【ゲームブック小説】眼球の点滅②-A

あなたは佐々木ミツルを選択しました。


   二のA

 ついに決断した茜は、その翌朝、美術館に出勤してからすぐに佐々木ミツルのもとへ向かった。昨日と同じように館内の奥の通路――そこにある地下室へとつながる扉の前に行き、インターホンのボタンを押しこむ。佐々木ミツルはアトリエで生活を送っているので、大概の場合、アトリエに行けば会えるのだった。
『あ、山崎さん、おはよう』と返事があった。間もなくして扉が開いて、昨日とまったく同じ風貌をしている佐々木ミツルが姿を現わした。全身黒い服で統一されていて、ところどころ絵の具で汚れている。アーティスティックでクールだった。
「おはよう。朝から寄ってくれて、ありがとう」
 起きたばかりなのか、怠さのつきまとうような声をしていたが、その顔には微かな期待が籠っていた。
 茜は、その期待に応えられることを嬉しく感じた。
「あの、例の告白の件なんですけれど」
 佐々木ミツルの白い顔に、ほんのりと不安が滲んできた。期待と不安の狭間でおどおどとしている様子がどこか愛らしかった。世界的な芸術家とはいえ、人間を超越しているわけではない。むしろ人間らしく生きているからこそ、人々の心に響く作品を生みだしているのかもしれなかった。
「その答えが決まったので、お伝えに来ました」
 茜は、ビジネススマイルのような事務的な雰囲気をできるだけ排除し、自然な笑顔になるように肩の力を抜いた。
「答えは、YESです。こんな私でよろしければ、これから、よろしくお願いします」
 ぺこりと頭を下げ、にっこりした顔を上げた。頭一つぶん高いところにある佐々木ミツルの顔が、見たこともないくらいに笑っていた。
 一瞬だけ、気味悪く感じたのは、佐々木ミツルがそれほど感情を露わにするのを見るのがはじめてだったからだ。
 佐々木ミツルは、サングラスをしているので目だけはわからないが、満面の笑みをしていた。全身で喜びを表現するようにガッツポーズをつくり、茜にむかって「ありがとう、ありがとう」と繰りかえした。
 それまで茜はふたりの男と付き合った経験があったが、その経験から言えば、男というのは素直な感情をあまり打ち明けたがらないものだった。それに比べると、佐々木ミツルの反応は無邪気な子供のように打算の働いていない純粋さだった。案外、可愛らしいところがあるじゃないか、と茜はさっそく好印象を抱いた。
「ホントに、いいんだね?」
「こちらこそです。ただの学芸員の身で恐縮ですが」
 茜は、いまいちど頭を下げた。
「そんなこと言わないで。僕だって変わり者の身で、と言いたいくらいなんだから」
 佐々木ミツルも、茜に負けじとぺこぺこと頭を下げた。そこまで感情を露わにするなんて、自分に棘があることにまだ気づいていない薔薇みたいだった。
 意外と純粋無垢なのかもしれない。だからこそ、大人としての常識を身に着けた人からすると、その奇行が許しがたく見えるが、実際のところ、佐々木ミツルのほうが汚れていないとも言える。
 人格そのものに神々しく人間離れしたような印象を抱いていたのは、単なる茜の先入観だったわけか。
 社会化のプロセスを人並みに終えていないからこそ、佐々木ミツルは、創造的でありつづけ、また、異端者でありつづけているのかもしれない。茜は、目の前の才能の塊を愛おしく思うのだった。 
 今夜、美術館内で飲み会をやることになっているから、そのときにまた親睦を深められたらいいねということになり、茜は佐々木ミツルと別れた。夜にまた会える。今日という日は、伸びやかな気分で過ごせそうだった。

 しかし、茜の心は自由にならなかった。ふたりの相手から同時に告白されるというシチュエーションは残酷な側面も持ち合わせている。
 本当に苦しいのは選択を終えたあとだった。佐々木ミツルを選択した当然の帰結として、神崎明人からの申し出についてははっきりと断らなければいけない。茜としては、それが、どうしても躊躇われた。
 神崎明人は傷つきやすい。一世一代の告白にNOと言われれば、それは、ただごとではないはずだ。
 研究室の中、美術館で実施するイベントの企画に頭を悩ましながらも、茜の心は神崎明人のことで埋め尽くされていった。ときどきドキュメンタリーで見たりする、リストラによる解雇を言い渡さなければいけない上司の苦しみというのは、まさにこのようなものかもしれないとさえ思えた。
 仲のいい幼馴染として、これからも関わりは続けていきたい。その気持ちはいくらでも強調したいが、人間というのはネガティブな側面ばかりに注目するものだ。まして、神崎明人のことだから、その傾向は強いだろう。
 どのように伝えれば、なるだけ傷つけないでいられるのだろうか。それとも、そんなことに悩むのは考えすぎか。仕方のないこととして割り切るしかないのか。茜は、神崎明人とのエピソードが頭を過ぎるたびに彼の傷つきやすい性格を確認し、余計に苦しくなっていった。
 選択というのは残酷だと思う。あちらか、こちらか、どちらかを選択したときにもう一方の道には永久的な別れを告げなければいけない。厳密な意味で選択をやり直すことはできない。もう選択は済んだのだから、いまさら取り消すことはできない。
 そんなことはわかっているのに、考えてしまう。神崎明人を選んでいれば、このような苦しみは避けられたのではないか、と。茜は、どうしようもないことだとは気づきながらも、選択しなかったほうの道を想像する。佐々木ミツルとはもともと深い関係ではないから、NOと答えるのもいくぶん簡単だった。佐々木ミツルなら、神崎明人ほど深くは傷つかないだろう。
 もちろん、相手をできるだけ傷つけないように選択するのは間違っている。それのほうが失礼だ。純粋に自分がどちらと付き合いたいのか、そこで判断するべきなのだから、茜は自分の選択を間違いだったとは思わない。
 選択をするときは楽しさもあったが、一方の道を選んだ現在となっては、意外に苦しさが増幅しているような気がした。茜がテーブルに向かいながら考え込んでいると、ふと気づいたように隣の席の飯島が声をかけてきた。
「仕事について悩んでいるって顔じゃないですね。ビジネススマイル山崎が、まさかのダークスマイル山崎に進化ですか」
 意味不明なジョークに付き合っていられるような気分ではなかったが、適当にあしらうわけにもいかない。茜は無理をして笑顔をつくった。
「すいません。ちょっと集中できてなかったです。気をつけます」
「いいよ、そういう堅苦しいのは」
 飯島は、スマートな顔に、にっと笑みをつくる。
「それで、なにに悩んでいるんですか。僕って、そういう人間の機微に気付いちゃう性格なんですから」
 そのわりには、かなり大雑把に見えるのは気のせいだろうか。茜は個人的な話をするつもりもなかったが、あくまでも先輩の学芸員である飯島に不審を抱かれるのも考えものだったので、打ち明けることに決めた。
「実は、親しい人から告白されたんですけど、その誘いを断ろうと思っているんです」
 佐々木ミツルと交際契約を結んだ件については、なんとなく打ち明けにくかった。そのうちバレるだろうが、自然に噂が拡がるのに任せたほうが無難に思えた。
「どうしようもないことなんですが、あまり気が進まなくて……。もう何日も待たせちゃっているので、すぐのうちに返事をしたいんですが、やはり、気分が重くなってしまうといいますか」
「わかりますね、その気持ち」
 ナルシスティックな色彩を帯びた言葉が返ってきた。
「僕も、そういう経験はいくつかありますからね。その痛みは経験済みです」
 飯島はおそらくモテる。そこは間違いないだろう。
 あんまり飯島に興味のない茜でさえ、飯島に告白する女性たちの気持ちがわからないわけでもなかった。すっとしたスタイルにスマートな顔、ユーモラスな雰囲気を漂わせる余裕。極めつけは、なにより、その鈍感な性格。細かいところまで気になって苦しんでいるような人からすれば、いつも半笑いをしているような飯島の性格には気分が落ち着くものだろう。
 そうでなくても、無駄に自信を持っている人は多くの人から求められる。なぜなら、世の中の多くの人は自分に自信を持てないからだ。自己肯定感が高いというだけで、すでに希少種として識別されるのである。
 茜としては、そういう希少種は供給過多だ。金沢たちと普段から関わっているせいで、そういう無駄に自信を持っているだけの男たちにあまり魅力を感じない。むしろ、自分なんてダメな人間です、というようなスタンスのほうが魅力的に映る。開き直らずに地道に生きているのが好印象だ。
 そんな自分の好みを振りかえるにつけ、タイプとしては神崎明人のほうが好きなんだろうな、とあらためて思う茜だった。佐々木ミツルはどちらかと言えば、自信過剰なタイプのように思えた。
 飯島は、彼らしく薄っすらと口元に笑みを浮かべたまま、茜の目を見据えてきた。
「山崎さん、なにも考えないことですよ。どんな言葉をかけたって、相手は凹んじゃうんですから。そのことについて、自分を責めたって、どうしようもないんです」
「そうなんでしょうけど」
 茜はうなずきつつ、そういうことではない、と言いたくなった。飯島の考えのほうが一般的には正しいのかもしれないが、やはり、なにも考えるなと言われても難しいのである。そういう軽っぽいアドバイスが、いまの茜にとっては毒だった。
「すみません、ちょっとお手洗いに」
 茜は、素早く起立して、研究室をあとにした。どこに行くつもりもなかったが、たしかにトイレはひとりきりになるのに適している。茜はその足でトイレまで向かい、個室の便座に座り込んで、額を押さえた。
 充電しすぎた充電器のように熱を帯びている。
 神崎明人にNOと伝えるのがこんなに苦しいことだとは思っていなかった。茜はポッケからスマホを取り出して、SNSを開いた。神崎明人は裏アカウントを持っているが、メールアドレスから簡単に特定できた。茜はときどき神崎明人の裏アカウントがなにをつぶやいているか、確認していた。
 最新の投稿は数時間前である。
『自分が気持ち悪い。なんであんなことを言ったんだろう。勘違いも甚だしい。彼女はただ憐れんでいるだけなのに、好意があるんじゃないかなんて考えた。自分の気持ち悪さに堪えられない』
 ずきずきと胸が痛んだ。憐れんでいるだけと言われると、すぐさま反論はできない。茜は神崎明人が気になるからときどき飲みに誘っていたのだが、どうして気になるかという問題については茜としてもよくわからない。
 いや……。
 違う。そんなの、嘘だ。もう嘘を吐くんじゃない、と自分自身に対して茜は思う。
 茜はたしかに神崎明人が好きだった。付き合いたかった。タイミングが悪く、佐々木ミツルからも告白されたせいで貫けなくなっただけだ。
 茜は、自分がすごく卑怯に思えてきた。ふたりきりで飲みに誘われれば、男としては好意があるんだろうと考えてもなにも不自然ではない。期待させるような行動だ。そんな自分勝手をしておきながら、いざ告白されると、佐々木ミツルのほうを選ぶとは、最低な行為なのではないか。
 なんでもっと早く告白してくれなかったの。茜は、そんな思いが込み上げてきて、それもまた自分勝手であることに気が付いた。
 後ろめたい気持ちというレベルではない。もはや自分の罪深さが全身にのしかかってくるようにさえ感じられた。
 茜は、スマホの画面をスクロールさせ、神崎明人の裏アカウントの投稿メッセージを読んでいった。
『恥ずかしくて、消えたい。もうこれ以上、恥をかきたくない。死んでしまえば、すべて解決するのかな』
『生きているうちに、少しでも楽しめたらいいのに。あの人に抱きしめてほしい。それだけで十分なのに、そんなことを望むなんて気持ち悪い』
『許さない。ぐちゃぐちゃ煩い。消えてしまえ。頭の中が騒がしい。また夢を見た。いつまで経っても出てくるんだ。いつまで出てくるの。なんで笑うの。なんで、そんなにひどいことを言うの。気色悪くて、ごめんなさい』
 こんな人に、どうしてわざわざ近づいていったのか。こんな不幸な人の傍にいたら、どうなるかなんてわかっているはずなのに。神崎明人を苦しめているのは、ほかの誰でもなく、自分だったのではないか。
 彼がひとり苦しんでいるのを利用して、自分に好意を向けるように計算していたところはないのか。結局のところ、期待させるだけという拷問をしただけじゃないのか。
 茜は、潰れそうなくらい心が圧迫されるのを感じた。なにも考えていなかったとは言わせない。好きなだけ気を引くようなことをして、何食わぬ顔で裏切ろうとしているのではないか。
 なんて最悪なんだ。
 どんな言葉をかければいいのだろう。いや、いったい、どんな言葉をかけなければいけないのだろう。茜の頭の中は、ぐちゃぐちゃになっていた。

 その日はずっと、頭の中が騒がしかった。手元の仕事に集中できず、ただただ罪悪感に潰されそうだった。一日の仕事を終えて給湯室でコーヒーを飲んだときに、ようやく穏やかな気持ちになった。神崎明人を誘っていただけじゃないか、という問いには、それは違う、という答えを用意できていた。
 茜は思う。たしかに神崎明人は好きだったが、誘っていたわけではない。神崎明人の足枷が少しでもなくなればいいと思い、元気づけるつもりで関わっていた。そこに間違いはなかったはずだ。
 そもそも、そんな説明をする必要はない。すべての行動に説明責任がつきまとうかのように錯覚するほど世界が厳しくなっているのは事実だが、それは人々の共同幻想だ。少なくとも茜にはそのように思える。
 どちらにせよ、佐々木ミツルと付き合うという結論は出たのだから、誠意を込めて、神崎明人からの申し出は断らなければいけない。
 茜は、無人の給湯室の中、何度か深呼吸を繰りかえした。それから、スマホを手に取ると、神崎明人に電話を入れる。午後五時半。神崎明人も、新聞社の仕事を終えているはずだった。
 三度コールが続いてから、つながった。数秒の間を置いてから、遠慮がちな声が聞こえた。
『山崎さんだよね? 電話、珍しいね』
 微かに震える声だった。緊張しているのが読みとれる。普段はメールでやり取りしているから、電話が来ただけで、なんの用か、悟ったのだろう。単刀直入に本題に入るのは躊躇われて、茜は、近況報告を始めた。
「昨日から、今月ぶんの特集が始まったよ。それまでいろいろと準備していたのが、ようやく落ち着いた感じかな」
『お疲れさま。僕も、時間のあるときにでも行ってみたいよ』
 神崎明人の声が、余計に震えている。その穏やかな言葉には、本人の意思が入っていなかった。告白の件ばかりが頭を支配しているのだろう。判決を待つ被告のような緊張感が電話口にも伝わってきた。
 胸が痛んだ。これ以上、焦らすことはできない。
「それで、例の告白の件なんだけど」
 自然に、茜の声は低くなった。電話のむこうが、水を打ったように静まり返る。そのしんとした空気の中に、神崎明人の鼓動が鳴り響いてるように感じた。
「私は、友達のままで、これからも付き合っていきたい」
 それは咄嗟に飛び出した言葉だった。『付き合う』という言葉のニュアンスは違うとしても、友達として付き合うことに変わりはない。そういう意味で神崎明人とこれからも付き合っていきたいと茜は思っている。
 いちいち愛を微分して背後に隠れているメカニズムを解き明かす必要がないの同じように、神崎明人との関係をわかりやすく説明する言葉はなくていいし、美しく真実を解明する理論なんかも存在しなくていい。同情なのか、愛情なのか、義務感なのか、自己満足なのか、あらゆる仮説が検証されないまま、ミステリーとしての不可侵性を携えたままでいい。
 これが私の答えだよ、と茜は思った。
 電話口の神崎明人は、口を動かす神経回路が麻痺したかのように、黙り込んでいた。その沈黙は、テロリストに口を塞がれている状態と同じで、本人の意思によって生じたものではないのだろうと茜は思った。
 ただただ神崎明人の言葉を待った。時間が経つごとに不安が膨らんでいった。そのときの茜は自分の選択を尊重していたし、もう自分を責めるための論理とは絶縁していた。それでも神崎明人を傷つけずにいられるわけではない。
 ゆっくりと進む秒針の音が聞こえてきそうな沈黙は、音もなく破られるティッシュペーパーのようにふんわりと消えた。
『残念だけど、それが山崎さんの気持ちなら……わかった』
 神崎明人の声は、小降りの雨音のように静かだった。その声の奥に裏アカウントでしか明かさない過激さが眠っているのかと思うと、茜はどうしようもなく神崎明人を抱きしめたくなった。
「また今度、一緒に……」
『ごめん。もう切るね』
 唐突だった。ぶつり、と電話は途切れて、茜は給湯室に独り取り残された。大丈夫なのだろうか、と不安が消えない。茜の頭には、神崎明人が誰にも聞こえない声で泣いている声が響いていた。それ以上は考えたくなかった。

