだ来てないんですよ」
やはり、飯島は出勤していないらしい。茜は、自分の席に着きながら、飯島がいないこことに不調和を感じていた。
「珍しいですね。飯島さんがまだ来てないなんて。もう朝会が始まるのに」
毎日、朝の決まった時間――午前九時――に連絡事項の確認のための朝会をやることになっている。その時間までには出勤するようにと館長から言いつけられているのだが、すでに『8:51』である。残り十分で、飯島はやってくるのだろうか。
「山崎さんは飯島さんと仲良しだから、ひとりだと寂しいでしょう?」
「いえ、そんな、そういうのじゃないですよ」
茜は、厳密に訂正したかったが、それもそれで飯島に失礼な気がして、曖昧な反応にとどめた。その同僚はまた含み笑いをして、手元の作業に戻っていく。
茜も、さっそく、本日取り組む予定になっている仕事について確認作業を始めた。気にしたことはなかったが、飯島がいないと研究室は静かだった。ほかの同僚はあまり騒ぐ人ではないから、飯島が研究室内を騒々しくさせていたのだろう。
茜は、確認作業が終わると、スマホを取り出した。飯島の連絡先も入っているが、わざわざ心配の電話をするのもおかしい。茜は、寄り道せずに、写真フォルダを開いた。その中には、プロのフォトグラファーに撮ってもらった神崎明人との写真が入っている。それを眺めることに、朝会までの残り時間を費やした。
結局、飯島はやってこなかった。いざ欠席となると、本当に心配になってくる。あれだけ健康的な飯島が欠勤するのは奇妙だ。
茜と同じように、その奇妙さは同僚たちも一様に感じていたようだ。飯島が来ないせいで朝会を始められずにいた研究室の中で、それぞれに不安をつぶやいていた。
仕方がないので飯島に連絡をしてみるか、という話にまとまってきたときになって、コンコンコン、と研究室の扉が慌ただしくノックされた。
その音にびっくりして茜が振り向いたときには、すでに研究室の扉は開いており、そこに樽のように凛々しく太った棚橋館長がいた。
「みなさんにちょっと悪い報告があります」
棚橋館長の目は、あちらこちらへ動いていた。その落ち着きのない様子に全員の注意が集まると、棚橋館長は、一息に告げた。
「飯島くんの件なんだけど、今朝から熱が出ているらしい。嗅覚の異常もあると本人から電話があった。おそらくだけど、例のあれの可能性がある」
なんとなく疑いとして頭に浮かんでいたものが、はっきりとした形に凝固した瞬間だった。
茜の身体を強く支配したのは、フィクションが実現化したような感覚だった。テレビで頻繁に報道されているとはいえ、あくまでもテレビの外の――現実とは違う――出来事だと捉えていた。それがまさにいま、身近に働いていた人がウイルスに感染したかもしれない状況に発展した。
茜は、その、なんとも言えないような不思議な感覚に陥ったまま、言葉が出てこなかった。それは同僚たちも同じようで、誰も発声しなかった。
少しすると、茜の頭にいろいろな疑問が浮かんできた。検査はどうなるのか、保健所との連携はどうするのか、濃厚接触者はどうなるのか、美術館はどうなるのか。
茜の頭にぐちゃぐちゃと浮かんでくるそれらの疑問にストップをかけるかのように、棚橋館長は慌てて付言する。
「もちろん、まだ陽性だというわけじゃない。とりあえず、かかりつけのところまで行ってから、そのあと、どこかの病院か保健所で検査することになる。その結果が出るのにも、少しだけ時間がかかる」
それは励ますつもりの言葉だったのかもしれないが、茜はべつに励まされなかった。いますぐに感染が判明しないというのも、恐怖感を煽られる。
いますぐにわかればいいのに、現実、そんなにスムーズには進行しない。もしも感染しているとしたら、それはとんでもない事態であるのに、スローにしか展開しない世界である。無惨にも放置されているような気分だった。
「症状としては、大丈夫なんですか?」
茜はようやく落ち着きを取り戻しながら、当然の質問をした。棚橋館長としても、ようやく反応があったことに安堵したようだ。
「それは安心して大丈夫だよ。重篤な状態ではない。ただ嗅覚の異常があるから、感染を疑っているというわけらしい。ともかく、検査はすることになるだろう。そして、おそらく、陽性になる可能性が高い」
はっきりとした言葉を出されると、むしろ、現実感が希薄になった。テレビやラジオで日々カウントされている陽性者数のひとりとして、毎日のように顔を合わせていた人物がカウントされるなんて。なにかのひどいジョークみたいだ。
棚橋館長は、荒い息を堪えながら、指示を出した。
「ひとまず、いつも通りに仕事を続けてくれ。今日の夜くらいには検査結果がわかるだろうということだから、感染していた場合の対応については、それ以後に決める。とにかく、ここでは飯島くんはマスクをしていなかったから、みんなは濃厚接触者になる。できるだけ人との接触は避けてくれ」
はい、と声が揃った。この状況で仕事に集中できるわけもないが、まだ飯島の感染が判明していない以上は、そういう臨時の対応を取るしかないのだろう。
「ここは閉めることになるだろう。それから、みなさんにも検査してもらう。接触確認アプリを確認するまでもなく、濃厚接触者だとわかるからね。よろしく頼むよ」
それだけ言い伝えて、棚橋館長は、忙しそうに研究室から出ていった。
まさか、自分が濃厚接触者になるなんて、夢にも思っていなかった。茜はここ数日の間に接触した人の姿を頭に浮かべた。神崎明人と付き合いはじめてからは、金沢たちとはオンラインで飲み会をするようになったので、接触はしていない。茜の頭に浮かんでくるのは、神崎明人ただひとりだった。
茜はスマホを取り出して、すぐさま、メール文を打ち込んだ。
『同僚が感染の疑いアリ。私、濃厚接触者になったかもしれない。そうだったら、神崎くんも濃厚接触者になるから、気をつけて』
そのまま送信したが、いったい、なにを気をつけろというのか、と茜自身、疑問に思った。実のところ、気をつけるべきなのではなく、いままで気をつけるべきだった、のかもしれない。
もしも感染していたとしたら、あの幸せなデートが、糾弾の対象になりはしないだろうか。それだけはやめてください。茜は、誰かに祈りを捧げた。
『わかった。どんなことがあっても、僕は山崎さんが好きだから』
神崎明人から返ってきたそのメッセージは、悪い予感を醸成していた。まるで、すごくわかりやすく死亡フラグを立てているかのようだった。ともかく、茜は、愛情を示すためのスタンプを送信した。
一日が長かった。いくつかの会議をおこなったのも、すべて徒労に感じた。
飯島が感染していれば、しばらく美術館は運営できなくなる。誰もいなくなった美術館は除菌しなければいけないだろう。そのような想像が頭を過ぎると、仕事に身が入らなかった。
いつもどおり定時に美術館を出たあと、茜は、自宅へ直帰した。
幸いにも、実家を離れて一人暮らしをしていたので、家族とは濃厚接触者にはなっていない。
一人暮らしのアパートの一室で、茜は、軽く夕食を済ませ、美術雑誌を読みながら時間を潰した。とはいえ、雑誌の内容は、ほとんど頭に入ってこなかった。茜の頭を支配していたのは、依然に飯島の一件だった。
夜の九時を過ぎたころ、ついに棚橋館長からメールが届いた。
『飯島くんだが、やはり感染していたらしい』
その一文が、ひびの入っていた日常をついに打ち砕いた。茜は、なにかしらの悪意を感じた。これは神様の悪ふざけだろうか。茜の大切な日常が、なにかしらの悪意によって歪められたように感じた。
『私が保健所との窓口になる。厳密なところは保健所と相談してからだけど、おそらく全員、濃厚接触者として認定される。そうならなかったら、私のほうで頼み込むよ。とりあえず、すぐにでも全員に検査を受けてもらうから、そのつもりで』
いまさっきまでまだ少しだけ期待していた日常が、たった一つのメールで、戻ってこないことが明瞭になった。いまさらになって、もっと行動を慎むべきだったのじゃないか、と反省する。みんなやってるからべつにいいだろう、というレベルの判断しかできなかったのは、自分の甘えだった。
真っ先に茜が連絡をしたのは、家族ではなく、神崎明人だった。
『やっぱり、感染してた。神崎くんも濃厚接触者。ごめんなさい』
すぐに返信が来た。
『おたがいさまだよ。しょうがない』
そのメッセージには、少しだけ励まされた。茜は、そのメッセージを何度も読みかえしながら夜を過ごした。
その夜のうちに、迅速に事が進んだ。
