【ゲームブック小説】眼球の点滅③-D

 あなたは佐々木ミツルを選択しました。


   三のD

 神崎明人と喧嘩別れしたあの日から、すでに一年の時が流れた。あの日、もしも神崎明人のもとに戻っていたのならば、どんな運命が待ち受けていたのだろう、と考えると、ぞっとするでは言い足りない。
 茜は、小さな法廷の傍聴席に座っていた。隣には、天才芸術家である佐々木ミツルが座っている。いつものようにサングラスを装着している。
「怖くなったら、いつでも出ていいんだよ?」
 佐々木ミツルが気遣ってくれるが、茜は大丈夫だ。
「心配しないで。最後まで見届けるつもりだから」
 金石市内にある地方裁判所の302号法廷では、これから被告人質問が実施されることになっていた。厳粛な空気が流れている中で実施されるのは、ストーカー規制法違反に関する裁判である。
 茜が呼吸を整えていると、ぽんぽんと肩を叩かれた。振り向くと、そこにすらりとした細身の若い男性がいた。浅川検事だ。
「ぼこぼこにしますから、安心してください」
 低い声で、にっこりとした顔のまま、続ける。
「俺、ああいうの、許せないんです。悪いことをしているくせに、最後までだらだらと自己正当化している暇があるんなら、ちょっとくらいはまともになるように努力しろって話ですよ」
「よろしくお願いします」
 佐々木ミツルが頭を下げた。茜はなにも言わずに、佐々木ミツルに続いた。ぼこぼこにしてほしいわけでもないが、もう、世の中に出てこないでほしい。不憫に思う気持ちはほとんどなかった。人間としての常識を取り戻し、真っ当に生きてほしい、という願いもあまりない。ただただ、重い刑になってほしいと願うばかりだ。
 茜は、いろいろな心労のために疲弊していた。いちばん苦しかったのは、子供のときからずっと想いを寄せていたという事実だ。自分の青春の思い出が貶されたのがいちばん許せない。茜の記憶ごと、この世界からいなくなってほしい。
 傍聴席には、裁判所マニアのような高齢者や、何人かの記者が訪れていた。半分ほどは埋まっている。
 そのまま最前列の傍聴席で待っていると、ついに弁護側のドアから手錠をかけられた男が、刑務官に付き添われて入廷した。神崎明人だ。俯きがちになりながらも、めざとく、茜に視線を飛ばす。大きな目だった。視線恐怖症のくせに、目を合わせようとした。ほんの一瞬、目が合ったように感じただけで、息が乱れた。茜は、素早く首を振って動揺を鎮めた。
 それから待たずして、奥のドアから、一名の裁判官が入廷した。少しだけ太り気味の白髪の男性だった。お馴染みの黒い服を着ている。記者たちが真っ先に起立するので、周りに合わせるように茜も起立する。裁判官が頭を下げるのに合わせて、茜も、深々と頭を下げた。
「それでは、開廷します」
 裁判が始まった。なんともいえない苦痛が胸の底から浮き上がってくる。ずっと大切にしていた宝箱の中に泥が詰まっていただけだったのに気付いたときのような、どうしようもなく虚しい気持ちだ。
 裁判官の声は、あらゆる世の中の悪を切り倒そうとする力強さに満ちていた。神崎明人という名の悪も含めて。
「それでは、被告人質問を始めます。被告人は証言台の前に立ってください」 
 神崎明人の?せ衰えた背中が証言台の前に進んでいく。部屋着のような質素なグレーの服を身に着けた神崎明人は、まるで死神のようだな、と茜は思った。
 隣に座る佐々木ミツルが、茜の右手をそっと握ってくれる。それだけで心強かった。
 まずは弁護人からの被告人質問だった。でっぷりと腹の出た三十代くらいの弁護人の男性は、よく通る声を響かせた。
「ええ、まずは簡単に被告人の過去についてお尋ねしますが、被告人と、被害に遭われた方――ここではAさんと呼ぶことにしますが――の出会いは小学生のころですね。小学三年生のころにAさんと同じクラスになり、そこで仲良くなったということでよろしいですね?」
「はい」
 神崎明人の声は、気力を失ったような弱弱しさだった。被害者ぶるなよ、という声が喉元まで込み上げてくる。
「僕たちはその当時から、お互いを意識していました。僕はずっとAさんに好かれているんだなと感じていました」
 強いストレスに晒されているかのように抑えられた声だった。
「そうですね、まさにAさんに好かれていました。そのように感じるからには、そう思わせるようなAさんの行動なり、仕草なりがあったわけですね」
「はい」
「どのようなものですか?」
「積極的に声をかけてくれました。僕は性格が暗いから、声をかけられることはほとんどないんですが、それなのに、たくさん声をかけてくれました。それに、Aさんは僕に声をかけるときに、すごく嬉しそうな顔をしていました」
「それじゃあ、好意を寄せられていると考えても無理はありませんね」
 弁護人は、うんうんとオーバーにうなずいた。
「そういうわけで、被告人がAさんに好かれていると考えていたのは、十分に、Aさんの行動なりで常識的に判断して導き出せるわけだから、別段、被告人の妄想とは言えないわけです。たしかに、Aさんは被告人を特別、意識していたと言えるでしょう」
 ぐさぐさと茜の胸に突き刺さってくる。それは事実なので、反論はできない。茜はたしかに神崎明人を異性として意識していた。いまとなっては、すべてなかったことにしたいくらいに忌々しい過去である。
「小学三年生のときに出会って以来、被告人は、幼馴染としてAさんと親密な関係を続けてきました。その間も、ずっと、Aさんから好意を寄せられていると感じていましたか?」
「はい。感じていました。僕のことが好きなんだろうなって」
「それは中学生になってからも変わりませんでしたね?」
「はい」
「まさにその中学生のころですが、被告人は、クラスの中でいじめられるようになりましたね。中学二年生の前半、暴力を受けたり、服を脱がされたりしたことに間違いはありませんか?」
「間違いありません。みんなの前で勃起させられて、笑われました」
「さぞ苦しい日々を過ごしていただろうと推察いたします。そのとき、被告人の味方をしてくれた同級生がいましたね。誰でしたか?」
「Aさんです」
「となると、Aさんはいじめられている被告人を助けようとした、と。どのように感じましたか?」
「僕のことが好きなんだろうなと感じました」
「そう感じるのも、無理はありません。いじめの被害者に味方をすれば自分さえどうなるかわからないのに、それだけの覚悟を決めて味方をしてくれたのだから、強い気持ちがあったと考えるのは自然です。被告人は、そのときから、Aさんに好かれていることについて確信があったわけですね」
「ずっと、信じていました」
「中学校を卒業したあとも、被告人はAさんとのメールを続けていました。たまには一緒に飲食店に出かけたりもしていましたね。そんな中、昨年の七月末、被告人はAさんと直接会ったときに告白をしました。どのような言葉をかけましたか?」
「僕はダメな人だけれど、それでもAさんのことが好きです、というニュアンスの言葉でした。でも、その場では答えをくれませんでした」
「その場で答えてくれないことに、どう感じましたか?」
「すごく不安になりました。もしかしたら、僕って、遊ばれているだけなのかもしれないとも感じました」
「心中、お察しします」
 さっきから聞いていれば、まるで茜が悪いみたいではないか。たしかに好意はあったが、子供時代の無責任な好意をいまごろになって掘り返されたら堪ったものではない。茜は、徐々に怒りが溜まっていった。どうにか口を引き締めていた。
「八月に入ってから、AさんからOKの電話がかかってきたわけですね。そのときからのデートの内容を説明するので、間違っている点などあれば、教えてください」
 弁護人は、分厚い資料を片手に、それを読み上げはじめた。
「被告人はAさんとの交際関係になってから、デートを重ねました。近所の公園を散歩したり、川沿いの遊歩道を歩いたりしました。そして、八月の中頃、水族館に出かけた日の夜、ラブホテルに出かけ、性交に及びました。そのときは、念のために、被告人は『大丈夫だよね』と確認をしています。合意の上の性交だったことについては、間違いありませんね?」
「僕たちは、ちゃんと愛し合っていました。僕のプレイにも、Aさんは喜んでくれていました」
 それは嘘だ。神崎明人は下手だった。
「そのあと、ふたりともウイルスに感染して自宅療養生活を送るという困難に遭いましたね。自宅での生活を終えたあと、八月末に、市内のカフェで被告人はAさんと会いました。そのときに喧嘩になり、Aさんとは別れることになりました。それ以後、毎日のようにAさんに電話を入れるようになり、美術館にも三百回に渡って電話を入れるようになりました。これはストーカー行為だと思っていましたか?」
「いいえ」
 神崎明人は、そこだけ、強い口調で言った。
「僕は、Aさんのストーカーになったことはありません。Aさんを助けようとしていただけです。僕の神様に不幸せにはなってほしくないから」
「といいますと、そのように何度も電話を入れたことには、十分な理由があったということですか」
「呪いです」
 神崎明人は、はっきりと答えた。
「僕の呪いがAさんを殺してしまうんじゃないかと思って、すごく心配だったんです。だから、何度も電話を入れました。出てくれないので余計に心配になって、数えきれないくらいに電話しました」
