見出し画像

遺言の代わりに

9月3日。どうにかワクチン接種の予約が取れた。運がよかったとしか言いようがない。ほぼいつでもどんなWebサイトにも接続し放題の環境で仕事していなかったら、まだ取れていなかった気がする。

というわけで、わたしはまだワクチン接種を受けていない。今の状態でCOVID-19を理由に命を落としたら、好き勝手に人は言うだろう。「楽観的でワクチンを受けず破滅を招いた。自業自得」みたいに書かれるのも目に見えている。毎朝、暗闇から這うような日常を生き延びようとしていたことを知らずに。

実際のところ、感染してもしなくても毎日「死にそうだけど死んでいない」状態が続いている。このnoteでは、すでに起きている惨事について生前思っていたことを書き留めておこうと思う。遺言の代わりに。

遺書じゃないですよ。

アンフェアは偉そうな顔をしている

7月の中旬に、接種券はひとまず届いていた。しかし、肝心の予約ができない状況はいっこうに改善されず。わたしの住んでいる区では、大手企業が存在せず、職域接種が地域に開放されることもない。

高齢者の接種が進むにつれて会場が閉鎖されていった。その代わりに子どもへの個別接種が増えた。その結果、2回目まで接種を終えている人は、65歳〜に限れば85%以上に対して、10代〜30代は15%ほど。後者は、1回目の終了でも、20%少々だ。

わたしが毎日のように通うオフィスでは早々に「職域接種しません」という宣言をしていた。健康保険組合も同様だった。

しかし意外と接種済みの同年代の同僚がいる。その多くは家族(親やパートナー)の職域接種で済ませており、中には知人が院長をしているクリニックでやってもらったという人もいた。自治体の予約でも、昼間仕事をしていないパートナーに代理してもらったという。

そうなると、馬鹿げた考えを持つようになった。

「了解。特に強力なコネクションもない独り身は、生きている意味が薄いということだな」と。そんな自分よりも早く受けるべき人が接種する方が、世の中のためかもしれない。

ある意味で、この考えは正しい。わたしがいなくなっても社会に大差ない。長期プロジェクトは動いていないし、飼っているトリも同居する家族が見ている。恋人も子どももいない。家族だって、わたしが死ねば保険も入るし、生活保護を受ければどうにかなるだろう。ただし、友人や知人が悲しむかもしれない。心を痛めるのはそれぐらいだ。

もう何十年も生きてきたので、日本の社会制度の基準が「大手企業の正社員が生計を立てるファミリー」にデフォルト設定されているのはわかっている(一度も属したことがないから)。それにしても、今回は酷い。

それなのに、ワクチン未接種だと判ると「反ワクチンですか」と警戒されたり、「女性は心配しすぎなんですよ」などと意味不明なことを言われたりして、散々な目に遭う。自分が早々に接種したからと言って「ワクチン打たないなんて、人としてどうかしている」などと口にする人まで現れる始末だ(実在の人物です。毎日会っています)。そこまで偉いのか?

本当のところ、ものすごく健康ってわけでもない身体の様子を見ながら決めたかったところだが、あまりにも事態が混沌としていて、むしろ選択の余地など残されていない。

緊急事態宣言という謎のお触れを出して公の衛生をそんなに大事にするなら、一定のフェアネスは保たれて当然じゃないのかな。

こんなに長々と書き上げるほど、ワクチンの予約が取れない自治体なのに、区内で感染者が出た報告の但し書きとして、こんなことが書いてあって、もはや悪寒がする。

※自らに非がなく感染した感染者の人権尊重と個人情報の保護に、最大限のご理解とご配慮をいただくことをお願い申し上げます。

人権て、非があろうとなかろうと尊重されるものなんだけど、わたしの住んでいる区ではそうではないらしい。元警視庁の人が区長だと、ひと味違うのかもね。

保険診療にしたら色々解決したりして?

そう、命はたしかに大切だ。しかし……COVID-19だけが特別待遇を受けるのはおかしい。医療の現場では、とうの昔に「命の選別」は行われている。それなのに、なぜこの感染症の場合は、老いも若きも、貧富の差なくゴージャスな治療を受けられるのだろう?