まずは、Sasaki美術館のホームページの冒頭に、『一時休業します』との情報が追加された。その理由としては『十分に感染予防対策を徹底してまいりましたが、当美術館のスタッフ一名の感染が確認されました』と、記されていた。それ以上の詳細については、後日、情報がまとまり次第お伝えするということらしい。
その文末には、なにかの悪意を想定するかのように、『なにとぞ、ご理解よろしくお願いいたします』という謎めいた文まで付言されていた。美術館やそのスタッフ、あるいはSasakiグループへの風評被害や差別などを危惧しているのかもしれない。
それこそ、テレビのむこう側の出来事だと確信していた。そんな茜は、己の想像力の低さについて、底深く実感していた。
いまや、この自分さえも、差別の対象になりうるかもしれない。
その夜は、それで終わりではなかった。
棚橋館長は保健所との連携を進めたようだ。その夜のうちに、美術館の学芸員全員が濃厚接触者としてカウントされることを保健所と相互に確認した。棚橋館長からふたたびメールがあり、保健所の尽力によって検査の紹介状が用意できたから明日すぐに渡すという報告だった。
その紹介状を手に、すぐのうちに、病院まで検査を受けに行かなければいけない。
茜はなかなか眠ることができなかった。いつもは美術雑誌や、美術史に関する書物を読むのに夜の時間を費やしていたが、その気分にもならなかった。
なんとなくスマホを手に取り、茜は、『感染者』というワードで検索をかける。いくつかのニュース記事がヒットした。そのうちのひとつ、感染者への誹謗中傷について警鐘を鳴らす記事を読んだ。むくむくと不安が膨らんでいった。
感染者の若者が、周囲からの差別に堪えられずに自殺した、というショッキングなニュース記事。
自分は大丈夫だろうか。緊急事態宣言が出ている中、堂々とデートをしていたのは言うまでもない。そのことを保健所に報告しなければいけないし、運が悪ければ、ネット上にも拡散するかもしれない。もしも責められたら、茜としては、その正論へ対処する術は持ち合わせていなかった。
それ以上に、神崎明人が心配だ。小さいころから責められつづけて痛んでいる精神がまたもや抑えつけられるような目に遭うなんて、見ていられない。
そもそも、若いからといって、ウイルスそのものを軽視するわけにもいかない。もしも神崎明人が死んだらどうしよう。そんな世界など、終わったも同然だ。
茜は数々の不安を前に、悶々とした夜を過ごした。
過去の自分に伝えたいことがあるとすれば、ひとつだけ。もう少しだけ我慢して。しかし、そんな忠告に過去の自分が耳を貸すとは、とうてい思えなかった。
翌朝、重い身体をなんとか持ち運んで美術館に出勤すると、研究室で、棚橋館長が待っていた。同僚はすでに揃っており、それぞれのテーブルに座っていた。
室内は異様な空気で満ちていた。いつも通っている場所なのに、はじめて入る場所のようだった。まるで、隅から隅まで部屋を改造したかのようだった。
茜が席につくと、部屋の隅のほうのキャスター付きの椅子に座っていた棚橋館長が口を開いた。
「たいへんなことになってしまったが、まあ、あれだ。飯島くんを責めないように。とりあえず、当分の間は、ここは営業できない」
棚橋館長は、マスクをしているせいで、眉間の皺が余計に際立っていた。
最初に棚橋館長が伝えようとしていたのは、ひとつだけだった。美術館は当分は閉めることになるが、雇用を切るつもりはないので安心してほしい。そのメッセージをいろいろな言葉に代えて、茜たちに伝えていた。
それから、細々とした対応について語りだした。自宅で仕事を続けてほしいこと。遠隔会議システムを利用して、会議を実施すること。いちばん重要だったのは、保健所から届いた検査の紹介状だった。
市内の検査をおこなっている病院では、紹介状がなければ検査できないことになっているらしい。棚橋館長は茜たちに、それぞれ、紹介状を手渡していった。それから保健所からの電話には丁寧に対応するように指示し、すぐに解散になった。
部屋を出ていく際、棚橋館長は、どこか心配そうに言った。
「なにかあればすぐに相談してくれ。たいへんだと思うが、どうにか、乗り越えていこうという心づもりを大切に」
それは、茜たちの未来に待っている困難を予言するような言葉だった。これから先、どのような困難が待ち受けているというのだろう。茜は漠然とした不安に駆られた。こんな不安になったのは、中学校に入学するとき以来かもしれない。町を離れて荒い海に船を出すような、孤独な不安だった。
しかし、そんなに思い詰めても仕方がない。茜は、同僚たちが出ていったあと、ひとりきりになった研究室の中で、深呼吸した。ある程度は楽観的に考えていたほうが何事もうまくいきやすいということについては理解していた。
あまり思考の袋小路にぶつからないように、茜は、半ば思考を放棄した。それは中学生のとき、茜がいじめられているときに獲得したひとつの技術だった。深呼吸を続けながら思考を排除していくと、いくらか気分が晴れていった。
水の入った水槽を零さないように慎重に運ぶように、そのときの気分を失わないように気をつけながら美術館をあとにした。車に乗ると、そのまま真っすぐと市内の病院へと向かった。
病院に隣接した検査所で、紹介状と引き換えに検査することになっている。
まだ早朝だった。病院に到着すると、その駐車場の一区画に白いテントがあり、『検査所』という看板が立てられていた。
茜は、そのテントに車のまま乗り入れた。すると、真っ白い服のスタッフが進み出てきた。マスクにフェイスシールドという完全装備だ。若い女性だが、その場のものものしい雰囲気のせいだろうか、年長者の貫禄のようなものを感じた。
茜は、運転席のサイドウィンドウを下げてから、大きく会釈した。
「濃厚接触者で、検査を受けに来た者です」
スタッフは一度だけ大きくうなずくと、事務口調で言った。
「紹介状と健康保険証を提出願います」
片手に持っていた透明な袋を両手で拡げると、それを茜のほうに突き出してくる。どうやら、紹介状と健康保険証をその袋に入れろということらしい。徹底的に接触を避けようとするその姿勢に、茜は、どういうわけか、県内でも校則が厳しいことで有名だった高校のときの空気感を思い出した。
ともかく、指示されたとおりに、紹介状と健康保険証を袋に入れた。スタッフの女性は、ちらりと紹介状を確認し、軽くうなずいた。「担当の者が参りますので、しばしお待ちください」とだけ言いおいて、袋を片手にテントを離れていった。裏口から病院内へと入っていく。
テントの下、車の運転席にひとり、茜は取り残された。あらかじめ、車に乗ったままで検査が受けられることはネットで調べてきていた。それは楽だな、と思っていたが、いざ来てみると、なんだか自分だけ踏ん反り返っているみたいだ。茜は縮こまりたい気持ちに駆られていた。
間もなくして、病院の裏口から、ふたりの白衣を着た人が出てきた。晴天の中、真っすぐと茜のいるテントのもとへ向かってくる。ひとりは年配の男性で、もうひとりはさっきのスタッフとは違う若い女性だった。おそらく、医者と看護師だろう。ふたりとも、医療用のマスクとフェイスシールドを装着していた。
ふたりは運転席の隣まで進んできた。年配の男性が、ビジネススマイルのように目の端を笑わせた。
「検査を担当させていただきます、横井と申します。じゃあ、さっそくですけど、山崎茜さんで間違いないですね?」
フェイスシールドの顔を近づけてくる。その圧迫感に負けないように、茜は、はきはきとした声で応じた。
「はい。山崎です」
「では、いまからこの細長いので鼻の奥の粘膜を触りますんで」
男性の手には、真っ白くて細い棒状のものが握られている。サイズアップした綿棒みたいだった。
「そのために、マスクを下げて、鼻だけ出すようにお願いできますか? 鼻だけでいいですので。口までは下げなくていいです」
「はい」
茜は、指示されたとおり、マスクを下げて、鼻だけ出した。
「じゃあ、ちょっと上、向いといてくださいね。すぐ終わりますんで。いいですね。じゃあ、やりますよ」
男性は棒状のものを茜の鼻の穴から、さしこんでいった。鼻の奥に異物が入り込んでくるのが、はっきりと感じ取れた。この感覚が、茜はあまり好きではない。ともあれ、思ったよりもすぐに終わった。
「じゃあ、以上ですので、マスクをもとに戻してください」