「九月の中旬には警察から注意を受けましたが、それでも、電話を続けたのはなぜですか?」
「Aさんのことが心配だったからです」
「心配だったのは、呪いがかけられたんじゃないかと思ったからですよね。現在においては、呪いの実在は科学的に否定されていますが、当時は、まだ呪いの研究が進んでいる途中だったので、いろいろな情報が錯綜している状況でした。そのような中で、呪いがあるんじゃないかと考えるのは、なにも、おかしなことではありません」
 弁護人は、裁判官のほうを向いて、力説した。
「以上のように振りかえりますと、被告人の行動や思考は、幼少期からきわめて一般的で妥当なものであると言えます。今回の無数にわたる電話やメールについても、被告人の中では十分に合理的な理由が存在しておりましたから、一概に、ストーカーだと判断するのは法律の濫用だと言わねばなりません。そこを十分に検討したうえで議論を進めるべきではないかというのは、もはや、私たちの共通認識のはずです」
 それで弁護人側の被告人質問が終わった。茜の心の中では、いまにも噴き出しそうな怒りがあった。茜がどれだけ怖い思いをしたのか、神崎明人はわかっていない。よくものうのうと心配していたなどという嘘を吐けるものだ。
 交代して、今度は検察側の被告人質問が始まった。茜は、俄然、浅川検事を応援したい気持ちになっていた。
「ええ、それでは始めさせていただきます。まず、いまのお話を伺っておりますと、まるで被告人がずっとAさんの思いを受け取っており、被告人もAさんに思いを寄せていたかのような言い方でしたが、小学三年生のときに出会って以来、被告人は、ずっとAさんに好意を持っていたのでしょうか?」
「ずっと好きでした。僕は、Aさんのことだけ考えて生きてきたんです」
 神崎明人の声は、真っすぐだった。浅川検事はこくりとうなずいた。
「わかりました。しかし、そうしますと、ちょっと不自然なことがあるのですが、お尋ねしてもよろしいでしょうか。被告人は、大学生のころ、いくつかの出会い系アプリに登録されていますよね。それはどのような目的のためでしたか?」
「それは……」
 神崎明人が明らかに動揺する。ざまあみろ、と茜は思った。
「むらむらしただけです。性欲と愛情は別物です」
「わかりました。出会い系アプリは性欲を吐き出すために利用されたということでよろしいですね。実際に、誰かと会ったようなことはありましたか?」
「ふたり、だけです。でも、最後まで行きませんでした」
 声が小さくなっていく。反対に、浅川検事は勢いに乗っていく。
「それはおかしいですね。性欲のために出会い系アプリを利用しはじめたにもかかわらず、セックスなしで付き合っていたわけですか。セックスパートナーが欲しかったのであれば、はじめからそういう関係で始めそうなものですが」
「それは、僕が、あまり積極的じゃないから……」
「当時、被告人が使っていた出会い系アプリに登録されていたプロフィール欄には、次のようなメッセージがありました。読み上げるので、聞いていてください。『ふたりで楽しい時間を過ごしたいです。いままで、出会いがなくて……。趣味とか考え方とかが合うような方を探しています!』ということでしたが、これはセックスパートナーを探すための文面には見えないのですが。まるで、ふつうに、恋人を探しているように見受けられます。被告人は、Aさんがずっと好きだったわけではないのではないですか?」
 浅川検事は、語気を強めていく。
「たまたまAさんと付き合える機会があり、一時的には肉体関係まで結びましたが、Aさんと別れたあとにもAさんを忘れられず、いつまでも粘着していただけではないでしょうか」
「違います」
 神崎明人は、なんとか弁解する。
「ずっと好きだったけれど、まさか自分が付き合えるとは思っていなかったから、寄り道しちゃっただけです」
「寄り道とはなんですか? 『Aさんから好意を寄せられていることについて確信していた』とさきほど、おっしゃっていたと思いますが。確信していたにもかかわらず、付き合えるとは思っていなかったというのは矛盾のように感じられますが?」
 神崎明人は、なにも言わなくなった。
「続いての質問ですが、中学生のころ、被告人は学校でいじめに遭いましたね。その原因は把握されていますか?」
「僕が、静かな性格だったせいです」
「実は、いま、ここに被告人の同級生たちに取材したものがあります」
 浅川検事は、ひとつの資料を掲げた。
「同級生たちによると、次のように説明されています。『あの子は、自分からなにもしないから、周りをイラつかせていました。いじめられるのは当然だと思います。自分からなにもしないくせに、思い込みだけ激しいんで、自分はちゃんとしていると考えているタイプです』。これと同じような証言がいくつも出てきているのですが、なにもしないくせにちゃんとしていると思い込んでいるタイプという周りからの評価を、ちゃんと把握されていましたか?」
「いま、はじめて、聞きました」
 神崎明人の声が萎んでいく。
「まさに思い込みが激しいと言わなければなりません。静かな性格だというのが原因になっていじめが発生するなら、そこら中にいじめられている子がたくさんいるはずですが、被告人ほどひどい扱いを受けている人は、そんなにいません。被告人には、自分を把握できていないところがあると言わざるを得ません。当然のように、被告人の思い込みの激しさが一因となって、今回のストーカー事件が発生したと言えるでしょう」
 浅川検事は、次の話題に移った。
「被告人は、Aさんに対して、『会えなかったら死ぬ』、『死にたいです』、『僕を殺さないで』などというメッセージをメールで二百回以上に渡って送信していますが、これはAさんの気を引くための方便ですか?」
「本心です」
「では、ひとまず、本心だということにして、そのようなメッセージを送信することがAさんにとっての心理的な負担になることには気づいていましたか?」
「気づいていました。わかっていたうえで、送っていました。本当に死にそうでした。心配で心配で」
「ですが、被告人のスマホのインターネット検索履歴によりますと、『振り向かせるためには』とか、『好きな人の気を引くために』などと検索していますよね。ユーチューブの閲覧履歴によれば、『簡単に意中の相手を射止めるには』という動画も視聴されているようですが。さきほどのメッセージは、Aさんの気を引くことだけが目的だったのではないですか?」
 神崎明人は、微かに首を振った。
「違います。本当に死にたかったんです」
「このように嘘を吐いて、すでに別れている相手にいつまでも執着していたのは、異常だとしか言えません」
 浅川検事は、口をぎゅっと引き結んだ。茜は、清々しい気持ちになっていった。
「被告人のインターネット検索履歴によれば、女性が縛り付けられ、恐怖している様子を映したポルノビデオを二、三日に一度のペースで視聴されていますが、ご自分の特異な性癖については把握されていますか?」
「それは……ただの好みです」
 神崎明人は、ぎゅっと拳を握っていた。屈辱に耐えているらしい。当然のように、浅川検事は攻めの姿勢を崩さない。
「把握されているかどうかを聞いているのですが?」
「把握しています」
「そのような性癖から考えるに、Aさんを恐怖させることで性的に興奮していたということも容易に想像できるのですが、違いますか?」
「呪いの心配をしていただけです」
「その、呪いの件ですけれども、呪いがかかっているのではないかと心配している相手に対して、『死にたいです』なんていうメッセージを送るでしょうか。支離滅裂です」
「僕は、ずっと山崎さんが好き!」
 急に、神崎明人が叫んだ。すかさず「実名は控えてください」と裁判長から注意が入るが、神崎明人は検事のほうを向いたままだ。
「やっと一緒になれたのに。一緒になれないなら、死んだほうがマシだって。あなたみたいな人にわかるわけがない」
 浅川検事はクールだ。
「ぜんぜん、わかりません。インターネットの検索履歴には、『ストーカー 法律』というのもありましたが、ご自分がストーカーだという自覚はあったのでしょう? 自覚がありながら、それでも続けて、ひとりの女性を苦しめつづけたことをちゃんと理解できていますか?」
「あなたにはわからない!」
 神崎明人が叫ぶので、「静かにしなさい」と裁判長が注意した。それでも、神崎明人は浅川検事の胸のあたりを睨んだままだ。
「すごく好き! 頭から離れない! キスしたい! エッチしたい! できなかったら死んだほうがマシ!」
 茜は、背筋がぞっとした。もはや、狂っている。「静かにしなさい!」という裁判長の注意にも聞く耳を持たないので、ついに退廷が命じられた。刑務官に連れられていくとき、神崎明人は引きつづき叫んでいた。
「ねえ、山崎さん。気持ちよかったよね。また一緒にやろうよ。山崎さんじゃないとダメ。ねえ、お願い。ほかの人とは違うよね。信じてるから、僕」
 そのまま法廷の外へ出て行ってからも、神崎明人が叫ぶ声が遠くに聞こえていた。佐々木ミツルがそっと肩を抱いてくれた。茜は、恐怖と羞恥心で全身が冷たくなっていた。なんでこんな人のことを一度でも好きになったのだろう。自分の見る目のなさに絶望するような気分だった。