 定時を迎えてからも、茜は美術館を去らなかった。飯島も含めて学芸員が出ていったあとにも茜はひとり残った。Sasakiグループにはセキュリティー設備会社があり、そのセキュリティーシステムを導入しているSasaki美術館には夜間の警備員がいない。美術館内には、地下のアトリエに閉じこもっている佐々木ミツルと、研究室の机で突っ伏している茜だけになった。
 ついに今日、美術館での飲み会が実施される。茜の気分はあまりいいものではなかったが、アルコールを喉から流せばマシになるだろうと考えていた。
 飲み会の約束時間は、午後九時だった。それまでぼうっとしているのもどうかとは思ったが、なにかに取り組めるだけの気力がない。
 茜が研究室の机で漫然と過ごしていると、五人組がやってくる前に、茜のもとへやってきた人物がいた。
「山崎さん、一緒にお話ししない?」
 振りかえると、佐々木ミツルがいた。いつもどおりマスクを装着していない。相変わらずサングラスをかけているが、口許だけでも、笑っているのが読みとれる。座ったままの視線の高さから見上げると、佐々木ミツルの長身が余計に強調されていた。
 茜は、塞ぎがちになっていた気分がほんのちょっと上向くのを感じた。
「いいですよ。ここ、座ってください」
 茜が飯島の席を示した。「それじゃ、失礼するよ」と手刀を切りながら、佐々木ミツルは飯島の席に座った。真っ黒のサングラスのむこうの目が、茜を真っすぐに見つめているように見えた。
「山崎さんは、いつも、ここで仕事されているんだね」
 佐々木ミツルは、研究室内を見回すように、首を回した。真ん中に並んだ机の周りを金属製の収納棚が囲っている研究室内は、わりと整理整頓されている。たまたま六人の学芸員みんながきっちりした性格だったせいだろう。
 茜は気になっていたことを単刀直入に訊いた。
「佐々木さんも、いつも、アトリエに籠っていますよね。気分がおかしくなったりしませんか?」
「ぜんぜん」
 佐々木ミツルは、首を振った。
「それよりも、僕は、外を出歩くほうが怖いんだよ。なんで、っていう顔をしているね」
 嬉しそうにサングラスの顔を近づけてきた佐々木ミツルは、うんうんと首の据わっていない子供のようにうなずいた。
「実は、点滅恐怖症なんだ。なんだそれ、って感じ? まあ、そんな名称が実際にあるのかどうかはべつにしてだよ、僕は、本当に、点滅が怖い。充電不足を示す点滅、ウルトラマンの胸の光の点滅、雲に隠れたりする日光の点滅、車の右左折を示すライトの点滅、それに、信号機の点滅だって、怖いんだ」
 点滅恐怖症。茜は一度も耳にしたことがない。ただ、佐々木ミツルが小学生のころに経験したトラウマ――青信号が点滅する交差点で両親が殺害された事件――と関係があるのだろうという推測は容易だった。
「怖いだけじゃなくて、身体的な症状も出てくる。点滅するものを見ると、まともに息ができなくなってしまうよ。そんなことが何度もあった」
 かなり深刻な恐怖症らしい。点滅を目にするだけで息ができなくなるなら、点滅が溢れている現代社会では、日常生活を送るのは困難だ。
 そのような心の弱さについても打ち明けてもらえるのは、茜としては素直に嬉しかった。一度、付き合うと決まったせいか、堰を切ったかのように、普段は誰にも語らない話が飛び出していた。茜は興味深く耳を傾けていた。
「だから、外の世界では生きづらい。実は、この美術館はどこにも点滅がないようにつくられている。ここにいる限り、安心していられる」
 なるほど、と茜は思った。それで地下室のアトリエに籠っているわけか。この美術館そのものが佐々木ミツルが生活をしやすいようにつくられた特殊な建物だったわけだ。
 茜はふと、サングラスをかけているのも点滅恐怖症と関係があるのだろうか、と気になった。
「ずっと気になっていたんですけど、サングラスはなんのためにかけてるんですか?」
「これ? なんのため、といわれてもね」
 佐々木ミツルは、サングラスに右手を持っていったが、サングラス本体を掴みはしなかった。取り外すのは躊躇ったようだ。
「たしかに外を出歩くときにサングラスをつけていると、点滅が気になりにくくなり、点滅恐怖症がいくらか和らぐというメリットはあるけれど、この美術館ではその理由も当てはまらない。とくになんの意味もなくつけているだけだね」
 そんなことを言うわりには、やはり、せっかくサングラスまで持っていった右手にはサングラスを取り外そうとする意思が欠落していた。目的を失った右手を寂しそうに空中に置き去りにしながら、佐々木ミツルは、顔の表面を逸らしていく。追及するのは勘弁してくれ。そんな内心が透けて見えた。
 茜はそれ以上は踏み込まないように注意して、話題をもとに戻した。
「点滅が怖いってなると、外に一緒に出かけるのは難しいですね。館内デートみたいな感じになるんでしょうか」
「そうだね。外に出かけるのも無理ではないけど、中のほうが安全だ。そこは申し訳ないけど、そういうことにしてほしい。それと……」
 佐々木ミツルは逸らしていた目――サングラスに隠れているが――を、ふたたび茜に向けた。
「もう付き合うことになったんだから、敬語はやめてほしい。佐々木さんって呼ばれるのも嫌だ。ミツルって、呼び捨てにしてくれない?」
 その問題にはいずれぶつかるだろうと思っていた。茜としても、そこのところの切り替えができていない未熟さには気が付いていた。仕事関係で接するときは常に『佐々木さん』と呼んで敬語を使っていたが、もはやプライベートな関係に発展していることを自覚しなければいけない。
 茜は、気力をかき集めて、挑戦した。
「じゃあ、ミツル、これからは、私のこと、茜ちゃんって呼んでくれる? それが気に入っているの」と、茜は、甘えた。へたくそな芝居をしているみたいだった。
「いいけど、山崎さんの呼び方はそのままのほうがいいかな。ね、山崎さん。あらためて、よろしく」
 それから、茜は笑った。つられるようにして佐々木ミツルも笑みを零す。サングラスに隠れて見えない目が優しく笑っているのを茜は確信していた。佐々木ミツルって、ふつうの人間だよ。誰でもいいから誰かに向かって、そんな企業秘密をこっそりと密告したくなった。
 天才とか変人とか、そんな断片でしかない評価を鵜呑みにするなんて間違っている。なにも特別じゃない。佐々木ミツルは愉快な人間たちの仲間だ。
 こんな絵に描いた恋人みたいな関係を神崎明人とも築けたのだろうかという疑問が頭の奥のほうに消えていった。

 佐々木ミツルがアトリエに戻ってから一時間ほど経過したとき、ついに五人組が美術館に姿を現わした。
 予定の午後九時よりも一時間も早い集合だった。午後八時である。一時間前行動をするほどに時間を厳守するような人たちではないから、飲み会をやりたくて我慢できなくなっただけだろう。茜は玄関ホールまで出迎えに行った。やってきた五人組は全員、マスクを装着していた。
「ありがとうよ、茜ちゃん。ホントに美術館を貸切れるなんて、夢にも思っていなかったよ」
 やってきて早々に軽く感謝を伝えてきたのは、白石だった。独楽のようにくるくると口が回るので、あまり感謝されているようには感じられなかった。
「マジで感謝。休業要請なんてクソくらえだ」と続いたのは山田だった。
「なにいってんの。政府の方針は尊重しないと」
 茜が念のために正論を口にすると、すかさず論破された。
「なんて、そんなの、平気な顔をして政府の方針に逆らっているような人のセリフじゃないよね、茜ちゃん」
 ふふふ、と笑いを零しながらの斎藤だ。
「でも感染予防に気をつけるっていうのは、変わらないよ。こんな人数で会食するのは危険なんだから、ソーシャルディスタンスを守っておいたほうがいいわけ」
 心の底から正論を言える人は最強だと思う。池垣のようにジョークのつもりもなく正しいことを口にできるような誠実さは見習うべきだ。
 もちろん、茜としても、感染予防対策は考えていた。池垣が言うように、ソーシャルディスタンスは重要であり、バカにはできない。美術館のホールはとても広いのだから、十分に距離を取ることができる。十分に距離を取っていれば、少人数会食どころか、個人で会食しているのと変わらない。
 おまけに美術館の換気システムを作動させれば、三密を回避することが可能となるのだった。
 茜は、五人の顔を見れたことで、気分が明るくなった。神崎明人の告白を断るためにかなりエネルギーを消耗したが、それも半ば回復していた。佐々木ミツルや五人組など素敵な仲間に恵まれている自分は幸せだな、と感じた。
「というわけで、これで、一応、五人なんだけど……」
 金沢が、意味深に語尾を窄めた。金沢の背後に、もうひとり、誰かがいる。茜は想定外の事態に首を傾げたいような気持ちだった。
 肉体美の電気工である金沢、背の低い営業マンである白石、眉が大きいバス運転手である山田、穏やかな保育士である池垣、よく笑う農家育ちの斎藤……と、このお馴染みのメンバー五人に交じってもうひとり、見知らぬ子どもがいた。
 茜は、Sasaki美術館の玄関ホールで計六人を出迎えることになった。玄関ドアのむこうに見えるのは、黒い闇だった。いつものようにやってくる夕立も降り終わっていた。真夜中の世界へと突き進んでいる最中、木々に覆われた美術館はことさら地下世界のような暗さと静けさに包まれていた。
「この子は、誰なの」というのが、茜の率直な疑問だった。
 金沢の背後に立っていたのは、おそらく中学生くらいの男の子だった。学校用のジャージを着用していた。佐々木ミツルのように肌白いが、背丈は低い。むしろ小柄と言っていいくらいで、小さく可愛らしい雰囲気をまとっている。マスクは装着していない。蛇のように横に長い目は賢そうな印象を与えていた。
 茜がじろじろと観察しても、いっこうに目を合わせようとしない。年頃の男の子としてはべつに不自然な反応ではない。
 なんとなくの違和感を覚えた茜は、男の子の姿勢と態度を子細に観察した。その子は、ぎゅっと両手を拳にして直立していた。その拳はなぜか、両方とも、赤く腫れている。俯くことはなく、その顎は地面と水平になっていた。その目だけが横に向けられている。身体だけ取り残されたまま、目だけが動揺しているように見えた。
 どこか強気で、どこか弱々しい。
 わけがわからないままにその男の子を見つめていると、ようやく、説明が入る。
「ハヤカワソウイチくんだ。早い川に壮大な一で、早川壮一くん。本人が嘘を吐いていないならだけど」
 金沢が、男の子の肩をがっちりとつかみ、茜の前に押しだした。
 男の子――早川少年は一度だけ茜の顔を見て、表情を変えずにまた目を逸らした。口は閉じたままで、なにかを言おうとする意思も感じられない。強がっているようにも見えるが、ただ恥ずかしくて自分を出せないだけというようにも見える。
「それで、この壮一くん? いったい、誰なの?」
「家出少年だよ。俺がこの美術館に来るまでの道中で見つけたんだ。夜道をぶらぶらしているところを発見したから、保護することにした」
 得意げに語る金沢の神経が、茜には理解しかねた。
「誘拐してきたってわけ?」
 金沢は、堂々と胸を張り、真面目ぶって弁解した。
「なにを言うんだ、茜ちゃん。そんな物騒な言い方をするなよ。あくまでも保護だ。家に帰りたくないっていうんだから、俺たちで安全なところに連れていくしか手段はないだろう?」
 どんな理由であれ、保護者の許可なくして未成年者を連れてきたら、それは誘拐なのではないか。
 茜はさすがに呆れ果てた。金沢が法律ではなく信念に基づいで行動していることはよく理解しているが、世の中はある意味、機械的にしか人間を判断できない。
 人間が群れたときに生まれるのは、愛とか絆とかではなく、論理学のように厳密なルールと神様のように絶対的な価値観だ。金沢がいかに善意を持っていたとしても、それだけで正当化されるわけがなかった。
 とはいえ、すでに連れてきてしまったものは仕方がない。本人が望んで金沢についてきたのであれば、本人の意思を尊重しようではないか。茜は、そのような社会的な正しさにはルーズだった。
 ひとまず、早川少年もつれて、玄関ホールから、美術館の中へと移動した。佐々木ミツル展が実施されている広大なホールには、冷房が入っていた。夏の夜は蒸し暑いが、美術館内は異国のように涼しかった。
 四方の白い壁に佐々木ミツルの作品が展示されており、その中央部分には公園のように広い空間が佇んでいた。すでに丸テーブルがいくつか用意されており、立食パーティー形式で飲み会を楽しむための準備は整っていた。
 時間通りに始めなければいけない理由はない。いますぐにでも五人組が持参してきた缶ビールで乾杯したいところだったが、早川少年を無視するわけにもいかない。
 茜は、ちらっとマスクをずらして顔を見せて、早川少年に、いつものビジネススマイルを提供した。
「はじめまして、山崎茜です。この美術館で学芸員として働いているものです」
 定型文のような自己紹介をすると、早川少年は、うさんくさそうな目を向けてきた。なにか言いたげだったが、ぐっと呑み込んだようだ。
 たしかに、自分の職場を利用して飲み会をしようなど、傍から見れば、褒められたものではない。早川少年はわりと真面目な性格だろうか、と茜は思った。
 中学生と話すなんて大変だな、と思いつつ、なんとかしなさいよ、と金沢のほうに視線を投げた。金沢は、了解を示すように右手をひょいと上げた。
「まあまあ、そう固くならないで、早川くん」
 金沢にぺしぺしと肩を叩かれた早川少年は、「痛い」とだけ抵抗を示した。茜は、そのときはじめて早川少年の声を耳にした。まだ声変わりしていないようで、小学生のような高音だった。
「車の中ではずっとしゃべっていたんだよ。べつに変な子じゃないから、安心して。俺たちが美術館で飲むっていう秘密も守ってくれると約束してくれたから」
 金沢はあまり人を疑わない。茜としては、その無神経さについては理解に苦しむところだった。
「それで、どこで見つけてきたの?」
 茜は、当然の疑問を口にした。早川少年を連れてきた当人である金沢が応じた。
「夜の商店街をとぼとぼを歩いているところを見つけた。パット見たときにわかっちゃったよ、家出だってね」
 金沢自身も中学生のときに家出をしたことがあるのを、茜は知っている。あまり居心地のいい家庭ではなかったようだ。そんな金沢は、家出少年にシンパシーを感じても不思議ではない。
「僕も、家出したことあるな」と懐かしそうに告げたのは、池垣だった。
「統計的に見れば、家を出て行ってしまう人って、そこら中にいるんだよね。家族としては戻ってきてほしいんだろうけど、出ていった本人としては出ていきたいから出ていったわけであって、そんな単純でもない。もちろん、最終的には反省して戻っていくしかないんだけど」
 そういえば、神崎明人も家出みたいなことをしていたな、と茜は思い出した。神崎明人の場合は、中学生のとき、学校の休み時間のうちに学校から出ていった。家に帰るのかと思いきや、はるか遠くの高架下の公園まで歩いていった。パトカーに保護されて戻ってきたのだが、警察官には「戻りたくない」と告げていたらしい。
 しみじみとした空気の中で、誰も口を開かなくなり、束の間の沈黙が訪れた。換気システムが作動している音が忍び寄ってくると、話題の中心人物である早川少年が進み出てきた。
「僕は家出じゃないよ」
 はっきりとした発声で、ホール内に響くくらいの声量だった。
「人を刺そうと思ってただけ」
 突然、とんでもない告白をすると、ジャージのポッケから刃渡り十五センチ程度のナイフを取り出した。
 一瞬にして、その場が凍り付いた。心臓が激しく脈打つ。危ない。逃げなければ。咄嗟に頭に浮かんでくるのは、それだけ。
 ナイフを手にする子供が目の前にいるだけなのに、大きな恐怖心が体内に拡がった。状況を掴めていないような間抜けな顔の山田と白石以外、早川少年から離れるように、後ずさりを始めていた。
 距離は二メートル程度。すぐそこに殺意が生きている。
 早川少年が握るナイフの切っ先が、茜たちそれぞれに順番に向けられていく。早川少年の横に長い目が、殺意に飢えていた。時間の濃度が急激に増した。まるでスローモーション再生をするかのように、早川少年の動きがどれもピックアップされて緩慢に見える。足を出す、ナイフをくるくる回す、目が動く。
 マスクをしていない早川少年の顔が、指名手配写真のように薄気味悪い。
 こんな危険な子を連れてきたりしないで。少しくらいは人を疑ってよ。茜は、金沢に対する信頼が大きく揺らいだが、それどころではない。刺されたら死ぬ。茜は、体勢を低くし、駆けだす準備を整える。
「それを捨てろ」
 金沢が威嚇するような大声を上げる。早川少年の目が笑う。「捨てたら刺せないじゃん」と薄笑いの声。
 金沢は、覚悟を決めたように、一歩、踏み出した。ナイフを取り上げようと早川少年に近付いていったとき、早川少年は、ぽいっとナイフを自ら捨てた。かちゃん、と床に落下する。
「うそ、うそ。本気にしすぎ。このナイフはただの護身用です」
 早川少年は、その場で噴き出したのだった。金沢は、床に落ちたナイフを蹴りつけ、ナイフを遠ざける。
 ほっとすると同時に、いまいちど状況を確認する。早川少年の手にはもはやナイフはない。手を叩いて笑っている。
 茜は、こちらこそ殺意が込み上げてくるのを感じた。大人をバカにするのも大概にして、と声を上げようとしたとき、なぜか、金沢も笑い出した。それだけではない。白石も山田も、池垣も、斎藤も、みな豪快に笑いはじめるのだった。まさか、これは。茜は真実を察した。
「ドッキリ、大成功」と金沢が茜を指した。やはり、そういうわけか。まんまと騙された自分を間抜けに思った茜は、そんな自分を誤魔化すように抗議する。
「いいかげんにして。ホントに死ぬかと思ったんだから。もしかして、誘拐してきたのも嘘?」
「それはホントだよ」と池垣が答える。ということは、商店街で見つけた家出少年を利用してドッキリを仕掛けてきたことになる。美術館に入ってくる前に仕込んだのか。相変わらず子供みたいなことをするな、と茜は辟易した一方、あらためて、刺されないで済んだという安心感を手に入れた。
 早川少年がどこか不自然な印象だったのは、ドッキリを仕掛けることへの緊張があったせいだろうか。茜が早川少年に目を走らせると、早川少年は、慌てたように「ごめんなさい」と謝罪をしてきた。目を晒しはしなかった。
「どうしても、やってくれ、って金沢さんたちに頼まれたから」
 ぼそぼそと弁解する。素直な子ではないか。早川少年を責めるのは筋違いである。
「謝らなくていいよ。悪いのは、ふざけた大人たちなんだから。早川くんは、なにも悪くないんだよ」
 茜は、ただちに金沢を睨んだ。
「で、企みはこれで以上?」
「以上だよ、疑わないでくれ。さっそく、飲み会にしようぜ」
 茜は、呆れながらも、うなずいた。