白衣の男性は、隣にいた若い女性に、茜の鼻の奥の粘液をからめとった棒状のものを渡した。女性は、受け取ったそれを試験管のような細長い容器に仕舞っていく。手慣れた動作だった。茜は、マスクを鼻の上まで上げた。
「ご協力、ありがとうございました。いま、スタッフの者が健康保険証を返しに来ますので。なにかありましたら、スタッフのほうにお伝え願います」
感謝を伝える隙もなかった。ふたりはすぐに病院内に戻っていって、それから間もなくして、さきほどのスタッフがテントまで戻ってきた。
「以上です。ご協力、ありがとうございました」
健康保険証を返してもらい、これで無事に検査が終わった。
「検査結果については、今日の夜までにはお伝えできると思います。電話させていただきますので、一応、それまでは自宅待機ということで、外出は控えていただくよう、よろしくお願いいたします」
「ありがとうございました」
茜は、そのときには、小さい声しか出なくなっていた。
ベルトコンベアーに載せられた荷物になったような気分だった。テキパキと働いている作業員たちの前で、ただじっとしているだけのお荷物。そんなイメージが頭に浮かんできて、その場にいることが申し訳なくなってくる。
すぐにサイドウィンドウを閉め、車を発進させた。逃げるように病院を出てから、茜は、あまりの恥ずかしさに笑いたくなった。これだけ厳しい管理体制のもとで動いている人たちがいるのに、自分たちはいったいなにをやっていたのだろう。やはり、過去の自分に言いたくなってくる。
もうちょっとだけ我慢して。恥ずかしいよ。
それからは、自宅で待機することになった。とくにやることもないので、テレビをつけてみたが、あまり面白くない。結局、本棚から、一度読んだことのある美術雑誌を引っ張り出して、それを読みかえすのに時間を費やした。
その間ずっと、茜の頭に、検査結果についての思考が居座っていた。
もしも感染していたらどうしよう。茜は、何度も考えた。それまでは若いから大丈夫だろうという程度の関心しかなかったが、いざ検査してみると、本当に大丈夫だろうかと心配になる。後遺症に苦しんでいる人もいると聞いたことがあった。そういう情報は、茜を不安にさせるのに充分だった。
自宅待機をせよと命じられていたので、夕食は冷蔵庫に入っていたものだけで済ませることにした。簡単な炒め物と、キャベツを千切りにしたサラダを食べ、それからはまた美術雑誌に戻った。
こんな事態になってから思うと、美術館で飲み会をやらなくてよかった。もしも多人数で飲み会をやっていたことが明るみとなれば、世間からの非難と、保健所からの冷たい視線を受けるところだった。飲み会をやめるように助言してくれた神崎明人にキスしたいくらいだった。
夜の七時を過ぎてからは、いまかいまかと電話を待つようになった。その電話の内容によってはそのあとの茜の生活が百八十度も変わってくる。どうか陰性でありますようにとばかり考えつづけていた。
ついに家の電話が鳴ったのは、八時半ごろだった。
「はい、こちら山崎です」
『山崎さんね。今日、検査を担当しました金石東病院の横井です』
あの、造り物めいた笑顔が思い出された。ついに検査結果を聞くときが来たと身構えていたが、そんな茜の内心を窺う様子もなく、それは呆気なく、告げられた。
『検査結果についてですが、陽性でした』
茜は、ショックで声が出なくなった。
『病院のほうから保健所には連絡しましたので、すぐに保健所から電話がかかってくると思います。このあとの対応は保健所の指示にしたがってください。OKですか?』
それだけ、伝えるべきことを最短距離で伝えようとするかのように、まとまった言葉の連なりが茜の耳から脳に入りこんでくる。噛み砕くことはできたが、それを受け止めることができない。
「はい。ありがとうございました」
茜は、なんとか声を出したが、ほとんど心が入っていなかった。電話が切れたあとも、受話器を握ったままで佇んでいた。自分が当事者になったという感覚が、あまり深くは実感されないまま、身体の中を不気味に蠢いていた。
陽性だったということは、つまり、毎日公表されている感染者数のひとりに自分もカウントされることを意味する。あの、自分とは関係のないはずの数字のカウントをひとつ上げ、自分が感染者数の集合に加わる。
それは想像以上に恐ろしかった。感染者という属性がいかような苦しみを抱えているのかについてラジオニュースでいくつも耳にしていた。それらの苦しみのひとつくらいは自分にも該当するかもしれない。
胸の中に膨らんでいった不安を、茜は、誰かに優しく抱きしめてほしくなった。もちろん、頭に浮かんでくる『誰か』というのは、神崎明人だった。茜は受話器を戻すと、スマホを手にしてメールを開いた。真っ先に、神崎明人にメッセージを送信する。
『陽性だった。本当にごめんなさい。神崎くんは大丈夫?』
すぐに既読になった。リアルタイムにメッセージを受け止めたくて、茜は、神崎明人との個人チャットの画面のままにしていた。メッセージが返ってくるまで、長く感じた。
『ショックだったね。僕は大丈夫だよ。山崎さんこそ、大丈夫?』
『私も、問題なし。でも、本当にごめんなさい』
それからまた、少しだけ間があった。
『謝らないで。おたがいさまでいいでしょ』
神崎明人の言葉は、やはり、茜の心を励ました。神崎明人からのメッセージを見つめているだけで、ひとりだけの部屋に温もりが感じられた。まるで、すぐそこに神崎明人がいるかのような、そんな安心感を頼りにしながら、できるだけ目前の不安から目を逸らしつづける茜だった。
それから一時間半後、ちょうど十時ごろになって、また電話が鳴った。出ると、聞き慣れない男性の声が聞こえた。
『こちら、金石東保健所の者です。病院のほうから連絡がありまして、山崎茜さんが陽性になったことを確認いたしました。ご本人さまで間違いないでしょうか』
「はい。山崎です」
茜は、嫌な質問がやってくるのではないかと危惧したが、まさにそのとおりになった。
『それでは、最近の行動履歴について確認させていただきたいのですが。誰かとどこかに出かけたり、長い時間話しこんだりなど、いわゆる濃厚接触にあたるような人について教えていただきたいです』
何遍も口にしている言葉なのだろうか、台本があるかのようにすらすらとした淀みのない言い方だった。一方で、茜にはやすやすと告げられるものではなかった。堂々と外出していたなど、保健所のスタッフの前では言いづらい。
とはいえ、嘘を吐くわけにもいかないので、茜は、神崎明人について伝えた。一緒にデートに出かけたので、まず間違いなく濃厚接触者になっているだろう、と。
大きな影響になるのではないかと思うと、細かい情報は伝えにくかった。一瞬だけ、水族館やカラオケに出かけたことは黙っておこうというずるい考えが浮かんた。あやうく、そうなりそうだったが、なんとか、踏ん張った。保健所のスタッフはとくに責め立てたりはしなかった。
それでも、三日前の夜、神崎明人と肉体的な接触をおこなったことについては直接的には明かさなかった。そこは明かさずとも、勝手に察してくれたはずだった。「ラブホテルにふたりで行った」と言えば、あまりに雄弁である。
神崎明人の電話番号を聞かれたので、それも素直に応じた。
茜の気分は落ち込んでいった。仲間内で完結させるべき大切な秘密を口外しているような、嫌な感覚がまとわりついていた。あのカラオケや水族館やラブホテルは休業に追い込まれるのだろうか。著しい罪の意識が身体を蝕んだ。口にしたあとからすぐのうちに、言わなければよかったという後悔が込み上げてくる。
保健所のスタッフには、自宅療養をするようにと指示された。買い物はできるだけ簡単に済ませ、なるべく外出しないようにと言われた。毎日、体温測定をして記録し、なにか症状があった場合にはすぐに保健所まで連絡するようにということだった。
電話を終えたあとすぐ、茜は、ふと思い出して、棚橋館長にメールを送信した。
『検査結果は陽性でしたので、お伝えしておきます』
十分ほどあと、返信が来た。
『報告、ありがとうございます。当分は療養に専念してください。お身体にはお気をつけください』
その夜のうちに、Sasaki美術館のホームページの冒頭の文章が変わっていた。それまでは『一名』だったのだが、『複数名のスタッフの感染が確認されました』ということだった。
世界から、『お前は邪魔者だ』というレッテルを押しつけられているような感覚があった。茜は、できるだけなにも考えないように、神崎明人との写真を眺めながら、眠りに就くのだった。
