見出し画像

【怪談】車窓の中の女

 会社帰りにバスに乗っているときの出来事だ。
 揺れの激しい車内で本を読んだりスマホを操作したりすると酔ってしまうので、いつも、ぼんやりと車窓を見つめながら過ごすことにしている。その時間帯はすでに夜で、バスの車窓には鏡のように車内の様子が映りこむ。結局のところ、車窓を見つめるということは、車内の様子を見つめているということである。
 その日も、どこに焦点を合わせるでもなく、車窓へと目を向けていた。
 そのうち、大胆にふとももを露出した若い女性客が乗車してきた。夏だったので不自然ではない。あまりじろじろ見るとマナー違反になるが、車窓を通して見れば、本人に気が付かれることもない。
 正直なところ、どうしても気になってしまい、その真っ白くて美しいふとももを盗み見ていた。
 ここが公共の場であるという理性的な意識もあった。だが、生物としての本能的な想像力が途絶えず、きわめて不適切なことを頭に浮かべていた。
 車窓に釘付けの状態が続くと、これはどうしても避けがたい衝動として、実物を見てみたくなった。
 本人は前を向いているし、不快に感じることはないだろう。言い訳をしながら、ちょっとだけ目を動かし、車窓ではなく、本当の車内に目を向けた。
 いなかったのだ。
 車窓に目を戻せば、たしかにそこにいるのに、車内にはいない。車窓の中で女性が座っている席は空席となっている。
 それまでの緩んだ気持ちはどこかにすっ飛んだ。いま直面しているの奇妙というより異常な現象だ。どうしよう、どうしよう。同じ姿勢で座ったまま、頭の中ではパニックを起こしていた。
 背徳感ではなく、もはやただの恐怖感から車窓の中の女を見つめることができなくなった。車内に目を向けていれば、とりあえず女性を見ないで済む。けれども、視界の隅には車窓の中の女がいて、しかも、なぜか、こっちを見ているような気がする。そう思うと余計に目を向けることはできなくなる。こっちを見るな、と心の中で唱えながら、ただずっと前を向きつづけていた。
 視界の隅の女は、だんだんと存在感を増してくる。それはただの意識の問題ではないかとも思ったが、視覚的に本当に大きくなっているようにも思えた。
 車窓の中で、女はこちらに一歩、一歩と近づいてきているのではないか。
 そんな疑いを膨らませているうちにも女の存在感は大きくなり、すぐ真横までやってきているような気もして、いまにも泣き出したくなった。
 そのとき、耳元で、はっきりとした女の声が聞こえた。
「わたし、かわいい?」
 ぞっとして、勢いで振り向いた。
 車窓にはもう女はいなかった。
 その体験をしてからのこと、むやみに女性のふとももを盗み見たりすることができなくなってしまった。