 ついに飲み会が美術館内のホールで始まった。
 緊急事態宣言が始まった影響で、街の飲食店の扉はほぼすべて閉ざされて、人通りが著しく減少している。そんなニュースを伝える世の中の片隅で、ある種の優越感に浸った時間が続いた。禁止されているときこそ、それを破ったときの爽快感は堪らない。
 早川少年は未成年なので、飲酒はできない。茜が機転を利かして美術館にあったカルピスを持ってきて、グラスに注いだ。
 それぞれがひとつのテーブルを使っており、それぞれのテーブルはソーシャルディスタンスのルールを守っていた。全員、マスクは外していた。
 酒のつまみとして最初に話題に上がったのは、市内で発生した猟奇的殺人事件についてだった。茜もラジオニュースで耳にしたことがあったので、薄っすらとは記憶に残っていたが、その詳細については知らなかった。
 ホテルの一室で、ふたつとも眼球を抉り抜かれた女性の変死体が発見され、同室内からは眼球が発見されなかったという事件。消えた眼球については犯人が持っていったとする説もあるようだったが、茜はその説には懐疑的だ。眼球を持ち出すなんて、気持ちの悪いことをするだろうか。排水溝から流しただけではないか。
「でもさ、いろいろな欲望の形があるわけじゃない、世の中にはさ」
 茜の意見に口出ししたのは、池垣だった。たしかに性欲の形はいろいろあり、中には眼球に興奮するような稀な人がいたとしてもおかしくはない。茜も一応の理解を示した。
 その文脈の中で、自分にはどんな性的な倒錯があるか、という話題が始まった。あくまでも冗談の域を出ていなかったが、あまりに生々しいので、早川少年には耳を塞いでいてもらいたかった。しかし、当の本人は興味深そうに耳を傾けていた。
 アルコールが身体に回るにつれて、下品になっていくのは避けられない。悍ましい告白が続く中で、その流れに終止符を打ったのは、早川少年だった。
「僕は頭のいい人に惹かれる。口論ができたほうが楽しいですから」
「言い合いたいなんて、ずいぶんと余裕のあるやつだな」
 山田がちょっかいを出すように声を飛ばした。「いちいち批判されたら、それはそれで面倒くさいだろ」というのは白石の意見だ。
 早川少年は、カルピスをごくりと飲んでから、「それもあるけど」と断りを入れる。
「でも、言い合えるのって、けっこう楽しいんですよ。頭のいい人って、僕だけでは思いつかないような視点を持っていて、そういうのに出会うと、もう最高です」
 それから、全員で早川少年を質問攻めするような形になった。好きな子はいるのか、その子は頭がいいのか、そもそも早川少年は勉強ができるほうなのか。早川少年はどの質問にも素直に丁寧な答えを返していた。
 ふと、茜は、どうしてこんなに性格のいい子が家出をしているのだろうか、と疑問を感じた。人間なんて見た目だけで把握できるものでもないが、それにしても、早川少年が家出をすることについては違和感が拭えない。
 話題の中心になった早川少年は、個人的な話を続けるのが恥ずかしくなったのか、自らべつの話題を提供した。
「最近、考えているんですけど、もしも人間が合理的にしか考えないなら、完全犯罪の殺人事件も起こせてしまえるな、って思うんですよ」
 早川少年は、推理小説が好きらしく、普段から人間を殺害する方法について頭を悩ましているという。完全犯罪の殺人方法を思いついたらミステリー小説にしようと企んでいるらしいが、現在のところ、「人間は合理的である」という、決して緩くはない前提条件のもとでしか完全犯罪を起こせていない。
「どういう方法なの?」
 茜は純粋に気になった。
「もちろん、これは人間が合理的であるという前提条件と、それに、警察の捜査能力を過小評価した場合にしか、成立しない殺人方法ではあるんですけど」といまいちど確認を求めてから、早川少年は、楽しそうに語りだした。
「あるところに、密室がありました。その密室の中に六人の人間がいて、そのうちの一人が殺害されました。生きたまま密室から出てきた五人のうちの誰かが犯人のはずで、その犯人が殺害に手を染めるところをほかの人は目撃しているはずです。このような状況になったとき、警察としては、殺人を目撃している人に目撃証言を求めることになります。目撃者が正直に答えるならば、目撃者の証言は一致します。しかし、犯人は嘘を吐いたほうが自分のためですから、犯人だけは別の人を指摘することになります。いま、かりに、四人の目撃者がひとりを犯人だと指摘し、残りの一人がべつの人を犯人だと指摘したとします。このとき、意見が一致していないひとり――ほかの四人が犯人だと指摘する人物――が犯人だという論理になるわけですが、これ、厳密にはそうは言えないんですよね」
「嘘? そうなの?」
 茜には、論理の穴を見つけることはできなかった。密室に被害者と加害者と目撃者がいるとき、目撃者四人の証言はただひとりの犯人を示しているはずだ。
「ちょっとしたひらめき問題なので、わかる人にはすぐにわかっちゃうと思いますが」
 そのように早川少年が急かすと、「なるほどね」と斎藤が声を上げた。にやにやしているこの男、わりと頭が切れるやつである。
「つまり、犯人がひとりだとは限らないというわけね。もしも四人が共犯で殺人に手を染めているとしたら、残りのひとりだけが潔白だということになる。四人はその潔白のひとりを犯人に仕立て上げて、目撃者として容疑者から除外される。そういうケースがありうるから、四人の意見が一致していたとしても、その意見には信ぴょう性はない」
 ややこしい話だが、斎藤の考えはたしかに筋が通っている。茜は納得した。
 もしも四人がひとりの人間を犯人として指摘したとしても、かりに四人が共犯であった場合、無実の人間が犯人として指摘される危険性を回避できない。
「でも、そういう場合、ひとりだけの潔白の人は、自分以外の四人が犯人だよ、と主張すればいいんじゃないの? 未必の故意なんてのがあるから、捕まっちゃうかもしれないけど。あくまでも殺人には関わっていないんだから、自分は違う、ほかの四人が犯人だ、って主張することはできるはず」
 池垣がもっともらしい指摘をしたが、早川少年は、にやりと笑った。待ってましたとばかりに首を振る。
「その意見にも、信ぴょう性はないんですよ。だって、もしも犯人がひとりだけだった場合、犯人は、『ほかの四人が犯人だよ』と主張すれば、ほかの四人が共犯なんだと警察が錯覚するから、そういう主張をしたくなる誘因を持つことになる。つまり、『ほかの四人が犯人だよ』と主張しているのがまさに犯人である可能性があるわけで、その意見を警察として信用するのは論理的に間違っているわけです」
 がんじがらめだ。茜は頭が痛くなってきた。こんなに単純な密室殺人事件で、犯人を特定できないなんてことがありうるのか。
「重要なのは、警察が、五人のうちの何人が犯人であるかを特定できないところです。だからこそ、目撃証言が多いときに目撃証言の信ぴょう性が増すという一般的な論理は成立しません」
 恐ろしいくらいに理路整然とした説明だった。
「以上のように考えていくと、犯人が一人のときには警察は犯人を特定できないし、その裏返しで、犯人が四人のときも警察は犯人を特定できません。互いに違うことを主張する四人と一人がいることがわかるだけで、どちらが嘘を吐いているのかについて論理的に把握するのは無理です」
 早川少年は、カルピスを飲みつつ、話を進めた。
「僕は、この問題について思考実験を進めてみたんですけど、これは犯人が二人の場合も、三人の場合も同じです。目撃者グループは犯人グループを犯人グループだと指摘するし、犯人グループは目撃者グループを犯人グループだと指摘します。どちらが嘘を吐いているのか、警察には判断できません。特殊なケースとして、五人全員が犯人である場合がありますが……」
 早川少年は、掌をパーに開いて、『五人』を示した。
「この場合は、犯人五人があらかじめ相談をして、犯人が特定できないように意見をすれ違わせることが可能です。つまり、どのような犯人の人数パターンにおいても、犯人は警察に特定されないように証言することができます。目撃者がどんなに真実を克明に述べたとしても、犯人が嘘の証言をする可能性を一度考慮してしまうと、目撃者の証言はすべて無効になる。あくまでも、厳密で合理的な思考のもとでは、ですけど」
 ということは、五人が密室の中に入った状態で殺人を犯すという方法は、もはや完全犯罪であるということになる。
 それから、おそらく、これは五人に限った話ではなくて、一般にN人が密室に閉じ込められていたとしても同じように成り立つはずだ。
 誰が、何人が、どのように証言したとしても、その人、あるいはそのグループが、犯人である可能性を排除できない限り、どの証言も信ぴょう性を持たない。つまり、犯人は殺人をはっきりと目撃されているにもかかわらず、警察には特定されない。
「これは単純な言葉遊びみたいなものだけど、この考え方を拡張することもできると僕は考えているんです。それは密室ではなかったとしても同じで、犯人と目撃者という二種類の人間から構成される集団において、その集団の中に、犯人が何人いて、目撃者が何人いるか、それが特定できていない状況ならば、その集団の中にいるどの人物の目撃証言も一様に信ぴょう性を持たない」
 いきなり話が大きくなったが、論理的には間違っていない。早川少年の唱える理論を基にするならば、目撃証言をもとにして警察が捜査をするのは、厳密な論理においては間違っているということになる。
 当然、目撃証言の信ぴょう性についても警察は捜査をするので、そのポイントは見逃している。それはおそらく早川少年も気づいていて、だからこそ、警察の捜査能力を過小評価した場合に限る、と断っていたのだろう。
「すごい発見ね。数学的に証明すれば、それらしくなりそう」
 茜は、心の底から感嘆した。
「っていうか、その論理で考えてしまうと、目撃証言だけで立証されている殺人事件は厳密には論理的に間違っていて、つまり、それは本当は逮捕できないものだから、目撃証言しか証拠のない殺人はすべて完全犯罪ということになる」
「そういうことです」
 満足したように、早川少年は、うなずいた。茜は唸りそうになる。金沢はとんでもない少年を拾ってきたわけだ。真面目に研究を進めれば、それなりに名のある教授にでもなりそうだった。
 早川少年はきっと考えるのが好きなのだろう。茜にもその気持ちはわかる。大学に通っていたときには、それまで世界に隠されていたさまざまな真実をひとつひとつ解き明かしているような気分になり、自分でもなにか解き明かせるのではないかという妄想もしていた。しかし、茜は気付いた。
 世界の真実を解き明かすためには、それなりに機能する脳みそがひとつあるだけでは足りない。それまで誰も気づかなかったものを思いつく発想力と、それを信じつづけるある種の純粋さが必要だ。茜には、そのどちらもなかった。
 とくに後者が欠落していた。変なことを考える人は嫌われる。新しいものを見つけたとき、それを考えつづけるには、周りの反応を気にせずに信じつづける純粋さが必要になる。茜ならおそらく嫌われるのを恐れて考えを停止してしまうが、早川少年には、それとは反対の純粋さが備わっているように見えた。
「将来はなにになりたいの?」
 茜は、それが気になった。早川少年は、いつのまにか弾けるような笑顔をしていて、少しだけ目つきの悪い目すらも、悪印象を与えていなかった。
「呪い学者になろうと思っています。世界ではじめての研究者になるかもだけど、挑戦してみたいんです」
「呪いを研究したいってわけか。夢がデカすぎるな!」
 金沢は、拍手喝采を送るように声を張り上げた。ほかの誰もが、早川少年を応援するような言葉を送った。
 茜が彼ら五人組と関わりつづけているのは、彼らには異質なものを受け入れるだけの器の大きさがあるからだった。
 たとえば、飯島みたいにまともな大人なら、呪いを研究したいなどと言い出す無謀な早川少年をいかに説得するかについて頭を悩ますだろう。その一方で、彼ら五人組には、はなから説得する気もないし、その必要性も感じていない。ある意味、無責任だが、それこそ茜が彼らを評価するいちばんのポイントだった。
「応援するよ、早川くん。できれば、僕が呪い殺される前に、なんらかの成果を挙げてくれ」
 池垣が呪い殺される真似のつもりか、溺死する人を演じた。そんな周りの反応に気をよくしたように、早川少年は、呪い研究の一端を話しはじめた。
「僕の研究では、呪いを、人間のあらゆる情念がその対象の幸福状況に正負どちらかの影響を与える現象として定義したいと思っています。その中でも、とくに怒りや恨みの感情がその対象に不幸をもたらすことを、しばらく簡単に呪いと呼びましょう。
 この現象はおそらく太古から存在しているのだけど、研究はされてこなかった。その理由は、判別不能性という性質にあるのだと考えます。呪いというのは、一例ずつを取り上げて呪いかどうかを判断することはできないんです。この点について、もっと噛み砕いていきます。
 もしも、人間のあらゆる不幸の中に呪いによる不幸が紛れているのだとしたら、人間の不幸を導く関数は、独立変数として『呪い』と『そのほかの影響』を携えているはずです。これら『呪い』と『そのほかの影響』の変動によって、従属変数である不幸の度合いが決定されるわけです。
 数学的に記述すると、F=f(A,B)になります。
 ここでのFは不幸を、Aは『呪い』を、Bは『そのほかの影響』を表しています。つまり、あらゆる不幸はAとBのふたつの要因に分解できるわけです。このふたつの値が変動することで、その結果としてのFも変動していきます。我々人間はFを観測できるため、誰がどのような不幸に遭ったかについては明確に理解できますが、問題は、AとBを把握できないため、『呪い』と『そのほかの影響』を判別的に把握するのは困難であるところです。つまり、死んだとか、怪我をしたとかいうように不幸を外面的に把握することはできますが、それらの不幸が『呪い』による不幸なのか、それとも『そのほかの影響』による不幸なのか、『呪い』と『そのほかの影響』の比率はどれくらいなのか――外面的に把握される不幸の内面的性質、あるいは不幸の起因について――判別できません。これが判別不能性の意味ですね」
 明快に述べるのでわかりやすいし筋も通っているが、こんな中学生がいたら浮くだろうなと茜は思った。なんとなく早川少年が家出をしたくなった理由がわかった気がした。
 カルピスを飲んでいるだけで、酔っていないはずなのに、早川少年の口は止まらなかった。
「せっかくなので、今度は、明示的に定義しておきたいのですが。前提として、呪い仮説は、狭義には『怒りや恨みによる幸福の度合いへの負の効果』と仮定しています。一方で、呪い仮説は、広義においては『人間のあらゆる情念』と仮定し、また、その効果は『不幸』だけでなく、『幸福』へのポジティブな効果についても先入観を持たずに考察していこうと考えています。つまり、嬉しさや楽しさなどのポジティブな感情もまたその対象の幸せに直接的な影響を与えているのではないかというわけです。これは単純な話で、もしも呪いがネガティブな効果しか持たないのであれば、人前に立つ人は一人残らず不幸になっているはずだからです。たとえば、芸能人などは全員、呪い殺されていて然るべきでしょう。そうなっていない現実を考慮すると、整合的な観点からいって、不幸とは逆方向に機能する呪いもあるだろうという前提を置く必要がありました。
 まとめると、呪いは、広義では『人間の情念が他者に直接的な影響を与えること』であり、狭義では『怒りや恨みの感情が直接的な原因となってその対象を不幸にすること』です。当然、『広義の呪い』は『狭義の呪い』を含んでいます。『狭義の呪い』は『ネガティブな呪い』の一部であり、『ネガティブな呪い』は『広義の呪い』の一部です。つまり、『広義の呪い』=『ポジティブな呪い』+『ネガティブな呪い』です。
 気を付けねばならないポイントがふたつあります。
 ひとつめは、呪いは、その対象になにかしらの感情を抱く人たちそれぞれの『広義の呪い』の総計として出現することです。ひとりだけの『広義の呪い』が、呪いのすべてではないのです。世界に二人しかいないという仮想世界においては話は変わってきますが、現実には無数の人間がいるので、当然のことでしょう。以下、ひとりぶんの『広義の呪い』を『個人の広義の呪い』と呼び、全員ぶんの『広義の呪い』を『全員の広義の呪い』と呼びましょう。
 つづいて、気をつけるべきポイントのふたつめは、人間の幸福の度合いは、『全員の広義の呪い』だけによって導かれるわけではないことです。人間の幸福の度合いは、『全員の広義の呪い』(A)と『そのほかの影響』(B)を独立変数とする関数として把握されます。さきほどはこれをF、不幸として語りましたが、それは幸福の度合いと解釈し直しても数式は同じです。
 ここで、ここまでで明らかになった人間の幸福の度合いの性質について、簡易的にまとめておくと、Fa=f(A,B) A={(P1+N1)+(P2+N2)+……+(Pn+Nn)}というわけですね。これがいちばんわかりやすい仮説ですけど、ほかにも実は……まあ、ややこしいので、この仮説で説明しましょう。
 ここでのPは『ポジティブな呪い』であり、ここでのNは『ネガティブな呪い』です。ひとつのカッコがひとりの人間の『ポジティブな呪い』(P)と『ネガティブな呪い』(N)の総和としての『個人の広義の呪い』を表しており、それがn人ぶんあります。n人――つまりaさんに対してなにかしらの感情を抱く人たち――の『個人の広義の呪い』の総和として、『全員の広義の呪い』であるAが把握されます。そして、このAと『そのほかの影響』であるBを独立変数として、aさんの幸福の度合い、Faが決定されます。このFaのみが、不幸な事故や事件として、または幸福な人生や成功として我々の前に現れるわけですが、呪いを科学的に解明するためには、その背後にある呪い効果の全体像、そのメカニズムについて把握しないといけません。その検証は、実はもう、部分的には済んでいるんです」
「え、もう研究してんの?」
 金沢が驚くと、早川少年はうんうんとうなずいた。
「みなさん、ちゃんと聞いてくれるのって、珍しいですね。いつもドン引きされるだけだからさ。
 研究っていうほどじゃないけど、グーグルのアンケート機能でネット上でアンケート調査をしてみたんです。三四五人が回答してくれました。怒りや恨みの対象を想起させて、『怒りを感じる』『とても怒りを感じる』『とてつもなく怒りを感じる』などの三件法で回答を求めて、『現在もあなたが恨みや怒りを持つその相手はいま現在どうなっていますか』と質問し、自由記述を求めたものでした。得られた自由記述の回答を、僕が不幸レベルをランク付けし、1から5で不幸レベルを判断しました。そのあと、恨みや怒りの度合いとその対象の不幸レベルについて回帰分析を実施しました。統計学は独学でやったんですけど、なんとか、できました。
 その結果、恨みや怒りの対象が現在において不幸になっていることについて有意な正の相関関係が発見されました。つまり、少なくとも、恨みや怒りの対象は現在において不幸になっている、と主観的に把握している人が多いということです。
 これはもちろん人間の認知システムがそのようになっているだけと考えたほうが現実的ですが、自由記述の内容を確認すると、そうも言えません。明らかにその相手が不幸になっていると客観的に把握できるケースがきわめて多かったのです。たとえば、事故で大怪我を負ったとか、片想いが成就しなかったとか、悪い場合には死んだとかいうように。
 怒りや恨みの対象が不幸になるのを願っているからこそ不幸の情報を強く憶えているとも指摘できますが、その場合は、誰にでもありそうな不幸が列挙されるものと推定されます。しかし、実際には、わりと深刻な不幸が挙げられることが多かったので、その説明だけでは全体を語れないと言わなければいけません。
 怒りや恨みを感じていることが遠因となって相手に悪い影響を与えている――たとえば、その相手自身が怒りを抱かれやすい性格のためにいろいろな人に嫌われて、社会で活躍しにくくて不幸に陥りやすいとか――のではないか、とも考えましたが、どう考えても独立に相手の不幸が生じているとしか思えないケースがほぼすべてを占めているのでした。とすると、怒りや恨みの感情そのものが直接の原因となってその対象に不幸が生じているのではないかという仮説を立てざるを得なくなりました。
 もちろん、呪い効果はひとりだけの怒りではなく、その対象に向けられる怒りの総和のはずだから、この調査だけでは不十分なんですが。それでも、僕の呪い仮説を支持するような検証結果が出たというわけですね」
 もはや、全員が、早川少年の話に釘付けになっていた。白石と山田は話についてきていない様子だったが、早川少年が口早に話すのに合わせて相槌を打ちつづけていた。
 酒のつまみとしては豪華すぎる内容だった。ソーシャルディスタンスを守りつづけたうえで実施されていた飲み会だが、計七人の間に存在する空間的な距離は、必ずしも心理的な距離と対応しているものではなかった。
 茜の身体に徐々にアルコールが回っていって、なんとも言えない充実感が肉体を支配していくように感じられた。