 神崎明人が自殺したのを知ったのは、『元金石新聞ストーカー記者、自殺』というネット記事を読んだときだった。正直なところ、最初に、茜は、ほっとした。神崎明人と別れてからの電話が鳴りやまない日々は地獄のようだった。あの元凶が消えたのは、茜にとっては喜ばしいことだった。
 それなのに、すぐのうちに、茜の心は重くなった。神崎明人が狂ったのは、もしかしたら、自分のせいなのではないか。そんな考えが頭に浮かんできて、居座りつづける。
 そんな茜を見かねた佐々木ミツルが、近所の公園まで、連れ出してくれた。夏の日差しの降り注ぐその公園には、神崎明人とも訪れたことがある。
「茜ちゃんの他人思いな素敵なところを、くだらない人間に向けるのは時間がもったいないよ。あの人、どうせ、自分のことばかり話してたでしょ?」
「そうかもしれない」
 思いかえしてみると、神崎明人は、自分の過去や興味関心のある話題をひたすらに話す癖があった。
「ぱっと見でわかるよ。あの人は、自分のことだけで一杯いっぱいになっちゃう人だから、茜ちゃんの話に耳を傾ける余裕がなかった。そんなの、恋愛じゃないよ。ただの、狂気的なひとり芝居」
 神崎明人はずっとひとり芝居をしていたのだろうか。茜には、一概にそうだとは思えないのだった。
 交際関係にあるころ、神崎明人はたしかに正常だった。自分の話をしたがるところはあったが、茜にもちゃんと気を使ってくれていたような気がする。それまでの神崎明人と、ストーカーになった神崎明人は、本当は別人なんじゃないか、という妄想が拡がるくらいに変貌していた。
 茜は、以前の神崎明人なら、それほど責められるべき人物ではないというように考えていた。神崎明人が変貌したのは、あのカフェで喧嘩して別れたあとだ。別れていなかったら、もっとひどい目に遭っていたと考えることもできるが、別れてさえいなければ、神崎明人は変貌しなかったとも考えられる。
 茜は、神崎明人が自殺したあとになって、いまさら神崎明人への不憫な気持ちが復活してきていた。
「どうしても気になる。私はなにかを間違えたんじゃないかって」
「そんなこと考えるのは、よくないよ」
 佐々木ミツルは、ぐっと顔を近づけてきた。
「いいかい? 眼球なんてね、点滅しているくらいがちょうどいいんだよ。眼球が点灯しつづけるのも、消灯しつづけるのも、どちらも極端。ぴかぴかと点滅しているくらいがいちばん生きやすいし、たぶん、それがいちばん真っ当なんだ」
 佐々木ミツルのサングラスが、日光を反射していた。
「茜ちゃんは、見すぎ。あれもこれも、なんでもかんでも、見すぎ。ドライアイになって涙が流れなくなっちゃう前に、瞬きをしていいんだよ。もっと他人をどうでもよく扱っていいんだよ。まして、ストーカーなんてさ」
 そんな佐々木ミツルのアドバイスは、胸の中に溶けていって、少しずつ心が軽くなった。世界的な芸術家の彼氏に慰めてもらえるなんて、とんだ贅沢なのかもしれない。
 セックスするときにしかサングラスを外さない佐々木ミツルとともに、公園をぐるぐる回っているうちに、茜の心は快方へ向かっていった。
 それでも、完全に治癒するわけではなかった。傷ついた茜の心は、ひとつの解決策を提示してくるのだった。
「私、神崎明人について調べたい。なんで、神崎明人に惹かれていたのか、知りたい」
 佐々木ミツルはすぐには賛同しなかった。それでも、茜の気持ちが十分に強いのを確認すると、佐々木ミツルは、「わかった」と手を叩いた。
「その代わり、同情なんかしちゃダメだよ。ただの犯罪者なんだから」
 茜は、身の潔白を証明するかのように、素早くうなずいた。

