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東京の空の下、作家の匂いを思う

レシピ本が好きだ。特に料理をするわけじゃないのに、見るだけで心が安らぐ。そういうわけで、わたしの場合は、実用的なものではなくて構わない。味を想像して悦びを感じるのも良いし、勝手にストーリーを描いていくのも面白い。

石井好子『巴里の空の下オムレツの匂いは流れる』は、雑誌『暮らしの手帖』の連載エッセイをまとめたもので、1963年に発表された。初エッセイにして、代表作。半世紀以上読み継がれ、この「レシピ版」が2004年に発売されている。エピソードは、パリ留学の折の思い出とともに、ホームステイ先や旅行先で出会った一品を紹介するもの。

わたしが石井好子と聞いて思い出すのは、「料理の鉄人」における審査員の姿。そして、デビュー作がロングセラーを続けていることで、「料理エッセイストの草分け的存在」として記憶していた。パリを礼讃する、知性的で品のある女性……ある意味でテンプレートのオリジン。

しかしながらあの番組も見ておらず、これから石井好子氏を Wikipediaなどで調べる人は、シャンソン歌手として出発した音楽業界人であること、あるいは連綿と続くオーソリティ的な文化圏に属していたことを先に知ることになると思う。

順序がどちらになっても、つまるところ、そういう文化の中で育まれた文章だ。なぜこのエッセイが半世紀以上もロングセラーになったのかといえば、内容はさることながら、日本における欧米文化に対する態度と内側に向ける態度が変わってこなかったということでもある。

難しい文体ではないけれど、いまの世を生きている人には、難解な心持ちが出てくるかもしれない。理解し難い状況もあると思う。そうなったら、史料を見る気分で気楽に読むと良いと思う。おそらくは「朝の連続テレビ小説」を読む感じがちょうどいい。

ちなみに、このレシピ版は2004年の本なのに、レトロモダンな雰囲気が漂う。これは計算済みの仕掛けである。編集後記を読むと、最終的にはご本人監修の下でフードスタイリングも当時のものに近づけたという苦労がしのばれる。

あの頃、何度目かのレトロブームがあった。あれはいま思えば「かわいい」のルーツをたどる旅だった。大正モダンや乙女ちっく的なものを継承しているわたし(たち)というアイデンティティ。やがて「ていねいな暮らし」につながっていく(最近の「レトロかわいい」は90年代の揺り戻しなのかもしれませんが)。

なにはともあれ、歴史を振り返るには厄介な本である。20年前も40年前も、若い人には同じように感じられるはずだ。90年代後半からゼロ年代前半のファッションは「80年代〜90年代前半のバブルっぽさ」を忌避すべきことだった。しかし今となっては90年代後半のギャルファッションとバブルっぽさは混ざり合い「90年代風ファッション」と総括されてしまう。

そうなると「レトロ調のトレンドを取り入れた」誌面という認識になるかどうかは危うい。このフードスタイリングが当時を代表する風俗だと思わる可能性がないとも言えず。いま読むと複雑な心境だ。

しかし、何があっても揺るがないのは、エッセイスト石井好子の功績だ。ご本人は2010年に亡くなっているが、姉妹編の『東京の空の下オムレツの匂いは流れる』とあわせて2011年に文庫化されている。

石井好子さん自身は、シャンソン歌手であることを誇りにしていたと思うけれどもGoogle検索では「石井好子 オムレツ」と提案される。「オムレツの人」と認識されているのは本意ではないかもしれない。けれども、時代錯誤の表現が散見しようとも、これほどまでに「オムレツがおいしそう……」と思わせる文章に出会ったことはない。それほどの強烈な匂いがする作品だ。


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