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【経済学とは・簡単に】ゾンビがやってきたら、世界はどうなる?

 経済学は、意味がない。つまらない。くだらない。そう言われることが多いようですが、僕は面白いと思うので、ちょっと紹介してみようと思います。

 小難しい数理モデルの話などはいっさい、しません。専門用語もほとんど出てきません。直観的な話しか、しません。

(ですが、その数理モデルが案外、面白かったりします。僕たちは協力するためには市場に頼るしかないのだし、そうでなければ社会は成り立ちません。経済学では、このことを数学的に証明し、かつ、歴史的にも証明してきました。しかし、そんな小難しい話はしません)

 なるべく面白くなるように気をつけました。ストーリーを読むように楽しめると思います。なんとなく、経済学ってこんな感じのことを扱うんだなぁ、面白そうだなぁ、と思っていただけたら幸いです。

 ではでは。ゾンビの世界へ行ってらっしゃい!





 20XX年、夏、東京の中心地で、無差別の殺傷事件が同時多発的に発生した。

 警察が報告したところによると、死者32名、重軽傷者43名だった。


 これら一連の通り魔的な犯行は人々を恐怖に陥れたが、

 それは、ほんの始まりに過ぎなかった――。


 それを皮切りに、東京都内の各地で無差別的な殺害事件が多発した。

 一か月のうちに死者は1989人に達し、負傷者はその十倍以上だった。この現象はただちに日本全国へと拡大していった。


 この異常事態について、政府の専門機関は信じられない発表をした。


「どうやら、我々はゾンビの時代を迎えたらしい。ゾンビになった者は人間を噛み殺し、ゾンビを増殖させる。冷静になってくれ。噛まれなければ、ゾンビにはならない

 

 こうして、ウィズゾンビ時代を迎えた。

 人々はゾンビに警戒しながらも日常生活を続け、日々、怯えながら暮らすようになった。


 内閣総理大臣であるホンダは、悩ましい問題を抱えることになった。

 どうやら、最近、ゾンビの犠牲になる国民の数が増えてきているらしい。


 このままでは、国民の生命を守るという政治の役割が破綻してしまう。

 ただちに緊急事態宣言を発出したいが、経済を止めるわけにもいかない。


 ホンダは、ゾンビの発生によって生じた経済の変化を、経済学者らとともに把握する作業を進めていた――。


 ①どうして防犯設備は値上がりするのか?

 ホンダは首相官邸にて頭を抱えていた。

「ホンダ総理、なにに悩まれているのでしょうか?」


 秘書官が、慎重に言葉を選びながら進み出てきた。

 ホンダは、むしゃくしゃと髪を掻きまわしてから、深く息を吐いた。


「国民の命を守るためにも防犯設備の普及を急ぎたいと考えているんだ。

 しかし、どういうことだ? こんな緊急事態だというのに、防犯設備を供給しているセキュリティー会社がそろって防犯設備の価格を上げてきている。

 どうして、こんな無慈悲なことになるんだ?」


 ホンダが嘆かわしく言葉を落とすと、秘書官は、ほう、と一度切りうずいて、困ったように宙を眺めた。

 秘書官はそのことについて考えたことがない。どうして、必要なときに限って、価格が上がってしまうのだろうか?


 部屋の中に沈黙が続く。考えてみれば、ひどい世界の仕組みだな、と秘書官は思うのだった。


 誰もが無言を決め込んでいたとき、その空気に飽き飽きしたような溜息が一つ零れ、若い男の声が上がった。

「それは需要が変化したからですよ。セキュリティー会社が意地悪をしているわけじゃありません」

 部屋の隅に佇んでいた経済学者だった。


 彼は、ホンダに頼まれ、首相官邸に経済対策の助言をするためにやってきた、某国立大学に所属する一流の経済学者である。

 さらりとクールに前髪を横に長し、冷めたような視線を首相と秘書官に向けた。


「簡単な仕組みです。誰かが意地悪をしているわけではなく、ほとんど自然現象として生じる市場のメカニズムなんですよ」

「どういうことだね、詳しく説明してくれるか?」


 ホンダが前のめりになると、「ええ」と経済学者は鷹揚にうなずいて、説明を始めた。


「ゾンビの出現によって、防犯設備の需要――欲しいという気持ち――は格段に上がりました。人々はたくさんのお金を投げうってでも防犯設備が欲しいのです。

 おそらく、防犯設備を提供するセキュリティー会社には注文の電話が殺到していることでしょう。

 しかし、ですよ。考えてみてください。そんなすぐに防犯設備をたくさん供給することはできません。大量の準備がないからです。

 だとしたら、どうやって、たくさんやってくる注文客を選別すればいいのですか? あの人には売らない、あの人には売ろう、なんていう恣意的な操作をするわけにもいきません。