 しばらく愉快な飲み会が続いた。話題の中心には早川少年がいることが多かった。早川少年は、おそらく、普段は耳を傾けてもらえる経験がほとんどないのだろう。自分の居場所を見つけたように口が止まらない早川少年が眩しかった。
 それぞれが話したいことを好きなように話しているような空気が、現代社会の陰湿さの中では現実離れしていた。
 五人組のうち、斎藤だけは飲酒をしていなかった。帰りの車を運転するために控えているのだ。茜は美術館に寝泊まりをする予定――館内には学芸員用の仮眠室がある――だったので、好きなだけ飲んでいた。
 終わる気配もなく飲み会が続く中で、ふと、茜は現在時刻が気になった。
 ホールには時計がない。飲み会が始まったのは午後八時過ぎだったが、どれくらい時間が経過したのだろうか。茜は、時間を確認しようとしてポッケを探ったが、そこにはスマホがなかった。研究室のテーブルに置き忘れてきたのだろう。
「研究室まで、スマホを取りに行ってくる」
 それだけ言い伝えて、茜は、ホールを出た。ホールに響く白石の高い声を背後に、研究室に入室した。手前にある自分のテーブルの上に、スマホが置かれていた。
 よかった。茜は一息して、スマホを手に取った。ホーム画面で時間を確認しようとディスプレイに目を走らせた。目に飛び込んできたのは、『20:56』という時刻表示だけではなかった。
 なんだろう、これは。茜は、嫌な予感がした。具体的な想像が頭を過ぎったわけではないが、胸の中がざわざわする。
 着信の数が異常だ。ほとんど十分おきに電話がかかってきており、合計で十回以上、同じ番号から着信していた。神崎明人だ。
 なんで、こんなに電話をしてくるのか。画面をスクロールさせていくと、その電話が始まったのが午後八時ごろであることがわかった。ちょうど、五人組が美術館にやってきたころから、神崎明人は茜に電話をかけつづけていたらしい。
 頭の奥のほうに追いやっていた神崎明人への複雑な感情が、急激に息を吹き返していくのを感じた。罪悪感がぶりかえして、胸を塞いでいく。
 茜は、咄嗟に、スマホで神崎明人の裏アカウントを開いた。午後七時ごろから最新の投稿が始まっていた。
『なんのために、生きれいけばいいんだろう……』『こんなに会いたいのに伝わらないんだね』『僕がダメなんだ 伝えるのがへただから』
 茜に責任があるわけでもない。それは理解しているが、どうしても気になる。その場で、茜はすぐに神崎明人に電話をかけた。コール音が一度響いただけで、つながった。スマホを手に持っていたのだろう。
『もしもし、山崎さん? やっとつながった。ごめん、何回も電話しちゃって』
 鬼気迫るような緊迫した声だった。神崎明人が額から汗を流しているイメージが茜の頭に浮かんだ。茜は、慎重に言葉を選んだ。
「さっきも言ったけど、友達として関係を継続していきたいし、神崎くんのことを見捨てるみたいなことはないから」
 間も取らず、ひどく焦っているような神崎明人の声が返ってきた。
『それはわかってるんだけど、直接、話したい。今日、どっかで会えない?』
 いきなりの注文だった。神崎明人とふたりきりで会っていいのだろうか。すでに佐々木ミツルと付き合っているのだから、それはグレーゾーンのような気もする。
 とはいえ、それだと、友達として付き合っていきたいという言葉と矛盾している。ふたりきりで会うことはよしとしても、どちらにせよ、今日のうちにという条件は呑み込めなかった。茜は、断るしかなかった。
「ごめん。いま、飲み会やってて、今日は会えない」
『飲み会? だって、休業要請、出てるじゃん。嘘、吐いてるの?』
 語尾が震えていた。こんなに追求するような口調の神崎明人と話すのは、はじめてだった。神崎明人もバカではない。正直に答えないと、彼の妄想に拍車をかけることになるだろう。茜は、本当のことを打ち明けた。
「美術館をこっそり飲み会の会場に使ってるんだよ。もちろん、館長には許可をもらってるんだけど」
『Sasaki美術館にいるってことだね。わかった。いまから行くから。待ってて。伝えたいことがある』
「え、いまから?」
 ぶつり、と電話が途切れた。どっぷりと闇に沈み込んでいる研究室の中、茜も闇の中に溶け消えていきそうだった。普段の神崎明人からすれば、自ら相手のもとに駆けつけるような行動力は信じられない。なにを伝えたいというのだろう。
 茜は、しばし放心状態になった。なにかに憑りつかれたかのような神崎明人の声が頭の中に残り、何度も再生された。告白を拒否された男。不幸な人生を送ってきた男。もしかしたら、もう関わらないほうが私のためなんじゃないか、という、ずるい考えが浮かんでくる始末だった。

 神崎明人がやってきたのは、四十分後だった。そのときには、金沢たち五人組と早川少年には研究室に籠ってもらっていた。ふたりきりで話せたほうがいいだろうと配慮したつもりだ。
 玄関ホールで迎えたときから、神崎明人は目を伏せていた。ほっそりしているというよりは、病的に痩せている。骸骨が服を着たような見た目をしていたが、大きな目が愛らしく輝いていた。いちいちの動作がゆっくりとしていて、落ち着いた雰囲気をまとっていた。カジュアルなTシャツと緑色のズボンを着用していた。
「みんな、帰ったの?」
 誰もいないホールの中、換気システムの作動音に負けそうな声だった。マスクをしているせいで、余計にくぐもって聞こえた。
「奥に籠ってもらっているだけ。ふたりのほうが、話しやすいかと思って」
「ありがとう。それは助かる」
 こくりと頭を下げた神崎明人は、酒類の並んだテーブルを訝しむように見つめた。なにか言いたそうな顔をしていたが、それは呑み込んだようだ。
 ホールの真ん中で、茜は神崎明人と向かい合った。神崎明人の大きな目は床に向けられたままで、視界の隅で茜を見つめているようだった。
「それで、もう一度、ちゃんと伝えておこうと思ったから。急に駆けつけたりして、ごめん」
「いいけど、もう答えは変わらないよ?」
「とりあえず、聞いてほしい」
 神崎明人は、茜の声に被せるように言った。目を合わせてくれない神崎明人を前に、茜は、堪らなくなった。
「じゃあ、せめて目を合わせて話してほしい。説教みたいなことを言うつもりはないけど、目を合わせてくれないと、こっちだって、どうやって受け取ったらいいのか、わかんなくなるから」
 きっと断られるだろう。茜はあまり期待しなかったが、神崎明人は、首を振ろうともせずに固まった。
 意外だった。はなから「視線恐怖症だから」と諦めるばかりだった神崎明人が、いまや、言い訳を携えていない。心の中で葛藤が始まったのを盗み見しているような気がした。それは静かな戦いだった。
 頑張って。茜は自然に応援したくなった。視線を怖がり、まともに茜と目を合わすことができなかった自分を甘受するのを、やめようとしている。簡単ではない。変化しようとするのは、恐怖そのものだ。
 神崎明人は、意を決したように息を吸い込み、ゆっくりと視線を上げはじめた。頑張って、お願い、頑張って。茜は声が出そうなくらいに心の中で応援した。床に向けられていた視線は、美術館の白い壁を這いながら上がり、ダーツの矢が中心を射止める奇跡のように、茜の目に注がれた。
 胸がいっぱいになり、茜はうっかり涙を零しそうになった。視線恐怖症になって以来はじめてかもしれない、と思った。大きな目が真っすぐと茜を見ていた。揺らがない。茜は神崎明人の意思の強さを確信することができた。
「もう一回、伝えておきたいと思ったから」
 声量が増していたうえに、震えもなくなっていた。目の前に立っているこの人は誰なの。茜は、神崎明人の姿をしたドッペルゲンガーと向かい合っているような奇妙な感覚を覚えた。
「僕は、山崎さんが好きです。だから、付き合ってほしいです。その答えを、もういちど、直接、聞かせてほしい。それなら、僕も納得するから」
 返答を直接聞きたかったということか。茜は、美しい眼球を正面から見つめていると、自然に言葉が飛び出した。
「いいよ。こちらこそ、よろしくお願いします」
 禁断の返事だった。そんなこと許されるわけもないのに、茜は、それ以外の返答を用意できなかった。そのシーンにおいていちばん最適な言葉だった。誰がどう言おうと、それが茜の答えだった。
 神崎明人は全身の力が抜けたように大きく息を吐いて、唇を震わせた。
「本当なんだね?」
「嘘なんか吐かないよ。これからは、私たち、カップルね」
 神崎明人は、歓喜の表情を浮かべ、ふたたび目を伏せた。その背後――ホールの奥の壁――には『贖罪のファンファーレ』がかけられており、その中に描かれている全裸の少女が、茜たちの幸福を羨ましがるような視線を送っていた。
 小さいころからの夢が叶った気分だった。茜は、ずっと神崎明人と付き合うことを夢見ていた。この、チョコレートが溶けていく季節に、ふたりの心も溶けて混ぜり、冷房の空気でひとつに固まればいい。
 どうして佐々木ミツルを選択したのか、いまになってみると、茜にはわけがわからなかった。どう考えても難しくはない二択だった。佐々木ミツルを選択したのは、茜自身が自分を見失っていたからではないか。
 ふたりが人生の中でも珍しいくらいの幸福の時間を共有していると、ホールの奥から、ぱちぱちと拍手の音が鳴り響いてきた。茜がそちらに振りかえると、金沢を先頭にした五人組と早川少年がホールへと入ってくるところだった。
「おめでとう、茜ちゃん。付き合うことになったんだな」
 金沢だ。どうやら、研究室から抜け出して、勝手に盗み聞いていたらしい。知り合いが来るからちょっと隠れていて、と茜がいかにも怪しいお願いをしていたのだから、盗み聞きたくなっても不思議ではない。
「おめでたいですよ、ホント」
「俺たちにもおすそ分けしてくれるとありがたいな」
 白石と山田が陽気な声を響かせて出てくる。そのあとに続いていた斎藤はいつもどおり薄笑いを顔に広げていて、「いい瞬間を見れたもんだ」と感想を漏らした。盗み聞くだけではなく、盗み見ていたのか。
 どうあれ、彼ら五人組は、茜の複雑な状況を知らない。茜が佐々木ミツルとも付き合っていることはまだ伝えていなかった。それを知っているのは茜だけで、許しがたい裏切りに手を染めたような気がした。このままで大丈夫なのだろうか。不安が込み上げてくるが、もう後戻りはできない。
 佐々木ミツルには申し訳ないが、佐々木ミツルとの関係は終わらせる必要がある。そのほうが幸せが近づく。佐々木ミツルに魅力がないわけではないが、神崎明人と付き合ったほうが自分には合っていると茜は考えた。
 その神崎明人は、恥ずかしそうに両手を組んで指遊びを始めていた。ちらちらと金沢たちに目を向けている。
 いちばん最後にホールに入ってきたのは、池垣だった。保育士をしているくらいだから比較的穏やかな雰囲気を身にまとっているが、アルコールには弱い。足がふらふらとしており、身体のバランスを取るのもやっとだった。その手には缶ビールが握られており、飲みながら歩いていた。
 大丈夫だろうか。茜が心配をしたのとほぼ同時だった。
 池垣はバランスを崩して倒れ、「いいシーンだねぇ」と呂律の回らない口から声を張り上げ、手にしていた缶ビールを放り投げた。茜の全身に冷たいものが走りぬけた。缶ビールは放物線を描いて、池垣のすぐ近くに飾られていた『贖罪のファンファーレ』へと飛んでいった。
 それに命中すると、びちゃり、と中身が零れ、絵の表面を盛大に濡らした。
 佐々木ミツル作品は、作者本人の希望で、防水加工をしていない。館内で展示するときは生身の状態で展示されていた。だから、水を被ると……。
『贖罪のファンファーレ』の表面が、滲んでいく。神崎明人と茜の心が溶けだす前に、時価総額にして優に億を超える世界的な芸術作品が、溶けだしていた。