翌日に神崎明人も検査を受け、即日に陽性であることが明らかになった。おそらくは美術館で飯島から茜に感染し、デートの最中に茜から神崎明人に感染したのだろう。神崎明人も、自宅療養生活を始めた。
幸いにも、ふたりとも無症状感染だった。
それからの日々は、自宅に監禁されたような気分で過ごした。何度も体温を測定して記録するだけの生活だ。
外を出歩いたり買い物をしたりするのが趣味だった茜にとって、自宅に閉じ込められるのは激しい苦痛だった。メールやビデオ通話で神崎明人と励まし合いながら、孤独な日々をひとつひとつ乗り越えていくしかなかった。
その生活が始まって三日目には、検査費用の請求書が家に届いた。保険適用のおかげで個人が負担する費用は低く抑えられていたが、そのときの茜には、そんなちょっとした出費も痛く感じた。
インターネット上のホームページによれば、茜が神崎明人と出かけた水族館やカラオケやラブホテルは一時休業していた。感染者が出たという情報はなかったが、おそらく茜のせいなのだろう。
こういうときこそ、自分が一般人であることがどこまでも幸せに感じられる。茜は、匿名性の有難みをそこはかとなく実感した。芸能人だったら、苦痛の大きさは指数関数的に膨れ上がっていくところだろう。
テレビでは、ウイルスに関して少しだけ明るい話題があった。政府が、感染者数が減少してきた影響で、緊急事態宣言を解除する方針であるらしい。そのうえ、ついにオランダでワクチンの安全性を試すための治験が開始されたとのニュースも報じられていた。
そういうニュースにはいちいちアンテナが反応し、以前よりも身近に感じられるようになっていた。
ウイルス関連ではないニュースにも、茜のアンテナが反応するものがあった。
眼球くり抜き殺人事件に関する続報だった。四人目の犠牲者となったのは、意外にも、二十代の男性だった。市内の男性の自宅で、眼球が抉り抜かれた状態で発見されたとのことだった。それまでは犯人は若い女性を標的としていると考えられていたので、それはいささか奇妙な展開だった。
なにはともあれ、そのニュースを見て以来、茜は、部屋の戸締りには十分に気をつけるようになった。とくに寝る前には、玄関ドアや窓がしっかり施錠されているかどうかをいちいち確認するようになった。
部屋に閉じこもる生活は、誰とも会わないというポイントにおいては、ストレスフリーな側面もあった。差別や誹謗中傷を恐れていたのは、きっと、杞憂だったのだろう。芸能人でもない自分にわざわざ注目するような人はいない。
茜は、その点については安心感を準備できていた。自分の名前でエゴサーチをしてみることもあったが、まったくヒットしなかった。
そんな中、思っていたよりは平安だった茜の心が、不意に乱されるような事件が起こった。自宅に閉じこもる生活が始まってから五日目、ネットサーフィンをしているときに、偶然にも、ある記事を見つけた。気紛れで読みはじめただけだったが、読んでいるうちに目が離せなくなった。心臓の音が聞こえてきそうだった。
記事のタイトルは『金石新聞の記者、宣言下に、二股デートか』。ちょうど、神崎明人が在籍しているのが、金石新聞社だった。
『保健所の担当者からの密告情報によると、先日感染が明らかになった金石新聞の若手男性記者が、宣言が発出されている中、二股デートをしていたことが明らかとなった。同記者は事件部に所属しており、普段は地裁の刑事裁判を傍聴して記事にしていた。八月初旬より、市内在住の美術館勤務の女性と交際関係にあった。その女性の感染によって同記者は濃厚接触者に特定されたが、感染確認後、本人からの情報提供により、またべつの同僚女性(記者)とも交際していたことが明らかになった。「どういう神経をしているんだか、わかりませんよ」と保健所としても呆れ顔だ。所属記者の不適切な行動により、金石新聞がまたもや株を落としたことになる』
茜は、陽性を知ったときよりも激しく、ショックを受けた。その記事が示している金石新聞の記者というのは、神崎明人ではないかと思ったのである。
交際している一方の女性が美術館勤務であるという情報とか、地裁の刑事裁判の記事を担当しているという情報にあてはまる金石新聞の男性記者など、ふたりもいるものではない。茜は、最初、なにかの間違いではないかと疑いを向けるのに必死になった。
その記事を何度も読みかえした。その記事におけるダメ人間の印象が、どうしても神崎明人と一致しなかった。
そんなはずはない。茜は、なんとか自分の猜疑心を鎮めるのに躍起になった。神崎明人が二股をするなんて、ありえない。そんな器用な人でもない。きっと、この記事が示しているのはべつの人で、そうでなければ、記事そのものが捏造だ。
心の中が急激に騒がしくなった。すぐに本人に確認すればいいのに、神崎明人に電話する気が起きなかった。それは心の奥のほうで、疑いが拭えなくなっているせいだった。
まだ昼前だった。カーテンを開けた窓からは、斜光が差し込んできている。茜は茫然と窓の外の公園を見つめながら、騒がしい心の中に、揺るがない思いを頑丈に固めようとしていた。
神崎明人を信じる。それしかない。
覚悟が決まると、茜は、スマホを手に取り、神崎明人に電話をかけた。用件を短く伝えると、神崎明人は信じられない六文字を口にした。
『ごめんなさい』
ぼそぼそとした小さな声だった。こんなに心臓に悪い謝罪を耳にしたことは一度もなかった。茜は、急に、電話口の相手が肉欲に染まっているように思えて、生理的な嫌悪感が突き上げてきた。
『ごめんなさい、って、なに? 気持ち悪いよ』
詰問口調で汚い言葉が飛び出してしまう。そんな茜の反応に冷静沈着に対応しようとするかのように、神崎明人は、黙り込んだ。まるで、茜に言いたいことを言わせるかのようだった。
その無駄な配慮が頭に来る。茜は、もう抑えられなかった。体内の臓器が流動しているような不快感が湧き上がった。
『認めるの? 二股してんの? 嘘だよね?』
語尾が震えていた。スイッチを切り替えたように急激に悲しくなり、鼻の奥のほうから涙が込み上げてくる。ふたりだけの世界があると信じていたのに。そんな純粋な気持ちを踏みにじられた気分だった。
『ねえ、嘘だよね?』
『ごめんなさい』
また、ぼそぼそとした声が返ってきた。その声が憎たらしい。二股をするなんて、どんな理由があっても許せない。ただのひとでなしだ。
『気持ち悪い! もう切るね』
『違う。山崎さん。ちょっと説明させて。お願いだから』
神崎明人の声も、動揺するように震えていた。茜は怒りに身を任せたまま、了解を得ないままで通話を切った。言い訳なんて聞きたくなかった。
そんな人だとは思っていなかった茜としては、電話を終えたあとでさえ、違和感が拭えなかった。どうして二股なんてするのか。
頭の中では、神崎明人のイメージがぼやけていた。それまで輪郭がきれいに描かれていたそのイメージが揺れる水面のように乱れてしまい、モザイクが入った写真のように見えにくくなった。あの神崎明人が、本当に、二股なんてするのか。茜には信じられなかったし、信じたくもなかった。
身体が故障を知らせるかのように、涙が流れてきた。
無意味にテレビを見つめていても、その内容は頭に入らず、神崎明人が頭から離れていかなかった。無秩序に記憶が浮かんできて、そのどれを確認しても、神崎明人は二股をするような人ではなかった。
そのうち、なにかの間違いではないかという考えが浮上してくる。徐々に神崎明人を擁護したい気持ちが膨らんでいく。
神崎明人が傷つきやすい心を持っているのを思い出すと、『気持ち悪い』なんて口走った自分に嫌悪感さえ湧いてくるくらいだった。
神崎明人は、やはり、神崎明人だ。
茜の中でふたたび神崎明人のイメージが輪郭を取り戻してきた。それまで白かったものが急に黒くなるオセロみたいに、そんな簡単には、人間のイメージはひっくり返らないらしい。茜は、なにか事情があるのではないかという可能性を慎重に考慮しだしていた。もういちど、冷静に話を聞きたいという気持ちになる。
そんな茜の内心を見透かしたかのように、スマホが震えた。さっき電話をしてから、五分ばかりが経過していた。出ると、下手な役者がせいいっぱいに焦りを表現するような声が飛び出してきた。
『山崎さん。ホントにごめんなさい。少しだけ、説明させて』
『聞くから、嘘は吐かないで』
茜は、まだ、信じたかった。現在の神崎明人がそれまでの神崎明人と等号で結べることを信じつづけていたかった。
『わかった。いまから説明するから、切らずに最後まで聞いてほしい』