 だから、価格は勝手に上がるんです。

 価格を上げれば、防犯設備を購入できる人の数は減ります。ちょうど、セキュリティー会社が準備しているぶんを取引できるようになるわけです」


 なるほど。ホンダはうなずいた。

 価格が上昇することで、客の数を絞っているというわけか。おまけにセキュリティー会社としては収入が増えるのだから、一石二鳥だ。


「とすると、大量に防犯設備を供給する準備が整えば、価格はふたたび下がってくるというわけか?」

 ホンダが問うと、経済学者は答えた。

「ええ、そういうわけです」


 これが需要の変化というやつか。ホンダは黙考に沈んだ。

 いまの日本社会では、同じような現象がたくさん発生している。


 たとえば、スタンガンだ。ネットサイトを確認すると、スタンガンの価格が大幅に上昇している。スタンガンはゾンビにきくらしいというデマ情報が出回った影響で、需要が増加したのだ。

 暴力団の収入も増えているらしい。銃器の違法な売買が加速し、銃器の値段が高騰しているのも、人々がゾンビに備えて武装しようと計画しているせいだ。


 それとは逆に、むしろ、値段が低下しているものもある。外食チェーンのハンバーガーやステーキなどは、どれも、大幅に下落している。中には、さまざまなキャンペーンを実施して、人々の気を引こうとしている店もある。

 これはつまり、需要が減少した影響か。ゾンビがうろついている外には出歩きたくないから、外食が減る。その影響で、店としては価格を減らしてでも客の心をつかまなければいけなくなっているわけだ。

 そういえば、大型の遊園地も大幅の値下げを発表したばかりだった。


 人々がなにを欲しいか、欲しくないか。それだけが価格に大きな影響を与えている。ホンダは、納得した。


 ②どうして、自殺率は増加するのか?

 首相官邸にて、ホンダはまたもや頭を抱えていた。

「どうしたのでしょうか? なにを悩んでいらっしゃるんですか?」


 秘書官が進み出た。ホンダは憂鬱な息を吐いた。

「どうやら、自殺率が上昇しているらしい。どうしてこうなってしまうんだ?」


 たしかに、どうして自殺率が上昇するのだろうか。ゾンビに襲われるという恐怖のせいで、絶望し、死にたくなったのだろうか。

 秘書官はちょっと考えてみたが、いまいちよくわからない。

 なぜなのだろう。部屋の中に沈黙が降りた。


 まったく困ったものだ、という態度で進み出てきたのは、さっきの経済学者だった。

「経済的に困窮する層が増えると、きまって、自殺率が上昇するんですよ」

 さらりと前髪を横に長し、私の出番でしょう、とばかりに顎を上げる。


「どういうことだね。説明してくれ」

 ホンダが頼むと、経済学者はうなずいた。


「いいですか。経済と自殺は切っても切り離せない関係にあると言っても過言ではありません。自殺のすべてを経済現象として語ることはもちろんナンセンスですが、それなりの関係性があるんです。

 たとえば、消費税を上げたとしますよね。すると、必ず、自殺率は上昇します。消費税を上げたことによって困窮する人が出現する影響だと考えられます。

 当然、わが国には、生活保護という制度が整っているのですが……。

 それはどうやら選択肢に入れていない人が多くいるようでしてね。ともかく、経済的に困窮する人が増えると、自殺する人も増えてしまうんです

 今回の事例も、そうです。なにも、ゾンビが怖くて自殺しているわけじゃないと思いますよ。ゾンビが出現したことによって人々が外出を控えるようになり、経済が停滞し、経済的に困窮する層が出現してきた。

 たとえば、需要の低下に伴って客が減った外食産業やエンターテイメント施設では、解雇が大きな問題になっています。経済を動かしていかないと、こういう悲劇は避けられません」

 なるほど。ホンダは、考えた。

 いまの日本社会では、たしかに経済が停滞している。


 しかし、ゾンビによって命を落としている人も多いのだ。このバランスを考えていかなければならない。

 ただちに緊急事態宣言を発出したいが、その影響で、経済にはどのような影響が出るのだろうか。

 ホンダは、その点について、経済学者に質問した。


 ③経済を停滞させると、どうなるのか?