 時間が凍ったように全員が静止した。美術館のホール全体が一枚の写真になったみたいだった。呼吸までなくなったようだった。そんな静寂の中に、ただ換気システムの作動音が不穏に鳴りつづけていた。みんなが静止している間にも、館内の空気は正常に三十分おきに入れ替わる。
 ホールに集まる計八人の視線は、たった一枚の絵に注がれている。どの顔もアルコールがすっかり抜けたような顔をしていた。アルコール飲料を飲んでいない斎藤や早川少年も、なにかから覚めたような顔をしている。
 美術館に招いた張本人として茜は言葉を探していたが、すべてを失ったような顔を浮かべるみんなを前に、なにひとつとして言葉が出てこなかった。茜自身も、同じような気持ちだった。
『贖罪のファンファーレ』。
 学芸員として茜が何度も解説を続けてきたお馴染みの絵。ありのままを見つめようとする少女の視線がポイントであるはずの絵には、いま、少女そのものがいない。中央部分に描かれていた少女は溶けて歪んでいる始末だった。当然、高く評価されている少女の視線も消えた。家畜小屋のような背景の真ん中に、ブラックホールが描かれているような奇妙な絵に変化していた。
 その絵の真ん中から、重力にしたがって、三本の筋が垂れていた。
 それは文字通り、すべての終わりを意味していた。この先にもはや未来などない。現在にゼロをかけたら、未来もゼロだ。
 あらかじめ館内の作品には気をつけようと話はしていたが、いざ飲み会が始まると、気を抜いているところがあった。起こるべくして起こった事故なのかもしれない。茜は反省を始めたが、それさえも無意味だった。
 最初に口を開いたのは、缶ビールを投げた張本人である池垣だった。
「これは、もう……無理だ」
 目の前で『贖罪のファンファーレ』を見つめてから、その場に項垂れる。床に落ちているビール缶を恨むように見つめた。
「どうすんの、まずいよ、これ」
 白石が進み出てきて、目線より少し上に飾られている『贖罪のファンファーレ』を見つめる。白石が口にした疑問はもはや無意味だ、と茜は思った。どうしようもなにも、もはや、どうにもできない。すべての終わりだ。
 みるみるうちに全身の力が抜けていくのを感じた。これほど脱力感を覚えたことはいままでになかった。
 茜が無力感に打ちひしがれていると、金沢が思い切った行動に出た。ポッケからハンカチを取りだすと、『贖罪のファンファーレ』へと真っすぐに進んでいく。なにをするのか悟ったのだろう、山田が大きな声を出した。
「やめたほうがいいって。悪化するだけだ」
「やってみなければわからないだろ」
 金沢は、それだけ強い口調で言い、『贖罪のファンファーレ』に盛大にぶっかけられた液体をハンカチで叩くように拭きはじめた。その勢いは誰にも止められなかった。
 茜は息を呑んだ。山田が指摘したように、余計に滲むだけだ。そう言おうとした口からは、なにも出てこなかった。
「や、やめたほうがいいよ、それは」
 意外にも、最初に声を上げたのは、神崎明人だった。金沢は苛立ったように声を返す。
「だって、こうするしかないだろ?」
「でも、それじゃ、余計に染み渡っちゃう可能性があるんじゃないかと思って」
 語尾が小さくなっていく。神崎明人は、力強い金沢の視線を怖がるように、目を伏せていた。それ以上、金沢の行動を止めようとする人はいなかった。
 ハンカチが絵を叩く乾いた音が、ホールを支配した。結局のところ、金沢自身が、事態を悪化させていることに気づいたのか、すぐに絵を叩くのはやめた。金沢が手にする白いハンカチには、べたりとペールオレンジの絵の具が付着していた。全裸の少女の色がハンカチに移されたのである。
 いまや、『贖罪のファンファーレ』はすっかり魅力を失っていた。
 茜はなにも考えられなかった。いちばん責任が重いのは茜に違いない。学芸員としての地位を悪用して美術館を私的に利用したのだから、言い逃れはできない。その場で発生した事故は、すべて茜の責任だ。
 魅力を失った『贖罪のファンファーレ』は、まるで茜を地獄へと引きずり込もうとする悪魔のように見えた。それは、『眼球の点滅』に描かれた気味の悪い球体よりもずっと恐ろしかった。
 ふたたび、ホールに静寂が訪れた。今度の静寂は、さっきよりもずっと無力感の含有率が高かった。それに加えて恐怖さえも含まれている。
 たしかに絵が汚れただけで死ぬわけではない。しかし、茜は思う。生きていくことは、死ぬより怖い。死ぬほどに恐ろしいことが起こっていくのを自分の責任として受け止めていかなければいけない。
「みんな、ごめん。俺が……俺の責任だよ」
「そうに決まってんだろ」
 池垣に声を上げたのは、金沢だった。怒りの落としどころを見つけたかのように、池垣に当たりはじめた。それは耳を塞いでいたいくらいに汚い言葉の数々だったので、茜は早川少年の耳を塞ぎに行かなければいけなかった。
 金沢は、もともと気性は荒いが、それほど怒鳴るのは珍しい。よっぽど、動揺しているのだろう。
 いろいろな汚い言葉を浴びた池垣はさすがに我慢ならなかったらしく、金沢の胸倉につかみかかった。一触即発の事態だったが、茜はなにも言えなかった。
 幸いにも、あくまでも冷静さを保持している斎藤がふたりの間に入り、喧嘩が始まる前にふたりを離した。
 ふーと息を吐いた斎藤は、『贖罪のファンファーレ』をちらっと見てから「それで」と声を張り上げた。
「どうやら、俺たちは、たいへんな事態に陥ったようだけど、誰かを責めても始まらないのはみんなわかってるよな? まあ、わかっているということにして、どうするか、相談しなければいけない」
 いつもは自らリーダー役を買って出る金沢がそういう状態ではないので、代わりに、全体をまとめる役割を担おうと思ったのかもしれない。斎藤の呼びかけに対しては、それぞれ、うなずくなり、無言の視線を向けるなりして応じていた。
「じゃあ、とりあえず、どうするか。いちばんいいのは、誰かのせいにするっていう方法だけれど」
「それは無理ね」
 茜はすぐに声を上げた。ずっと早川少年の耳を塞いでいたので、早川少年の隣に屈みこんでいた。バランスを崩さないように立ち上がりながら、斎藤に目を向ける。
「今夜、ここで飲み会をやるってことは、館長も、佐々木ミツルも把握してる。今夜、この絵が汚れたとすれば、私たちの仕業だって、すぐにバレちゃうよ」
 したがって、誰かのせいにしたり、言い逃れするのは難しい。
 佐々木ミツルと茜は交際関係にあるから、どうにか協力を求めるのも考えられる。しかし、それも望み薄だろう。佐々木ミツルは『贖罪のファンファーレ』をとても気に入っていた。その作品を汚されたとなれば、いくら交際関係にあるからといって大目に見るなど考えられない。
 それに、館長の協力を得るのも難しい。美術館内で飲み会をするように許可を出した棚橋館長にも責任はあるが、それくらい喜んで嘘を吐くだろう。茜が勝手にやった、と宣言されれば、茜がいくら弁解しても意味はない。世間というのは、疑わしい人の弁解に耳を貸すようにはできていない。
 八方塞がりじゃないか、と茜は思った。
 すべての希望が失われていく中で、そのとき、茜の隣に佇んでいた早川少年が興奮したように声を上げた。
「完全犯罪の殺人の話、みなさん、憶えていますか?」
 それは茜も憶えていた。飲み会をやっているとき、早川少年が話していた完全犯罪の方法だ。密室の中に六人がいるとき、ひとりが殺害されて、その殺人を誰もが目撃していたとしても、部外者には犯人を特定できない、というパラドックスだった。
「ああ、憶えているが? まさか?」
 斎藤が、にやっと笑った。
「そう、その、まさかですよ。もしかしたら、いまなら、あの方法を使えるのかもしれません」
 早川少年の目は、場違いに輝いていた。あの完全犯罪の殺人の理論が、現在の状況において、どのように使えるというのか。茜はにわかに興味が湧くのを感じた。
「どういうこと? 説明してくれる?」
「はい」
 早川少年は、茜に目を向け、こうもり傘のように口の端を持ち上げた。
「いま、この美術館には、僕たち八人がいますよね」
「それと、佐々木ミツルだね」
 茜は、地下室のアトリエに『贖罪のファンファーレ』の作者である佐々木ミツルが籠っていることを伝えた。
「それなら、ちょうどいいです。僕たち八人だけでも、みんなで嘘を吐けばいいわけですが、さらにもうひとりいるなら、その人に罪を擦り付けることができます」
 早川少年がなにを企んでいるのか、茜にも微かに理解できた。それは単純すぎる方法だが、意外にも盲点になっていた。
「みんなで嘘を吐いて佐々木ミツルを嵌めるのね?」
 早川少年は、目の端を笑わせた。
「そうです。みなさん、この美術館をひとつの密室だと考えてみてください。いま、ここで僕たち八人は『贖罪のファンファーレ』が池垣さんのせいで汚れるのを目撃したわけですが、僕たちはみんな、そのせいで損をします。それはある意味、僕たちが共犯して『贖罪のファンファーレ』を殺した状況、と考えられます」
「え、ちょっとタンマ。どゆこと?」
 白石が訊いた。
「簡単です。さっきの完全犯罪の話における被害者が、まさに『贖罪のファンファーレ』に対応しているわけです。僕たち八人は、共犯して、『贖罪のファンファーレ』を殺しました。さっきの完全犯罪の話における犯人が僕たち八人に対応しています。潔白のひとりが佐々木ミツルに対応しています。当然のように、いまのは密室での出来事なので、外からは誰が犯人か、特定できません」
「ってことは、密室の外にいる人からは、俺たちが絵を汚したことはわからないというわけか。犯人の人数もわからない」
 納得顔をした白石に続いて、山田が、ばさばさを頭を掻きながら声を上げた。
「ここって、監視カメラないの?」
「外にはあるけど、館内にはないよ」
 茜が、美術館のスタッフとして説明する。観覧客が芸術鑑賞に集中できるように、館内には監視カメラの類はひとつも設置されていなかった。そのような状況も、茜たちに味方をしていた。
 早川少年は、ずる賢そうな笑みを見せた。
「であるならば、僕たちは口を揃えて、『佐々木ミツルが絵を汚した』と証言することによって、言い逃れができます」
「偽の証言をして、佐々木ミツルを貶めるわけか」
 斎藤が、にやにやしながら言葉を零す。
「そうです。もちろん、佐々木ミツルは、反対のことを主張するでしょうが、そのことは密室の外からは少しも確認できないので、どちらが正しいことを言っているのか、判別できないわけです」
 つまり、全員で嘘を吐けば、佐々木ミツルを犯人に仕立て上げられる。佐々木ミツルが本当の主張をしたとしても、どちらが嘘を吐いているのか、密室の外にいる人たちには判別できない。犯人が特定されなくなるわけだ。
「当然、ほとんどの人間は、それほど合理的には考えません。なんとなくの印象で考えるものですが、その場合でも、佐々木ミツルが怪しくなります。人間というのは多数が言っていることを信じるようにつくられているからです」
 全身が震えてくるくらい魅力的なアイディアだった。早川少年のその理論が、机上の空論に終わらず、現実にも応用可能であるような気がしてくる。
 しかし、勢いに任せてはいけない。茜は批判的に考えるのを怠らなかった。たしかに早川少年が編み出した理論の中では整合的に説明しているのだが、現実に応用するには捨象した部分が大きすぎる気もする。
 そもそも、単純に、『どちらが汚した』という主張の対立になるという前提が、現実とは相いれない。茜は、その場に佇んだまま、黙考に沈んだ。
 もしも茜たちが全員で嘘を吐けば、佐々木ミツルも黙っていないに違いない。きっと、アトリエに籠っていて、絵を描いていて、どこどこまで描き進めた、などと佐々木ミツルは具体的に主張するだろう。そのとき、いくら茜たちが嘘を固めても現実の証言に勝つのは難しそうだ。
 そこが理論と現実の相違点である。
 そのような現実的な問題に加えて、良心的な問題も拭いきれなかった。まったくの潔白である佐々木ミツルを犯人に仕立て上げるような真似はできない。
 茜が、それらの点を指摘すると、早川少年は、小刻みにうなずいた。時間を置かずして嬉々とした様子でさっそく次の案を発表した。
「だったら、佐々木ミツルを殺害するのはどうでしょうか」
 とんでもないことを言い出すので、さすがに斎藤が「それは、ちょっと」と宥めようとした。それでも、早川少年の口は止まらなかった。
「ストーリーとしては、こういうわけです。まず、佐々木ミツルは飲み会に参加していたが、うっかり自分の絵を汚してしまった。そのことに発狂し、暴れはじめた。ついにはナイフを手にして振り回しはじめた。襲われそうになった山崎さんは、正当防衛として佐々木ミツルを殺害した」
「わたし?」
 なんで茜なのだろう、と疑問には思ったが、一案としては面白い。いや、面白ければいいわけではない。茜は、つい早川少年のペースに乗せられそうになり、すんでのところで堪えた。絵を汚したのを誤魔化すために殺人に手を染めれば、本末転倒もいいところである。もっと良心にしたがって考えるべきだった。
「早川くん。面白い提案だが、どうやらダメみたいだ」
 斎藤が諭すように声をかけると、早川少年も口を噤んだ。
 現実には応用できないかもしれないが、斎藤が言うように面白い提案だった。茜は、励ますように早川少年の肩を叩いた。早川少年は、少しだけへそを曲げたように口をへの字にしていたが、その両目は『贖罪のファンファーレ』に注がれていた。
 早川少年のおかげで、ホール内の空気が僅かに希望を得ていた。いくらか無力感は薄らいだようだ。
 茜としても、もはや、自分の頭を回すべきときだと自覚できていた。悲観していてもなにも始まらない。いろいろな案を出し、最善の解決を目指すべきだった。
 ホールの壁には、茜たちの話しあいを傍観するかのように、佐々木ミツルの作品がいくつも展示されていた。そのうちのひとつが欠損した中で、茜たちは黙々と頭を回した。
「あれ、ていうかさ」
 次に口を開いたのは、池垣だった。金沢とのひと悶着が落ち着いてから、はじめての発声だった。
「そういえば、茜ちゃん。ふたりの相手に告白されて迷ってたって言ってたけど、そのうちのひとりが佐々木ミツルだったんでしょ?」
 それは茜としては避けたい話題だったが、隠すと余計に話がこじれるだけである。茜は無責任な女と呼ばれる覚悟を決めた。当人である神崎明人が目の前にいるのを思うと胸が痛んだが、どうしようもない。
「その件だけど、実は、佐々木ミツルとも、現在、付き合ってる」
 珍しく、俊敏に神崎明人が顔を上げた。茜の目と交錯する。息が詰まるような時間が流れた。茜は目を逸らしたい衝動と戦い、神崎明人の口が動くのを見届けた。
「もしかして、僕、二股かけられてる?」
「ごめんなさい。私が無責任なのがいけないの」
 茜はそれまでの経緯について神崎明人に打ち明けた。ほぼ同時に佐々木ミツルと神崎明人から告白されて悩んでいたこと。悩みに悩んだ末に佐々木ミツルを選んで、神崎明人からの誘いは断ったこと。それでも、神崎明人がもういちど目を合わせて告白してきたので、心が動き、断れなかったこと。
 どう弁解したところで二股に変わりはない。たいていの二股はこういう運命のいたずらの上に成り立っているのだろうくらいのことは想像できるが、そんな想像をしない人のほうが圧倒的多数である。
 茜が説明している間、神崎明人は目を離さなかった。いったい、視線恐怖症はどうしたのだろうか。改善したのだろうか。茜が説明を終えると、神崎明人は悩ましい顔を浮かべつつもうなずいた。
「僕が悪いところもあったのは認めるよ。だって、すでに断られたのに、また告白しにきたんだからね。でも、はっきりしてほしい。一時的に二股になるのは仕方ないけど、最終的にはどっちかを選んでほしい」
「そのつもりだった」
 嘘みたいにも聞こえるが、それが茜の本心だった。佐々木ミツルとの関係はすぐに終わらせるつもりでいた。その問題だけでも非常に難題だったが、事態はそれ以上に複雑化していた。その問題の佐々木ミツルが描いた傑作が溶けてしまったのだから。
「でも、ちょっと待ってほしい」
 そこで、金沢がようやく落ち着きを取り戻しながら声を上げた。
「いまのだと、佐々木ミツルとの関係は終わらせるかのような言いぶりだったけど、この状況においては、必ずしもその選択が最善だとは言えないかもしれない」
 金沢が言いたいことは茜も理解していた。
 いま現在の危機的な状況においては、佐々木ミツルとの深い関係はとてつもなく重宝する。このまま交際関係を続ければ、あわよくば『贖罪のファンファーレ』の欠損事故をなかったことにできるかもしれない。
 それは当然、現在における茜の気持ちとは矛盾する選択である。この取り返しのつかない事態をどうにか丸く収められるのであれば、その矛盾も寛容に受け入れようという手もないわけではなかった。
 神崎明人は、あくまでも冷静に声を絞りだした。
「いろいろな意味で、山崎さんにとって最善の選択をすればいいと思う」
「ごめんなさい。こんな事態になるなんて」
 茜は、ぼそぼそと言葉を落とし、それ以上、なにも言えなかった。神崎明人と付き合えるならそうしたいのに、こんな複雑な選択問題になるなんて。一筋縄ではいかない社会の厳しさを眼前に突きつけられたような気分だった。
 金沢が、一歩、踏み出した。
「茜ちゃん。ここはつまり、茜ちゃんの出番なんだよ。交際関係にある茜ちゃんがどうにか説得して、佐々木ミツルの許しをもらうことができれば、丸く収まる」
「そうだね。その理屈はわかる。でも、先走るのは、ちょっと待って。本当にそんなうまくいくかな」
 茜は、その点が気がかりだった。茜とて、金沢に指摘される前からその案が頭を過ぎらなかったわけではなかった。
 しかし、その案は、佐々木ミツルのお気に入りの作品が欠損される事態がいかに重大であるかを見逃している気がする。
「うまくいくどうかを考えるより先に、行動するしかない。とにかく、茜ちゃんがまずは佐々木ミツルに現在の状況を説明しにいくのがいちばんだ」
 その案に反対をする人はいなかった。絵を汚した張本人である池垣が説明に行くのが社会的には正しそうだが、現在の複雑な状況においては、たしかに交際関係にある茜が説明に行ったほうが無難だろう。
 どこか釈然としないものを残しつつ、茜は、一度きり、深くうなずいた。
「どうにか、言ってくる」
 茜が覚悟を決めていると、その流れにダムをつくるかのように、声が上がった。
「その前に、ちょっと待ってください」
 その興奮したような声は、早川少年のものだった。さっきからへそを曲げていたが、どうやら回復したらしい。板の木目模様に擬態しているかのような横に長い目が、『贖罪のファンファーレ』に向けられている。早川少年の口はどこか勝ち誇ったように薄く笑っていた。
 全員のクエスチョンマークを背中で受けながら、早川少年は、『贖罪のファンファーレ』へと進んでいった。それはほとんど一瞬の出来事だった。ジャージの袖を手で握ると、その袖を『贖罪のファンファーレ』へと押しつけて、汚れた箇所を雑巾で磨くみたいに、左右に揺らしはじめた。
「おい、そんなことしたら!」
「絵が消えていきますね」
 金沢が止めようとするのもお構いなく、早川少年は、実況する。
「表面の絵が消えていって、そして、その下から……」
 早川少年は、さっと『贖罪のファンファーレ』の横に移動し、磨いていた箇所が全員に見えるようにした。茜はわけがわからず、ただ指示されるままに、早川少年が磨いていた箇所を見た。
 もともと少女が描かれていたそこに、いま、ふたたび、全裸の少女がいる。
 頭の中でクエスチョンマークが爆発した。どういうことだろう。意味がわからない。これは、なにかの手品だろうか。茜が訝しんで見つめていると、それが絵ではなく、写真であることに気が付いた。
 全裸の少女の写真。
 ゴキブリが卵をまき散らしたときのような生理的に受け付けられない、気味の悪い空気が流れた。絵の下から写真が出てくるという前代未聞の事態に、茜の頭は追いついていなかった。早川少年は、意気揚々に説明を始めた。
「いまさっき、この絵を観察しているときに気づいたんですけど、絵の下に写真が貼られていたんです」
 茜はさっぱり絵には目が行かず、少しも気づいていなかった。
「たぶん、全体に貼られていますよ。佐々木ミツルは、おそらく、まずは写真を撮り、それを大きくしてキャンバスにして、その上から、塗り絵をするように絵を描いているんです」
 そんなことあるはずもないが、現に、絵の下から写真が出てきた以上、そう考えるしかない。茜は全身の皮膚が粟立つのを感じた。あれほど世界で評価されている佐々木ミツルの作品は、ただ単に写真の塗り絵だったとでも言うのだろうか。 
 誰も声が出ないようだった。
 しかし、ポジティブに考えれば、佐々木ミツルの弱みを握ったことになる。これは佐々木ミツルがひた隠しにしている秘密だろう。それを世間に公表されたくない佐々木ミツルとしては、その秘密を露呈させている『贖罪のファンファーレ』は燃やして灰にしたほうがいいだろう。
 茜は、早川少年の言わんとするところが読みとれた。
「つまり、この秘密を使って取引をしようというわけね」
「そのとおりです」
 早川少年は、茜を見つめ、大きくうなずいた。
「佐々木ミツルとしては、この秘密を公にされたくない。しかし、僕たち八人はもうその秘密を知ってしまいました。僕たちは、佐々木ミツルより優位な立場にいるわけです。もしも佐々木ミツルが『贖罪のファンファーレ』を気分で燃やしたということにしてくれるのであれば、僕たちは、その秘密を口外しないでおきましょう。だから、僕たちが絵を汚したことについてはなかったことにしてください。そのような取引を結ぶことが可能なはずですね」
 それは非の打ち所のない戦略だった。秘密を口外されたくない佐々木ミツルとしては取引を断る誘因を持たない。
 佐々木ミツルは、取引に応じるしかないわけだ。どうしても秘密を口外されるリスクをゼロにしたいのであれば、それこそ、茜たち八人を皆殺しにするくらいしか手段はない。
 茜は、それこそが正答だ、と思った。早川少年がいくつか提案した中で最善の選択肢だった。金沢も、同じように思ったようだ。
「その案に反対する者は?」
 手を挙げる者はひとりもいなかった。
「だったら、その案で進めようか、茜ちゃん」
 茜は、了解を示すようにうなずいた。
 佐々木ミツルを脅すような形になったのは申し訳ないが、茜たちの将来を考えるならば、佐々木ミツルを慮っている場合ではない。
 当然のように、世界的な芸術作品の喪失を、どうにか背負えるほどの大きな背中は持っていなかった。絵を汚した件をなかったものとして扱えるのであれば、その選択をするのが最適である。
「でも、急に脅すような態度を取るのも、避けたほうがいい」
 斎藤が助言した。
「佐々木ミツルを刺激していいこともないからな。まずは、事実を伝えて、佐々木ミツルの反応を探る。それから、取引を持ちかけるのが無難だろう」
「そうする。とりあえず、このホールに佐々木ミツルを連れてくる。それでいい?」
 茜が全員に許可を求めると、誰も首を左右に振らなかった。
 そういうわけで、早川少年の提案が通り、佐々木ミツルとの取引をするという解決策が全員の合意によって承諾された。
 