神崎明人の声は、ところどころ震えながらも、隠し事をするような慎重さはなかった。茜は無言のうちに説明を待った。
『僕が悪くないとは言わない。でも、ちょっと運が悪かったくらいは言えるかもしれないと思う』
茜は、なにも言わないように注意していた。
『実は、ちょうど最近、僕は同僚の女性から告白された。断るべきだったんだけど、その勇気がなかった。断るのが苦手だからなんて言ったら、ひどい説明かもしれないけど、そうなんだ。断れないまま、そのまま来ちゃっただけ。二股っていうのは誇張だし、彼女が僕の濃厚接触者になったのは同僚だから当たり前。ふたりきりでどこかに出かけるみたいなことも、してない』
やっぱり。茜の心がふたたび神崎明人の輪郭を強く描いていく。
『信じていいんだね』
『信じてほしいし、もう、その同僚からの誘いは断った。いまさっき、山崎さんとの電話が切れたあとに、メールで断ったから』
茜は、たっぷり間を取ってから『信じる』と伝えた。
このようにして、その一件は、幸いにも、神崎明人と別れる運命を呼び起こさずに済んだ。ただ、それ以来、茜の中で疑心が生じやすくなったのは否定しようがない。ふとしたときに神崎明人を信じられなくなるようなときがあり、決めきらないままの子供みたいに、茜の心は不安定だった。
それ以外には何事もなく、自宅療養生活は終わった。一週間、熱が出ることすらなかった。もういちど受けた検査では陰性だった。一時休業していたSasaki美術館も再開したので、茜は美術館に通ういつもどおりの生活に戻ることになった。
緊急事態宣言も解除されていた。
すでに八月末だった。研究室でひさしぶりに再会した飯島は、なによりも先に頭を下げてきた。
「迷惑をかけました。いろいろ、なんだか、ホントに、ごめんなさい」
適当な言い方だった。さすが飯島らしいとは思いながらも、その気持ちは有難くいただいた。
茜が形式的に挨拶を済ませると、飯島はさっそく椅子の上で脚を組んだ。
「それで、ビジネススマイル山崎さん。彼氏とはうまくいってるんですか」
茜は、素早く反応できなかった。
「あれ、もしかして、なんか、問題でも?」
さすがにマスクをつけるようになった飯島は、マスクの顔をぐんと突き出してくる。
飯島に相談するわけにもいかないが、どちらかと言えば問題はあった。神崎明人は同僚の女性にNOの返事をしたと電話で教えてくれたが、それでも、茜の心の中では疑いが消えていなかった。
茜が無反応なのを見て取ると、飯島も、それ以上、踏み込んではこなかった。ただ一言だけ、「もしも調査が必要なら、頼んでくださいね」とだけ言ってきた。茜としては、その案もひとつかもしれないという気持ちだった。
茜は、その日、ひさしぶりの美術館での仕事にはあまり身が入らなかった。再来月の企画展についての会議にも、積極的に参加できなかった。長い間休んだためにリズムが崩れたせいもあるだろうが、それ以上に、神崎明人の件がより重大だった。
茜の頭にはずっと、神崎明人が居座っていた。ときには笑顔をしており、ときには茜には見せたこともないくらいに悪人の顔をしている。
神崎明人の顔とともに何度も頭に浮かんでくるのは、佐々木ミツルの言葉だった。あいつには気をつけたほうがいい。どうして、佐々木ミツルはあんなことを言ったのだろうか。その件について佐々木ミツルに聞きたかったが、その日は一度も、館内で佐々木ミツルとすれ違うことがなかった。
こちらから行くしかないか。茜は、定時に仕事を終えたあと、研究室を出ると美術館内の奥へと進んだ。基本的には佐々木ミツルには干渉しないように館長から言われているが、そんな細かいルールみたいなものを守っている場合ではなかった。
地下室のアトリエへとつながる重厚な扉の前まで行って、インターホンを鳴らした。
『なんの用?』
以前よりも一段、不機嫌そうな声だった。
「ちょっと聞きたいことがあるんです。少しだけ話せませんか?」
『彼氏の件?』
佐々木ミツルの鋭さを目の当たりにして、茜はちょっと面食らった。
「……そうです」
『わかった。いま行くから』
佐々木ミツルは、すぐに扉のむこうから出てきた。
薄暗い廊下に佐々木ミツルの長身が出てくると、余計にあたりが暗くなったように感じた。佐々木ミツルは相変わらずマスクをしていなかったが、サングラスはしっかりと装着していた。真っ黒のサングラスなので、少しも透けていない。
茜はまず水族館のときに声を荒らげた件について謝罪した。それからは単刀直入に本題へと移った。
「あのとき、気をつけたほうがいい、って言いましたよね。そのことについて、詳しく教えてほしいんです」
茜は、神妙な顔を維持した。佐々木ミツルも、真剣だった。
「やっぱり、その件だね。なんで僕が君の彼氏を悪く言ったのかについて気になっているわけだ。それを詳しく聞きたいということは、なにか、その彼氏と悪いことでもあったのか?」
誰にも話したくなかったが、佐々木ミツルの前では誤魔化すのが難しかった。茜は素直に打ち明けた。
「ちょっとだけ、信じられないんです」
周りに誰もいないことを確認してから、神崎明人への疑いを口にしていく。
「こっそりと彼のスマホを盗み見たんですけど、そこに眼球の拡大写真がいくつもありました。エクスポージャーって本人は言ったけど、それを信用していいのか、わからなくなります」
それは茜の心の奥のほうにあった疑いだった。口にするまで、茜自身もあまり自覚的ではなかった。言葉にすると、余計に疑いが強くなっていく。
「それだけじゃなくて、二股されてるかもしれなくて。私の妄想かもしれないけど、とにかく、それがどうしても信じきれないんです」
茜の言葉を受け止めるように無言で佇んでいた佐々木ミツルは、「OK」と右のてのひらを上げた。
「なにから話すべきか……」
佐々木ミツルは、ほっそりとした白い腕を組んでから、あらためて茜を見据えた。
「とりあえず、少しだけ謝っておきたいことがある。もしかしたら、山崎さんはショックを受けるかもしれないけど、それを打ち明けないことには話が進まない」
「なんですか?」
茜は、緊張した。いきなりショックを受けるかもしれないと断られると、どうしても身構えてしまうのだった。
「実はね、Sasaki探偵ネットワークの知り合いに、君の彼氏について調べさせたんだ。山崎さんが選んだ相手がどんな人なのか、純粋に気になったから」
茜はべつにショックを受けなかった。神崎明人について知りたい欲求が膨れている現在の茜にとっては、佐々木ミツルの気持ちがわからないでもない。茜はむしろ、その調査によってなにが明らかになったのか、そこだけが気になった。
「それで、なにか、わかったんですか?」
嫌な情報が出てくるのではないかと思うと、耳を塞ぎたくもなった。聞きたいのに、聞きたくない。そんな不思議な精神状態になるのは、やはり子供みたいだ。
佐々木ミツルは、うんとうなずいてから、神崎明人について説明を始めた。
「調査報告書を何度も読みかえしたから、ほとんど、頭に入ってるよ。神崎明人。いちばん気になってるだろうから、先に言っておくが、二股はしていない。それは事実だ」
茜は、ひとまず、ほっとするのを感じた。そうだよね、と自分を慰める。
警察よりも調査能力があるともいわれているようなSasaki探偵ネットワークの調査報告は信用できる。神崎明人が二股をしていないのは確信していいだろう。
茜の心の中にあった不安のうち、これで、ひとつは解消された。しかし、まだ、もうひとつの不安が心の中にある。茜は、佐々木ミツルの声に神経を集中させた。
「彼は、小さいころから悲惨だ。幼児期から親に虐待されていて、抑圧されてきた。ストレス状況下において自分が出せず、人のいる場所では妄想が激しくなる傾向が強い。中学生のころに精神科に通院したときにもろもろの検査を受けているんだが、知能指数はおよそ135。とくに言語理解と作動記憶が飛びぬけているから、言葉を用いて難解なことを考えたりする能力は人並み以上にあるだろう」
そういう即物的な評価は、あまり好きではなかった。とはいえ、たしかに神崎明人の特徴を言い当てているのは事実である。その調査報告の信ぴょう性については、もはや疑いがなかった。
ただひとつ、親に虐待されていたという情報は初耳だった。本人から、そのようなことを聞いたこともない。
「虐待って、なにされてたんですか?」
「これがひどいもんだから、あまり言いたくないんだが」
佐々木ミツルは、しばし躊躇してから、打ち明けた。