 神崎明人と交際関係に発展したとき――昨年の八月――には、そういえば、連続眼球くりぬき殺人事件が発生していた。八月のうちに四人の男女が殺害されたまま、犯人は特定されず、すでに迷宮入りの様相を呈してきている。あの事件の犯人は、いまどこでなにをしているのだろうか。あれ以来、事件を起こしていないようだが、一時の気の迷いで殺人に手を染めたあとに反省したのだろうか。
 ひょっとすると、神崎明人が、あの事件の犯人だったのではないか。そんな考えも、頭の中をふらふらしている。
 あの時期のことを思い出すと、茜は、どこか夢を見ているような気分になる。いまとなっては憎いはずのは神崎明人が、あのときは、素敵な彼氏として家族の一員のような温かさを持っていたような気がする。
 茜は、その日のうちに、佐々木ミツルとともに神崎明人の実家に向かった。日差しの強い日だった。金石市内の国道沿いにある二階建ての一軒家だ。小さいころに何度か訪れたことがあった。
 茜は、摺りガラスのはめられたスライド式の玄関ドアの前に立つと、少しだけ怖気づくような気持ちになった。神崎明人は母子家庭だったが、その母親から神崎明人は虐待を受けていたらしい。小さいころに会ったときは、表向き、優しそうなほっそりとした女性だった。裁判所では、いっさい、その姿を見かけなかった。その母親とこれから対面することになる。
 佐々木ミツルのほうに振りかえると、心強く、うなずきを返してくれた。佐々木ミツルの頬を、一粒の汗が流れていく。
 茜は、「じゃあ、いくよ」とつぶやいて、インターホンのボタンを押し込んだ。一軒家の中に、甲高い音が響くのが聞こえる。
 すると、がたがたと物音が始まり、ついに摺りガラスのむこうに誰かが現れた。背が高い。その人は、すぐに玄関ドアをスライドさせて、顔を出した。化粧をしていない、やつれた顔の女性だった。すぐに過去の記憶と一致した。いまは五十代ほどだろうか。小さいころに会ったときよりも生命力が感じられない。
 茜は、まじまじと神崎明人の母親の顔を見つめている中、なかなか、声が出てこなかった。そのうちに、母親のほうもぐっと顔を近づけてきて、茜の顔を観察した。
「あの子の、同級生?」
 見た目と同じように、生命力の尽き果てたような枯れた声だった。茜は、あらためて背筋を正して、自己紹介をした。
「同級生の、山崎茜と申します。ストーカー事件の被害者です」
「ああ、被害者の子」
 枯れて落ちた枝のようなその女性は、とくに動揺することもなく、特段の反応を示さなかった。非常識だと茜は思ったが、その気持ちは飲み込んだ。
「失礼ですが、お母さんで間違いないでしょうか?」
「ええ」
 母親は、すっと目を逸らし、面倒くさがるような仕草をした。茜は自然に口調が強くなっていく。
「小さいころ彼が使っていた自室はいまも、そのままなんですか」
「そりゃ、片付けるのも、面倒くさいですしねぇ」
「少しだけ、上がらせてもらませんか」
 有無を言わさないような言い方になった。母親も、とくに困ることはないらしく、「どうぞ。いいですよ」とすぐに快諾してくれた。この人が、神崎明人を虐待していたのだろうか。他人事のような態度をとる目の前の女性に義憤と生理的な嫌悪感がこみ上げてくるが、口には出さないように気を付けた。
 佐々木ミツルとともに、二階へと上がり、神崎明人が子供のころに使っていた部屋に上がることに成功した。
 手入れされていないのか、黴臭いうえに埃臭かった。燃えるような熱気のこもっているそこは、ベッドをふたつ並べられるくらいの広さだった。佐々木ミツルが、ただちにリモコンを発見し、冷房を入れた。少しずつ、涼しくなっていく。勉強机の棚にはいくつかのノートがあり、茜は、真っ先に、そのうちのひとつを手に取った。思った通り、それは神崎明人の日記だった。高校生のときのものらしい。
 べつのノートも確認していくと、中学生時代の日記らしきものを発見した。それを拾い読みしていると、それは日記ではなく、一種の小説であることに気が付いた。そこには茜が登場している。茜は、それに目を通していった。

   *

 僕はずっと泣いていた。すごく悲しくて。苦しくて。膝を抱えながら木立の下に座っていると、突然、茜ちゃんが現れた。「どうして、泣いているの?」と訊いてくる。僕は胸の中に溜まっていたものを吐き出すように言葉を紡いだ。
「母さんが、嫌なことをしてくるの」
「なにをされたの?」
 茜ちゃんは、さっそく、僕のために怒りはじめていた。
「あそこを触ってくるの。気持ち悪くなるのに、僕はなんだか気持ちよくもなってくるんだけど、そんな自分がいちばん気持ち悪いの」
「許せない!」 
 茜ちゃんは、僕の前で険しい顔をつくった。
「何回くらい、そういうことがあったの?」
「数えきれないくらい。僕は、自分のことが好きになれない。すごく気持ち悪い。生まれてきたことが悪いみたいになってきた」
「大丈夫だよ。神崎くんは気持ち悪くない」
 茜ちゃんが、ぽんぽんと肩を叩いてくれた。僕は嬉しくなって、さらに涙が零れた。
「悪いのは神崎くんじゃないよ。なにも悪いことしていないんだから。私が約束する。なにひとつとして悪くない」
 茜ちゃんは、僕の傍でずっと一緒にいた。僕は、茜ちゃんの隣で、思う存分、泣いていた。
「僕は気持ち悪いから、誰ともセックスできないって、母さんが言う。それがすごく怖くて、眠れなくなる」
「そんなの、嘘だよ。だって、私、神崎くんのこと、好きだもん」
 僕は、その言葉を欲しがっていたのに、いざ、もらえてしまうと、だんだん不安になってくる。本当に好きなのだろうか。同情して、言葉を選んでいるだけなのだろうか。僕の不安を読み取ったみたいに、茜ちゃんが「いま、キスしてもいいよ」と言う。僕は、そんな資格はないから、「ダメだよ」とちゃんと断ることができた。
 僕は、茜ちゃんが思っているみたいに純粋な人じゃないし、もう、心の奥のほうまで真っ黒に染まっていた。僕は急に、涙を流している自分のことが気持ち悪くなってきて、涙を流すのをやめた。なにか、怖い言葉を言ってやろう、という気持ちが膨らんでいく。茜ちゃんをびっくりさせてみたかった。
「僕は、誰かを殺してみたい。ぐちゃぐちゃにしたい。原形がわからなくなるくらいに。そして全部まとめて炒め物にして、おいしく食べるんだ」
 茜ちゃんは、少しだけ怖がったけれど、ちゃんと言葉を返してくれた。
「そんなの、嘘だよ。神崎くん、嘘が下手だね」
 僕は、慌てて、首を振った。
「嘘じゃないよ。本当に本当に、誰かを殺してみたい。僕は、そういう人の一員なんだから、茜ちゃんにはわからない」
「またまた~。私を怖がらせたいだけでしょ?」
 茜ちゃんは、とびきりの笑顔だった。僕は、そっちこそ嘘だろうという気持ちになってしまった。これだけ怖いことを言っているのに、なんで、僕を光の中に留めようとするのだろう。僕はすでに闇の中に沈んでいるのに。
 そうか、と思う。僕はついに気が付いた。
「ありがとう、ありがとう」
 僕は、茜ちゃんに何度も感謝を伝えた。この人は僕の神様なのだ。それがわかっただけで、僕はもう十分だった。