 茜がひとりで佐々木ミツルを迎えに行くことになった。
 ホールから出ると、館内の奥へと続く廊下を進んだ。『関係者以外立ち入り禁止』という紙の貼られた赤いコーンが置かれているところを通りすぎて、さらに狭い廊下を進んでいく。その先に、地下室へとつながる扉があった。
 真っ白くて重厚な扉だ。
 茜は、その前で立ち止まると、呼吸を整える。いちばんのお気に入り作品である『贖罪のファンファーレ』が欠損したと知ったとき、佐々木ミツルはどうなるのだろう。不安が込み上げてくるが、取引という冷静な切り札が存在することを思い出すと、いくらか落ち着いた。
 そのときの茜の頭には、主に、ふたつの心配事があった。ひとつは、言うまでもなく、『贖罪のファンファーレ』に関するものである。もうひとつは、佐々木ミツルとの交際関係に関するものだった。
 神崎明人と交際すると決めた以上は、自分勝手ではあるが、佐々木ミツルとの交際関係は終わらせなければいけない。それが難題だった。
 もしも茜がただちに佐々木ミツルとの関係を終わらせるのであれば、佐々木ミツルは、恋人と傑作を同時に失う。あまりに不憫であるだけでなく、茜としては恐ろしい。もともと感情的になりやすい佐々木ミツルだから、二重苦に追い詰められたらどうなるかわかったものではない。
 茜は、いまいちど、別れの件は保留にすべきだろうと考えた。とりあえず、いまは『贖罪のファンファーレ』の件のみを解決に導こう。そのように心が決まると、茜は思い切って、インターホンのボタンを押しこんだ。
 長い静寂。そののち、『はい』と声が飛び出した。
『山崎さん? もう飲み会、終わった?』
 佐々木ミツルが期待を込めたように訊くので、胸が痛くなった。
「まだ続いているんですが、佐々木さんに伝えたいことがありまして。ちょっとお見せしたいものがあるのです」
『ミツルでいいよ。どんな話?』
 茜は、どうしても佐々木ミツルを下の名前で呼び捨てにできなかった。
「佐々木さんの作品についてです」
『僕の作品? はあ。なんだかわからないけど、とりあえず、出ていけばいい?』
 それだけ言い終えて、通話が途絶えた。三十秒ほどあり、扉が開いた。そのむこうから長身の人物がすっと出てくる。
 いつものように真っ黒のサングラスをしていたので、目が見えない。上下とも黒い服を着ていて、ところどころ青い絵の具で汚れていた。骨をペールオレンジに塗っただけのような繊細な手が、後ろ手に扉を閉めた。
 佐々木ミツルは、口を真一文字に結んだままで、少々機嫌が悪そうだった。茜が下の名前で呼ばなかったことに不審を抱いたのだろうか。『贖罪のファンファーレ』の作者を目の前にして、茜は、気が重くなった。これから悲惨な状態になった傑作と対面させなければいけない。
 茜は、不機嫌そうな佐々木ミツルを連れて、ホールへと向かった。なにか嫌な気配を感じているのか、佐々木ミツルは、どうしてホールに向かっているのかについて少しも聞いてこなかった。
 廊下を抜けてホールに出ると、七人が全員、『贖罪のファンファーレ』の前に群れていた。佐々木ミツルがやってきたのを見ると、それぞれ、『贖罪のファンファーレ』の前から離れていった。人が避けていったことで絵の全体が見渡せるようになった。その絵の中央部分におかしな歪みがあるのは一目瞭然だった。
 無言が続いた。
 佐々木ミツルのサングラスは、遠くからも、真っすぐと『贖罪のファンファーレ』へと注がれている。しばらくその場に固まっていたが、ついに足を進めて、絵の展示されている一メートルほど前まで近づいた。それに合わせて、逃げるように七人は『贖罪のファンファーレ』から離れていく。
 佐々木ミツルは、首を伸ばして顔を近づけ、至近距離から問題の部分を見つめる。ビールを浴びて溶けて、真実が露出した絵。
 ホールの空気が粘度を増していた。
 その中で発せられた佐々木ミツルの第一声は、激しい怒りを示すようにホール全体に響いた。
「誰がやった?」
 エコーがかかっているかのように耳の奥まで響いた。佐々木ミツルは絵と向き合ったままで、いっこうに振りむこうとしない。その細くて長い背中には、有無を言わさぬ迫力があった。
 この人を本気にさせたら死ぬ。茜は、なぜか、そんなふうに感じるくらい強力なエネルギーが佐々木ミツルに宿っているような気がした。八人で合意したはずの取引については誰も言い出さなかった。まずは佐々木ミツルの反応を窺うという戦略だったが、全員の黙秘は戦略的なものではなく、不可抗力によるものだった。
 茜は廊下の入り口のところで佇んでいた。足が動かなくなっていた。どうして、佐々木ミツルは、これほどに強いオーラを持っているのだろう。地獄を乗り越えてきた貫禄とでも言おうか、茜とは次元の違うものを持っている。それがなにかはわからない。
 ふたたび時間が凍ったように誰も身動きできなくなった。
 その中、佐々木ミツルだけ、時間の支配者であるかのように、背筋を伸ばした。ゆっくりと振りかえり、狙い定めたように茜に目を向ける。
「説明してくれるか?」
 茜は首を横に振ることも、縦に振ることもできなかった。その黒いサングラスから目を晒すことすらできなかった。
 茜はおどおどとしながら説明を始めた。飲み会をやっている途中に、缶ビールが零れてしまい、『贖罪のファンファーレ』を濡らしたことについて。誰がやったかについては言わなかった。軍隊式の連帯責任の考え方を持っていたわけではなく、告げ口をするような不快感を避けるためだった。
「それで、どうして呼びに来た?」
 高圧的な声だ。その声には言い訳ができないような強制力があり、茜は思うように口が動かなかった。
「取引です」
 なぜか、そのとき、早川少年が堂々と声を上げた。茜は驚いた。さっきまで縮こまっていたはずだが、やけに威勢がいい。まるで、死ぬ覚悟はできている、とでも言いたげだった。重々しい空気とは調和していない軽々しさを身にまとっている。
 この際、早川少年が口走ればいい、と茜は期待した。
「どういう種類の取引だ?」
 佐々木ミツルのサングラスの目が、威嚇するように向けられた。その迫力にも物怖じせずに、早川少年は、一歩、踏み出した。
「今回の件はなかったことにしていただきたいのです。その絵を見ればすぐにわかるように」
 早川少年は、離れたところから、『贖罪のファンファーレ』の、写真が露出している部分を指した。
「佐々木ミツルさんは、写真の上から塗り絵をしているだけだったわけです。それは天才画家としては致命的でしょう。この秘密を僕たちはいつでも公にして、佐々木ミツルさんの名誉を決定的に打ち砕けます。それを避けたいのであれば、今回の件はなかったことにという取引ですが?」
「なにを言ってる? これはひとつの芸術の手法だ。なにも知らないガキに、とやかく言われる筋合いはない」
 佐々木ミツルが、低い声を出した。
 冷房が入っているにもかかわらず、茜は冷や汗が流れてきた。早川少年の隣にいる神崎明人も、肩を縮めている。金沢でさえ言葉を躊躇している中で、どこか他人事のように――あるいは、たしかに他人事なのかもしれないが――早川少年は口を止めない。
「では、口外してもいいというわけですか?」
「黙ってくれないか」
「そちらこそ、質問に答えてくださいませんか? 口外してもいいのであれば、そうするつもりですが」
 佐々木ミツルは、忌々しげに口を閉ざした。どうやら芸術の手法だというのは苦し紛れの弁解だったらしい。たしかにこれは、口外されては不都合な事実なのだろう。
 明らかにこちらの不手際によって招かれた事態であるのに、佐々木ミツルを追い込むような展開になるのは少々、息苦しかった。ともあれ、その取引が了承されれば、茜の人生は軌道修正に成功する。茜は、佐々木ミツルが折れるのを期待した。
 早川少年から目を逸らすように床を見つめていた佐々木ミツルは、次に顔を上げたときには、茜に顔の表面を向けていた。
「わかったよ。その取引を呑むよ」
 諦念を含んだような、溜息混じりの声だった。
「この絵は廃棄処分して、僕の気紛れで燃やされたことにする。その代わり、絵の下に写真を敷いていることについて、公にしないでくれ」
 茜は、ほっとした。反射的に口から飛び出したのは、「ありがとうございます」という感謝の言葉だった。それもそれでおかしな話だが、佐々木ミツルが取引に応じることによって丸く収まったのは言うまでもない。
 緊張していたホールの空気が、やや弛緩するのを感じた。
「ただ、ちょっと気になることがあるから、答えてほしい」
 佐々木ミツルは、周りにいる金沢たちに、ひとりずつ目を向けていった。
「どうして、子供がいる? 飲み会なんだろ? いま、このホールは、どういう状況なんだ?」
「それは、俺たちが連れてきたからだよ」
 いちばん背が低い白石が、応じた。取引の成立によって、張り詰めていた緊張感が少しばかり薄らいだようだ。絵を汚した張本人である池垣は、白石の背後で息を潜めている。
 山田が、説明を引き継いだ。
「俺たち――五人だけど――が、ここに来るまでの間に、この少年が商店街をぶらぶら歩いているのを見つけた。家出っぽかったから声をかけたんだが、まさに家出だった。だから保護しようと金沢が言ったんで」
「そうだ。俺が保護するのを決定した」
 金沢が、早川少年に笑いかけながら、言葉を継いだ。
「せっかくだから、飲み会に連れてきたんだ。思いもよらず、面白いやつでな。話を聞いているだけで面白いから、飲み会が盛り上がっていたところだよ」
 これでは、たしかに頭がおかしい集団だと思われても仕方がない、と茜は思う。というか、間違いなく、頭はおかしい。少年を気にかけているのであれば、交番に連れていくのが正しい行動だろう。職権乱用の飲み会に未成年者を連れてくるなど、神経が壊れているとしか思えない。
 佐々木ミツルも、さすがに呆れたように黙っていたが、ふと気づいたように顔を上げた。
「それで、じゃあ、もうひとりは誰だ。五人と一人を合わせただけじゃ、まだもうひとり、足りないが?」
 そのひとりが神崎明人であるわけだ。茜はそこには慎重になってほしかったが、口が軽い山田が当然のことのように答えた。
「茜ちゃんに告白をしにやってきたんだよ、あいつが。うまく成功して、それで盛り上がったところで、絵が汚れちゃったわけだけど」
 なんの躊躇もなく言い終えてから、あ、やべ、という顔をする。わざとらしいが、山田は、そんな高度なテクニックをやれるほど器用な男ではない。
 茜は、ぞっとした。いまの状況において、茜の無責任な行動を佐々木ミツルに伝えるのは避けるべきだった。神崎明人の告白を受け入れたという事実は、茜が佐々木ミツルを裏切ったことを明瞭に物語っている。
 佐々木ミツルは、『贖罪のファンファーレ』を背に佇んでいた。深く考え込むように俯いている。離れたところにいる神崎明人も俯いていたが、こちらは激しく緊張しているせいで顔を上げられないといったところだった。
 館内の空気が、ふたたび激しい緊張の奥底に沈んでいく。茜が言葉を探しているうちに、佐々木ミツルが顔を上げた。
「山崎さん。説明してくれないとさ……」
「ごめんなさい」
 茜は、大きな声を出した。説明を加える必要があるのはわかっているのに、言葉が頭の中でまとまらなかった。
 そんな茜の様子を見て取ると、佐々木ミツルが突然、腹の底から叫んだ。それは雄叫びだった。茜はびくっとした。大きな声は館内に反響し、四方の壁が拡声器の役割を果たしているように感じられた。
 それは言葉ではなかった。言葉にならない思いを、言葉ではないものに閉じ込めたようだった。佐々木ミツルは頭を振り、叫びつづける。マスクをしていない口は、頬を切り裂いたかのように大きく開かれている。その叫びの迫力に圧倒されて、誰も声を出せなかった。
 茜は、胸に亀裂が入ったような気がした。
 あまりにひどい。告白をされてから何日も待たせた挙句、ついに返答した途端に、二股をかけるなんて。どう考えても、ひどい仕打ちだ。茜は自分の愚行を強く悔やんだ。悔やんだところでなにかが変わるわけでもないのに、悔やまずにはいられないのはどうしてだろう。
 佐々木ミツルは、膝に額を打ちつけるように、頭を上下に振っていた。その激しさのせいで、耳にかけられていたサングラスが飛んだ。床にサングラスが転がり、佐々木ミツルの目が露わとなる。
 二重の、純粋な子供のように透き通った目をしていた。見るのは、はじめてだ。想像以上に子供らしい目だった。
 佐々木ミツルは、サングラスが外れたのに気づくと、途端に、焦りはじめた。太陽を眩しがるように目を伏せて、屈んだ姿勢で、両手で床を探りはじめる。サングラスを慌てて拾うと、一秒でも早く目を隠したいとでもいうように、素早くサングラスをかけた。その様子はとても惨めだったので、見ていられなかった。
 茜がなにも言葉をかけられないでいると、佐々木ミツルは、呼吸を整えるように大きく息を吐いた。背筋を伸ばしてから、乱れた前髪を右手で整えた。
「わかったよ」
 俯いたままでいる神崎明人に目を向けると、「彼だね?」と確信を込めて訊く。神崎明人は俯いたままだったが、その様子から納得したようだ。
「山崎さんも板挟み状態だったわけか。少しくらいは察するよ。でも、二股はさすがにいただけない。時間をあげるから、すぐのうちに決断してほしい」
 佐々木ミツルの声は、ちょっとだけ息切れしていた。
「もしも僕を選んでくれるなら、あとで僕のアトリエまで来てくれればいい。そうでなければ、僕のことは無視してくれて構わない。時間を決めておこう。今日の、夜十時半までだ。そのときまでに僕のアトリエにやってこなかったら、山崎さんの答えはNOだったと判断するよ。汚れた絵の件については、別件として片づけるつもりだから、そこは気にしないでくれ」
 茜には、その提案を断る選択肢はなかった。声が出ないまま、うなずくしかないのだった。
 いまや、佐々木ミツルは、暗いオーラをまとっていた。すたすたと歩いてくると、脇目も振らずに茜の隣を通り、背を向けてホールを出ていった。ショックを受けたようにやや猫背になった背中が小さくなっていく。
 その背中が廊下の奥に消えていくと、ようやく茜は息がしやすくなった。
 どうやら、もういちど、難しい選択に悩まなければいけないようだった。スマホの画面が告げるには、現在時刻は『21:33』だ。残り時間は、たったの一時間である。