「性的なやつだ。女児が注目されがちだけど、実際には、男児も被害を受けているケースはたくさんある。そのうえ、虐待とはべつにも、中学生のときに学校で性的いじめを受けているようだ」
それは茜も承知していた。学校内で神崎明人がひどい扱いを受けているという噂が流れていた。
「そのせいなのか……」
佐々木ミツルは、ふたたび言い淀みながらも、続けた。
「好みのポルノビデオは、グロイものみたいだ。拷問を加えたり、悲鳴が聞こえたりするようなポルノビデオにひどく興奮するらしい。インターネットの閲覧履歴から、特定された」
それは少なからずショックだったが、想定内ではあった。それくらいに異常な環境に身を置かれていたことを茜は知っている。それだけで神崎明人を他人事のように責めることはできない。そもそも、性的な趣味は本人の意思によって決定できるものではない。
佐々木ミツルは、ここからが本題だと示すように間を置いた。
「いちばん怖かったのは、例の眼球くり抜き事件との関連性だよ。被害者の女性三人、男性一人、警察の意向で実名は公表されてないんだけど、この四人は全員、神崎明人の同級生だった」
茜は言葉を失った。その情報は茜の心を冷凍するみたいに固めた。佐々木ミツルは追い打ちをかけるように続けた。
「しかも、その四人は全員、神崎明人のいじめを傍観したりしていた人物だということがわかっている。警察は神崎明人を容疑者リストに加えているようだが、いまのところ、なにも証拠がない」
そんなバカみたいなことがあるだろうか。茜はもはや考える力を失っていた。わからない。もう、なにもわからなかった。
「だから、気をつけたほうがいい、って言ったんだよ」
「ごめんなさい。ありがとうございます」
茜は、唐突に切り上げて、佐々木ミツルの前を離れた。佐々木ミツルは追いかけてこなかった。廊下を進んで、曲がったところで立ち止まり、大きく息を吐く。目を瞑り、五感を遮断しようとする。
もう手遅れだよ。どこからか、神崎明人の声が聞こえた気がした。
神崎明人は殺人鬼なのか。茜の中で徐々に形を結んでいた疑いが、明瞭な形になっていく。そのように疑い出すと、たしかに怪しい部分が多いのは事実だった。
いつもなら、なんでもないこととして片づけられるような些細な言葉や行動がどれも疑わしく思えてくる。
たとえば、ふたりで公園を散歩したとき、「いじめによる後遺症はないのか」と茜が訊いたときに神崎明人ははっきりとは答えずに、はぐらかしていた。
たとえば、神崎明人は、通り魔になった少年がひそかに温めていた呪いに関するアイディアをとても楽しそうに話していた。
それに、中学生のころにも、茜は神崎明人から直接、耳にしたことがある。「残虐な事件を起こす人の気持ちがわかる」というニュアンスの言葉を。
たしかに、氷山の一角しか見えていないわけである。茜は、考えた。いくら幼馴染とはいえ、一緒にいる時間と一緒にいない時間を比較すれば、後者のほうが圧倒的に多い。
神崎明人の行動をすべて把握しているわけではないのだから、殺人鬼ではないと断定するのは客観的には困難である。
ただ、茜は、信じていたかった。神崎明人は手を汚していない、と。
最後まで信じ切るには、なにかしらの実験が必要だった。
茜は、思いついた。例の眼球くり抜き殺人事件の犯人は眼球に性的な興奮を覚えるといわれている。犯人は眼球を見ただけで興奮するだろう。もしも神崎明人が犯人ならば、コンタクトレンズなしの状態では茜の目を興奮せずに見つめられない。ということは、神崎明人がコンタクトレンズを外したうえで茜の目を真っすぐに見つめ、かつ、興奮した様子を見せなければ、神崎明人は犯人ではない。
茜もバカではない。さすがに、小さいころから一緒にいる相手が、恐怖しているのか、興奮しているのか、それくらいは判別できる。茜と神崎明人の目が交錯したとき、神崎明人の顔に恐怖が浮かべば、信じられる。ただの視線恐怖症だということになる。もしもその顔に興奮が浮かんだなら、信じられない。少なくとも、犯人ではないという断言はできない。
茜は、そのアイディアがすべてだという結論に至った。すぐにでも試したかった。茜は美術館を出る前に、神崎明人にメールを送信した。
『早めに、会えない?』
すぐには既読にならなかった。返信を待ち遠しく感じながらも、茜は、いつもの軽自動車で美術館を出た。がたがたとした山道を走っている途中に、返信が来た。
『明日なら、いいよ。どこにする?』
『カフェで。国道沿いの、小学校の隣のところ』
『わかった。明日の何時?』
『土曜だから、昼頃でOK?』
『OK』
茜の心の中に、言い表しようのない不安が込み上げてくる。雷雲に突進していくような無鉄砲さに足の指の先から髪の毛の先まで染まっているように感じられた。
どす黒く空が曇っていて、いまにも、雨が降り出しそうだった。
翌日、国道沿いのカフェに到着したときには、まだ、雨は降り出していなかった。天気予報が外れて、昨晩ずっと降らなかった。どこかにいる天気の神様が、ふたりのドラマを盛り上げるために雨を降らすのを遅らせたのかもしれない。
太陽が死んでいた。世界全体が葬式をおこなっているみたいだった。茜は、曇り空に背を向けてカフェに入店したのに、店内の二人用のテーブルの席に着くと、テーブルの隣の窓ガラスからまた曇り空と対面することになった。
ひさしぶりに入るカフェには懐かしさはなかった。すべてが新鮮だった。
アイスティーを注文した。神崎明人が到着するまでにアイスティーを半分ほど飲んだ。
入店してから、それほど待たなかった。窓ガラスを通して、神崎明人の軽自動車が到着するのが見えた。神崎明人は車から降りると、目を細めて曇り空を見つめてから、急ぎ足で店内に入ってきた。
いよいよ始まる。茜は、なにかの勝負をしにいくような気持ちで、すっと手を挙げて神崎明人を呼んだ。神崎明人は、安心したように笑い、すたすたと近づいてきた。
「待たせちゃったね。ごめん」
「ぜんぜん待ってないよ」
茜の声は、素直になれない少女のようにつっけんどんだった。神崎明人は不思議そうに茜の顔を覗き込んだ。さっそく、なにかを感じ取ったらしく、「なにかある?」と慎重に訊いてきた。店内の喧騒がカットアウトした。
茜は、顎を引いた。
「話したいことがある。いい?」
「わかった。注文したあとに、話して」
神崎明人は、店員を呼び、アイスコーヒーを注文した。そのとき、神崎明人はしっかりと店員の目を見つめていた。
「今日も、コンタクトレンズしてきてるの?」
「山崎さんの前でカッコわるくなりたくないから」
にっと笑う神崎明人に、茜は笑顔を返すことができなかった。
すぐに、店員がアイスコーヒーを運んできた。神崎明人は、アイスコーヒーを一口だけすすると、「それで?」と表情を切り替えた。茜はまた顎を引いた。
言いたいことはまとまっていなかった。それでも、頭の中には言いたいことが無限にも詰まっているように感じられた。
茜の口から次々と言葉が飛び出していったのは、さながら、いっぱいに水が詰まったダムから無計画に放水が始まったかのようだった。
「ちょっとした噂話を耳にしたんだ。神崎くんも知ってるかもしれないけど、いまこの市内で発生している眼球くり抜き殺人事件の被害者たちが全員、神崎くんの同級生――つまり、私の同級生でもあるけど――だったって。それに、眼球の拡大写真とか。神崎くんが、視線恐怖症だって言っていることとか。なんか、つながっているような気がしてきて。神崎くん、関わってないよね?」
あまりにも直接的な表現になってしまい、茜は、慌てた。
「違う、そうじゃなくて。もちろん、そんな映画みたいな話をまともにしてるわけじゃなくて、ちょっとした確認なんだけど」
神崎明人は、一度も目を逸らさなかった。一方で、茜は、何度もちらちらと目を逸らしていた。眼力が異様に強く感じられた。言葉が詰まってからは、茜も、なんとか神崎明人の強い視線を真っ向から受け止められた。
神崎明人はすぐには応じなかった。その半開きの口がなにかを言いたそうにしていたが、実際に言葉を発するまでには長い沈黙があった。
「なにが言いたいのかは、だいたい、わかった。僕の同級生が事件に遭っているのも知ってるよ、記者だからね。僕の答えとしては、NOだよ」
神崎明人は、真剣に続けた。
「僕は関わってる。山崎さんの言うとおり、僕のせいだ」
稲妻が身体を貫いたような激しいショックが茜の身を襲った。それはいちばん聞きたくない言葉だった。茜はまたもや、なにもわからなくなった。世界との関わりを全面的に拒絶したかった。