   *

 その短い小説のタイトルは、『神様』だった。茜は、その『神様』の余韻の中で、ふと気が付いた。
 もしかしたら、自分は、神崎明人の神様になりたかったのかもしれない。それは童心にもほどがあるが、純粋な気持ちだったのではないか。
 好きなだけ神様を演じることができたら、どれだけ、幸せだったのだろうか。現実には、いろいろな世知辛い価値観の中で、神様を演じつづけるのは容易なことではない。
「ほら、自分の世界に沈み込んでるでしょう?」
 佐々木ミツルが、背後から声を飛ばしてくる。振りかえると、そのサングラスが、『神様』という小説の繊細な文字に注がれていた。
「自分の中でしか生きていないから、周りとつながることがほとんど困難になってしまったんだ。そもそも、世の中は自分の思い通りにはいかないものだよ、っていう当たり前のことを理解してないとね」
 佐々木ミツルの達観したような言い方が、癪に障った。茜は、はじめて佐々木ミツルは無理解だと感じた。そんな簡単に片づけられるものではない。茜は、抑えつつも、反論した。
「なにかにすがりついていないと生きていけないくらい、苦しかったんだよ」
「茜ちゃん。同情は禁止って言ったでしょ?」
 佐々木ミツルは、諭すように低い声を出した。
「この人にどれだけ苦しまされたのか、ちゃんと忘れないでおかないと」
 それはたしかに正論だった。茜は、何度か、深呼吸をして、そのノートを閉じた。
 それでも、そう簡単には、切り替えられなかった。その小説を書いているとき、神崎明人はどんな気持ちだったのだろう、という想像が香り、茜の心に慈愛があふれた。それをちょっとずつ心の外へ押し出して、佐々木ミツルのいうとおりに深く考えないように気を付けた。
 神崎明人はもういない。死んだ。もう、誰にも迷惑をかけないし、もう、少しも傷つかない。なにかが、一時的に、心の中で片付いた気がした。
 茜は、そのノートを持ち帰り、ひとりきりの自宅で読んでいった。『学校』というタイトルの短編小説があった。