 ひとりになりたかった茜は、研究室へと向かった。照明もつけないままで自分の席に座り、頭を抱えた。
 どちらと付き合えばいいのだろうか。
 勢いに乗って選択をすれば、また同じように後悔するに決まっている。ならば、今度はじっくりと吟味して決断するべきだった。茜は、いまいちど、深く考える必要性に駆られていた。
 佐々木ミツルが言っていたように、『贖罪のファンファーレ』の件は考慮しないで考えたい。
 茜の頭に、ふたりの人物が浮かんできていた。神崎明人と、佐々木ミツル。
 いまさら確認するまでもなく、茜にとってはどちらも魅力的だ。いまさっきまで神崎明人に気持ちが偏っていたが、もうちょっと冷静に判断すべきだろう。
 まずは、佐々木ミツルだ。その才能には心酔してきた茜であるが、残念なことに、佐々木ミツルの作品は写真の上から絵の具で塗っていただけなのだろうか。そうであれば、茜としてはかなりショックである。佐々木ミツルの才能について、いまいちど、評価し直す必要がある。
 ふと、茜は不気味なことに気が付いた。ほかの作品も写真を下敷きにしているのであれば、悲しみの少女シリーズも元は写真であったはずだ。
 では、その中に写っている全裸の少女は誰だろうか。それが写真であれば、悲しみの少女シリーズに共通して登場するカメラ目線の少女は実在しているはずである。佐々木ミツルは、あの写真をそもそもどのように手に入れたのであろうか。
 疑問を残しつつ、茜は、つづいて、『眼球の点滅』を頭に浮かべた。もしもあの作品も写真を下敷きにしているのであれば、あの絵の下にはどんな写真が眠っているのだろう。嫌な想像が頭を過ぎった茜は、それをすぐに頭の外へ追い出した。
 どうも素敵な写真が眠っているとは思えない。
 そういえば、『TASUKETE』というメッセージはなにを意味しているのか。あれはただの遊び心なのか。それとも、佐々木ミツルはなにか助けを必要としているのか。もしかすると、『眼球の点滅』そのものにも『TASUKETE』と同じような暗号が眠っているのではないだろうか。
 茜は、次々と頭に浮かんでくるさまざまな疑問を、ひとつずつ処理するだけの能力を失っていた。疑問だけが漫然と積み重なり、膨大な答案用紙を前に茫然としているような気分だった。
 佐々木ミツルは、どこか、怪しい。そのように感じる一方で、神崎明人はどうなのだろうと茜は考える。小学生のときからの幼馴染である以上、いろいろな側面を知っているのは事実だ。
 茜は、神崎明人の記憶を遡ることにした。薄暗い研究室の中、茜の頭の中は遠い過去へと戻っていく。