「でも、誤解しないでほしい。直接的に関わっているわけじゃない。間接的に関わっているのはおそらく間違いないんだろうけどね」
「どういうこと?」
茜は、ショックの中で、どうにかその言葉を絞り出した。神崎明人は喉を潤すためにか、アイスコーヒーを一口すすってから、説明を始めた。
「まず、呪いの発動メカニズムに関する最新の研究動向を押さえておく必要がある。僕は例の通り魔事件の男の子の取材の中で調べていて、呪いの研究動向についても大方把握できているから、僕から説明させてもらうよ」
あくまでも、講義をおこなう教授のように真面目に言葉を続けた。
「とりあえず、おさらいだけしておくけど、呪いは負の感情の総和だった。ある対象に向けられる負の感情の量が多くなれば、その対象の不幸の度合いは悪化する。これが基本的な考え方なんだけど、呪いが伝達されるプロセスでは、より複雑なメカニズムが存在していたんだ。それが、不幸維持効果だ。『呪い』の量が増加すれば不幸の度合いも悪化するのだけど、それは長期的に考えたときの話で、『呪い』の量が増加しても短期的には不幸の度合いは変わらない。『呪い』の量の増加ぶんを、『そのほかの影響』Bの減少ぶんで相殺してしまうからだ。以前は、このメカニズムを『呪い』が減少した場合について説明したけど、『呪い』が増加した場合についても同じことが言える」
神崎明人は、具体的な数値例を示しながら、不幸維持効果と総量比例効果を説明した。半分は頭に入ってこなかったが、大枠は把握できた。
「そこで、問題になってくるのは、いまの議論で言うところの短期というのは、具体的にはどれくらいの長さを指しているのか、というポイントだよ。一時間なのか、一週間なのか、一年なのか、それがわからないと、呪いの変化がいつ対象に影響を与えるのかについて、わからない。幸いなことにも、その疑問を解消しようとして、さっそく調査に乗り出していた研究チームがある。その研究チームの独自の実験によれば、短期というのは一日から三日の間とされている。ちょっとした具体例を考えてみるとわかりやすい」
神崎明人は、そこで、具体例を示した。
たとえば、AさんがBさんにいじめられた影響で、BさんはAさんに対する激しい怒りと殺意に染まったとする。そのときの怒りや殺意の量の変化は『呪い』の量の変化としてその時点においてAさんに伝わる。しかし、不幸維持効果が働くために、一日から三日の間はAさんの不幸の状況は変わらない。同じ不幸の状況が続く。一日から三日が過ぎたあと、Bさんの怒りや殺意の増加ぶんがAさんの不幸の状況にはじめて反映される。このようなプロセスを踏んで、『呪い』の量の増加が対象の不幸に影響を与える。
茜は、その説明を聞いているときに、神崎明人がなにを言いたいのか、理解できた。間接的な関わりがある、という曖昧な表現をしていたのにも納得した。
「つまり、神崎くんの呪いによって、事件が起きているってこと?」
「おそらくは、そうなんだ」
神崎明人は、苦しそうにうなずいた。
「僕の本心だとは思わないでほしいんだけど、呪いがあるのは事実だから」
「でも、神崎くんがいじめられたのは十年以上も前でしょう? 不幸維持効果が三日以内で終わるとしたら、矛盾だよ。なんで、いまごろになって、その呪いが出てくるの?」
その点がどうにも腑に落ちなかったのだが、神崎明人は、はぐらかした。
「それは察してほしい。最近になって、ちょっとした僕の心の変化があったから。そのせいじゃないかな、と思う」
やや間を置いてから、「ただ」と続けた。
「そのほかにも要因は存在しているんだろうね。たとえば、僕が殺意を向けている人たち自身のα――自分に向けられるポジティブな感情の総計--―が減少するなりすれば、不幸の総量は大きくなる。一般に、子供のときは感情的なつながりが多くて、不幸の総量を抑えられるけれど、大人になるにつれて、ビジネス関係が増えていって、αは小さくなっていく。その影響もあるんだろうというわけ」
それから、神崎明人は、仮説の全体像を明かした。
「いいかい? 僕が最近になって心変わりしたせいで、僕の中に溜まっていた怒りや殺意が呪いとしてカウントされるようになり、それが一日から三日の潜伏期間をかけて対象に影響を与えた。そのために、いまのところ、四人が呪い殺された」
それでは、まるで神崎明人が悪いみたいではないか。
「でも、神崎くんが四人が死ぬことを願ったわけではないんでしょう?」
「自覚性の問題だね?」
神崎明人は、呪いの無自覚性に関しての研究について説明した。
最新の研究によれば、呪いの発信者には、呪いの対象者を呪ってやろうという自覚的な悪意は存在しないことが明らかにされているという。つまり、神崎明人が自覚的に呪いをかけているのではなく、無自覚のうちに呪いは伝達されていく。
「そういうわけだから、僕が企んでいるわけじゃない。そこははっきりしておいてほしいところだよ」
神崎明人は、ふたたびアイスコーヒーを一口すすってから、さきほどの説明の続きに戻った。
「それでだね、なんでこれだけ確信をもって僕のせいだって言えるのかっていうと、それは被害者がみんな僕の関係者だから、という理由だけじゃない。これを見てほしいんだけど」
神崎明人は、スマホを取り出すと、少しだけ操作したあとにその画面を茜に向けた。そこには、SNSのアカウントのトップページがあった。それは、こっそりと茜も把握していた神崎明人の裏アカウントだった。
「ここに、僕がなにをつぶやいたか、記録されている。ひょっとしたらと思って記録を辿ってみたんだけど、そのとおりだった。実名は書いてないけど、ときどき、特定の相手を仄めかして書いていた。その相手にどんな痛い目にあったかを書いていたんだよ。苦しくてね。そうしたら、八月に入ってから、このアカウントで仄めかされた人が、それから三日以内に眼球がくり抜かれた状態で発見されている。不幸維持効果は最大で三日しか続かないから、三日以内に不幸維持効果が切れて、その瞬間に総量比例効果が発生したと考えるのはきわめて自然だよ。それが、四人。この符合は呪い仮説を用いて説明するしかないよ。僕が過去を思い出して負の感情を強め、それを対象に向けて――最近になって、ようやく、少しだけ周りの人を責めることができるようになったんだよ、いろいろな人のおかげで――それが対象を不幸にした。その不幸が、眼球くり抜き殺人事件に遭うというものだった。そういうわけ」
神崎明人は、スマホを仕舞いながらも、茜から目を逸らさなかった。
「だから、結論としては、こういうことになる。眼球くり抜き殺人事件の犯人は僕じゃないし、そんな犯人がいるのかもよくわからないけど、まず間違いなく、一連の事件は僕の呪いによって生じている。この事件は複雑なんだ。外面的にはおそらくべつの犯人がいるんだし、被害者の選定はおそらく無差別におこなわれている。ランダムネスだ。でも、僕の呪いである以上、僕が呪いを向けた人が被害者になるというロジックも同時に存在している。その犯人が眼球をくり抜いている理由は、その人だけに帰せられる問題ではなくて、この僕の呪いによっても説明できるんだ」
たしかにそのように考えれば、事件の発生原因は非常に複雑である。外面的に考えれば、その事件を起こしている主体がいるはずであるし、その動機も存在しているはずだ。しかし、この世の中で起こる不幸――殺人事件も含む――を呪い至上主義の立場から眺めるならば、それらの不幸は内面的な性質として、その人物に注がれている負の感情の量によって説明できる。
神崎明人が抱えきれないほどの負の感情を持っていることによって、その対象に殺人事件の被害者になるという不幸が供給されてしまう。
神崎明人が強い痛みの記憶を思い出し、負の感情を強めたことによって、『呪い』の量が増幅し、一日から三日以内に不幸維持効果が切れて、感情の対象を不幸にした。呪い仮説を前提にするなら、美しいくらいに筋が通っている。
納得しそうになった茜は、そこで、流されそうな自分にストップをかける。
不意に、佐々木ミツルから耳にしたばかりの情報が浮かんできていた。神崎明人は言語理解と作動記憶に優れていて、難解な思考が人並み以上に得意である。それは裏を返せば、人を騙すための言語能力にも恵まれているということだ。
本当に信じていいのだろうか。茜は、疑心暗鬼になった。首尾一貫した説明ではあったが、疑おうと思えばいくらでも疑える。そもそも、呪いなど存在するのか。呪いという仮定を利用することで、連続殺人事件と自分との関連性をうまく誤魔化しているだけではないのか。