もう1年半も経ち、この病気がどういうものかわかってきたのだから、すべてを無料にするのを、そろそろやめたらいいと思う。他の病気と同様に、保険適用する治療と適用外の治療の線引きをしたらいい。

貧しくない育ちの方々は知らないかもしれないが、健康保険適用外の治療を行わない選択は、珍しいことではない。歯科治療や美容手術だけではなく、すぐさま命にかかわる治療であっても、そこらじゅうで行われている選別だ。それなのに、何故コロナ陽性者だと、エクモや人工呼吸器、新薬などが問答無用で施されるのだろうか。

この「特別扱い」については、他の病気の手術が後回しにされる問題も取り上げられることが多い。しかし、この観点からの特別扱いに関して言及されることが少ないように思う。

しばらくのあいだ、新型コロナウィルスから逃れることができなさそうなので、ずっと無料にしていたら、予算も枯渇していくはずなのに。どうするつもりなんだろうか。

意外と「どうせ無料なんだな」と考えてしまう人は多いと思うので、感染者も抑えられるかも、ですよ。

「ステイホーム」に殺される前に

そういうわけで、政府や自治体がやったことをざっくり言えば、カオスなワクチン予約制度を作り、「マスクをつけろ」「家にいろ」「酒は飲むな」「移動の自由を捨てろ」と呼びかけた、ということに尽きる。命を守るために、衣食住の生活すべてをコントロールしようとした。

本当にやめてほしいのは「ステイホーム」という言葉だ。移動の自由を行使したいだけではない。家にいれば安心だと言える人ばかりではない事実を、無視し続けている。

わたしはオフィスに行く日が多い。そもそも、リモート環境を整えない会社が良くないのだが、それだけではない。

昨年の4月(「専門家」が目指したいと言う1回目の緊急事態宣言のとき)にリモート勤務をして、わたしは死にかけた。だから自分の身を守るために外へ出ている。

同居中の家族が寝静まってからではないとちゃんとした仕事ができない。しかし、当然のように営業時間にも起きていなくてはならない。打ち合わせはあるし、昼間やらないといけないこともある。というわけで、朝の6時に寝て朝9時に起き、一切の外出をしない日々が1カ月ほど続いた。連休期間もそれは変わらず、夜更かしをした時間に本を読んだり動画を観たり。まぁ、相当よくない感じになってしまった。

家族と別居するまでは、家で仕事をするのは難しい。心から楽しむのも難しい。少なくとも、これはハッキリとしている。

今度の連休に、オールナイトの配信イベントを視聴するつもりなのだが、それに合わせてホテルを予約してしまった。自分でも、かなり変だと思う。自分の家では、好きなタイミングでイベントを観ながら笑ったり、声をあげたりすることは難しい。飲食しながらゆっくり楽しむことも叶わないだろう。もちろん、アーカイブで観ることもできるけれど、惨めすぎる。

とはいえ、今のわたしの境遇など、たいしたことない。この瞬間、もっと極限状態にいる人だって、絶対にいる。その声を無視し続けて「ステイホーム」と呼びかけるのは、政治家だけじゃないので、八方ふさがりになる。

ちなみに、そんな夏だが、オリンピック・パラリンピックのテレビ放送が充実していたおかげで、かなり助かった。明るい話題が尽きなかった。これがなかったら、もう本当に、悲惨極まりない状況だったと思う。

いろんな人が「個人の命が何よりも大事」という名の下に、個々人の生に対して、あまりにも暴力的すぎる発言をしている。もちろん「公共の福祉」とはそういうものなのかもしれない。「個人の命」と言うときに、おおかたの人はまず、自分に関係する命を考えているのだ。

遺言のようなnoteを書く理由

なぜこのような記事を思い立ったのかというと、見知らぬアカウントの「ワクチンに慎重派だったXが接種前に亡くなった」という複数のツイートに愕然としたからだ。

ツイート主はXの友人・肉親になる。該当ツイートには「X」とは無関係のアカウントが寄せるコメントが次々と追加されていた。ほとんどは哀悼の意を示すものであり、時にはフォロー外からの声もある。そのスレッドは善意に満ちているというよりも、集団ヒステリーのようで、正直なところ、怖い。

多くの人が故人であるXにどのような事情があったのか、まったく分からないまま反応していたのだ。また、ツイート主がどのような意味で「慎重派」と書いたのか、真意も図りかねる。

それほどまでに遠い関係なのに、ある程度「バズった」ことで流れてきた。二重の意味で寒気がした。

わたしは以前のnoteで、ワクチンに関して「この状態で受けたくない」と書いた。ちょっとだけ触れただけの文章によって、もしかしたら『ワクチン接種に慎重だった都内在住の30代女性が……』と紹介されるかもしれない。それはあまりにも困ると思って、これを書いているわけだ。それなのに、専門家会議で記者会見に登場している人はインスタを始めたらしい。「もうダメだ」それしか言えない。

こんな具合で、どうにか死んでいない。2021年夏が、もう終わりそうだ。来年の夏は「こんなこともあったけ……」と思えたらうれしいのだが、どうなることやら。

もしもサポートいただけたら、作品づくり・研究のために使います。 よろしくお願いいたします。