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多様性は好きですか/『ちむどんどん』

ここ数日、気になっていることがある。多様性が大事だと口をそろえているのに、NHK・朝の連続テレビ小説『ちむどんどん』における、荒ぶる登場人物への注文が多すぎやしないか。主人公の兄のゲスぶりや一家の経済観念の甘さなどが集中砲火を浴びているけれど、その指摘は作品の質を問いかけるのではなく、実は別のことを暴いているケースも見受けられる。それは往々にして、脚本の綻びを盾にわからないものに苛立っているだけなのだ。

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返還を控えた沖縄のやんばる地方で、主人公一家は貧しい暮らしをしている。長男である兄は、調子に乗りやすく血の気が多いが母にいつも特別待遇を受けている。ボクシング部に入るが高校を中退し、職場も長続きしない。この一週間は、そんな彼の山場が多く、注目を集めた。加えて、一家の経済観念も非難の的に。ウソくさい、真面目にやってないというのだ。果ては、貧しいはずなのに長女が短大に行くのはおかしい、この状況で夢を語れる主人公の神経やいかに、父が死んだ後の学費はどうしてたのか等々。

これらはほぼ、言いがかりである。もしくは余計なお節介というもの。そもそもは、おもしろ半分で口にするドラマの感想だ。ちょっと毒づいてみたはずが、いつの間にか攻撃的になる。分水嶺となるのは「こんな人いるわけない=フェイク!」のスタンスで発言するケースだ。それは脚本の分析に昂っているのではない。正体不明なものに苛立っているだけなのだ。とりわけ厄介なのは、自分を良心派だと構えている人。多様性が大事と言いいながら、自分が理解できないものを攻撃している。その矛盾に気づいていない。

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つまり、彼らの多様性には、周囲と違う次元で生きている人は入らないらしいのだ。フィクションの中でぐらい、多様性を大事にしても良さそうなのに、何か意味を持たせなければ受け入れるのが難しい現実が透けて見える。

そもそも「ダメ長男」設定は、特に日本のフィクションにおける王道パターンだ。特に、裕福ではない家庭を作品で描く際に好まれる。挙げればキリがないが、映画『男はつらいよ』なんて、シリーズ約50作にわたり、寅次郎はフーテンである。しかもこれは、任侠ものではない。誰と見ても楽しめる、正月・夏休みの目玉映画だった(とはいえ、実質的な遺作となった『寅次郎紅の花』は1995年なので、もう知らない人も多いのかもしれないが……)。

本作での兄の衝動性を再び見てみよう。わたしに診察ができるわけではないけれど、問題とされる兄の振る舞いは、今だったら「発達障害」的なことだと解説されそうな類のものだ。では、「この人は、こういう特性なんですよ~」とナレーションで前置きをすれば受け入れるのだろうか? ADHD、ASDとの関わりについて、しばしば「昔は障害じゃなくて個性として生活していたし、それでいいのでは」と理想が語られる。この兄は、まさにその通り生きており、その結果がこれだ。青年の入口にかかるまで親以外にほめられたことがなかったから、詐欺師にほめれられて舞い上がってしまったという深夜の告白は、とても哀しい。しかし、このダメっぷりを深刻に受け止めるべきとは思わない。むしろ、「いやぁ、ダメ兄ですよね」で良い。それが良い。

一家の経済状況も同じようなことだ。こういう人たちだから、貧しいのだ。いや、貧しいからこうなると言っても良い。人生逆転ストーリーがもてはやされるけれども、裕福ではない家のほとんどは、ずっと貧しいままだ。とにかく、貧困層を舐めていけない。持たざるものが、持つことを知らずに死んでいく。しかし時には、貧しさは「なぜかわからないが暮らせてしまうパワー」も発動する。そうでなければ、貧しい一族は、とっくに死に絶えているだろう。

わたしにはこれらのことが、他人事に思えない。詳細は省くけれども、この兄のような人が親戚にちらほらいるし、祖母や母が向ける彼らへの眼差しは、劇中の母に似ている。そもそも、自身さえ危うい立場だ。

少なくない人が、平和な日常を過ごしている。だからそこまでの多様性を求めていないし、貧しさについて考える環境にない。その点は、ちょっとだけうらやましい。そういう人が多いということは、まぁ日本の環境からしたら当然だろう。マイノリティ性を主張し、自分のような人間を増やしたいわけではないが、存在を亡き者にしないでほしいとは思う。多様性とは単に「自分が認める範囲」でしかない。それを頭の隅に置いておかないと、たやすく排除する側にまわってしまうのだ。

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『ちむどんどん』とタイトルにあるのに、沖縄と関係ないことばかりで、物足りない人もいるかもしれない。兄のゲスっぷりについては、ローカル特有のニュアンスでとらえている人もいる。興味深いし、さもありなんと言う感じだ。たしかに、沖縄と縁が深いとは言いがたい自分では掬い取れない部分もあるだろう。しかし、だからこそ。わたしが沖縄特有のことに押し込めるわけにはいかない。テレビで、SNSでも巷でも、わからないことに苛立ちを抱えながら空論を投げ合う様子は、沖縄復帰50年を迎えた現実を映し出しているからだ。理解と現実がすれ違い、ままならない。しかも恐ろしいのは、この出来事すら、ひと月も経たずに忘れられてしまいそうなことである。

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