 神崎明人と出会ったのは、小学三年生のときだった。はじめて同じクラスになった。神崎明人がひとりぼっちでいるのを見つけて、なんとなく可哀そうな気がして、声をかけてみた。
 神崎明人は、いつも見た目は大人しいが、話し出すと口が止まらなくなった。好きなことについて話しだすと独壇場になり、手がつけられなくなるほどだった。それなりに仲良くなると、むこうからも積極的に声をかけてくるようになった。その様子に、どこか安心した気持ちだった。
 おそらく、打ち解けた人の前でしか自分を出さない――あるいは、出せない――という性格なのだろうが、それがあまり理解されないらしい。周りの人たちは、神崎明人を甘えていると評価していたような気がする。とくに教師はその傾向が顕著であり、まるで目の敵にするように神崎明人に指導という名の精神的な暴力を振るうことがあった。
 あれだけ責められれば、自己評価が低くなるのも無理はない。神崎明人は余計に自分を出そうとしなくなった。そういうわけで、小学五年生になって再び同じクラスになったときには、茜の前でさえ笑顔を見せなくなっていた。
 そのころからだった。
 神崎明人は、よく、口の中でなにかを転がすようになった。さすがに授業中はやっていなかったが、登下校時に見かけたときは、飴玉を舐めるように口の中で小さな物体を転がしていた。それが気になった茜は、本人に訊いたことがある。そのとき、神崎明人は隠そうともせずに打ち明けた。
「ビー玉だよ」
 神崎明人は、口の中から半透明のブルーのビー玉を取り出した。それはべとりと涎で濡れていて、小さな曇り空が写っていた。放課後の畦道で、茜はさらに訊いた。
「どうして、ビー玉を舐めてるの?」
「舐めるのが気持ちいいから。丸くて冷たいのが口の中でころころ転がるのが、すごく落ち着くの」
 茜にはビー玉を舐めた経験がなかったし、舐めようとも思えなかった。万が一喉に詰まったらたいへんなことになるという不安ばかりが膨らんだ。危ないからやめたほうがいいんじゃないのと茜は何度か注意したが、神崎明人は、それからもずっと口の中でビー玉を転がす癖をやめようとしなかった。
 指遊びみたいに、習慣になると、なかなか、やめられなくなる癖なのかもしれない。茜はその程度の想像をしながら、神崎明人がビー玉を舐めるのを黙認するようになった。それは中学生になってからも続いた。
 ちょうど中学二年生のとき、茜はふたたび神崎明人と同じクラスになった。そのころの神崎明人は登下校時のみならず、休み時間にもビー玉を舐めるようになっていた。給食を早く食べ終えたときにも、暇つぶしをするようにビー玉を舐めていた。
 その特異な癖が、災いした。
 ある日の給食の時間だ。その日も神崎明人は早く給食を食べ終わり、椅子に座ったままでビー玉を舐めていた。
 ほんの注意不足だ。ふとした拍子に、そのビー玉が、ぴょっと神崎明人の口から飛び出した。神崎明人は慌てて手を伸ばしたが、間に合わなかった。それは、斜め前へと飛んでいった。斜め前には神崎明人と同じ班の男子がいた。涎でべとべとになったビー玉がその男子の食べ途中の味噌汁の器に入り、ぽちゃん、と水飛沫を上げた。その一部始終を、茜は目撃していた。
「きたねぇ」
 遠くからでもはっきりと聞こえる声量で、その男子は声を上げた。神崎明人は動かなくなっていた。どうにかしろよ、と男子が対応を求めても、神崎明人は、声すら出ない状態だった。
 男子は臓物でも掴みとるかのように気持ち悪がりながら、逆さまの箸でビー玉を取り、神崎明人の机の上に置いた。神崎明人は引き続き固まったままだった。眼球の可動域がなくなったかのように、視線もずっと机の上に向けられていた。
「で、謝罪は?」
 男子が鋭い睨みを向けたが、神崎明人は顔を上げない。謝罪の言葉もひとつも飛び出さなかった。
 男子はそんな様子をじろじろと観察し、「こわすぎだよ、お前」と言い捨てた。結局のところ、給食時間が終わるまで神崎明人は固まった状態でいた。担任教師は見て見ぬふりを続けていた。
 それがきっかけになったのだろうくらいのことは、茜にも想像できた。それ以来、神崎明人は男子のグループに目をつけられた。休み時間になると、頻繁に呼び出されていく神崎明人はかなりひどい仕打ちを受けていたらしい。教室では、「あいつが女子の前でやったらしい」という噂まで流れていた。
 茜は、どうすればいいか、わからなかった。中学校というのは、ほとんど空気だけで構成されている。一度でも、いじめてやろうという空気になれば、その空気が抜けきるまでに膨大な時間を必要とする。
 答えが出ないままに、時間が過ぎていった。
 下校途中に神崎明人を目撃したのは、その中でのことだった。
 下校しているとき、学校の近くの公園で神崎明人が男子に取り囲まれているのを見つけた。直射日光が降りそそぐ晴天の下、小学生が遊んでいる公園の隅っこで、神崎明人が膝立ちをしていた。俯いたまま、歯を食いしばっていた。その周りには複数の男子がいた。どの男子も、おかしそうに笑い声を上げている。
 茜の内面の葛藤が高まっていた。止めなければいけない。このまま放置すれば、神崎明人の心はもはや元には戻らない。
 激しい焦燥が身体を駆け抜けていった。なによりも恐れていたのは、神崎明人の喪失だった。好きなことを楽しそうに話す神崎明人はとっくに死んでいたが、このままでは、復活する可能性すらゼロになる。
 神崎明人を失いたくなかった。茜は、公園の入り口のところで、止めに入る準備をしていた。難しい問題を考えている場合ではなかった。どういう結果になろうとも、止めに入らなければいけない。それ以外に手段はない。
 あのとき、茜はたしかに覚悟を固めていた。
 そのはずなのに、最終的に動こうとしなかったのは、神崎明人が暴力を受けるのを見て驚いたから……ではない。あのときに起きた思考の変化を、茜はいまだに忘れられずにいる。
 あのとき、茜は思った。さんざんに神崎明人を助けようと考えていたのに、はっきりとした言葉で頭に強烈に浮かんできたのだ。こいつが悪いだろ。自分が被害者であるかのように演じて、助けてもらえることを期待しているから、いつまでも変わらない。ただの自業自得だ。
 そんな自分の内心と対峙したときに、茜の心は恐怖に震えた。
 こうやって世界は誰かを殺していくんだな、と思った。誰かを殺すためにナイフは必要ない。難しい計画も必要ない。限界まで伸ばしていた薄い膜が破れるみたいに、ちょっとした思考の放棄があればいいだけ。
 考えなければいいだけ。相手の苦しみに耳を塞いでしまえばいい。まるで映画を鑑賞した人がそれに登場したキャラクターの魅力を語るみたいな感じで、「あの人はダメな人だったね」というレベルの思考の浅さが重なるだけで、その人は死んでいく。
 誰かが認めてあげないと死んでいく。茜は、無力感に打ちひしがれていた。自分には無理だ、と思った。これ以上、神崎明人を肯定的に捉えることはできない。そんなに優しくなれない。
 ごめんなさい。
 茜は神崎明人と目が合った。あのとき、茜はその視線で謝罪していた。理想通りに優しくなれなかった自分の無力を胸に抱きながら、贖罪をするように神崎明人に苦しい胸の内を明かしているつもりだった。
 そんな茜を、神崎明人は真っすぐと見つめた。すべてわかっているとでもいうように悟ったような視線だった。なにを伝えようとしていたのか、わからない。なにを感じていたのか、少しも読みとれない。
 その日から、茜の人生は泥水に沈んだように鈍くなった。身動きするたびに、べたべたと泥が付きまとい、思うように動けなくなった。罪の意識が離れなかった。自分自身に激しい怒りを抱いていた。茜の心は必然のようにまた神崎明人へと向かっていった。
 その流れで、茜は、ついに人生のターニングポイントを迎える。神崎明人がときどき学校を休むようになったころだ。昼休みの校舎裏で、神崎明人がいつものように取り囲まれているところへ、茜は割り込んでいった。
「やめてあげて。もう充分だよ」
 声が震えていた。どうして、もっと強めの言葉を選ばないのか。自分自身に怒りが込み上げてきた。
「恥ずかしいと思わないの。一方的に暴力を振るうなんて」
 くすくす、と笑い声が漏れてきた。男子たちは神崎明人と茜を交互に見つめて、なにかを納得したようにうなずきあっていた。
 茜はそれでも毅然とした態度を貫こうとした。教師は見て見ぬふりをするし、みんなは頭を回さない。どういうわけか、神崎明人について偶然にも頭を回すことができている自分こそ、動かなければいけない。ほかの誰にも頼れない中、自分だけは強くいなければいけなかった。
 茜は、何度も、「やめてあげて」と繰りかえした。男子たちは笑いを零すだけで、まともに取り合おうとはしなかった。その日から、茜の友達がいなくなった。
 それまでよりも暗い日々が始まると、茜は、どこか遠くへ行きたくなった。ここではない場所なら、どこでもよかった。別世界を探すように、真夜中になると街を徘徊するようになった。夜の深い時間に外を歩いているだけで、なにか特別な存在になれたような気がした。
 そのころ、茜は考えたことがある。この世界には呪いなど存在しない、と。もしも呪いが存在するのであれば、神崎明人にまとわりつく男子たちは全員、神崎明人の呪いによって呪い殺されているはずだった。茜の呪いも加われば、その呪いの総量はとんでもない量になるはずだった。
 もしも呪いが実在するのであれば、神崎明人や茜からの彼らへの呪いを抹消しているなんらかの効果を仮定しなければいけない。
 茜がなによりも憎かったのは、神崎明人をいじめていた男子グループが学校という世界で認められていることだった。社会性という基準から考えたとき、体育会系の男子たちは明らかに高く評価できた。学校という世界で必要とされているのは、神崎明人ではなく、神崎明人を虐げる人たちだった。
 その恣意性は大きな世界でも変わらない、と茜は考えた。世界の頂点に立っているのはお金を持っている人たちだ。たまたま経営や投資の才能を持っていただけの人たちが、ありえないほどの富を独占している。その前では、神崎明人がときどき見せる優しさなど、なんの価値もない――ように見える。
 もはや、なにも見ていない。腐った眼球で。
 社会がそういう腐った眼球の集合体だからこそ、小さな歪みを見抜けない。言葉遊びみたいな単純な評価軸でしか人を判断できない眼球が増えていくにつれて、明らかに間違っている人たちも一緒に認められてしまうのだろうと茜は考えていた。
 神崎明人を虐げる人たちが呪われないのは、きっと、彼らが求められてもいるからではないか。それは残酷な世界の側面だった。
 そのころの茜は一度だけ、神崎明人と深く話し込んだことがあった。金沢たちと出会う前のこと、真夜中の公園を徘徊する中で、神崎明人と偶然に出会った。
 上下黒いジャージを着ていた神崎明人は、そのときもビー玉を口の中で転がしていた。左手には、なぜか、ふさふさのクマの人形を持っていた。
 茜から「元気?」と声をかけると、神崎明人は、「元気だけど」とぼそりと答えただけだった。そのときの神崎明人と茜は、学校で孤立していた。
 しばらくふたりきりで遊歩道を無言で歩いていると、茜が耳を傾けているのを信頼したのか、神崎明人は語りはじめた。
「生まれ落ちたときからR指定だったから、とくに驚くにも値しない。この世界は全年齢対象になるつもりがないようだから、僕はもう期待したくない」
 ぺっとビー玉を右手に取りだすと、饒舌になっていった。
「それでも、期待してしまう。僕もおそらく幸せになれない人たちの集合に含まれているんだけど、せめて、少しだけでも幸せになりたい」
「そのための条件はなんだと思う?」
 茜は、微かに期待しながら訊いた。ドラマみたいなセリフが返ってくることを想像していたのは言うまでもない。それでも、神崎明人の答えは呆気なかった。
「条件なんてないよ。傾向があるだけ。たとえば、大勢に認められれば幸せになれる傾向がある。だけど、もちろん、それは傾向の話だから、大勢に認められたとしても、心の穴が埋まらない人もいる。目標を成し遂げれば幸せになれる傾向がある。だけど、もちろん、それは傾向の話だから、はるか大きな目標を成し遂げても幸せになれない人もいる。わかりやすい条件なんてない」
 それは厳密で、現実的で、ある意味、当たり前の話だった。茜はむやみに期待していた自分が恥ずかしくなった。
 神崎明人が幸せになるための条件のひとつになりたい、とそのときの茜は一瞬、考えていた。反対に、茜が幸せになるための条件のひとつに神崎明人もなれば嬉しい。そんなふうに考えたのは、茜の独り善がりのようだった。
 ふたりの横をランニング中の人が通りすぎるときにも、神崎明人の口は抵抗なく動いていた。
「生まれた意味はないけど、生きつづけているのには理由があると思う。たとえば、それが、死ぬのが怖い――もしくは、死ぬときの痛みが怖い――だけなのだとしたら、もはや、人生は究極の惰性でしかない。僕の人生もそういう種類のものなのかもしれないと考えていたんだけど、そうじゃない、と気づいた」
 神崎明人が、振りかえり、茜の目を見た。そのときの神崎明人はまだ病的な視線恐怖症にはなっていなかったから、目が合うのは当たり前のことだった。
「僕が生きている理由は、もっとべつのところにあった。たとえば、すごく気持ちのいいことがあるとして、死にたい、という気持ちと、その気持ちいいことを達成したい、という気持ちのどちらが大きいかを考えてみた。そうすると、後者の気持ちが大きかった。僕が生きている理由は、それを達成できるだろうという期待だったわけ」
 死なずにいれば幸せになれるかもしれないという期待が残っているから、死ぬという選択肢が選ばれない。それは無理のない論理である。
「問題は、それを達成することがほとんど困難であるところなんだ。だから、死にたくなるのは単純にそれを達成できないからであり、もしもそれが達成できるのであれば生きていたいと思うんだろうというわけ」
 神崎明人にとって、死ぬよりも大きい幸せを運んでくれるものとはなんだろう。茜は考えた。それはもしかしたら、すごく動物的な欲望かもしれないし、あるいは、それとは正反対の高尚なものであるかもしれない。
 ふたたび前を向いて歩きだす神崎明人に、茜はついていった。
「なにかができない、という強い確信が人を死にたい気持ちに追い込むんだとしたら、それさえ達成できてしまえば死ぬ必要はなくなる。それが可能であるためには、どうすればいいかについて頭を回していくことが大事だったんだ」
 それはもはや、神崎明人にとっての生きていくための条件ではないか、と茜は思った。たしかに人間全体で考えれば傾向があるだけだが、個人個人を取り上げれば、それぞれに幸せになるための条件があるのではないか。
 神崎明人にとっての幸せになるための条件とは、果たして、なんなのだろう。茜は、気になって訊いた。
「それはなに?」
「言えない」
 神崎明人は、即答した。
「さっきも言ったでしょ? それを達成することがほとんど不可能なんだ。たとえば、僕がどうしようもないくらいの殺人衝動を持っていたとして、それで誰かを殺してしまったら、尊い命がひとつ消える。そんなこと、できるわけがない」
「そうなの?」
 茜は、神崎明人の顔を覗き込んだ。
「本当に、殺人衝動なんて持ってるの?」
「言えない」
 また、即答された。
「でも、僕は、あくまでも理解できる。無差別に人を殺傷する気持ちもわかるし、人間を解体して食べたくなる気持ちだって、わかるよ。でも、そんなの、誰だって、本当はわかってるんじゃないかと思う。もしも、それがわからない人がいるとしたら、その人は現実を半分以上、見ないままで生きてきてしまった。R指定の世界を、見ないままに来ちゃったんだね」
 茜には、わからなかった。もしも神崎明人の言葉をそのまま呑み込むのであれば、茜は現実の半分以上も見ないままで生きてきたのだろうか。なんとなくバカにされているように感じて、不意に、言い返したい気持ちに駆られた。その気持ちを呑み込むことができたのは、突然、神崎明人が泣きはじめたからだった。
 頬を流れていく涙を、右腕で拭っていた。ぐっと歯を食いしばり、ただちに涙は流れなくなった。なんで、堪えたのだろう。むしろ好きなだけ泣いてほしかった。
「いまのは全部、忘れて」
 神崎明人がなんでもないかのように言うので、茜こそ、泣きたい気持ちだった。なにか適切な言葉を探していたのに、なにひとつとして浮かんでこなかった。茜は寄り添うように歩いていたつもりだったが、あのときもずっと、神崎明人はひとりきりで歩いているつもりだったのかもしれない。
 茜は、そのとき、考えた。もしも神崎明人が異常な欲動を育てていたとしたら、それは神崎明人の責任だろうか。もしも神崎明人が堪えきれずに誰かを襲えば、神崎明人は絶対に言い逃れできない。それでも、その欲動を本人が望んで育てたわけではないなら、本人の意思はどこにもない。
 欲望を消したい、という人たちがいる。そういう祈りのような言葉が巷にあふれているのはきっと、欲望が、本人の意思とは無関係である部分が大きいからだ。本当はこうしたいと思っているのに、欲望が、違うことをさせる。だから、欲望を消したい。欲望が消えれば、自分の思い通りに動ける。そういう明快な論理である。
 それはおそらく、かなり的を射ている。人間は肉体に支配されている以上、本人の意思だけによって動いているわけではない。本人が望んでいる行動が、肉体的な指令に邪魔をされて遂行できないケースがある。
 しかし、と茜は考えた。だからといって、異常な行動が許されるわけではない。そもそも、神崎明人はまだ誰も襲っていない。
 そういう、本人の望んでいない行動が選択されるケースは認めつつも、大きな選択については本人の意思を反映させるのも十分に可能ではないか。
 進学先を決めるとか、就職先を決めるとか、あるいは、付き合う相手を決めるとか、そういう大きな選択においては、欲望を抑えながら本人の意思で進んでいけるような気がする。大きな選択には、比較的に本人の意思が反映されやすいため、その結果については自己責任の論理が適用されやすい。
 たとえ、欲望が膨らんでいったとしても、理性を働かせて考えれば、最適な選択ができるはずだ。茜は、心の底から神崎明人を信じていた。
 公園の遊歩道を何周も歩いたあと、神崎明人は、不意に、一本の太い木立の前で足を止めた。なぜ立ち止まるのだろうと不審に思っていると、神崎明人は、茜の内心を読みとったように振りむいてきた。
「いつもやってんだよ」
 その暗い目が茜に向けられる。いったい、いつも、なにをやっているというのか。茜の疑問が膨らんでいく中、神崎明人は、「これ」と手にしていたふさふさのクマの人形を掲げた。その人形を使って、いつも、なにかをしているらしい。
 神崎明人は、それから次に、ポッケから細長いものを取り出した。それは釘だった。それだけで、茜は大方、想像できた。
 神崎明人は、もう一方のポッケから小型のハンマーを取り出し、木立にクマの人形を添えると、その人形の胸の部分に釘を打ちはじめた。
 こつん、こつん、こつん、と響く音が薄気味悪かった。それは呪いの音だった。神崎明人が溜め込んだ負のエネルギーが人形に注がれていた。
 神崎明人が黙々と釘を打ち付けるところを、茜は傍らから眺めていた。
 そのときになってようやく、どうして神崎明人を虐げる者たちが呪われないのかについて理解できた。
 クマの人形の顔の部分に顔写真が貼られていた。それは神崎明人だった。

 深い記憶の旅から帰ってくると、茜はまだ研究室のテーブルに突っ伏したままだった。すでに『22:21』を迎えていた。残り十分ほどで決断しなければいけない。佐々木ミツルのアトリエに行くべきか、行くべきでないのか。
 神崎明人と佐々木ミツルのどちらを選ぶべきか。茜は、顔を上げ、腕を組んで、必死に頭を回した。
 記憶の旅で得てきたものと言えば、神崎明人への想いだった。知りすぎなくらいに知っているから、もはや、兄妹も同然だ。逆に、佐々木ミツルについてはそれほど深く知らないから、どうしても怪しい部分が大きくなる。かといって、佐々木ミツルが悪人であると断じるのも早計に思える。
 どうすればいいのだろうか。茜は、考えつづけた末に、ついに結論に達した。

 さて、ついに、ふたつめのターニングポイントを迎えた。読者に与えられた選択肢は、佐々木ミツルとの関係を継続させるか、神崎明人に鞍替えするか、である。それぞれの選択肢の先には、まったく別の物語が待っている。
 念のために確認しておこう。佐々木ミツルと神崎明人のどちらか一方は筋金入りの危険人物である。
 ハッピーエンドを掴むためには、もはや、佐々木ミツルとの関係を継続させるしかない。ただし、もしも佐々木ミツルが筋金入りの危険人物ならば、容赦のないバッドエンドを迎えることになる。神崎明人へ鞍替えすれば、冒頭でも述べたとおり、軽めのハッピーエンドが待っている。
 この選択において重要なのは、佐々木ミツルが危険人物なのか、安全人物なのか、である。もしも危険人物だと考えるなら、神崎明人へ鞍替えするべきであるし、もしも安全人物であると考えるなら、佐々木ミツルとの関係を継続させるべきである。あるいは、バッドエンドになるリスクを避けたいなら、いさぎよく神崎明人へ鞍替えするという戦略もありうる。
 さあ、どうすべきだろうか?
 答えが決まったなら、さっそく、物語の続きへと進もう。

 〇佐々木ミツルとの関係を継続させる↓

 〇神崎明人へ鞍替えする↓