   *

 学校に悪魔が紛れ込んでいる。その噂はすぐのうちに保護者たちの間で蔓延し、大きな騒ぎとなった。そんな危険な場所には行かせられない。そういうわけで子供を学校に行かせないという方針を取る保護者まで出てくる事態に発展したので、学校としても、なんらかの対策を取らざるを得なくなった。
 悪魔は全員オスであることがわかっていた。さらに重要なのは、悪魔の精液は黒いということだった。学校としては、校内に紛れ込んだ悪魔を炙りだすために、全校の男子生徒の精液の色を調査しなければいけなくなった。
 個別に精液を採取するだけでは、精液のすり替えという小賢しい方法で調査を逃れるかもしれない。そこで、男子生徒たち全員について、全校生徒が監視している中で射精し、それが白いことを証明しなければいけなくなった。
 教師は言う。
「この調査に参加しなければ、自分は悪魔ではない、ということを証明することができない。任意ではない。男子生徒、全員にやってもらう」
 ついにその日を迎えた。体育館に全校生徒を集めたうえで、ひとり、ひとり、男子生徒がステージ上で射精を始めた。その様子はカメラで撮影され、ステージ上の大画面で表示されていた。プライドの高そうな優等生も、下ネタが大好きそうな劣等生も、みんな、ステージ上で自慰に及び、衆人環視の中で射精した。それが白いことを確認されるたびに、体育館中に拍手が響いた。
 教師は言う。
「どう見られるかを気にするんじゃない。勇気を振り絞って、殻を破るんだ。みんな、やってることだ。ここで逃げるのは、愚か者だ」
 男子生徒たちは、お互いを慰めあい、「みんな、同じだから」と屈辱に堪えながらステージに上がる。みんなの精液は白かった。どんどん調査が進んでいって、ついに僕の番がやってきた。
 僕は「嫌だ」と言った。
「やりたくないです。こんなこと、間違ってる」
 冷たい視線が注がれる中、茜ちゃんが僕の味方をした。
「神崎くんは悪魔じゃない、ってわかります」
「でも、精液が黒いかどうかをたしかめないとわからないだろ? この調査をしないと言うのなら、いかにも、神崎くんは怪しくなってしまう」
 教師が高圧的に近づいてくるのにも、茜ちゃんは、怯まなかった。
「みんなの前であんなことをするなんて、嫌に決まっています。神崎くんは悪魔だからやりたくないんじゃなくて、みんなの前でやるのが嫌だから、やりたくないだけです」
 そうやって茜ちゃんが声を上げたおかげで、優しい女子たちと、みんなの前でやりたくない男子たちが、抗議の声を上げはじめた。そうなると、学校側としても対応を余儀なくされて、いったん、そこで精液チェックは中断することになった。
 精液チェックが中断されると、すでにやってしまった人たちとしては面白くない。神聖にして不可侵な自分を破壊され、好きな人が見ている前で屈辱を味わった男子たちはみんな、その日から、僕に目をつけるようになった。
 同じことをやらない限り、許さない。そんな憎しみに燃えた視線が僕に注がれるようになった。僕は、その空気が息苦しくて、いっそのこと、やったほうがよかったのではないか、とも思うようになったが、絶対にやりたくなかった。
 やりたくないのはみんな同じだ、と言われると、僕は苦しくなる。実際、ほとんどの男子生徒は嫌々ながらもやってみせていた。あれをやらなければ自分は悪魔ではないという証明はできないし、ほかの男子からも仲間として認められない。いつまでも、ひとりぼっちのままで過ごさなければいけない。それでも、やりたくないという自分の気持ちを尊重したかった。
 そのうち、学校の朝会のときに、自己申告制で全校生徒を前にして射精ができるようになった。あらかじめ申請すれば、みんなの前で射精する機会が与えられるというわけである。そのころには、みんなの前で射精できない人たちはチキンだと見下されるようになっていたので、みずから進んで射精する人たちが増えていった。僕だけ、取り残されていった。
 僕が少し教室の中で浮いているのに気付いた教師は、僕のために、放課後の時間を利用してくれた。狭い相談室の中で、対面した。
「なあ、神崎くん。あれは、みんな、やったことなんだ。苦しんでいるのは、きみだけじゃない。誰だって、あんなことはやりたくないんだ。それでも、やらなければいけないんだよ。もう、逃げるんじゃない」
 その言葉は、僕の心を崩壊寸前まで追い詰めた。みんなやっていることを、僕だけ、できないままでいる。この困難を乗り越えた先にしか、幸せなことは待っていないのではないか。そんな疑いが生じてくると、一秒でも早く過去をやり直したくなった。かといって、みんなの前で醜態を晒すなんてことはしたくない。僕は、僅かばかりの願いを込めて訊いた。
「そのほかに、僕が悪魔じゃないって証明する方法はないんですか?」
「あるには、ある」
 教師は、意外なことを言った。
「悪魔っていうのはね、お尻の穴がふたつあるんだよ。もしも神崎くんのお尻の穴がひとつしかなかったとしたら、神崎くんは悪魔ではないということを証明できる」
 だとしたら、みんなが見ている前でお尻の穴を見せなければいけないのだろうか。「さあ、どうする? みんなの信頼を取り戻すには、やるしかないんだよ」と迫ってくる教師の前で、僕は泣いてしまった。人生とは、どうして、こんなに苦しいものなのだろう。僕は、涙が止まらなくなった。
 教師は、そんな僕にむかって、熱く言葉を投げてくる。
「ここで逃げたら、一生、逃げ続けることになるぞ。そんなので、いいのか? このまま分厚く殻に閉じこもったままでいいのか?」
 ぐさぐさと刺さってくる言葉を前にして、僕は、なにも言葉を返せなかった。
 その日にもらった熱い言葉たちは、結局のところ、僕を責め苛むだけの役割しか果たさなくなった。僕の中には、いつまでたっても、勇気が湧いてこなかった。
 悪魔は、学校だけでなく、全国に実在していた。この世界には、多くの悪魔が紛れ込んでいる。悪魔じゃないということを証明するためには、みんなの前で射精するか、みんなの前でお尻の穴を見せるか、しなければいけない。そうしない限り、ずっと、この世界の人たちの信用を得ることはできない。きっと、友達もできない。彼女もできない。家族だって、つくれない。みんなの前で果てしない屈辱を味わわなければ、僕の人生はゴミみたいになる。
 苦しみに押しつぶされて眠れない夜に、僕は、何度も、覚悟を決めた。明日こそ、みんなの前で射精しよう、と。僕の精液はちゃんと白いのだということを、みんなの前で示さなければいけない。しかし、そんな気持ちは、朝になったときには、跡形もなく消え去っているのが日常だった。
 僕は、街を歩くたびに、数えきれないくらいの恥をばらまいているような不安に襲われるようになった。たぶん、みんなは気づいている。僕がみんなの前で射精する勇気を持っていないことに。ぱっと見でわかるに違いない。そう思うと、外を出歩くのさえ、恐ろしくなってきた。
 部屋に閉じこもってテレビをつけると、『悪魔ではないでSHOW』というライブ中継の番組が放送されていた。その番組には、いろいろな男性タレントが登場して、誰もが、軽く自己紹介をしたあとに堂々と射精をしていた。それまではずっと張りつめていた空気が、精液が白いことがわかった途端に、バラエティーらしく明るくなる。チャンネルをかえると、ひとつ、ドキュメンタリー番組もやっていた。かつては周りから悪魔だと思われていた少年が、勇気を振り絞って悪魔ではないことを証明するまでの物語だった。左上のテロップには『涙腺崩壊の実話』とあった。
 学校にいるときは、常に、周りから笑われるようになった。あの子、みんなの前で射精できないんだって。え、なにそれ、キモー。子供じゃないんだから。一部の同級生たちからは、恐怖されることもあった。あの子って、悪魔らしいよ。近づかないほうがいい。なにされるか、わかんないよ。
 そんな僕に手を差し伸べようとしたのは、茜ちゃんだけだった。「嫌なことはしなくていいんだよ」と優しい言葉で包み込んでくれる茜ちゃんに、僕は、好きなだけ怒りをぶつけることができた。
「できないと、みんなの笑いものにされたままだよ。それなのに、やらなくていいって言うの? 僕はずっと戦ってる。早くやりたいのに、やりたくない気持ちがいつも勝っちゃうんだ」
 茜ちゃんは、答えた。
「私は絶対に笑いものにしないし、ちゃんと神崎くんのこと信じてる。精液の色なんか見なくても、神崎くんが悪魔じゃないことくらいはわかるよ」
 簡単に学校の色に染まっていく僕とは対照的に、すごく大切なものをなくさないでいられる茜ちゃんの強さが眩しかった。僕はそのとき、その放課後の公園のベンチに座っているときに、茜ちゃんの前でなら、射精をしたり、お尻の穴を見せたりしても苦しまずに済むかもしれないという気がした。
 僕の絶対に隠しておきたいものを、みんなに見せてまで、みんなの信頼を得る必要はないのだと僕は気が付いた。自分が本当に大切な人とか、自分のことを本当に大切にしてくれる人にだけ、ちゃんと見せて、その人だけから信頼を得られればそれでいい。それ以上に愛される必要はなかった。
 だから、僕は、茜ちゃんにだけ、見せたい。僕は本当に茜ちゃんが好きなんだ。この気持ちが恥ずかしい。そんなの夢物語だって、どこかでわかっているのに、僕は茜ちゃんにだけ全部、見せたい。
 学校は僕をぼろぼろにしたけれど、学校という場があったからこそ、僕は茜ちゃんと出会うことができた。
 そう思えるようになってから、僕は、茜ちゃんだけのものだった。僕を乱用してはいけない。学校がどんなに要求しようとも、同級生がどんなに強い睨みを送ってきたとしても、僕は絶対に僕を穢さない。
 そんな中、僕はついに同級生に絡まれた。誰もいない公園で、僕は六人の男子に囲まれていた。六人とも、みんなの前で射精してきた人たちだった。本気で怒っているのが伝わってきた。僕は、ズボンをぎゅっとつかんで抵抗したけれど、六人を相手にして敵うわけがなかった。
 僕は強要された。このままだと僕が壊れてしまうと思った。それなのに、僕は逆らえなくなった。
 これが生きていくということか。その公園は、うんざりするくらい人生の厳しさを教えてくれた。嫌なことも、ちゃんとやり遂げないと、誰にも褒められない。茜ちゃんのことが急に憎々しく思えてきた。僕を甘やかさないで。僕を子供扱いしないで。あの人は、僕がやらなければいけないことをやらなくてもいいと言い、甘い言葉で誘惑してくる。まるで神様のような表情をして。
 僕は、茜ちゃんという敵を倒さなければいけない。すぐに飛び出した白い液体。悪魔ではないということを示す証拠。六人の男子は、それを確認すると、僕のほうに手を差し伸べてくれた。
「これからは、友達になろう」
 僕は、その手を強く握り返していった。これが友達をつくるということか。こんなにも苦しんだ末にしか、友達を手に入れることはできない。僕は、急に人生を悟ったような心地になった。
 その翌日に、茜ちゃんに会った。僕は正々堂々と告げた。
「僕は、強くなった。僕を弱いもの扱いしないで」
 茜ちゃんが泣き出すので、僕は、ほれみろという気持ちになった。茜ちゃんの思い通りになるわけにはいかない。僕はついに学校の要求に応えることができたのだ。僕の心は大きく膨れ上がっていった。
 それなのに、どうしてだろう。なにか、失ったような感覚が胸の底にあった。僕の心は、それ以来、茜ちゃんを求めたり、貶したりした。どっちなのか、わからない。とんでもないことを犯したのじゃないかという気がして、自分の行動をひとつひとつチェックするのだけど、どこに問題があるのか、発見できない。
 茜ちゃんが声をかけてくれなくなった。それが寂しい。
 すごく寂しい。死にたいくらい寂しい。そのうち、僕は、ついに自分が開き直っていたことに気が付いて、慄然とした。茜ちゃんにしか見せないと決めたはずだったのに、僕は僕を大切にできなかった。くだらない友達なんかがたくさんいても、ぜんぜん、嬉しくなかった。茜ちゃんと一緒じゃないと僕は苦しくなる。
 どうすれば、茜ちゃんを取り返すことができるのか、僕は必死になって考えた。いくら考えてもなにも浮かんでこなかったから、できたばかりの友達に相談することにした。友達は、教えてくれた。
「女っていうのはね、引っ張ってくれるような男が好きなの。恥じらうようなのはダメだよ。だから、精液チェックなんかで、恥ずかしがってるようじゃダメ。とにかく筋トレをして、毎日、精液チェックを受けたら? あと、一人称は『俺』な?」
 そのアドバイスにしたがって、俺は筋トレをするようになった。毎日継続しているとみるみるうちに筋肉が膨れ上がっていって、俺はムキムキになった。それにくわえて、毎日、精液チェックの申請をして、朝会で全校生徒が見ている前で射精した。そのたびに、言い表しようのない優越感が得られた。
 これでうまくいくに違いない、と俺は思った。決行の日、俺は上半身裸になって、その筋肉を見せつけながら、茜ちゃんに告白をした。
「俺と付き合えよ」
 茜ちゃんは、首を振った。
「もう、神崎くんは死んじゃった」
 茜ちゃんはまた泣き出した。面倒くさいなとは思いつつも、俺は、むりやり茜ちゃんを抱きしめた。茜ちゃんは嫌がっていたけれど、そんなのは知ったことではない。茜ちゃんの感触が気持ちよくて、俺はずっと抱きしめていた。
 茜ちゃんとは、それ以来、会わなくなった。俺はかなりモテるようになったし、いろいろな女と遊びまわることができたのに、いつも、胸の真ん中に穴が開いているみたいに、虚しい気持ちに苦しむようになった。
 どんなにキレイな女とセックスしても、なにも満たされなくなった。俺はなにか間違えたような気がする。でも、世界に染まった俺が間違っているんだとしたら、世界そのものが間違っていたことを証明したってことになるよな?