この人は――本当に信じていいのだろうか。
茜の胸の中は、ざわざわと騒いでいた。いまこそ、最後の切り札の実験を試すべきではないか。茜は、神崎明人の目を見据え、実験を提案した。
「突然だけど、ひとつ試してほしいことがあるの。コンタクトレンズなしで私の目を見つめてくれない?」
あまりに唐突な提案だったので、神崎明人がぽかんとした顔を浮かべるのも無理はなかった。しばし茜の考えを探るように黙ったあとに、警戒心の滲んだ声を出した。
「どうして?」
「神崎くんを信じたいから。私の目を見つめてくれれば、すべてがわかる気がする。一度だけでいいから、お願いできない?」
その言葉を受けて、神崎明人は茜が企んでいることを見抜いたようだ。途端に、眉間に皺を寄せた。
「それはちょっとひどいんじゃない?」
空気が揺らいだ。神崎明人は、露骨に不快感を露わにして、目を逸らしていく。
「つまり、僕を試そうというわけでしょ? 僕が目を合わせられないのは視線恐怖症のせいじゃないって言いたいわけ?」
疑われて心地いい人などいない。茜としても申し訳なかったが、どうしても確認したかった。それさえ確認できれば、茜は神崎明人を信じられるはずだった。
「お願い」と茜は繰りかえした。
窓ガラスのむこうの雲が割れて、太陽が顔を覗かせた。その太陽は茜を見ていたが、神崎明人は死角に沈んでいた。カフェ店内は騒々しいはずなのに、宇宙にぽつんと浮かんでいる太陽のような孤独を感じた。一瞬だけ近づいてから挨拶もせずに遠ざかっていく小惑星のように、神崎明人がどこかに消えていく。そんな予感がしていた。
「いまの話も信じていないってことか」
神崎明人は、いっこうに目を合わせない。激しく怒っているのは間違いなかった。「最悪な気分」と吐き捨てるように言ってから、それを合図にしかのように数々の言葉を連射してきた。
「いままで呪い殺された四人は、全員、いじめの主犯格ではないよ。なんで、いじめの主犯格よりも先に、傍観していたような人が呪われる結果となったのか、わかる? はっきり言うけど、思い出すときは、傍観者のほうが、たくさんまとわりついてくる。いじめてきた本人にはまだ同情できるけどね、傍観者には一切、同情できないんだ」
神崎明人じゃないみたいに、どんどん声量が増していく。
「なにも苦しんでいないくせに、偉そうに、なにもせずに、ただ見つめているだけっていうのが、いちばんムカつくし、呪いたいくらいに殺意も湧くよ」
神崎明人の独りよがりなセリフに耳を傾けていると、茜も怒りが込み上げてきた。それを抑えることができなかった。
「私にムカついてるなら、そう言えばいいでしょ?」
茜も、大声を発した。神崎明人のためにどれだけ苦しい葛藤をしたのか、本人に伝わっていないなんて。これでは、なんのために人生を投げうってまで神崎明人の味方をしたのか、わからなくなる。
「私だって、苦しんでた。どうにかしようとしていたし、不器用だったけど、ちゃんと味方したでしょ?」
「あれで、解決すると思った?」
神崎明人が、鼻で笑った。どうして、こうなるのか。茜は、もう、なにもかもがどうでもよくなってきた。怒りに身を任せて、頭に浮かんできた言葉がそのまま口から飛び出していく。
「あなたがいじめられたのがいけないんでしょう? 少しくらい、あなたがまともだったら、あんなにひどい扱いは受けないよ」
「そんなふうに思ってたの?」
神崎明人は、苛立つようにテーブルを叩いた。目を合わさない。
「そんな人だと思ってなかった。もっと優しい人だと思ってた。結局、そういう口か。多様性がなんとかとか偉そうにぐちゃぐちゃ言ってるくせに、あの人はイケメンだからどうとか、有名人と付き合いたいだとか」
「なんの話?」
「属性の一部を取り上げてその好みを語り合っているだけの頭の弱い人たちの一員だねって話。あの顔がいいとか、あの性格がいいとか、あの行動をする人は嫌いだとか、くだらない! ずっと、お子ちゃまみたいに、そうやってコイバナでもしてればいいんじゃない?、僕は、ごめんだね。そういう頭の固い人とこのまま関わりつづけても、なにも得られない」
「私の頭が固いって言うの?」
このまま言い逃げさせるわけにはいかない。立ち上がりかけた神崎明人を、茜は大きな声で抑えつけた。周りから冷ややかな視線が注がれているのも、どうでもよかった。神崎明人と目を合わせる実験も、もはや、どうでもよかった。
こんな人の味方なんか、しなければよかった。この人のせいで、茜の人生は少なからず狂っていったのだから。
「はっきり言わせてもらうけど、あなたはかなり下手だったし、痛かった。誰ともやったことがないんでしょ? かっこつけてたけど、ゴムつけるのだって、はじめてだったのバレバレだった。あなたが思っているとおりに、あなたに寄り添いたい人なんて、ひとりもいないよ」
その勢いは、もはや止められなかった。
「知らないならいま伝えておくけど、そういう人、世間じゃ、気持ち悪いって笑われるんだよ。他人を悪く言うより先に、自分の問題をどうにかしたら?」
神崎明人は、俯いてしまった。身体を震わせていた。目を上げることもなく、身体と同じように震えている声を微かに絞りだした。
「わかってるよ……おかしいことなんて」
小さな声が、音量調整を間違えたように大きくなる。
「わかってるのに、なんで、僕の前からいなくならないの! 拷問みたいだ。僕はまともな人間じゃないし、誰かと付き合えるほどの魅力もないのに」
神崎明人の頬を惨めに涙が流れていった。胸の苦しみを抑えるみたいに、右手でTシャツの前をつかみ、「近づいてきたのはそっちでしょ?」と小さな声で続ける。
「じゃあ、お望み通りに、あなたの前からいなくなりますね」
茜は、憎々しく言い捨て、伝票を手にしてテーブルを離れていった。伝票を持つ手が震えていた。なんとか清算を済ませてから、カフェを出た。軽自動車に乗り込んでから、すぐに発進させた。
運転しているうちに、いつのまにか、涙が流れていた。
どうして、神崎明人はあれだけ怒ったのだろう。どうしてもコンタクトレンズなしで目を合わせたくなかったのだろうか。実験がおこなえなかった以上は、神崎明人が潔白であると断じることはできない。
車はどんどんカフェから遠ざかっていく。
赤信号で停まったときにスマホを手に取ると、十分ほど前に着信していた。佐々木ミツルからだった。
『もしも、いまの彼氏と別れるとかだったら、僕との件を考え直してくれないかな』
二度目の交際の提案だった。
いったい、どこへ行けばいいのだろう。茜は、どこに向かっているのかわからない車を走らせつづけていた。
神崎明人は「自分は潔白だ」と主張するし、佐々木ミツルは「神崎明人が怪しい」と主張する。ある意味、世界はひとつの密室だ。自分の視界の外は、どう頑張っても覗き見れない。そこには無数の人間がいるにもかかわらず、どの主張を信じることも、合理的ではない。人間は常に嘘を吐ける生き物だから。
果たして、神崎明人を信じていいのだろうか。それとも、もう、神崎明人は……。
茜は涙で滲んでいく視界を何度も腕で拭った。それでも、激しい雨がフロントガラスに打ち付けるみたいに、視界はクリアにならない。
茜は、考えつづけた末に、ひとつの結論に達した。
さて、ついに、ふたつめのターニングポイントを迎えた。読者に与えられた選択肢は、神崎明人との関係を継続させるか、佐々木ミツルに鞍替えするか、である。それぞれの選択肢の先には、まったく別の物語が待っている。
念のために確認しておこう。佐々木ミツルと神崎明人のどちらか一方は筋金入りの危険人物である。
ハッピーエンドを掴むためには、もはや、神崎明人との関係を継続させるしかない。ただし、もしも神崎明人が筋金入りの危険人物ならば、容赦のないバッドエンドを迎えることになる。佐々木ミツルへ鞍替えすれば、冒頭でも述べたとおり、軽めのハッピーエンドが待っている。
この選択において重要なのは、神崎明人が危険人物なのか、安全人物なのか、である。もしも危険人物だと考えるなら、佐々木ミツルへ鞍替えするべきであるし、もしも安全人物であると考えるなら、神崎明人との関係を継続させるべきである。あるいは、バッドエンドになるリスクを避けたいなら、いさぎよく佐々木ミツルへ鞍替えするという戦略もありうる。
さあ、どうすべきだろうか?
答えが決まったなら、さっそく、物語の続きへと進もう。
〇神崎明人との関係を継続させる↓
〇佐々木ミツルへ鞍替えする↓