「もしもいま、経済を大幅に制限したら、どのような影響が出るのでしょうか?」


「悪循環ですね」

 経済学者は答えた。

「いいですか。まず、経済活動を制限すると、収入が減ったり、あるいは、収入がなくなったりする人たちが出てくることになります。

 さきほど確認したように、こうなるとまず、自殺率の上昇は避けられないでしょう。

 しかし、もっと広い視野で見ていくことが必要なのです。とても複雑な影響を方々に与えるようになります。

 順に考えていきましょう。収入が減る人が増えてくるわけですが、収入はその人がいろんな商品を買うための支出にもなるわけですから、支出も減ることになります。支出が減るということは、購入される商品の数が減るということですから、いままでよりも商品が売れにくくなります。

 商品が売れなくなると、その商品を売って収入を得ている人の収入も減るわけですから、今度は、そういう人たちの支出も減ります。そうなると、今度はそういう人たちの支出が減った影響で、また商品が売れにくくなり、経済が動きにくくなります。

 こうやって、悪循環にハマっていくんですね。経済をとめると、その影響は複雑に長期に渡って拡大していきます。経済がうまく回らなくなっていくと、さらなる自殺率の上昇を招くかもしれません」


 頭が痛い話だ。ゾンビによって失われる国民の命を守るためには、ただちに緊急事態宣言を発出するべきだ。しかし、国民の生活を守ることも考えなければならない。

 経済的なショックも最小限に抑えるような努力をしなければいけないのだ。

 たとえば、ゾンビものの映画みたいに、完全に経済をとめてしまって、ゾンビサバイバルみたいな状況になったとしよう。ホンダは、考えた。

 経済がとまると、まずは、食料が手に入らなくなる。スーパーやコンビニの食料はただちにすべてなくなり、新たな食糧が届かなければ人々は餓死してしまうだろう。


 生活に必要なものはすべてお金で取引されている。経済がとまれば、生活に必要なものは手に入らなくなる。トイレットペーパーも、フライパンも、物干し竿も、家電も、なにも届かないだろう。それどころか、電気も供給されなくなり、夜になると町は暗くなり、治安は悪化するだろう。

 娯楽も同じだ。本を読むことができるのも、ユーチューブを見ることができるのも、釣りができるのも、散歩ができるのも、経済のおかげだ。本の流通が止まり、ユーチューブの広告主たちが消え去り、釣り具専門店が消滅し、安全な道路がなくなれば、なにもできない。ランニングができるのさえ、国が税収によって安全な道路を供給しているからにほかならない。

 つまり、経済を甘く見てはいけない。もちろん、以上の話は極論ではあるが、経済を動かせなければ人々の生活はまず間違いなく、不幸になる。


「ゾンビに襲われる人を減らさなければならない。自衛隊を派遣し、安全の確保に尽力しなければ……」

 ホンダは苦渋の思いを顔に滲ませた。

「しかし、ゾンビによって失われる命をゼロにすることはできないだろう」

 それはどうしようもない事実である。


「かといって、経済を抑制したときの大きな影響を無視することもできないのだ」


 ホンダは今日も悩んでいる。悩みの果てに、緊急事態宣言を発出することを決意した。

 国民からはさまざまな非難の声が注がれる。それはそうだろう。経済をとめたことによって、首を絞められた人たちが数えきれないほどいる。殺意を抱かれても無理はない。いっそのこと、経済が機能しなくなるほど国が崩壊してしまえばいい、という投げやりな気持ちにもなる。

 しかし、ゾンビサバイバルなどやっている場合ではないのだ。ゾンビがいるときにも、いないときにも、同じように、テレビを放映し、バラエティー番組をやり、ビデオショップでゾンビ映画のレンタルをして、書店ではゾンビ小説を売り、セキュリティー会社は防犯設備を供給しなければならないのだ。

 人間は、そうしていないと、生きていけない。一度始めたものは続けていないといけない。もはや、このシステムの中でしか人間は生きられないのだ。

 このバランス感覚の重要性を前に、ホンダは、今日も悩み続けるのだった。