   *

 その日は眠れなかった。神崎明人が死んだ。いまさらになって、その事実が衝撃を与えてくる。
 茜は、自宅を出て、目的もなく夜の街を歩きだした。頭に浮かんでくるのは、神崎明人の記憶だった。中学生のとき、一緒に孤立して、いじめられたこと。ちょうど一年前、交際関係に発展して、川沿いを歩いたり、水族館に出かけたりしたこと。喧嘩別れしたあと、ストーカーに変貌したこと。
 神崎明人は、『学校』という短編小説の中で、変わっていく自分に警告している。異常な人たちに囲まれた世界で、自分まで異常になっていくことを、神崎明人はきっと恐れていたのだろう。神崎明人の持っていた感覚はそれほど狂っていないということがよく伝わってきた。
 この人を、幸せに導くことができた人がいたとすれば、それは茜だけだったのかもしれない。茜は、その考えを手前味噌だとは思わなかった。神崎明人はそのままの自分で茜と仲良くなりたかったのだろうというのは、それらの小説を読めば明らかだった。
 茜は、夜の街を徘徊する中、神崎明人の記憶を追っていた。
 神崎明人の声を思い出していると、いつの間にか、かつて生きていた弟の顔が頭に浮かんできた。茜が小学二年生のときに事故で死んだ弟。いままで気づかなかったが、思いかえしてみると、神崎明人と弟は声が似ていた。
 それだけのことだろうか。茜が神崎明人を放っておけなかったのは、かつて生きていた弟と声が似ているせいだったのだろうか。
 呆気なく解明された真実に笑いたくなった。茜は、ひたすらに歩いた。なにかから逃げるかのように。
 だんだん歩くスピードを上げていく中、茜はふと思う。結局のところ、連続眼球くりぬき殺人事件の犯人は誰だったのだろうか。神崎明人は一切、あの事件には関与していないのだろうか。
 茜には、『神様』や『学校』などの小説を書くような繊細な人物が、殺人などという破滅的な行為をするとは思えなかった。
 ストーカー行為においても、電話やメールが鳴りやまなかったのは事実だが、茜の身体を直接的に傷つけようとする行為はひとつもなかった。その線を超えるかどうかは、想像以上に大きな隔たりであるように感じる。神崎明人は、まだ、その線を超えないでいたのではないだろうか。
 考えている途中で、スマホが震えた。金沢からだった。
『なあ、あんたの彼氏、ヤバいかもよ?』
 その短いメッセージに添えて、どこかへのURLが張られていた。なんだろうと疑問に思いつつ、そのURLをタッチすると、ひとつのニュース記事が開かれた。『佐々木ミツルへの疑惑』というタイトルだった。
『「これは私の孫です」女性は確信を込めて告げた。「間違いじゃないかと思って何度も美術館まで見に行ったんですが、間違いじゃありませんでした」。佐々木ミツルの傑作シリーズである悲しみの少女シリーズに登場する少女について、それは自分の孫だと主張する女性。女性の孫は二年前に失踪し、現在も行方がわかっていない。どうして佐々木ミツルの作品の中に自分の孫が出てくるのか、女性にはわからない。しかし、何度も繰りかえした。「これは私の孫です」と』
 茜は、ニュース記事を読んでいる途中に、気が付いた。連続眼球くりぬき殺人事件が途絶えたのは、ちょうど、茜が佐々木ミツルと交際するようになってからであることに。
 そんなバカなことを、と茜は笑ってみたが、うまく笑えなかった。

 ネットで調べてみると、佐々木ミツルへの疑惑はそれだけではないことが判明した。過去のいろいろな作品に登場するいろいろな人物について、モデルとなっているのは行方不明者ではないかという疑惑があった。
 行方不明者の写真を頼りにして作品に登場させたのだとしたら、それはそれで問題になりそうだが、顔写真が公開されていない行方不明者をモデルにしたと思われる作品も存在していた。
 この件について、佐々木ミツルは無言を貫いているらしい。
 ネット上にはいろいろな説がまことしやかに囁かれていたが、どれも都市伝説のように扱われていた。佐々木ミツルの作品に登場する人物と同じような顔をしている人は失踪する、というわけだ。
 中には、都市伝説としてではなく、本気で、この奇妙な一致について問題視している人もいるようだった。一度、佐々木ミツルについて調べたほうがいいのではないか。少ないながらも、そのような声も存在していた。
 茜は、だんだん佐々木ミツルを信じられなくなってきた。
 
