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モンゴル語とロシア語についての世迷い言【「ロシア語ウラー」番外編を観る前に】

先日、久しぶりに履歴書を作った。わたしの学歴の最終欄は「モンゴル語学科卒業」で終わるのだが、実はロシアと因縁が深い。2/4(金)に放送される「ロシア語ウラー」の番外編回にあわせて、そのあたりを少し書いてみようと思う。自分のことだけど、2000年前後の記録だと楽しんでもらえたらうれしい。

ちなみに番組はこちらです。とにかく面白そう。できるだけリアタイしたいな。(2022.2.4  21:00〜 ※後日アーカイブされるかと)

ゲストのHurdanmoriさんの経歴に比べると、とんでもなく薄っぺらい経験で申し訳ないのですが、ダメな人の一例として読んでいただければと。

モンゴル語学科に入ったのは「落としどころ」

面接になると、ほぼ9割訊かれる。
「なんでモンゴル語だったのか?」
今回も訊かれた。おもしろいことなど何もないのに、面接の鉄板ネタだ。以前は、面接時に馬頭琴について語ったら採用されたことがある。当時の上司は「モンゴルさんがいいと思った」と言っていたそうだ。なんだそれ。こういう振る舞いについては怒りを覚えてしまう。このように、学歴はただの通過点にすぎないが、人生を左右することもある。馬鹿にはできない。

多くの人は、憧れと現実の落としどころを見つけながら生きなくてはならない。進学もそのひとつだ。だからその理由を問われても、「落とどころを見つけた」というつまらない事実しか持ち合わせていない。というわけで、自分を納得させた憧れの部分を書き出してみた。以下の通りで、改めて眺めると、ほぼ厨二病に取りつかれたド阿呆である。

「キリル文字を使ってるならロシア語もできるようになるかも」
「民族衣装かわいい」
「昔から女子も馬に乗っててカッコいい」
「チベット……寺院……素敵」

これらは、ほとんどが幻想だった。その残念だったことを以下に記す。ただし、わたしが知っているのは、約20年前の話。諸事情により、そこで時間が止まってしまっている。だからどうか、昔の話だと思って聞いてほしい。

「キリル文字を使ってるならロシア語もできるようになるかも」(人生のギャンブル賭けすぎ)

→まぼろしが過ぎる。入学後、並行して身につけようと無謀なことをして、見事に頓挫。

ただし、なぜこんなギャンブルをしたのかというと、心のド本命は某私大の第一文学部だったから、正直どちらでもよかった(バレエやってたのでボリショイバレエ団、フィギュアスケート、新体操、アイスホッケー、トルストイ、ドストエフスキー、チェブラーシカ……等々、興味は尽きなかった)。「受験が終わるまで好きなことを我慢」という願掛けをしたから大丈夫だと思っていたのだ。このおまじないは、効果絶大のはずだった。「国公立に行く」でなければならない環境&歪んだ自意識から、第1希望は巣鴨の外国語学部にしていた。一方で、世界が終わらないなら自分は高田馬場に通えるはずだとも信じていた。17歳の地図はよくわからない。

余談ですが、センター試験から数週間後、父親が破産寸前になり夢は破れ、最低でも国公立しか入れない、下手をしたら大学行けないんじゃないの? という事態に。「願掛けってなんだそりゃ……」って思うかもしれませんが、本気で思ってました。頭がおかしい。

それから約20年。シラスの『ロシア語ウラー!』が始まり、ロシア語をぼちぼち始めたわけです。

ロシア語との関係は番組でも触れられると思いますが、完全に別もの。表記だけ借りてきたので、言語系統も違う(ただ多民族の集まりだし、誇りを持ってロシアとのつながりを強調する人もいた。わたしは忘れない……!)。

固有名詞はほとんど読めるし、ロシア語からの転用や外来語もあるのが現代モンゴル語なので、親しみがある。旧ソ連圏つながりで共通の文化や雰囲気も「なんかわかる」感じもある。徹底的に宗教を禁止してたのに、実は宗教が生活に根付いてるとか、そういうことも含めて。

ただし生兵法しか身についてない自分は、むしろ「違い」につまづいてしまうことのほうが多い。

・いまだにロシア語を読まなきゃいけないのにуを「オ」と読んでしまう。(ロシア語にとっては大事な音だと言われているのに! モンゴル語の「ウ」はүで表記
・油断すると、単純な言葉ほどモンゴル語を使いそうになる。
・ロシア語クラスタの人に「すごい」と言いたい時に「шүгээ!」を使ってしまいそうになる(モンゴル語で「引き出し」の意味なので、日本人初学者の一部にしかわからない、謎の隠語)

ちなみに、モンゴル語はもう、ほとんど忘れている。ひどい話だ。

「民族衣装かわいい」

→かわいいけど、だから何?

たいていの民族衣装はかわいい。それをとっかかりにして、表象文化論的なことをやりたかったのだと記憶している。でも、うまくいかなかった。

当時の語科では、服飾文化を研究してる人はいなかった。服というだけでチャラいと思われたのか「女子が増えるとこれだからなぁ。カルチャーセンターじゃないんだから」という態度と言動に萎えてしまった。「カルチャーセンター」は実際に言われた単語。その結果、キャンパスよりもライブハウスに通う羽目に。まぁ、どちらにしても不真面目な学生でしたが……。

「昔から女子も馬に乗っててカッコいい」

→ある意味で、まぼろし。これは現地に行って痛感した。

モンゴルにハマりきれなかったのは、男女の役割分担が凄まじかったからだ。共産党時代を経てもなお、という感じ。今思えば、自身が都会育ちだったっていうのもあるだろうけど。違和感しかなかった。ゲルで暮らす場合、女性は馬にも乗るし力仕事もあるけど、目的のない遠乗りはNG。子どもが産まれないとひじょうに居心地が悪い。ちょっと何か変わったことをしたら「だから子どもが産まれない」と陰口をたたかれる(って当時の私ぐらいの語学レベルでも把握できる感じで言われていた)。もちろん、今は違うかもしれないけど。

「チベット……寺院……素敵」

→まぁ、憧れではあるんですけどね。

上記の問題は仏教もしかり。映画『セブンイヤーズチベット』を経て、高校の図書館で写真集を観て引き込まれたのに。いろんな本を読めば読むほど、とにかく女の扱いがひどいことに耐えられなくなってしまった。

そして2022年

ここまで一気に書いてきたけど、今さらながら馬鹿げた話だらけだ。自分に置かれた状況から逃げるように、納得させようとしていたのだ。若い。

そもそも大学に行きたかったのは、アカデミックなものへの憧れだった。たまたまに過ぎないけれど、自分の周りに反面教師になる人に欠けていた共通のピースは「大学生活」だった。物理的な環境を変えたら、少しは自分の人生がマシになるのではないかと、藁にもすがる思いだった。結果はまだ、よくわからない。ただ、亀ちゃ……亀山郁夫先生による表象文化論の授業は僥倖だった(ここで!ロシアに流れつきましたよ!)。その結果、適当ながら思想史や哲学にも触れて、今生きているわけなので。

こんな時代だからこそロシア語を学んでいたい。語学は継続が命なので、忙しさに負けず、粘り腰で。世界中でソ連時代のことを無理に忘れようとしているのは無理があると思うし、かといって独裁は好きじゃない。というか良くない。自分には何の力もないですが、外から見ていることで「ないこと」にはさせないぞ、みたいな。ボンヤリとだけど、そんなことを思っている。

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