 恋とか愛とかって、盲目の上にしか成り立たないのだろうか。大好きな人が、どんな過去を携えていたとしても、大好きなままでいられるのだろうか。佐々木ミツルを心の底から愛していると茜は思いたい。ちゃんと全部、知っているうえで、欠点まで含めて愛しているのだ、と。
 たとえば、もしも大好きな人が連続殺人鬼だったとして、それだけで嫌いになれるだろうか。
 茜は、美術館の地下にあるアトリエにいた。青い間接照明に照らされたコンクリートに囲まれた部屋。そこにひとつ置いてある柔らかいベッド。佐々木ミツルは、サングラスを外してからすぐに勃起していた。
 プレイを始める前に、茜は、問うた。
「ミツルってさ、隠してることあるでしょ?」
「あるよ」
 呆気なかった。佐々木ミツルは、とくに焦った様子を見せない。
「なにもないなんていうのは、かえって変でしょ。話したところで、プラスにならないことは話さないもんだよ」
 知らない領域を知らないままにしておけば、そこは把握していないからというだけの理由で、検討事項から除外できる。茜が知っている佐々木ミツルはすべての佐々木ミツルとイコールの関係にはならないから、部分的に好きであるだけ。
 茜は、神崎明人との日々を思い出していた。きっと、神崎明人なら、佐々木ミツルと反対のことを言っただろうと思う。露出狂のようにすべてを晒すことによって、全体への愛を求めていた。裸のまま愛してもらいたがっていた。
 どちらが正しいのだろう。すべてを晒すべきなのか、それとも、隠したいところを隠しておくべきなのか。
 もしも、佐々木ミツルが隠していることの中に、人間としてあるまじき一面があったとしても、それを知らないままでいれば、何事もないように愛し合うことができる。これが本当の恋愛なのだろうか。
 茜は、佐々木ミツルと結合した。下半身から波が押し寄せてくる。
 この素晴らしい快感は、どんな嘘の上に成り立っているのだろう。どんな犠牲が見過ごされたままになっているのだろう。
 声が零れた。どこかで悲鳴が聞こえているような気がする。頬を切る風のように鋭い悲鳴が。それを打ち消すように波が押し寄せてきて、砂浜に書かれていた汚い言葉もろともに流し去っていった。
「教えてほしい」
 喘ぎながら、言葉を零す。
「なにをしてきたのか、全部、教えてほしい」
 佐々木ミツルはなにも答えない。より深く入り込んでくる。
 どうして、この人を選んだのだろう。そこには合理的な意思決定が存在していたのだろうか。それとも、なんとなくの感覚で選んだだけなのだろうか。この人を選んだことで選べなかった人との可能性が、すべて消えた。大事なものが失われた。奪われた。それがすごく悲しい。
 下半身から入り込んできた龍が脳天を貫いていった。逃したくないものたちが遠くのほうへ、手の届かないところへ逃げていく。もう取り返しがつかない。それが嫌だ。失いたくないのに、どうして、こんなに失いつづけなければいけないのだろう。
 離さない、ずっと。茜は、快感の渦に紛れ込んできたなにかを、強くつかんだような気がした。このまま、いつまでも、離さない。ここに留めておきたい。その手応えが一瞬のうちになくなってしまう。
 当然の帰結のように、不可逆的な世界の残酷さを思い知る。部分的に愛しているだけの人が激しく動いて止まらない。
「教えて、ミツル」
 精いっぱいに声を出すと、佐々木ミツルは「なにを?」と言う。その間も腰を振りつづけている。
「なにをしてきたの、いままで」
「なにを聞いているのか、いまいち、つかめない」
「わかってるでしょ。隠していることを教えてよ」
 佐々木ミツルは、そこで、動きを止めた。青空のように静かな部屋にふたりの息遣いが残留した。それほど広くはない部屋なのに、ふたりの間には遠い距離が存在しているように感じられた。
 茜がベッドの上に起き上がると、裸の背中を向けている佐々木ミツルは、ベッドに深く腰かけていた。そのままで低い声を出す。
「ここだけの話にしてくれるなら、話してもいい」
 茜は、ほっとした。話してくれるなら、このまま、部分的な佐々木ミツルと付き合う羽目にならないで済む。それは喜ばしいことだ。
 そのような安心感と同時に、茜の心の中には恐怖もあった。聞いたあとになって、聞かなければよかったと思う羽目になるかもしれない。諸手を挙げて歓迎できるわけではなかった。茜は、緊張しながら、佐々木ミツルの隣に座った。
「ここだけの話にするから、教えて」
 すると、佐々木ミツルは、棚に置き去りにされていたサングラスをいまいちど装着してから語りはじめた。
「小さいころから、僕は、人間を殺してみたかった」
 衝撃的な発言なのに、茜は、驚くこともなかった。そういうような告白をするだろうと心のどこかで想像していたのかもしれない。
「茜ちゃんの想像どおり、僕は、何人も殺してきた。数えきれないくらい。いまも殺しつづけているよ。連続眼球くりぬき殺人事件の犯人も僕。あのときは、警察に騒がれて大変だったから、もう外では殺さないことにしたんだ」
 この人が、連続眼球くりぬき殺人事件の犯人。佐々木ミツルの細長い腕は、何人もの命を奪ってきたというわけか。それが佐々木ミツルという人間の本性。
「でも、茜ちゃんは、僕を見捨てたりはしないよ」
 佐々木ミツルは、自信たっぷりと続けた。
「殺人鬼だからどう、っていう話じゃないんだよ。茜ちゃんはもう僕のことが好きなんだから、たとえ殺人鬼だったとしても、僕を捨てられない。僕たちの絆は、それくらいに強固なものなんだ。どっかのストーカーみたいに、個人の中で完結している妄想ストーリーとは違ってね、僕たちはたしかに通じ合っている」
 どこからそのような自信がこみ上げてくるのか、茜にはわかりかねたが、たしかに、大方、佐々木ミツルの言うとおりだった。
 べつに怖くもないし、後悔もなかった。茜は、殺人鬼であることを理由にして、佐々木ミツルを捨てる気にはなれなかった。
 これはふたりだけの秘密にして、これからも佐々木ミツルを大切にしたい。それが本当の愛なのだ。たとえ、佐々木ミツル作品に登場する人たちが全員、無残に殺されていたのだとしても、そんなのは知ったことではない。
「もっと詳しく聞きたい?」
 佐々木ミツルが振り向きざまに訊くので、茜は、その唇にキスをした。
「聞きたくない」
 それが茜の答えだった。
「もう、なにも言わないで。私たちだけの秘密」
 きっと、愛なんていうのは、そういうものなのだ。あらゆるノイズを取り除いて洗浄したシーンだけが並んでいる映画みたいに、目にしたくないものにはちゃんと目を瞑り、ずっと知らないふりを続けて、阿呆のように演じつづける。だからこそ、目に入るものはすべてが美しくなる。
 神崎明人は、たしかに間違っていた。すべてを受け止めてもらおうとするなんて、ただのバカだ。それほど美しいものが体内に詰まっているわけでもないのに、なんでもかんでも内臓を披露していった先に、本当の愛なんてない。あらゆる自分をそのまま抱かれるなんて、経験が足りていないだけの勘違いだ。
 茜は、いま、はっきりと確信した。
 美しいものは、着飾っているからこそ、美しいのだということに。
 だから、茜は、佐々木ミツルに強く抱き着いた。
「私も、隠してたことがあるの」
 茜は、強烈に思い出していた。神崎明人と出会う前に、自分が犯したこと。いままで、ほとんど頭に浮かんでくることはなかったのに、ずっと頭の中心に居座っている。意識はしないのに、消えることもない。
「私、自分の弟を殺した。頭に来たから、二階から突き落とした。事故っていう扱いになった。それ以来、神崎明人と出会ってからはずっと、どうしても神崎明人の味方でいなければいけないって思うようになったんだけど、いま、気づいた。贖罪なんてしなくていいんだってことに。だって、誰も知らないんだから」
「僕たちだけの秘密にしよう」
 佐々木ミツルが、優しく声をかけてくれる。一度きりしかない人生を他人に呪縛されるなんて、間違っている。自分のせいで誰かが死んだのだとしても、その苦しみを胸に抱き続けたとして、なんの意味があるのか。
 眼球なんて、点滅しているくらいがちょうどいいんだよ。まさに、そのとおりだとしか言いようがないな、と茜は思った。